JAN. 6 1996
いきるということは、勝つことなのだ。
O.J は、勝つことで、正義を証明した。

O.J




O.J.シンプソンは、やはり強かった。さすがUSC出身のラインバックだけあって、逃げ足は速かった。勝つことが、この国では、正義なのだ。真偽と勝敗は、表裏一体なのだ。勝つことが真=正義であり、負けることが偽=悪なのだ。だから、求めるのは、正義ではなく、まずは勝つことなのだ。どこまでもゲームの好きな国だ。これだけプロスポーツが盛んなのも、理解できるというものだ。現実も、虚構のゲームも、みんな同じ原理で動いているのだ。だから、ゲームの王が、現実の社会の英雄になるのだ。みんな、成功物語だ好きなのだ。O.J は、フットボールの英雄だから、そのまま社会の成功者でなければならないのだ。そんなO.J が、敗者になってはならないのだ。だから、かれは、いつものように、裁判ゲームで、当然のように勝ちにいった。最初から勝ちが決まっていたという点では、この裁判は退屈なものだった。それを楽しくさせたのが、プレイヤーの演技だった。ホワイトとブラックの軸、それに軽くからんだ男と女のやりとりは、観客を魅了した。ここでは、O.J は、ただじっとしていれば、よかったのだ。O.J を攻めたのが女とブラックで、O.J を守ったのが男とホワイトだった、という対照性は、最初から、結果ではなく、そこにいたるプロセスを楽しませるものにすがなかったのだ。マルシア・クラークは、ヒーローに果敢に立ち向かう悲劇のヒロインであり、ドンキホーテだった。




JAN. 6 1996
ベースボールは、今のロスそのものだ。
ミッキー・マントルが死に、野茂が活躍した。

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シカゴにブルズがあって、マイケル・ジョーダンがいるように、ロスには、メキシカンのピアッツアと日本人の野茂がいる。ベースボールは、古き良き時代、ということはホワイトが活躍できた、という意味だが、その時代から大きく離れてしまった。野茂は、そんな時代に出現した新しいアメリカ人なのだ。野茂は、もはや日本人ではない。アメリカの大リーグで活躍するスターはみんなアメリカ人なのだ。野茂も例外ではない。野茂がスターであるベースボールは、プロスポーツのなかで、一番国際化したスポーツだ。ロスは、そんないろんな人種が融合する奇妙な都市なのだ。野茂が活躍できたのも、ロスという風土が不可欠だったのだ。もしもヤンキースだったら、野茂にはチャンスがなかったろう。ドジャースは、いい勘をしている。聖域は、もはやアイスホッケーにしかない。これで、いいのだ。




JAN. 6 1996
男と女。この対照性は、どうすれば、いいのだ。
そこを超越する視点なんて、あるのか?




女らしく、男らしく。過去における、その明確すぎる役割分担は、あきらかに変わりつつある。もちろん、こっちでの話だ。CNNをみている。女性のキャスターは、しっかりと対等な地位にあって、十分に女らしくありながら、男に追従しない演技をしている。媚びるのではなく、甘えるのでもなく、変に「同じ人間なんだから」なんて主張はしないで、女らしさを演じている。それでいいのか、まだ、わからないが、少なくとも、日本の女性キャスターに典型的なアホさは、ここにはない。そのきびしさがいい。機能分化が権力関係であることは、事実なのだ。まだ、男は強い。本当か?




JAN. 6 1996
都会と自然、といった対照性は、もう、いいのだ。
そこを超越する視点<融合と反転>が欲しいのだ。






これらの絵は、去年の箱根で会議(SEP.12)をした時のものだ。青山で仕事をして、箱根に走っていった時にQV-10で撮ったものだ。都会と自然のきれいな対照性がみえる。都市は都市として活き、自然は豊かさをしっかりとたたえて大地を支える。この関係のなかで、仕事と余暇は、見事な機能分担をはたしてきた。でも、いまほしいのは、自然の中で仕事をしたい欲求であり、都会にも豊かな緑と水の世界が欲しい、という贅沢だ。この贅沢は、いままでの機能分化の発想では、もはや解決つかない。どうすればいいのか、それがここでのテーマだ。デジタル・アンビエンスは、思考ばかりか、環境そのものの変容をもたらすものなのだ。それは、単なるテクノロジー環境の問題ではなく、強く社会そして文化環境の問題なのだ。










JAN. 6 1996

This is America.


ラスベガスで、コムデックスをやっている。もう10年もだ。その意味が、やっとわかりかけてきた。ラスベガスは、ハリウッドやディズニーランドが本物の都市に変換されたものなのだ。ビル・ゲイツやネットスケープでにぎわうコムデックスも、いかにもアメリカらしい産業であり、それは、ハリウッドやディズニーランドと同じ情報産業なのだ。ラスベガスこそ、その受け皿としてもっともふさわしい都市なのだ。すべてがアーティフィチャルに想像され、しかもそれを都市というリアリティに変換したのだから、すごい、につきる。まだ、ビル・ゲイツも、それにはかなわない。ラスベガスは、偉大なアメリカのシンボルなのだ。それは、虚飾であるがゆえに、どこまでもリアリティなのだ。こんな都市を平気で許容するアメリカは、やはり凄い。





JAN. 4 1996
ネットワークでのリアリティを感じなければならない。
会う、という社会行為は、ネットワークにもあるのだ。
E-Mailは、まったく新しいリアリティをはこんできた。


ロスにいたときは、会ったことが一度だけで、それだけのことであった。
ぼくが家をでて、沢田夫妻が、その家に新しい住民としてはいってきた。
それ以上のつながりもないし、ただ、それだけのことであった。最初は。
沢田さんが、インターネットに興味をもち、せっかくだから遠い人にメールをだしたい、と思った。 それが僕だった。そのメールのやりとりは、確実に関係を親密にしていった。遠いからこそ、関係が親密になれる、そんな奇妙な感覚があった。ニューヨークとロスのコミュニケーションは、空間を簡単に超えていった。距離があるほど、距離がない、という新しい発見があった。
インターネットフォーンに凝っている。電話に近いことが、もうできる。国際電話なんて、これからどうするのか。ローカルの電話代だけで、何時間も海外と普通に電話ができるようになりつつある。その時、国内か国際か、なんて、意味を失ってしまう。どうするのだろう。NTTとKDDって、なーに。
どこにいても、もう、関係ない。近いか遠いか、その違いは意味を失いつつある。経済的にも、文化的にも、差異は、インターネットを利用するか、しないか、から生じる。活字が読めるか、読めないか、その差異以上の変化がもたらされるのだ。どうする中年、がんばれ中年、つらいぞ中年。高齢化も、女の自立も、この視点をみなければ、何もできないのだ。どうする。







JAN. 1 1996

新しい試みへ。そして、さらなる試みへ。




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