米国に滞在し、学会などを通じてマーケティング・消費者行動研究の動向を日本と比べるうちに、際だった違いとして感じている領域がある。ポストモダニズムに基づいた研究である。米国では、ここ十年ほどの間に、主流である科学的立場との激しい戦いの末、一定の地位を獲得し、主要ビジネススクールの多くに講座が設置されるなど着実な発展の段階に入っている。これに対し、日本ではこの種の研究はほとんど見られないのが現状である。
しかし、ポストモダン消費者研究のもつ可能性は大きく、魅力的であるため、ここで紹介することとしたい。もっとも、ポストモダニズム自体が複雑であり、ゆえに極めて多様なポストモダン消費者研究のすべてを網羅することは不可能である。このため、以下に述べるのは、筆者の視点から選択、構成したストーリーである。
他の社会科学と同じく、マーケティングや消費者行動研究における支配的な考え方は、研究は科学的/客観的/実証的に、つまり、モダニズムの論理にしたがって進めなければならないとされてきた。データによる検証なくしては真正な、ゆえに役に立つ知識は得られないというものである。
これに対し、ポストモダン研究の第1の特徴は、もっと自由な知識のあり方を認めることを主張する。例えば、『ポストモダン・マーケティング』を著したステファン・ブラウンは、その冒頭で、コラムニストであるアラン・コーレンによる「私は新しい靴を買うのがきらいだ」という内容のエッセイ引用している。要約すると「靴屋のショー・ウインドウでためらい、店では見知らぬ店員に馴れ馴れしくされ、靴を傷つけないよう極めて不自然な状態で、無駄だとわかっていながら試し履きをする。結局は、最初に見た時に一番嫌いだった靴を買って帰り、家で普通に履いてみたら、チーク材でできているのかと思うほど堅いことがわかるだけ」と失望する様子を描き、「私がいつまでも古い靴にしがみついているわけがわかるだろう」と結ぶ。うなずかれる読者も少なくないだろう。ブラウンも、男性の靴の買物行動について、このエッセイから得られる洞察は、自分が、大規模な質問紙調査、グループ面接調査および店内行動の観察といった実証的研究技法を駆使して行った研究よりもはるかに豊かであるとしている。
こうしたエッセイの他、ポストモダン研究では、文学作品や映画、芝居、音楽、テレビ番組などに、消費者を理解する知識を求めて研究対象とすることが少なくない。次回から、この一見奇妙な研究領域が何をめざし、従来とはどのような違った成果をもたらすのかについて、みてゆくことにしよう。
ポストモダン消費行動研究の起こりについて、建築、文学、哲学を始めとする様々な分野で論じらたポストモダニズムの波が、やや遅れて80年代前半に消費者行動研究分野に着いたのだとみられる。折しも米国では、不況と絡めて数字偏重のビジネス教育の問題点が指摘されており、ブレイクスルーが求められていた。だが、より重要な点は、以下に述べる消費者行動研究の役割と範囲の拡張が主張されたことであろう。
元来、消費者行動研究は、マーケティングの一環として、経営実践に役立つ知識を生み出すことが役割とされている。このため、商品やサービスの購買行動、特にブランド選択に焦点があてられ、それに関わる消費者の意思決定過程の解明が研究の中心となっている。こうした状況に対し、消費者行動研究が、企業経営者の視点からのみ研究課題を決め、ビジネスのもう一方の重要な主体である消費者を無視するのはバランスを欠いているとの指摘がでてきた。
確かに、現代社会は消費が人々の生活に占める比重が大きく、幸福や喜びに強く結びついていることが多い。こうした状況で、そのあり方を研究し、消費者に向けて研究成果を発信し、よりよい消費生活の手がかりとなるような活動の意義は大きい。こうして消費者研究の役割は、消費者のためでもあるということへ拡張がなされた。
加えて、ビジネスための役割を一旦はずすことは、消費として考える現象の範囲を広げることにもなる。つまり、消費者が獲得するものは、企業が提供する商品やサービスにでなくてよいし、支払う資源は、音楽を楽しんだり、スポーツやネットサーフィンすること自体のように、時間やエネルギーといった資源を使って欲望を満たしたり、目的を達成する行動はすべて消費とみて研究対象となるのである。これは人間生活のほぼすべてを、消費という観点からも捉えうることを意味する。先に述べた消費者に向けての消費者研究は、人間理解のための研究という面も加えますます重要となるのである。
上記のような消費者研究における変化は、研究の焦点の変化につながる。ビジネスのための消費者研究が「購買」という行動に焦点をあてた「行動としての消費」研究であるのに対し、消費者や人間理解ための研究では、それに加えて獲得した商品を使用したり捨てるプロセスも重要となるし、そこで例えば音楽やスポーツをどのように楽むかや、その行動をどのように意味づけているかという「経験としての消費」の側面の重要性が浮かび上がってくる。
経験としての消費は、次回に述べるように、その性質においても、アプローチ方法においても科学的/実証的研究になじみにくく、ポストモダン的研究が求められるのである。
実証的消費者行動研究は「行動としての消費」の解明に成果をあげている一方で「経験としての消費」とは相性がよくない。というのは、消費経験が極めて個人的なことであり、その理解には研究者の主観を積極的に活用する解釈が求められるのに対し、実証的分析で用いる方法は、各人に共通に見られる現象を扱い、一般的な法則性を見出すためものだからである。加えて、解釈で用いるような情報は、実証的研究の「測定」には乗せられないためでもある。
逆に、「個別」「主観」を重視するポストモダン研究の方法は、実証的立場からは、客観性という科学的研究の鉄則を破るとして、その妥当性を疑うもととなっている。 ポストモダンの立場からは、正当化が必要であるが、そのために実証的消費者研究おいて、なぜ主観の排除と、個別でなく一般性が求めれるのかについて考えておこう。筆者は、こうした研究要件の背景には次のようなモダン社会の状況があると考えている。それは、技術的制約からコミュニケーションが限定され、互いの顔の見えない社会であることが、相互不信のムードをもたらしたというものである。相手についての情報がないとき、相手は自分に最も不利に振る舞うと仮定して、自分の行動を決めるというゲームの理論が最適戦略となる。
こうして、研究者自身も含めて、消費に関するよいセンスや洞察力があるかどうかわからないなら、主観は排除するのが安全であるということになる。ちなみに、企業と消費者の関係もこの論理はあてはまる。顔が見えない消費者について企業が求めるのは、全員に共通して成立する一般的な法則や知識であり、マスマーケティングに用いられる。個々の消費者の違いを見ずに誤差として処理するのは、実証的消費砂行動分析によく用いられる統計学の前提によく当てはまる。
しかしながら、情報技術の発展がもたらすコミュニケーションの増大によって、このムードが変わりつつあることは、昨今提唱されているマーケティングの方法からもうかがわれる。データベース・マーケティングやリレーションシップ・マーケティングといった発想は、情報技術を使って顧客の個別の顔をみて対応することと同時に、企業と顧客との信頼や協調というイメージを含んでいる。
互いの顔の見える情報社会が、個別対応と、そして企業と消費者間の相互信頼や協調を可能にするなら、消費者研究においても、コミュニケーションによって、主観にまつわる不信を解くことは可能ではないだろうか。例えば、ある消費経験についての解釈を複数の研究者間で回して改良してゆくうちに、一定の妥当性を獲得できるのではないか。この方法は、聖書解釈サークルを意味するハーマニューティクスと呼ばれ、ポストモダン研究法のひとつである。
消費経験を解釈することの重要な目的は、その消費の象徴的な意味を理解し、それを通じて私たち消費者の、表面的にはわかりにくいこともある願いや欲望を意識に上らせることにある。抽象的な言い方でわかりにくいが、次回に具体的な研究例を紹介することにする。ここでは、ポストモダン消費者研究に用いられることの多い解釈のイメージを明らかにしておくことにしよう。
解釈の対象としては、詩や小説といった文学作品、絵画、音楽、映画、写真、芝居、テレビドラマ、ゲームショーなど多岐に渡っている、無論、消費者による経験の記述であったり、時には研究の中で消費者に課題として作成させたコラージュであったりする。
こうした作品に見られる消費経験には、作者や演者の創作活動を通じて、そのもつ願いや欲望の要素が埋め込まれていると考えられる。作者らが意識的にそうすることもあるし、無意識のうちに紛れ込むこともある。そうした要素は、作者個人がもっていたものに違いないが、彼(女)が社会生活を送り、他の人々の願いや欲望を取り入れることを繰り返し、蓄えてきたものである。よって作者の中にある社会の欲望でもある。
解釈者は、そうした要素の役割を作品の中で注意深く探してゆき、自らも持っている欲望の要素に照らして考える。それもまた社会的なものであり、作品を通じて社会と社会が交差する。そうして願いや欲望の要素どうしが響きあった時に、隠れていたそれらが意識に上り、その消費経験の意味が理解されるのである。
ここで重要な点は、解釈が作者の創作意図を正解として読みとることではないということだ。解釈者が、焦点を置くのは、場面設定や登場人物の性格であるかもしれないし、あるいは、中心テーマとは関連のなさそうな一場面の情景であることもありうる。また、当然、解釈者のもつ要素の違いや、焦点の置き方をの違いが影響して、同じ作品や消費経験から、異なった意味の理解が構成されることは十分に考えられる。同じ手続きによっても、結果の再現性は保証されていない。
時には解釈どうしが相矛盾することがあっても、双方に優劣はなく両方とも認めるのがポストモダン的な考え方である。それはおそらく本当で、いずれの解釈者も社会的に構成されてきた主観によっている以上、どちらの解釈結果にも、それが参考となるような消費場面があると考えられるためである。いろいろな人に、様々な文脈で参考となる時、その解釈は有意義である。また、前回述べたハーマニューティクスでは、そうした解釈の違い自体が新たな解釈を生むきっかけとして働く。
こうしていく通りもの結果を作ってゆくというやり方は、実証的研究で、ひとつの真実に到達しようとする考え方と際だって違う点である。
ポストモダン消費者研究の唱道者の一人である、コロンビア大学教授のモリス・ホルブルックは、自分の収集癖を題材とし解釈を行っている。「I am an Animal(私は動物)」と題するこの研究例を紹介しよう。研究対象も解釈するもの自分という点で、客観的実証主義研究からは最も遠い位置にある研究といえる。
話は、彼が、好んで動物の置物や絵を収集し別荘に飾っていることを指摘され、その意味を考えることから始まる。まず、それを精神分析の題材とし、動物の収集に関する次のような記憶を引き出す。(1) 戦争から父親が帰る前日、飼い犬のコリーに頬を噛まれ大ケガをしたこと(2才)。(2)初めて会った父親に頬ずりした際、髭の痛さに泣き出したこと。父親は機嫌を悪くし、彼は家族の再会を気まずくし感じた。その後父親は母親をつれて休暇旅行に出てしまったため、彼は1カ月間とり残された。(3)ひとりで「ピーターと狼」のレコードを聞いたとき、そのストーリーと音楽の恐ろしさに怯え、台所にいた子守に助けを求めて逃げ出したこと。ほどなく彼には、夜中に狼がやってきて自分を噛み殺すのではないかという恐怖症が始まる(4才)。
こうして、呼び覚まされた記憶を元に彼は次のような解釈をする。ある日現れた父親に母親を奪われるというのは、まさにエディプス・コンプレックスのテーマである。苦い経験は、時を同じくして噛まれたコリーの髭、父親の髭と重なる。父に対する無意識での怒りは罰を受ける予感となり、その髭ゆえに父と重なる狼に去勢されるという不安が恐怖症として出たのだと。
コレクションの多くが嘴や角など男根を象徴すること、半数以上が鳥であるのは、一度は狼に食べられた鴨が鳥の助けで救われるという話の筋が作用して、無意識にある種の聖域を求め、こういう収集につながったとみる。別荘は男根と鳥の避難所となっている。 別荘には、狼をモチーフにしたものはないが、研究中にホルブルックは、自宅に狼とも見える、しかし愛らしい動物のリトグラフがあることに気付く。思えば家と車に次いで高価な買い物であった。彼は、これは恐ろしい狼のイメージを愛すべきものに変換する役割を果たしているとして、自分の購買を説明する。つまり、自分の収集癖には、エディプス・コンプレックスからの避難と、克服という意味があったのだと理解するのである。
この研究について、読者はどのように感じられるだろうか。何かわかったと共感する人もいれば、出来すぎた話と感じられる向きもあるだろう。ただ、いずれにしても、その解釈の「深さ」は実感してもらえると思っている。ここまでの深い理解に至るということは、実証的研究によっては到達することは極めて困難である。
これまで解釈的アプローチを中心にみてきたが、ポストモダン消費者研究には、この他にも、そのよって立つ思想や、用いる方法に基づいて、この他にも多くの立場が並存している。全体を通した統一があるというよりは、やや混乱気味と感じられるほどである。
しかし、そのすべてが、現在、主流である科学的/実証的研究のパラダイムに窮屈さを感じ、消費者に関する知識のあり方を、もっと自由な方向へと拡張しようと試みている点を持ち合わせている。こうした努力が、消費者研究においてどのような意義をもつかについての評価が定まるまでには、いましばらくの時が必要と思われる。さらに、研究結果の信頼性や妥当性を確保することなど、解決すべき課題を数多く抱えた領域であることは否定しない。だが、それでも豊かな成果をもたらす可能性の大きい、そして、何よりも楽しい研究であると考えている。
冒頭にも述べたように、日本とこの分野の関わりは、現在のところ非常に薄い。しかしながら、日本独自の研究が強く望まれるところでもある。すでに見たように、経験としての消費は、極めて個人的なものであり、よって消費者を取り巻く文化に強く依存しているためである。購買意思決定モデルのような、比較的翻訳可能性の高い研究とは違って、消費経験を考える研究においては、その枠組み自体を独自に作り出す必要もあるといえるだろう。
最後に、本稿においては、ポストモダン消費者研究を擁護する側に立って、実証的研究との比較をいくつか行ったが、両者の関係についてのべたホルブルックの警告を紹介しておきたい。 彼は、ある新しい研究パラダイムに名を連ねたものは、おうおうにして他を否定し、何事にも自分の考え方を押しつけがちになる。だが、それではモダニズムの独善と同じであり、その過ちを繰り返してはならないという。
そして、彼の趣味でもあるステレオグラム(3次元写真)になぞらえて、次のように言うのが彼の口癖となっている。日本でも少し前に流行した、ステレオグラムは、右目と左目それぞれに、見る角度の異なった像を入れることで、立体感のある生き生きとしたイメージが浮かぶものである。消費を考えるときも、これと同様に「行動としての消費」と「経験としての消費」という、2つの異なった見方の両方を用いることが非常に需要である。そうすることで、デプス(奥行き)のある生き生きとした理解に達することができるのだと。