JAN.12 1996
CHICAGO BULLS vs SEATTLE SUPERSONICS (JAN.10 1996 at CHICAGO)
試合前の緊張感は誰のものか?
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試合が始まる直前の緊張感は、なんともいえない。何で、あんなに、知らないうちに緊張感が高まるのであろうか。あと1分で始まる。あと、10秒、あと1秒、そしてゼロ。その瞬間、いままで凝縮されてきたエネルギーのすべてが一気に弾ける。その凝縮と拡散の落差が大きいほど、ゲームは勢いをもつのだ。ジョーダンがいる世界は、いつも、その落差がとてつもなく大きい。ジョーダンがコートに現れた瞬間から、凝縮のプロセスが始まる。みんなリラックスしようと、体を慣らそうと、ボールを弄ぶのであるが、明らかに、違う。すでに緊張しているのだ。ジョーダンのパワーに対抗するのは、自分のエネルギーを無駄にはできないのだ。だからみんな自分のエネルギーを自己の内部に貯める。極度に集中し、日常のすべてを排除し、ボールを追うことのみに、自己の凝縮をはかる。ジョーダンひとりの登場で、コートがしまる。観客も、しまる。こうして、否が応でも、緊張感が高まる。それがなんともいえない快感なのだ。ボールがトス。試合が始まる。歓声がものすごい。みんな、はじける。
WHAT'S THIS ?
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JAN.12 1996
CHICAGO BULLS vs SEATTLE SUPERSONICS (JAN.10 1996 at CHICAGO)
精密機械は、あまりにも精確にシュートを入れる。
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ブルズが今シーズン、負けたチームが3つある。マジックとペーサーズと、このシアトル・スーパーソニックスだ。マジックとペーサーズには、すでにお返しをした。大きな点差をプレゼントして、いかにブルズが強いかを印象づけた。最後が、このソニックスだ。とうぜん、ブルズは強烈な返礼を意識していた。
ゲームの最初は、必ずピペンが走る。ピペンが調子よくポイントを稼ぐならば、ブルズのスタートは万全だ。ジョーダンは、この時、余裕をもって、ミスする。ゴールに入らない。これがまたいい。かれはまだ人間なのだ。ピペンは、すでにマシーンになっている。かれは、つねに、いかなる状況でもマシーンであることで、ボールを操作する。だから、ピペンに、不必要な緊張感はない。ピペンは、みんなの緊張を笑うかのように、ポイントを稼ぐ。最初にクオーターは、ピペンの舞台だ。簡単に15ポイントぐらいを稼ぐ。なんとも、クールだ。マシーンはこうじゃないと、いけない。
JAN.12 1996
CHICAGO BULLS vs SEATTLE SUPERSONICS (JAN.10 1996 at CHICAGO)
あやうさが、快感なのだ、ということを知ってますか?
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ブルズが他の強力なチームとの比較で弱点をもつ、とすれば、それがセンターにあることは、自明のことだ。確かに去年のなさけないブルズを観ていた時には、センターが下手であることに、いらだったものだ。しかし今シーズンのロングリーは、ちょっとうまくなった。環境のなかで、否応なしにうまくさせられたといってよかろう。タイミングがあってきた。ジョーダンとピペンとロッドマンというあまりにも凄いプレイヤーに囲まれて、しかも自分はセンターという役割を果たさなければならない、という矛盾に、やっと、ふっきれたのだろう。パスを回す、ゴール下をロッドマンと一緒に守る、その役にやっと馴染んできた。たまに、ジョーダンからのパスに戸惑っても、それなりに処理できるようになった。ロングリーのプレイのの危うさが、観ているものを、引き込む。つい頑張れと応援してしまう。みんな観客はロングリーなのだ。だから、かれの危うさが、快感なのだ。
JAN.12 1996
CHICAGO BULLS vs SEATTLE SUPERSONICS (JAN.10 1996 at CHICAGO)
もう誰も止めることができない。神聖な時が走った。
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ジョーダンが神になる瞬間をじっと待たなければならない。最初は、ジョーダンも人間である。ショートが微妙にはずれている間は、ただ待つしかない。しかし正確には、待つのではない。祈るのだ。ジョーダンのすべての動きにあわせて、自己の意味をかぶせるのだ。そうすれば、神になる瞬間に立ち会えるのだ。シュートにばかりに、気をとられてはならない。
ジョーダンのディフェンスが、神への道なのだ。
いかに、守りをしっかりやるか。相手を封じる、そのことがジョーダンの勢いをますのだ。腰を落として、相手のボールをとりにかかる。どのプレイヤーよりも、ディフェンスが攻撃のスタートであることを知っているのだ。ジョーダンは、どんな状況でも攻撃をしている。だから、正確には、かれは守ることをしない、試合中、攻めるのだ。だからこそ、ディフェンスに、ジョーダンが神になる瞬間があるのだ。そこを見逃してはいけない。
JAN.12 1996
CHICAGO BULLS vs SEATTLE SUPERSONICS (JAN.10 1996 at CHICAGO)
レフリーに文句を、そして退場。いつものことだ。かっこいい。
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ロッドマンは、ブルズにきてはじめてバスケットをする意味と快感を知ったのではないか。あの派手な頭と入れ墨にもかかわらず、かれがやることは徹底してリバウンドをとることだけなのだ。シュートに、彼は意味をみない。こんな矛盾があるだろうか。派手なことが好きなプレイヤーはシュートに憧れるはずだ。それがスターらしいことだからだ。しかしロッドマンは、悪役というプロレスにしかないような役割にこだわり、これほど地味なことがあるか、というリバウンドにこだわる。その潔さがいい。悪ガキなのに、こんなにブルズに似合っているプレイヤーはいない。それは、ピペンとジョーダンが、ともに活きるには、ロッドマンを必要としているからだ。ジョーダンは、いつも攻める。対照的に、ロッドマンは、どんな時でも守る。シュートを入れている時でも、かれは守っているのだ。永遠にディフェンスにこだわる。ブルズに欠けていたのは、ロッドマンのスタイルだったのだ。ロッドマンが、ブルズを守る。悪ガキが救うのだ。
JAN.12 1996
CHICAGO BULLS vs SEATTLE SUPERSONICS (JAN.10 1996 at CHICAGO)
みればわかる。瞬間は永遠なのだ。
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時間の流れに動かされる。それが常識だ。NBAのプレイヤーでさえ、時間を乗り越えることなんて、できない。時間がなくなるほど、何もできなくなる。あと1秒。その長さを、永遠にすることができるのか。ジョーダンは、それができる。かれのプレイをみれば、時間を操作することができる、ということを確信する。最後の1秒、そしてゼロになるほど、かれの動きはゆったりとなり、あたかもスローモーションでみるかのように、かれの手から放たれたボールが弧を描いて流れていく。その瞬間は確かに永遠だ。
時間は、超越されるのだ。
ここまでくると、試合の結果など、どちらでもいいのだ。プレイのすべてに付き添った快感で、身体が揺れるのだ。フィル・ジャクソンの無理した笑顔は、勝ったことよりも、いい試合をしたことに、満足しているからなのだ。ドッドマンも、ロッカールームでニヤッとしていることだろう。これで、いいのだ。
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