JAN. 17 1996
地下には、すべてのリアリティが集結する。
それは、美しいのか、隠すべき醜いものか。




地上と地下の落差がこんなに大きいのは、ここだけなのだろうか。一階のメインロビーは、しゃれた飾りでおおわれているのに、そこから一つ落ちただけで、世界がまったく違った景色をみせる。うちっぱなしのコンクリートに、安いペンキを塗りたくっただけの化粧に、むき出しメッセージが騒ぐ。地上ならば、「ごきげんいかが」というソフィスティケイトされた言葉が飛び交うのに、ここでは、出ろ、だめだ、入るな、といった、ストレートに言葉が意味を伝える。

洗濯は、落ちる行為なのか、あがる行為なのか。洗濯男に、未来はあるのか。

ここに降りると、急に胸がざわつく。むかし、こんな世界にいたのか、と、懐かしくなる。だから、一週間分の洗濯ものをかかけて、地下行きの特別快速エレベーターに乗るとき、さあいくぞ、という気分になる。洗濯は、不浄を浄化するシステムだ。美醜の境界が洗濯という行為によって、撹拌されるのだ。それは、地下でしかできない行為なのだ。バイトでここの住民の洗濯をする若者がいる。かれは、地下で乾燥機の回転を眺めながら、何をみているのだろうか。洗濯物だけがキレイになって、上に戻り、かれは永遠にこの地下に住み続けるのか。美醜の変換は、金で買えば済むだけの問題なのだろうか。





JAN. 17 1996
居酒屋とピザの店。ニューヨークに馴染んでいる。
食事にはあっても、食欲には、多様性があるのか。





ニューヨークには、いろいろのレストランがある。その意味で、多様だ。では、ニューヨークに住む人々は、どのくらいその多様性を楽しんでいるのか。疑問がないわけではない。人種と食事には、強い相関があるはずだ。境界を踏み越えて、いろいろの食事を楽しむことは、意外と難しい。ここでも、多様性は試されているのだ。
年齢は悲しい。境界を超える度胸がなくなる。

だから、若いだけで、価値があるのだ。いろいろの食事が楽しめないかぎり、ここに住む意味がない。ここは、多様性を享受することが本当にできるのか、という壮大な実験場なのだ。食事はその実験の原点なのだ。だれが、どれだけいろいろな食事文化を味わえるのか。年齢か、人種か、性別か、どのカテゴリーがこの多様性を受け付けるのか、それがこれからの未来を決めるのだ。





JAN. 17 1996
寒いのは、自明なのだ。問題は、寒さが敵なのだ。
資本家と労働者の対立などとは、いうまい。でも。









零下10度の外で、ストライキをする度胸がどこにあるのか。ビルを掃除する人々が、賃上げを要求して、多くのビルの前でストをしている。しかし寒いのだ。この大雪が大きく報道され、都市機能が麻痺した、と大騒ぎをしているが、ほんとは、みんな楽しんでいるのだ。仕事は休むし、学校もない。みんな雪だ、と、喜んでいるのだ。大変なのは、雪かきだけだ。家の中は、みんな、楽しい気分でいっぱいなのだ。ようは、外に出なければ、快適なのだ。雪は、みんなに好かれるのだ。

たしかに、雪化粧はきれいなのだ。

こんな時にも、黙々と抗議をしつづけるグループがいる。大きなビルならば、どこでも、その前にはストライキを宣告するゼッケンをつけたおばさんたち(おおくは、確かにおばさんなのだ。ビル掃除なのだから)が、数人集まって、おしゃべりしながら、ビルの玄関先で、うろちょろしている。ただそれだけだ。でも、それを零下10度の場所で、誰ができるのいうのか。そのパワーに圧倒されるし、まいったな、と感じでしまう。寒くてじっとしていられないから、走り回る若い子もいる。寒さは無情だ。ビル管理のオーナーたちとの戦いに、寒さはあまりにもきついハンディなのだ。にもかかわらず、ストはやみそうにない。雪はすぐにやみ、寒さももうすぐ和らぐのだ。それまで、待てるのか。このたたかいは、身を切られる思いのするゲームだ。どっちが勝つのか。勝たなければ意味がない。それがこの国の基本原則だ。


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