<普通>の市民たちによる「つくる会」のエスノグラフィー
〜新しい歴史教科書をつくる会神奈川県支部 有志団体「史の会」をモデルに〜
上野 陽子
総合政策学部
4年 Email:s98126yu@sfc.keio.ac.jp
キーワード
「左翼」、「サヨク」、「保守」、「つくる会」、「運動論」、「天皇」、「市民運動」、
「普通」
要旨
2000年から2001年にかけ、「新しい歴史教科書をつくる会」(以下、「つくる会」)の作成した中学校用社会科教科書が国内外で大きな波紋を呼んだ。本研究では、マスコミなどにも頻繁に取り上げられた「つくる会」の内部、すなわち「つくる会」の方針に賛同し、自らも支援活動を行っている人々のメンタリティを探る。
彼らが共通して口にする言葉、「私たちみたいな普通の市民」。彼らの「普通の市民による健全な保守思想」とはいったいどのようなキッカケから始まり、そして教科書採択の結果とともにどのように変わりつつあるのか、を分析した。
目次
1
−1 問題意識・問題設定 ―――――――――――――――――――――――51
−2 本研究の意義 ――――――――――――――――――――――――――62
−1 『歴史認識と授業改革』の批判的検討 ―――――――――――――――82−2 『文化ナショナリズムの社会学』の批判的検討 ―――――――――――10
3
−1 研究対象 ――――――――――――――――――――――――――――113
−2 対象の選択について ―――――――――――――――――――――――125
5
−2 組織構成 ――――――――――――――――――――――――――― 145
−3 運営方法 ―――――――――――――――――――――――――――― 176.
「史の会」のエスノグラフィー6
−1 史の会を支える3タイプの参加者たち――――――――――――――――186−1−1 サイレント保守市民――――――――――――――――――――― 18
6−1−2 市民運動推進派 ―――――――――――――――――――――― 23
6−1−3 戦中派 ―――――――――――――――――――――――――― 24
6
−2 各タイプ間の温度差 ――――――――――――――――――――――― 256
−2−1新しい「保守」と昔ながらの「保守」―――――――――――――― 25a
b
天皇への言及6
−2−2 運動支持派と運動推進派 ―――――――――――――――――― 28a市民運動へのまなざし
b運動推進派のジレンマ
6
−3 「つくる会」本部への批判(運動論・組織論)―――――――――――― 306
−4 「弱気な日本」を嘆く声−「史の会」の最大公約数―――――――――― 31
7.
終章 ―<普通>の市民たちの限界― ――――――――――――――――― 327
7
−2 教科書問題ブームのその後 ――――――――――――――――――― 337
−3 普通の市民たちによる草の根保守運動とは―――――――――――― 348.
資料 ――――――――――――――――――――――――――――――――368
8
−2 インタビュー――――――――――――――――――――――――― 498
−2−1 タイプ分け ―――――――――――――――――――――――― 498−2−2 おもな質問事項 ――――――――――――――――――――― 50
8
−2−3 戦争経験者C氏(76) ―――――――――――――――――― 508
−2−4 市民運動推進派 K氏(23)、Y氏(35)――――――――――― 558
−2−5 サイレント保守市民 M氏(21)、O氏 ――――――――――― 588
−3 各種エピソード――――――――――――――――――――――― 608
−4 史の会 招聘講師とテーマ一覧 ――――――――――――――― 668
8
−6 採択結果 ――――――――――――――――――――――――― 69
本章では本研究の問題設定がどのようなものであるのかを明確にし、本研究の意義を明らかにする。
1
−1 問題意識・問題設定自国の政治・経済・教育・歴史認識・思想などについて、国民が考え、語り、そして運動を起こす。民主主義の基本ともいうべきその姿が、国民の「生活」に見られなくなって幾久しい。多くの国民にとって日々の生活の中で、「日本という国はいかあるべきか」「今の政治は何が問題か」「義務教育があぶない」「正しい歴史認識とは」−と気炎をあげて取り組む余裕など、普通はないのである。
逆説的に言うならば、そうした政治運動をせずとも「そこそこの暮らし」をしてゆける人たちが、現在の「日本国民」なのである。不景気が10年程つづいている、とはいえ、海外旅行に行けばどの国でも日本人を見かける。ブランド品の需要も減っているわけではない。開発途上国などに比べ、まだまだ経済的に余裕がある国だからこそ、国民は国の政治体制にそれほど気を払う必要がない。新聞の投書や、政治討論などを見て、「今後この国はどうなってしまうのだろう」と漠然とした不安をもつくらいで、実際に自分が「国」のために何か行動を起こそう、などと考える人はごくわずかである。
そうした雰囲気の中で、2001年はある意味、記念すべき年であった。日本の「国」のかたちについて、2つの論題が与えられ、各所で喧々囂々の議論が繰り広げられた。
(ここでも、もちろん大多数の国民は傍観者的な立場ではあったが)
その論題とは、@歴史教科書採択の問題 A首相による靖国神社公式参拝の問題である。
「もっと自分の国に誇りのもてる教科書を」をスローガンに、西尾幹二氏ひきいる「新しい歴史教科書をつくる会」が
96年12月に発足し、2001年の中学校教科書採択戦にむけて運動を続けてきた。以下は、「新しい歴史教科書をつくる会」の趣意書の一部である。戦後の歴史教育は、日本人が受けつぐべき文化と伝統を忘れ、日本人の誇りを失わせるものでした。特に近現代史において、日本人は子々孫々まで謝罪し続けることを運命づけられた罪人の如くに扱われています。冷戦終結後は、この自虐的傾向がさらに強まり、現行の歴史教科書は旧敵国のプロパガンダをそのまま事実として記述するまでになっています。(中略)
私たちのつくる教科書は、世界史的視野の中で日本国と日本人の自画像を、品格とバランスをもって活写します。私たちの祖先の活躍に心躍らせ、失敗の歴史にも目を向け、その苦楽を追体験できる、日本人の物語です。教室で使われるだけでなく、親子で読んで歴史を語り合える教科書です。子供たちが、日本人としての自信と責任感を持ち、世界の平和と繁栄に献身できるようになる教科書です。(傍線 引用者)
今の日本人は、「日本人」としての「自信」に欠けている、また、戦後行われてきた教育は、自国の歴史(とくに近現代史)をすべて「悪」と決め付けた手法であった、としている。「つくる会」の歴史教科書は、「自虐」と「謝罪」の記述一辺倒ではなく、現代の日本人が過去の日本人のあゆみを、より肯定的にとらえる素地をつくるべき、との観点から勇気の出る「日本人の物語」を目指した。
検定通過後、
2001年6月10日、全国の書店に「つくる会」教科書が並んだ。市販本、と銘打たれたその冊子は、驚くべき売り上げを記録し、年間ベストセラー(日販調べ、2000年12月1日〜2001年11月30日)でも16位につけるなど、内容は教科書でありながら凄まじい売れ行きを記録した。「つくる会」発足、教科書の市販本作成、販売、各種マスコミによるセンセーショナルな取り上げ方も原因としては考えられるだろうが、なぜこれほどまでに盛り上がったのだろうか。大衆に多少なりとも関心を持たせる「何」が「つくる会」の主張には存在していたのだろうか。
本研究では、「つくる会」の提唱する歴史観の是非ではなく、「つくる会」の運動に共感・賛同し実際に支援運動を行っているひとびとのメンタリティーを調査・分析することを主眼に置きたい。「つくる会」運動の参加者・当事者の意識を追うことにより、草の根レベルでの保守活動の実態をリアルにつかむことができるであろう。自称<普通>の市民が織り成す「日本人としての自信回復運動」とはいかなるものか?―私が本研究で取り組みたい点はそこである。
1
−2 本研究の意義本研究の意義は、「草の根レベルでの保守活動」をフィールド調査することで、「つくる会」の内部の動きをリアルにとらえられることである。
「つくる会」教科書採択に関するマスコミの動きなどは、記録を追うことでフォローできる。しかし、「つくる会」を支援する人々と直接コンタクトを取り、彼らのリアリティを探る研究は、管見の範囲ではまだ存在しない。また、時期的な問題を考えても、教科書採択戦真っ最中の
2001年を調査期間にあてたことは、研究の主題からいっても非常にタイムリーかつ有益であったといえよう。「つくる会」の前身である「自由主義史観研究会」を取り上げ、会員である教師にインタビューを行ったものとして、『自由主義史観研究会の教師たち』(村井:
1997)がある。彼らにインタビューを試みる、という発想、そしてその手法が非常にユニークなものであり、本研究と重なる部分も多い。だが、村井(
1997)には「<普通>の市民(生活者)の保守運動」を分析する、という視点は含まれていない。教育現場で子供たちに自国の歴史をどう教えるか、を探るために「自由主義史観研究会」所属の教師たちにインタビューを行っているのである。そこで見られる問題意識とは、「政治活動」としての「つくる会」ではなく、「教育運動」としての「自由主義史観研究会」を分析する、というものだ。私の問題意識は明らかに前者、すなわち「政治運動」のほうである。自称<普通の>市民が、いったいどのようなキッカケで「つくる会」を支持するようになり、具体的に運動を起こすまでに至ったのか、運動団体の内部ではどのようなルール(暗黙の了解)が存在しているのか。
本研究の意義としては、草の根レベルでの保守運動の「世界」をエスノグラフィーの手法を用いて明らかにしていくことにある。肩書きのない学生だからこそできるフィールド調査として、十分に意義をもちうるものであると思う。
「つくる会」自体の発足が
96年2月、そして中学校教科書採択が終了したのが2001年8
月15日である。「つくる会」前身の「自由主義史観研究会」を考慮に入れても、その間保守運動を進める参加者たちの生活意識を分析したものは、管見の限り存在しない。「つくる会」の幹部メンバーたちによる著作、またそれらの著作に対する反論本は数多く出版され、また話題性の高さゆえ発行部数も類を見ないほど伸びた。 しかし、それらは藤岡氏らの提唱する歴史観や歴史教育方法、そしてそれに対する批判のみであり、上述したように「つくる会」を運動として分析したものは未だ存在していない。
本研究の目的に完全合致とまではいかずとも、本章で批判的検討の俎上にのせるに値する論文として、2つほど挙げておく。ひとつは『歴史認識と授業改革』(村井:
1997)、のこるひとつは『文化ナショナリズムの社会学』(吉野耕作:1997)である。前者は、「自由主義史観研究会」所属の教師たちに聞き取り調査を行っている、という点が本研究と非常に似かよった手法であり、考察に値すると考えた。また、後者は「日本人論」をめぐり、どの社会集団がいかなる理由で「日本人論」に積極的に反応して「消費」したのかをフィールドワーク(主に聞き取り調査)で実証した。2
−1 『歴史認識と授業改革』の批判的検討“よりよい「平和教育」「歴史教育」のありかた”を大きな問いとしている研究である。
この研究は、あくまでも教育モデルの吟味・改善であり、藤岡の提唱する教育モデルの批判的な検討からはじまって、歴史家にインタビューを行ったり、自身の大学での講義例をあげながら「歴史をどう教えるか」を研究している。
藤岡の著作に対し、批判本が数多く出版されたが、村井の論が新しくかつ評価できると思われる点は、学習者という要素見逃さなかったことにある。当たり前といえば当たり前なのだが、藤岡の主張に明らかに不足していた面であり、その指摘は妥当なものだと考える。具体的にみてみよう。本書の序章で、村井は藤岡の《現場教師を代弁する教育学》モデルを次のように図示し、批判を行っている。
*藤岡氏の《現場教師を代弁する教育学》モデル−
p22より抜粋 歴史学者教育学者
歴史教育者
学習者
(藤岡氏の教育モデルは)…教師がよしとする授業と、学習者が充溢を感じる授業とが予定調和的にとらえられている。私は、年間数十万人に及ぶ中途退学者・登校拒否児を生み出している学校教育の惨状を顧みたとき、藤岡氏の教育研究はもっとも肝心な点を主題化していないと感じていた。藤岡氏の教育学は現場教師に対する学者の啓蒙主義には批判的だが、学習者・子供に対する教師の啓蒙主義に対しては警戒感が欠けているのだ。(下線、引用者)
と、藤岡のモデルでは荒廃した教育現場に対応しきれないことを指摘し、次のような教育モデルを提案している
*村井の《学習者を代弁する教育学》モデル−
p23より抜粋 歴史学者歴史教育者
教育学者
学習者
…例えて言うならば、歴史学者は劇作家、歴史教育者は舞台人、学習者は観客、教育学者は演劇批評家である。劇評家は観客の代弁者である。(中略)観客が芝居に感動しなかったとき、劇評家は“観客の理解力が低いので、こうしたすばらしい芝居を理解できないのだ”とは絶対に言わない。あくまで原因を、原作か舞台製作の側に求めて分析しようとする。そうした、徹底して観客の代弁者たろうとする専門家の存在が、舞台人や劇作家の長期的な力量向上につながる。つまり教育学者が本当に学習者や生活者たちの要求や意識を代弁できれば、歴史学者にとっては研究モチーフを、歴史教育者にとっては実践設計を「常に問い直す」ため有力な資料となり得るだろう。
すなわち、村井が主張する教育モデルは、「学習者」をひとくくりに受動的な立場においやり現場の教師だけが影響を与え得るという藤岡のモデルではなく、「学習者」を代弁できる教育学者を授業改良に役立てる、というものである。以上見てきたように、村井の研究は教育学の観点から非常に鋭い指摘を行っており、そのオリジナリティーは評価できるものといえよう。
では、村井の論文に欠けているところは何だろうか。私の問題設定は「つくる会」運動の参加者・当事者の意識を追うことにより、草の根レベルでの保守活動の実態をリアルにつかむことである。村井は、本書第
5章「自由主義史観研究会のエスノグラフィー」で、現場の教師に対してインタビューをおこなっている。史観の是非、彼我ではなく、自由主義史観研究会に所属している現場教師たちの実態を探るという手法である。ただし、この場合、電話を使ったインタビューであるため、1人1人の教師に関する意識は十分に分析できるのだが、「会員」としての意識(他の教師とどのようにかかわり、どういった会話を交わしているいるのか)は追うことができない。 自由主義史観研究会に所属し、そしてもし現在も継続しているのであれば、その理由の一要因として会員同士の人間関係などが挙げられても不思議ではない。教師たちを4つのタイプに分けてまとめる手法は斬新であったが、現場教師はお互いに他のタイプの教師をどう見ているのか、まで考察できればさらに完成度の高い研究になったであろうと思われる。そうした意味で、本研究は村井の論文を「運動体」としての「つくる会」の視点から補強できるのではないかと思っている。私の問題意識は「歴史をどう教えるか」ではないが、<普通の>市民が現場教師たちの理由とは違う理由で藤岡氏らの主張に賛同し、支援活動を続けている実態を考察することにより、村井のテーマをより深められるのではないかと思う。
2
−2 『文化ナショナリズムの社会学』の批判的検討吉野の研究では、日本人論の受容・社会内伝播の過程を探るために教養中間層の中でも教育者と企業人に対象を絞り、日本人論に対する反応と受容の状況について聞き取り調査を行っている。(第
7章)私の研究と吉野研究の視点が類似しているのは、次のような問いの立て方にある。文化ナショナリズムは、知識人・文化エリートが自民族の独自性をめぐる考え方を「生産」し、他の比較的教育程度の高い社会集団がそうした考え方に反応し「消費」する過程を伴う場合が多い。本章では、知識人・文化エリートによって「生産」された日本人論に反応し、「消費」した人々の特徴、理由、契機について考察する。先にも述べたように、日本人論をめぐる既存の議論では、日本人論のテクスト批判に終始し、受け手・消費者側の分析が欠けていた。本章では、筆者の行った調査結果に基づきながら、日本人論の受容、消費の背景を探りたい。(下線、引用者)
研究対象は「つくる会所属の市民」と「中里市の日本人論消費者」でまったく異質なものである。しかし、前者は藤岡氏らの言説を消費しつつ活動を行っているという点、そして後者は日本人論ブームの際に書かれた多くの著作に影響を受けながら活動(この場合、職業)をしているという点が非常に似通っていると思うのである。どちらも「日本人」がキーワードである。「日本人とはもともと(昔から)…であり、…のように行動するものである」という固定化したイメージをそれらの言説から汲み取り、消費する。その消費の仕方に共通性をみることができるのである。
では、吉野論文を批判的に検討してみよう。吉野は、中里市の教育者と企業人計
71名(うち、教育者35人、企業人36人)を対象に聞き取り調査をしている。論文の主題が「日本人論」の消費であるため、前提として日本人論をかつて読んだことのある可能性の高いこれらの人々が選ばれたことは理解できるし、吉野も文中で触れている。しかし、この調査の結果、どれほどまでの「一般性」が確保できたかは疑問が残る。ある地方都市における限定的な人々(教育者・企業人)を調査対象としているため、これを「日本社会の一般化」として提出することはできない。私は、普段の生活をしている上で「日本人とは」という問いに差し迫って答える必要のない人々が、なぜ藤岡氏らの言動に影響され保守的な運動へと向かったのかを調べてみたい。それほど経済的な不安もなく、平和に暮らしている主婦が、学生が、そして会社員がなぜ「日本人としての誇り」を声高に叫ぶのか。−フィールドワークを通じて、草の根運動のリアリティを探ることにより、吉野論文に欠けている要素
--研究対象としての<市民>--を補っていければ、と考えている。3
−1 研究対象3
−2 対象の選択について「つくる会」の末端レベルでの実態を探るために、なぜ史の会を選んだのかを述べる。史の会を知ったきっかけは、史の会ホームページであった。概してこうした政治運動は、閉鎖的になりがちなものだ。だが、討論会の日時・場所をホームページに記載し、また掲示板を設けて多様な意見を受け付けているなど、フィールド調査するにあたり好条件の揃った研究対象であった。他に「つくる会」関連のホームページなどを探してはみたものの見当たらなかった。
なお、本研究の主題が<普通>の市民たち−自らを<普通>と自己規定する人たち−による保守運動の実態、であることから史の会は最適な研究対象ではないかと考えた。(事前に掲示板などから、そうした発言などを確認していた。)
さらに付け加えるとするならば、資金的・地理的その他の制約から、関東地方に存在する「つくる会」団体にアクセスせざるをえなかったという実情がある。
研究方法は、主に参与観察を採用する。草の根レベルの保守運動とはどのような場所で、
どういった人々により構成されているのかをリアルに把握するためには参与観察に勝るものはないと判断したためである。
2001年4月から2002年2月まで毎月1回ずつ、可能な限り出席した。史の会、そして史の会後に催される飲み会にも出席した。参与観察を行う中で、史の会出席者の一般的な動向を探るためにアンケートを実施した。また、参加者を3タイプに分け、対象者にインタビューを行った。インタビューは質的な方法に徹した。聞き取りは自然な会話のなかでどのような発言が見られるかを重視したため、非構造的である。ただし、主な質問事項はあらかじめ定めておいた。つくる会を知り興味をもったきっかけ、史の会の中での人間関係について、作成された「新しい歴史教科書」について、教科書採択戦全般についてなど。以上に加えて調査対象者のプロフィールを語ってもらった。
なお、インタビュー調査の際は録音はできる限り用いなかった。自然な会話の要素を崩したくなかったからである。ただし一部のインフォーマントに関して、「録音に関してはまったく気にしない」との言葉をいただいたので、その方のみテープレコーダーによる録音を行った。インタビュー後も手紙や電子メールによって数回連絡を取っている。
5
−1 沿革発足から現在にいたるまでの経緯を史の会幹事(事務方面担当)の
T氏にお聞きした。メールでのお返事をそのまま掲載する。------
平成10年9月20日の「つくる会」の新宿でのシンポジウム(「戦争論」シンポ)があり、そのシンポの後に、「関東在住の会員の各県別の会合」(支部設立の準備会)があったんですね。その場で近隣在住の会員が、お互い自己紹介したのが、そもそもの始まりです。
その後、
Hさん(発起人)が、いまの「白山地区センター」を予約、9/20のメンバーにTELで参加を案内して、10月に「史の会」が発足しました。そのときの参加メンバーは、私・
Hさん・K君・それと男性2名・女性1名の合計6名でした。その後、毎月、上記のうちの4〜5名のメンバーで会合を持っていましたが、内容といえば、K君の薀蓄等を中心に、皆がてんでに思いのたけをぶちまけ、時間が足りなくなって、近所のファミレスでさらにまくしたてる、といったものでした。まとまった内容などなく、ただ話すだけ、の場でした。(とにかく皆、自分の意見に共鳴してもらえる場に飢えていたのだな、と今になって思います。)
「史の会」に転機が訪れたのは、翌平成11年の2月に、「つくる会」神奈川県支部
が発足してからです。発足前からの幹事だった
K君が支部長に働きかけたことで、「史の会」の活動が、支部活動の一環として取り上げられ、その結果、私が(ふとしたことがきっかけで、支部の幹事の一人にされてしまっていた。)秘密資料の「会員名簿」を借り受けそれをもとに近隣在住の会員の方にTELにてご案内をし、その結果、同年5月に初めて公式に「史の会」が開催されました。その後、紆余曲折をへながら、現在までほぼ毎月実施されています。-------
この文章から汲み取れるのは、史の会が自然発生的にできた組織であり、「つくる会」神奈川県支部の有志団体と名乗りだしたのは発足から
4ヵ月後のことであったということである。したがって、「つくる会」を名乗ってはいるものの「半独立」のスタンスを崩すことなく現在も継続している団体である、ということがわかる。5
−2 組織構成史の会はどのような人々によって構成され、どういったシステムで動いているのかを述べる。まずは、前述の
T氏に幹部の構成・会費のシステムについてお聞きした。------
「史の会」は、自然発生的な集まりで(「つくる会」神奈川県支部の活動の一環と
なっているが半独立的でもあります。)また極めて緩やかな結合体ですので、組織というほどのものはありません。ですから、幹部の構成もまことに曖昧なのですが、
・会長・・・発起人である
Hさんでしょうか。(よく「会のオーナー」と呼んでいます。) でも、決まっていないのが実態と思います。・幹部構成・・・一応中心となっているのが、私と、
Hさんと、K君でしょうか。私が事務局として、もっぱら事務方の仕事をしています。メンバーのなかで年長の社会人なので、マイナーな事務処理能力が買われたのでしょう。
K君は、渉外担当といった役どころです。彼の保守言論界の人脈は幅広いものがあり、いままでお招きした多彩な先生方は、ほとんど彼のコネクションによるものです。・会費について・・・講師の先生の謝礼・通信費等を考えると、500円の会費で、参加者25人位が損益分岐ラインと思います。ただ、先生によって謝礼の額が違いますので、少々苦しい(笑)。
------
ここで、少々補足をしたい。史の会は、毎月1回白山地区センターという公民館で開催される。
13:00〜16:30くらいの時間帯が設定される。毎回講師の先生にさまざまなテーマで講演してもらい、質疑応答や討論会などが適宜行われる。史の会は、会員という形で参加者を拘束していない、また毎回の活動に参加する・しないは自由である。ゆるやかな組織形態であるといえよう。T
氏は司会進行役・開催案内の通知などを引き受けており、事務方のリーダーである。では次に、史の会参加者の構成を確認しておく。
【年齢別】
時系列により多少差は出てくるものの、毎回の出席者数は
20人前後である。調査期間は99年5月〜2001年9月である。
年月 |
20代 |
30〜40代 |
50代〜60代 |
70代〜 |
総数 |
1999年5月 |
2 |
10 |
4 |
4 |
20 |
1999年6月 |
1 |
10 |
3 |
5 |
19 |
1999年7月 |
2 |
5 |
4 |
2 |
13 |
1999年8月 |
2 |
8 |
4 |
3 |
17 |
1999年9月 |
2 |
8 |
7 |
2 |
19 |
1999年10月 |
2 |
10 |
6 |
3 |
21 |
1999年11月 |
2 |
7 |
5 |
3 |
17 |
1999年12月 |
3 |
6 |
4 |
2 |
15 |
2000年1月 |
5 |
9 |
9 |
3 |
26 |
2000年2月 |
|
|
|
|
0 |
2000年3月 |
3 |
5 |
6 |
1 |
15 |
2000年4月 |
3 |
8 |
4 |
2 |
17 |
2000年5月 |
7 |
8 |
10 |
4 |
29 |
2000年6月 |
5 |
6 |
2 |
2 |
15 |
2000年7月 |
4 |
9 |
5 |
1 |
19 |
2000年8月 |
4 |
6 |
2 |
3 |
15 |
2000年9月 |
3 |
5 |
5 |
2 |
15 |
2000年10月 |
4 |
7 |
6 |
3 |
20 |
2000年11月 |
6 |
6 |
3 |
2 |
17 |
2000年12月 |
3 |
7 |
6 |
2 |
18 |
2001年1月 |
4 |
7 |
5 |
3 |
19 |
2001年2月 |
|
|
|
|
0 |
2001年3月 |
5 |
8 |
3 |
3 |
19 |
2001年4月 |
5 |
5 |
5 |
5 |
20 |
2001年5月 |
11 |
11 |
4 |
4 |
30 |
2001年6月 |
13 |
11 |
6 |
3 |
33 |
2001年7月 |
10 |
10 |
3 |
2 |
25 |
2001年8月 |
9 |
7 |
2 |
1 |
19 |
2001年9月 |
6 |
12 |
5 |
6 |
29 |
平均的な年齢別参加者割合は次のとおりである。
20代…23.3%、30代〜40代…39.0%、50代〜60代…23.7%、70代以上…14%である。メインは30代〜40代ではあるが、当初想定していた以上に20代の参加者が多い。こうした保守思想の集会に出席する人々は、やはり年齢的にも高いかと思っていたが、小林よしのり『ゴーマニズム宣言』の影響であろうか、特に2001年になってからの20代の参加が多い。また、教科書採択戦が一番盛り上がった2001年5,6,7月は、出席者数が伸びている。(小泉純一郎首相による靖国神社公式参拝問題も影響しているものと思われる。)【性別】
年月 |
参加者数 |
男性 |
女性 |
1998年10月 |
6 |
4 |
2 |
1998年11月 |
4 |
2 |
2 |
1998年12月 |
4 |
2 |
2 |
1999年1月 |
4 |
2 |
2 |
1999年2月 |
4 |
2 |
2 |
1999年3月 |
4 |
2 |
2 |
1999年4月 |
4 |
2 |
2 |
1999年5月 |
20 |
18 |
2 |
1999年6月 |
19 |
18 |
1 |
1999年7月 |
13 |
12 |
1 |
1999年8月 |
17 |
14 |
3 |
1999年9月 |
19 |
16 |
3 |
1999年10月 |
21 |
19 |
2 |
1999年11月 |
17 |
13 |
4 |
1999年12月 |
15 |
12 |
3 |
2000年1月 |
26 |
21 |
5 |
2000年2月 |
35 |
33 |
2 |
2000年3月 |
15 |
13 |
2 |
2000年4月 |
17 |
13 |
4 |
2000年5月 |
29 |
25 |
4 |
2000年6月 |
15 |
11 |
4 |
2000年7月 |
19 |
16 |
3 |
2000年8月 |
15 |
12 |
3 |
2000年9月 |
15 |
12 |
3 |
2000年10月 |
20 |
14 |
6 |
2000年11月 |
17 |
14 |
3 |
2000年12月 |
18 |
15 |
3 |
2001年1月 |
19 |
16 |
3 |
2001年2月 |
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|
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2001年3月 |
19 |
16 |
3 |
2001年4月 |
20 |
17 |
3 |
2001年5月 |
30 |
23 |
7 |
2001年6月 |
33 |
23 |
10 |
2001年7月 |
25 |
18 |
7 |
2001年8月 |
19 |
16 |
3 |
2001年9月 |
29 |
23 |
6 |
男性に比べ、女性の参加人数は低い。
2001年6月に二桁を記録するのみで、他は圧倒的に男性の姿が目立つ。フィールド調査で感じたことだが、女性でも主婦層はちらほらと見かけるのだが、20代の女性はほとんど見当たらなかった。史の会終了後の飲み会になると幹部のHさんと私以外の女性は参加していない。これは、時間帯が遅くなるため、夕飯や家事をしなければならない主婦の方たちは参加しづらくなるという理由があるものと思われる。【社会的な立場別】
職業・社会的な立場で参加者の割合を見る。項目も多く、表では直感的にわかりにくいので、パーセンテージ表示のグラフで説明したい。なお、このデータは毎回取っているわけではない。
1年に1度とっているものである。半数近くが会社員(吉野論文の中では企業人、という呼ばれ方がされていた)である。多い順に定年後の人たち(リタイア)、主婦、学生となっている。
2001年の7月は主婦の割合が増え、また不明となっている人々の割合も12%にのぼっている。年とともにさまざまな属性の人が参加するようになってきているのがわかる。5
−3 運営方法月に
1度のペースで、白山地区センターという公民館の一室を借りて開催している。保守言論界で活躍されている講師を招いて講義を聴くというオーソドックスな手法を用いている。 上述したように幹部の中の1人であるK君(23)が渉外役を務め、講師を招いてくるケースがほとんどである。参加者はひとり500円ずつ会費を支払うことになっている。その500円から講師への謝礼金、葉書代などの通信費がまかなわれる。参加者によっては1回につき500円でさまざまな講演が聞ける、という理由で足を運ぶものもいた。参加者は、やはり近隣在住のもの(神奈川県民)が多いが、他の保守系運動に携わっており、人づてに史の会の存在を知って参加する人もいる。したがって、常連メンバー以外はわりと流動的に動いているというのが実態である。
6.
「史の会」のエスノグラフィー6
−1 史の会を支える3タイプの参加者たち参与観察やインタビューを重ねるにつれ、史の会の参加者には大きく分けて3つの属性が見られた。史の会の大半(
8割程度)は、サイレント保守市民、残りの少数派として市民運動推進派、戦中派(あわせて2割程度)があげられる。これらの意味は後に詳述するが、一口に「つくる会の運動」とは言っても参加者の意識、行動パターン、属性、プロフィールは多種多様である。本章では、史の会をモデルに参加者の意識の差異をインタビューやアンケートなどから拾うことによって「つくる会の内部世界像」を再構成したい。
まず「サイレント保守市民」という言葉自体についてだが、これは完璧に筆者の造語である。じっと黙っている一般大衆を指して「サイレント・マジョリティ」なる言葉がたびたび使用されるが、史の会に参加する人々が日本国における本当に平均的な人たち(マジョリティ)であるかどうか、ということは判断しにくい。したがって、彼らがマジョリティかどうかではなく、サイレントであるという事実に注目してこのような言葉をつくった。
では、どういう点がサイレントな市民なのか。参与観察の結果、筆者が考えるサイレント保守市民の特徴を以下に示していこう。
史の会自体の活動を政治運動だと思いますか?というアンケートに対し、29名中、27人が「そうではない」と答えている。では、具体的にどのようなものかをたずねたところ、彼らからは「仲間との付き合い」「道楽」「ボランティアのようなもの」「学習活動のようなもの」「趣味のサークルのようなもの」という回答が得られた。このような回答から、大幅に時間や労力をさいてまで没頭する、というイメージの「政治運動」ではないという認識が伺える。むしろ、好きだから、気になるから参加する程度の関心であろう。
インタビューをする中でも、こうした意識は随所に見られた。
政治活動=市民運動そのものを明らかに否定する冷めた声も目立った。
M氏(20)はインタビュー時に以下のように語っている。「市民運動やってても、結局は政治の問題です、結果取れなかったら意味ないんですよね。なんか中途半端なことをやってる気がしてならない。教科書の内容が「正しい」から採択すべきだ、っていう自分たちの善人の理論だけをもとにして動かそうなんて甘いと思う。そういう死に物狂いの運動、それを支える理論、ハウツーみたいなものが左翼に負けちゃってるんですよね。僕はこういう問題で中途半端な抗議とかデモをするのは意味がないと思う。逆に言うと、普通の会社員や普通の主婦には市民運動はできないんじゃないか、と。市民運動とかボランティア活動が有効なのは、ごみ拾いしましょう、とかモラルを守りましょうとかっていう問題でしょう。やって自己満足を得られるかどうか、ですから。でも教科書採択っていう問題に関しては市民運動じゃ解決できない、政治の問題っていう気がしますね。」
また
O氏(28)は、史の会の存在意義に関して次のように語る。「初心者が最初に来ることのできる数少ない勉強会という意味で、存在価値はあると思う。それ以外の参加する理由は、単に雑談が楽しいから。強いて言えば、人脈作りかな。」
つくる会の基本姿勢として“アンチ「左翼(サヨク)」”がある。左翼の得意とする(と内部で思われている)市民運動を否定するのは、十分予想できた。ではどのような運動が実際に行われたのかといえば、講演会・シンポジウムへの出席、マスコミなどへの抗議文提出、自主的な勉強会開催などである。
つくる会の支持基盤層である「良識ある国民」は、同時に「生活者」でもある。平日は勤務しなければならない。なりふりかまわず、つくる会の運動を繰り広げるほどの情熱はない。なぜなら左翼のように、運動の根拠となる思想がはっきり定まっていないからである。国民の「常識」「リアリティ」こそがつくる会の運動の根拠だ。国民の常識からすれば、平日は働いて稼ぐべき時間である。また、たとえ休日でもデモに参加するのは極めて異例なことだろう。
このような点が、つくる会の「運動体」としてのジレンマだったのではないだろうか。右翼ではない、過激ではない、怖くない、一般の人でもわかりやすい、バランス感覚に富んだ「国民の」教科書作りの落とし穴は、運動をすすめる人たちの立場のあやふやさにあったのではないだろうか。普通の国民は「生活」に忙しいのである。
史の会では、よく「北朝鮮拉致問題」に関する署名活動が行われる。「この問題を早く解決するためにはより多くの方の署名が必要です。お願いします。」の声とともに、署名用紙がまわされる。これは、北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会(略称「救う会全国協議会」)の活動の一環である。史の会参加者は、それほど躊躇することなく署名をする。実際に、署名をする人たちはどのようなことを考えているのかを聞いてみた。すると幹部の
T氏(44)意外なコメントを述べた。「あれはやりすぎだと思う。ここ(史の会)に来れば、署名が必ずもらえると思ってやっているんだろうけれど、、。断りにくいですよね、あの雰囲気だと。むしろ私は、署名用紙を机の上に置いておいて、趣旨に賛同する人だけ自由に署名してください、っていう形のほうが自然だと思う。」
また、つくる会自体の変容(方針・支持者層)を憂慮する声もあった。発足当初に比べ、宗教色が強まってきたというのである。前述した「キリストの幕屋」信者の割合が増えているのが目に見えてわかるというのだ。なぜわかるのか、と問うたところ
T氏(44歳男性)とH氏(34歳女性)が頭の上で指をくるくる回した。「幕屋の女性の信者さんは皆ほとんど同じ髪型をしているからわかります。長くのば
した髪を三つ編みにして上にあげているんです。だからすぐ分かる。」
「戦争論2のシンポジウム(
2002年2月13日)でも、幕屋の人多かったですね。平成
10年のときのシンポジウムとは、参加者が明らかに違うって感じです。最初はもっといろんな人がいて明るーい感じだったんだけどな。」(
H氏)「宗教が悪いといっているんじゃありません。ただ宗教色が強まると、ますますつく
る会が一般の人たちから敬遠されてしまうんじゃないかと思って。史の会は意図的に
幕屋の人たちは誘っていないんです。神奈川支部でいただく名簿でも家族で入ってい
るようなところは大抵そう(幕屋関係の人)ですから。」(
T氏)話を聞く限りでは、採択戦が終わったあとはどんどんマニアックな方向になってきた、というのが二人の共通見解であるようだ。
「つくる会のスタート時は、これから新しい風が吹く、っていう感じで皆ワクワクしていたのね。ゴー宣でも華々しく描かれていたし、特に若い人たちが興味をもってきてくれた。でも、内部での分裂が多すぎた。学者中心だと仕方ないのかもしれません。採択が終わったあとは、会員もだいぶやめてしまったし。今、史の会でも濃いメンバーばかりが揃ってしまってリベラルな意見が言いにくいんですよ。」(
T氏)最後には、筆者に来月(
2002年3月)の「史の会」にはぜひ出席をするようにとすすめた。「あなたみたいな普通の人が最近少ないんです。」つくる会発足当初もよく言われたことだが、「天皇ぬきの新保守」が大きな特徴である。
つくる会を支えるサイレント保守市民たちはほとんどが戦後生まれである。純粋な皇室崇拝はほとんど見られない。むしろ“伝統的な保守”のやり方に違和感を感じたからこそ、つくる会の活動をしている、という風に答える人もいた。
天皇制に関しては、
M氏(20)が客観的に次のように語ってくれた。つくる会の内部分裂の原因はどこにあるか、を彼なりに分析している。「皇室をどう扱うかっていうところですね。僕、大学の
OBに言ったんですけどね、小林よしのりの「戦争論」がバカ売れしたとき大喜びしてる
OBに。「戦争論」は戦争についてのみ語ったものだって。皇室論ぬきで保守思想をつくると、大変な混乱
になりますよ、変形保守、なんとなく保守が出てくるって。皇室についてきちんと語
っておかないと保守は保守自体のアイデンティティが保てなくなるって。案の定そう
なってる。とりあえず国益最優先、という形で広がってるでしょ?若者の支持を集め
られたのは成功だったけど。皇室論は保守派の踏み絵ですよ。別に僕も天皇
100%!っていう風に考えているわけじゃないんです。ただ、精神的なバックボーンとしても
う少し表現されてもいいかな、と思います。」
彼自身の皇室観はそれほど重点的にのべられていないが、筆者も
M氏の分析にうなずける部分があった。史の会で知り合った方たちの「皇室観」は皇太子夫妻の御子様誕生を
素直に祝う、というレベルにすぎない。左翼の皇室に対するアレルギー反応を「ばかだ
なあ」とWEBの掲示板で評する場面がみられたくらいだ。
さらに冷めた意見もある。
O氏(28)は、保守活動に興味をもったきっかけとともにこう語る。「学生時代は、学校が嫌い、教師が嫌いだったので、その流れから反日教組でした。で
も、反天皇に反対するけど、皇室が好きだったわけではない。ただの反抗期だから。」
インタビューや参与観察を通じて感じたのは、サイレント保守市民は戦争や皇室観を「理性」で語る、という点である。巻末資料のアンケート11〜15をご覧いただきたい。戦争体験者が
29名中2名、平均年齢が39.8歳という集団において、戦争がどのように語られたのかが良くわかる。想定していた答えとして「戦争は悪ではない!」がある。彼らの批判対象である「自虐史観」教科書は「戦争は悪だ」と決め付けるので、そのことへのアンチとして上記のような反応が出てくるであろうと思っていた。しかし実態は予想とは違ったところに在った。戦争に対するアレルギー的な拒否反応はさすがに見られなかったが、感情的な書き方をする人はいなかった。「始まってしまえばやむを得ないが、しないに越したことはないもの」「国益の対立としての一形態」「過去のことなので知らない」皇室観と戦争観をひとくくりに考察するのは、乱暴である。しかしひとつの傾向は明らかになった。彼ら(サイレント保守市民)は、主に戦争責任と結びつけて皇室を糾弾する左翼の理論に対し、真っ向から切りかえしをすることはほとんどない。それは「天皇万歳!」という伝統的な保守の皇室観にたいする違和感だともいえよう。父や母から、本から間接的に伝えられてきた個々の皇室観は、あくまでも「○○すべき」というものであって、自らの存在を賭けて戦うべき対象ではなくなっているのではないか。
T氏(
44)はアンケートでこう答えていた。「話しにくい人は、年齢・性別・階層等を問わず、狂信的な人・教条主義的な人・古典
派右翼のような人、オタク的な人、等は、苦手としております。」
Y氏(
35)もこのように答える。「あまり意識していませんが、民族派一辺倒や大日本帝国にノスタルジーを強く感じている人には、コミュニケーションに限界を感じます。」
巻末資料のアンケート19を参照されたい。史の会に参加できる人たちは、所得は高い方に属するのではないか、と予想した。日本の教育問題や政治問題に関心があり、月に一度でもこのような学習会に来ようとする人たちは、ある程度金銭的にゆとりがある人たちだと考えた。そこで、今の日本の経済状態をどう思うかを聞いてみた。(
さすがに「よい」という回答は得られなかったが、ふつう、という回答が半数(
14名)いたのは驚いた。このことについて、T氏(44)にあらためて聞いてみた。「普通の市民、とは言いますけど、やっぱり富裕層が多いですよね。どちらかというと企業を経営する側のほうが多い。左翼は“労組で団結して行動、賃金アップ”なんかを訴える方だから、右に比べて所得は少ないのかもしれません。」
アンケートを見ていても、日本の景気や経済について不安視する声というより「モラル
の低下」を嘆く声のほうが大きかった。
サイレント保守市民からは「積極的に活動している!」と思わている少数派を指す。史の会以外に政治活動を行っている人たちのことであり、具体的には北朝鮮拉致問題、夫婦別姓問題などがあげられよう。
属性は、サイレント保守市民と変わらない。ただ、「自分の手足を動かして運動する」ことに大きな意義を見出す人たちなので、フットワークは軽い。また保守系の人たちとのつながりが深いため、史の会に講師の招聘するのも彼らの役割である。
彼らの問題意識は運動をすることによって「手ごたえ」を感じ、結果に結びつけることにある。史の会やシンポジウムに参加して勉強するだけでは何も変わらないことを実感している人たちだといえよう。それゆえ、つくる会本部の運動に対する不信感は拭いがたく存在しており、以下のようなコメントをしている。
K氏(
23)「本当に採択をする気が有ったのか疑問に感じました。本気でやるなら市民運動と訴訟活動そして議員に対するロビー活動をやらないと駄目です。本部はその辺をほとんどやってませんね。これでは4年後も無理でしょうね。」
「やはり、一般市民に受けるような運動をやらないといけませんね。具体的に言うと教
育や福祉や災害対策や町づくりそして経済の問題さらに環境問題です。もう、天皇陛下万歳と言っているだけでは駄目ですね。」
Y氏(
35)「私はつくる会の会員ではありませんし、なりたいとも思いません。本気で採択戦に勝つつもりならば、もっと地道に、市民の目線で市民運動を推進するべきではなかったか、と思います。」
「壇上から人々を見下ろすのではなく、市民と同じ目線で運動を進めて行く努力をするべきであります。因みに小生は、一昨年の大晦日を以って保守派の運動を脱退し、昨年より自由革新派を立ち上げました。民族派・保守派が最後に守るべきは「文化」である、という姿勢に対し、自由革新派のそれは「個人の自由」という違いがあります。」
両氏には別々に質問をしたにもかかわらず非常に似通った答えが出てきた。
当初、筆者は「運動推進派」ということで2.に関しては伝統的な保守主義万歳の方たちだと思い込んでいた。しかし、抗議の仕方やとりあげるべき問題を見ると、むしろ左翼的な手法の踏襲なのではないかとも考えられる。一部の保守言論人や経営者側からのはたらきかけではなく、「一市民の目線で」運動をすることが必要、と述べている。彼らの言葉の中身は相対的に見て「右寄り」であると感じることが多かった。しかし、運動手法や運動をすべき主体、働きかける先には、「一般市民」が存在する。
サイレント保守市民と一線を画するグループではあるが、根っこの部分は同じではないかと考えられるのである。
K氏(
23)が保守運動に傾倒していったのは、小林よしのり氏『ゴーマニズム宣言』がきっかけだということから、それほど古いことではないと分かる。また、史の会以外の政治活動を問うたところ、以下のような答えが返ってきた。「昨年は
Y氏の選挙の手伝いをやりました。他に北朝鮮の拉致問題・藤沢の行政改革・教育問題など。昔はボランティアで赤い羽根募金とかやっていましたが、なんだか「結果」がしっかりと感じられなかったんでもうやっていません。地元藤沢で拉致問題について運動したり、地元で変な先生がいたら声をかけたり、とかそういうことのほうがやりがいがあります。」“運動”そのものに情熱を感じるタイプであって、言葉の上では左翼・サヨクを批判するものの、それは彼自身に根付いた「保守思想」がそうさせているわけではないと読み取ることができた。
6−1−3 戦中派
戦中派とは、戦争を体験した世代を指す。アンケート実施日には
2人出席。前述の若い層とは異なり、戦中戦後を通していわゆる伝統的な保守思想を持ち続けている方々である。数としては少数だが、毎回きっちりと出席されるため存在感はある。戦争を実体験し、戦後を生き抜いてこられた方の言葉は重く、他の若い参加者に比べて発言にも「ゆるぎなさ」がある。
その「ゆるぎなさ」が顕著に現れるのはまず皇室観である。C氏(
76)はつくる会の「新しい歴史教科書」について、おおかた支持しつつも、記述が不足しているところとして次のように述べている。(手紙より抜粋)「世界中から畏敬と羨望をもって見られている万世一系、百二十六代、二千六百六十一年、連綿と続いている皇室を中心にして歩み、発展してきた日本の皇室、世界に誇る歴史がスッポリと抜け落ちている。」
また、インタビューにおいては、自身の保守思想の高まりについて次のように語った。
「仕事柄、海外に駐在したが、ブラジルの松柏学園での日系への教育に感銘をうけたことがひとつ。国旗や天皇皇后の写真が飾ってある。教育勅語を教育の中心においてあって、「日本人精神」がちゃんと受け継がれているな、と思った。
もうひとつは、台湾に仕事で訪れたときの「古きよき日本」を知る人々とのふれあい。鄭春河氏に「軍歌も忘れてしまったのか?」と宴会で言われてショックだったこと。なぜ日本は台湾を見捨ててしまったのか?とまで言われたこと。中国による統治はひどいと聞いている。」
戦中派の人たちに顕著なのは、自身の「戦争体験」が強烈に思想を方向付けているということである。C氏だけでなく他の戦中派の方と話していてもそうだが、メインテーマは「つくる会」の運動や教科書の内容ではなく、もっと大きな世の中の風潮(たいてい否定的に語られる)であることが多い。したがって、C氏が教育勅語こそが規範だと主張するのも納得がゆく。
「あるべき日本人像」は、戦前・戦中に存在した秩序ある国民であり、その秩序を形成するのは、絶対的な皇室であり教育勅語であったと。
筆者が本研究で目指すのは、そうした思想の是非ではない。ただ、戦中派の方々の語る言葉には迷いがない。他のタイプの方々よりもブレがない。このことは、次項で述べる「各タイプ間の温度差」につながっていく重要なキーポイントである。自らの立つ位置、思想、日本という国について“自分の言葉で語る”ことに後ろめたさや迷いを持たなくてよいということは、若い支持層の多い「つくる会」において孤立をも意味することがある。
6
−2 各タイプ間の温度差この項では、前項で見てきた3タイプの人たちの、「つくる会」への関わり方の温度差を考察してみたい。質的データによる場合分けになる。この手法には限界はあるだろうが、なるべくリアルに描き出したいと考え、インタビュー、アンケート、手紙などを用いて独自の考察をこころみた。
参与観察をしていて、まず気になったのが
10代・20代の若者と戦中派の方たちに微妙な距離感があるということである。史の会自体が講義形式ということもあり、歓談する場所もないのだが、開始前や休憩時間、さらに終了後の飲み会にあっても、彼らが相互にうちとけ話をするシーンはあまり見られなかった。アンケートやインタビューでは、このようなコメントが見られた。「(戦中派の人たちとは)見てる視点が違うっていうか、価値がかみ合わない部分も若干あったりします。実際にどんなことが昔に起きたのか、お話を聞くのは好きですけど議論はしないですね。ギャップがあるっていうか。(
20歳男性)」「やはり同年代の人の方が話しやすいですね。お年寄りの話も良いですがやはり、話にくいところが有りますね。(
23歳男性)」「ご老人方は運動センスがないので話しにくいです。他は殆どOK。(
28歳男性)」では戦中派の方はどう考えているのかといえば、飲み会に参加しない理由として、
「最初のうちは出てたんですがね、もう今は出ない、意味がない。あそこで話すことがあまり意味があるようにはね、思えないですよ。若い人とはあまり話しません。(
76歳男性)」この双方ともにみられる意外な「交流の断絶」とは何に起因するものだろうか。大きく分けて原因は2つあるのではないかと思う。戦争体験の有無と皇室観の違いである。
a
戦争体験の有無現在の20代とは、「団塊の世代」を親に持つ世代である。「戦争を知らない子供たち」という歌は親たちが若い頃の流行歌である。生まれたときにはすでに高度経済成長も終わりを告げようとしていた。
当然、太平洋戦争については教室の中で教わる。平和学習として沖縄のひめゆりの塔を訪れたり、広島の原爆資料館を訪れたり、全国でそうした教育が盛んに行われている。筆者も“戦争は再び繰り返してはならぬ最悪の惨禍だ”と教えられてきた。
つくる会は、現代人が先の戦争を、今の感覚で善・悪と決め付けるのはおかしい、と主張する。日本が戦争に突入し、泥沼状態から抜け出せなくなったのも、そのときの「時代背景」があったからこそで、それを一概に「だめだ」と判じることは現代人の傲慢である、と。
しかし、その論理で行くならば、教室でいわゆる「自虐史観」の近現代史を教わった
20代若者は何を根拠に歴史を判断しなおせばよいのだろう?日本という平和主義の国に生まれ、育ってきた「常識」なり「リアリティ」だけでは、つくる会の主張する「バランスのとれた歴史」を構築するのは至難の業である。つくる会の若者は、自らの体験していない戦争を、藤岡氏の著作や「つくる会」のシンポジウムで「理論化」していく中でやっと安定を見出すのである。こうした一連の過程を踏まえてみれば、なるほど、つくる会の若者は「勉強好き」「歴史が好き」「本を読むのが好き」な人が多いのには納得がいく。つくる会の活動が「シンポジウム」「勉強会」が中心となっていることにもひととおりの説明がつくというものである。戦争時日本がおかれていた環境をなるべく冷静に考えようという姿勢のもとで、若者が「現代の視点」で歴史を見ようとしているに過ぎないのである。そこには努力があり、想像があり、頭のなかで作り上げた「戦時中の日本像」が存在する。
それが、完璧に戦中派の実体験と重なるだろうか。答えは否、であろう。話のかみ合わない両者は、お互いに疎遠になってしまう。血のつながった祖父母−孫という形で戦争体験について話し合うパターンは数多く存在するが、まったくの他人としてだと非常に難しい。史の会の参与観察からもそうした「ぎこちなさ」が読み取れた。戦争を体験している、していない、で圧倒的な差が生じる。戦中派は「あのころ」に回帰して話をすすめる。
20代の若者はそのことよりも「いま」のつくる会の運動論に興味がある。悲しいズレがたしかに存在する。O氏(28)はメールマガジンで以下のように発言している。
「日本の近代の戦争における英雄が英雄視されない理由は二つあります。
・ひとつは左翼が「侵略戦争だ」「南京大虐殺だ」と騒いできたこと。
・もうひとつは、戦中派と呼ばれる人たちがまだ生きていたこと。
前者は仕方がないのですが、後者については時間の問題です。
非常に失礼な言い方ですが、人は死ななければ評価されない。ある世代は、その世代が亡くならねば評価されないのです。戦中派が亡くなって、抽象化されて、初めて人は戦争に正しい評価を下すことができるのです。(註:戦中派の先輩方々に早く死ねと言ってるわけではありません。念のため)
ゆえに、我々の運動と関係なく緩やかに改善するので、捏造記事や偏向行政などに対して場当たり的な活動のみしておけばよいでしょう。」
こうしたコメントは、身体感覚から遠く離れた「太平洋戦争」という観点によってしか生まれ得ないものであろう。あくまで、客観的な理論である。保守運動の戦略の一環としての「戦争」である。
戦争中の話を聞いて「同調」するが、戦後生まれの若者が完璧に「同化」できないことによる両者のズレが、「つくる会」における微妙な温度差をつくりだしているのではないか。
b
天皇への言及つくる会の中で大きく意見が割れるとすれば「皇室観」「親米・反米」論であろう。日本会議などに所属する、典型的な戦中派は皇室に関して純粋に尊ぶべきだと考えている。
しかし、戦後生まれは違う。よっぽど特殊な環境にいない限り、皇室とは「日本の象徴」であり、テレビの中のロイヤルファミリーでしかない。無条件に崇拝する、という対象ではないのが現状だろう。サイレント保守市民の項Bで考察したとおり、戦中派を除いてほとんどの参加者は、伝統的な皇室観に違和感を覚えている。
T氏(44)の意見では、つくる会発足当初の大月隆寛氏の考え方が丁度いいバランスを保っているらしい。雑誌『正論』97年4月号から彼の皇室観を抜粋してみよう。
「「天皇制」を守る言説が、これまでならともかくこれから先なお信頼され得る「保守」のアリバイになるとは僕にはとても思えない。はばかりながら昭和天皇に戦争責任はあったと僕は思っているし、と同時に、しかしその責任のある部分は戦後五十年あまり経過してきた「象徴天皇制」の国民的経験の中で償われた面もあるのでは、とも思っている。(中略)少なくとも伝統的な「保守」のある部分にあると聞く「天皇制」と「皇室」に対する抜きがたい忠誠心のようなものは、どう誠実に探ってみても僕個人の中にはないし、これから先も宿りようがないと思う。どんなに糾弾されてもこの感覚だけは譲りようがない。「天皇制」と「くに」との間の必然が、もうかつての日本人のように身にしみようがなくなっているのだ。」
「天皇制」と「くに」との間の必然(あたりまえの関係)が身にしみない、という言葉が示すとおり、頭で天皇制を考えていかなければならないのがサイレント保守市民の時代なのである。
M氏(20)のコメントが象徴的にあらわしていると思う。「こういうと、すごく「極右」って思われるかもしれないけど、僕の理想の日本人像は「「皇室を中心とした「国民」をどうつくっていくか」というのを考えられる人間。」すっごく説明しづらいんですよ、この問題。「八紘一宇」っていうとこれも言葉が勘違いされてしまうことがあるけど、僕が言いたいのは、世界平和のために日本人が日本人としてどうしていくか、っていうのを考えられる国民像が理想ですね。ただ勘違いしてほしくないのは、それは僕の理想の日本人像であって、それを全国民にやらせるというのとは違う。それは全体主義ですから。」
カッコ「 」を多用して話してくれた。日本国の象徴、という概念的な存在である天皇に関しては、戦中派・戦後派とで意識がすっぱりと分かれる点であろう。そして、つくる会では「街宣車右翼」「総会屋右翼」は嫌われている。狂信的でカッコ悪いからだ。国民の良識、リアリズムにもとづいた歴史認識を謳う団体は、「天皇制」で揺れている。「天皇」に関する「国民の常識・共通理解」が未だ醸成されていないからだ。
6
−2−2 運動支持派と運動推進派a
市民運動へのまなざし年齢層ではなく、「つくる会」への関与の程度により各タイプの温度差を見ることも可能だ。単純化して言えば、「市民運動」を支持するサイレント保守市民と、実際に推進する運動推進派との間の溝である。小林よしのり氏は『ゴーマニズム宣言』でたびたび「良き観客」という言葉を使用する。市民運動をすること自体が目的化してはならぬ、と言う。そういう意味では、史の会のサイレント保守市民は、つくる会のシンポで学び、好意的な目で支持する「良き観客」なのである。
しかし、観客だけでは前に進まぬ、ということで積極的に運動を繰り広げる人たちも存在する。これが「運動推進派」である。採択の結果が思わしくなかったことなどを受けて、「つくる会」では、どんどん「運動支持派」層が脱会している。「運動推進派」の担い手が宗教団体「キリストの幕屋」の信者たちに移り変わりつつある。
教科書採択、というフィールドではもはや限界がある、と見切った「運動支持派」は興味の矛先を「夫婦別姓問題」にシフトしている。
O
氏(28)はアンケートにこのようにコメントしている。「私にとって「歴史」はすでにメインテーマではありません。これからは夫婦別姓とフェミニズムです。(
T
氏(44)も次のように述べる。「保守系は「活動家」が少なく、ほとんどは一般人です。「つくる会」の会員も、(自分も含め)大部分は心情的な支援者で、「活動まではちょっと・・」という方がほとんどでしょう。そのような方を上手く組織化して、抵抗感の少ない形で運動に参加してもらうように誘導していくことが、今後必要と思います。(
史の会で拉致問題の署名活動をされるのは、ちょっと遠慮してほしい、と言っていた
T氏である。サイレント保守市民の意識を代弁しているといってもよいだろうと思う。「史の会では自由な議論ができると思っていたのに、最近ちょっと様子が変わってきた。何々でなければならない、という人が増えてきた」ともこぼしていた。b
運動推進派のジレンマ逆に、運動推進派から見れば、採択時に
1万人以上の会員数を持ちながら「本部」が内部分裂を繰り返すばかりで具体的な運動の支持を出せなかったことが口惜しくてならないのである。「良き観客」役から一歩はずれて声を出してみた彼らにとって、会員の潜在力を利用できなかった「失敗」はつくる会への失望となっていった。K
氏(23)は以下のように憤懣をぶつけている。「つくる会本部は、史の会の掲示板も快く思ってないです。このまえ総会で千葉の支部長と一緒に出て、「(本部のやりかたが)おかしいじゃないか」ということを言ったらヤジを飛ばされましたよ。なんかギクシャクしてるんです。それで、もう知らない!ということで退席しましたよ。結局数字(採択率)がとれなきゃ駄目なんです、学者さんは動いてくれないし。」
彼らのジレンマは本部に対してだけあるのではなく、当然「運動支持派」にもあるといえよう。座して成り行きを見ているだけの良き観客に少なからず不満はあっただろう。しかし今回の調査ではそうした意識は顕在化しなかった。本部に対する「運動の未熟さ」への不満が大きかったようである。
6
−3 「つくる会」本部への批判(運動論・組織論)サイレント保守市民を中心として、採択戦後にいっきに吹き荒れたつくる会「運動論」。史の会の掲示板でも喧々囂々の議論がなされた。
T
氏(44)は「良き観客」増員を成しえなかったことに不満を持つ。「共産党をはじめとする左翼は運動のノウハウの蓄積が豊富で、一般向け宣伝も非常に
巧みであるように思います。その反面、保守の側は、運動のノウハウがほとんど無く、また「一般大衆」への訴えかけ方がひどく下手ですね。
「自分達は正しいのだからそれでよい。」という独善性があると感じます。世間の大
部分は無関心層ですから、その辺に効果的に訴えかける方策が絶対に必要でしょう。(例えば、「カッコよさ」のイメージつくりなど。当初の「つくる会」には、そういった要素がすこしはあったようにも思うのですけれど・・。)」
M
氏(20)は運動推進派のコーディネーター不在を客観的に述べる。「運動として失敗でしょう。技術・戦略論が足りないし。方針をきめるコーディネーター役がいなかったっていうことが敗因でしょうね。大衆運動をするのか、採択率を着実に取るのか、どっちを最優先したかったのかをはっきりさせなかったのがまずかったんじゃないですか。マスコミとかサヨクばっかり批判してるけど、お門違いじゃないかって。会社の経営であれば失敗してると思います。」
一番手厳しいのは自称市民運動評論家の
O氏(28)である。マスコミ批判ばかりに終始して現実的な手を打てなかったことに対する不満、運動自体が不明瞭になってしまう不安をコメントしている。「己の無為を棚に上げて、マスコミが悪いと嘆くのは簡単ですが、これでは何一つ先には進みません。同じくだを巻くなら、
「マスコミの論調を変えることができれば、採択できたはずだ」
「そのためにはどうしよう」
と、これなら少しは前に進むんじゃないですか? マスコミに責任転嫁していては10年経っても20年経っても何も変わりませんよ。(中略)挙句の果てには「次期採択までの4年間は長すぎる。会員を保てない。3年後採択の小学校国語教科書を新たな運動に加えよう(西尾名誉会長)」と言い始める始末。これでは、手段であるはずのつくる会が、目的に変わっていると言わざるを得ません。」
正しいはずのわれわれが採択戦で負けてしまった、それは運動そのものに無理があった、有効な戦略を立てられなかったせいだ、とする「運動論・組織論」の類が
2001年内はかなり盛んに言われ続けた。2002年3月現在では、小林よしのり氏の「つくる会」脱会で、さらに幹部の考え方の相違、会の枠組み自体を疑問視する声が上がってきている。良き観客は、瞬時に「手ごわい評論家」にもなりうる。
6
−4 「弱気な日本」を嘆く声−「史の会」の最大公約数以上見てきたように、つくる会にはさまざまなタイプの参加者が存在する。しかしそんな彼らの共通する望みは「弱気な日本」からの脱却、自国を誇れるようになる、ということだ。
巻末資料のエスノグラフィーで挙げた「否定的につかわれる語」をまずは参照されたい。これらの言葉を皮肉ったり、もじったりするときに必ずといっていいほど笑いが起こる。「笑い」は史の会参加者たちの価値観をそのまま表すものだ。
2001年9月24日、現代コリア研究所の佐藤氏の講演では、日本の政治家や日本人がいかに外圧に弱いか、謝罪外交について述べていたときの笑いが象徴的であった。
史の会の参加者たちを観察していて強く感じたのは、「価値観を共有している」ことを示すためにある特定のことばが繰り返し用いられているということだ。「朝日」「北朝鮮」「サヨク」という言葉は、非常に心地よいフレーズとなって参加者の耳に響いている。朝日新聞にもさまざまな記者がいるだろうし、記事も同じ論調で揃っていることはありえないが、史の会では「朝日」とひとくくりにしてしまうことにより、「アンチ朝日」としての共同体が創造される現象が起きている。「朝日」を批判すれば、隣に座っている年齢も社会的立場も異なる人とも、とりあえず話のキッカケがつかめる、そんな風に感じ取れた。
史の会において、「異質な言葉」を話す人は存在しない。講師と参加者は、拠って立つ言葉(世界)がほぼ同じであることを前提としているため、緊張した議論というのはほとんど展開されることがない。
逆に言えば「弱気な日本」を笑うことくらいしか、会員全員に共通しているコードはないのではないか。つくる会としてのまとまりは、まず幹部たちが破壊しているといっていよい。良き観客は、つくる会自体のどこまでを自分たちのものとして吸収し、笑えばよいのかが判断できないのである。史の会で見られた、参加者たちの多様性に関しては、巻末のエスノグラフィーをご覧いただきたい。
7.
終章 ―<普通>の市民たちの限界―7
−1 個人主義的な保守市民たち戦中派の人たち(70歳以上)と、そうでない人たちの間の交流が盛んではないということが確認できた。参与観察を行っているときから気になっていたことであるが、戦中派は戦中派で固まるのである。戦中派の方たちは講師に対して個人的に興味のある質問をするが、他の参加者(特に若年層)に向けて言葉を発したり、積極的にコミュニケーションを求めていくことはしない。彼らの価値基準は、昔の教育勅語・修身の教科書にあり、自ら体験した戦争そのものにある。戦争を論じる時には「自分がかかわり、友が死んだ」という視点からになる。インタビューにこころよく応じてくださった方も、会話の中心は、つくる会の運動そのものというよりも、戦争体験談であった。勉強会に関してもその他、政治的な活動にしても「あの戦争はなんだったのか」「どう位置づければいいのか」を模索するために(あるいは自己確認のために)続けている、という印象を強く受けた。したがって、筆者のような若年層のものでも「戦争体験談を伺いたい」という姿勢を見せる、郵送でダンボール数箱分の資料を送ってきてくださるなど積極的にコミットしてくる。
そして、興味深いのは、戦中派でない人たち(20代の若年層〜50代の団塊の世代まで)も戦中派の人たちとそれほど関わり合おうとしない、ということにある。インタビューにもあるとおり、M氏(20)は「価値がかみあわない部分がある」と言い、O氏(28)は「ご老人方は運動センスがないので話しにくい」とまで言い切っている。その価値観の違い、ズレはいったい何が原因だろうか。第6章の部分を簡潔にまとめてみよう。
1つの原因は「戦争体験の有無」である。史の会で戦争について議論するときに、同じ視点で議論できるはずがない。20代の参加者は、「保守」的な思想に傾倒してきてはいるものの、その年数やリアリティは戦中派にはとうていかなわない部分がある。M氏などは勉強熱心で多くの著作を読みながら、自分の言葉で保守思想を語ろうとするものの、話し方に若干の揺れを感じることができる。C氏にインタビューをしたときのような、確固たる自信−すなわち「私は保守で、それは戦中・戦後通して、今までずっと変わっていない」という信念のようなもの−をM氏やK氏には感じることができなかった。M氏は「天皇・皇室」を語るときも「〜すべきだと思ってはいますが」「それを全国民に強要することはない」「難しい問題です」と言葉を濁している。
そしてもう1つ挙げるならば「皇室」の問題だ。小熊(1998)は以下のように論文に書いている。
若年層にとっては、天皇は時折テレビで見る程度の存在でしかなく、自分が向かい合っている日本社会の問題と天皇の存在は、およそ無関係としか考えられていないのだ。こうした感覚からは、天皇への忠誠心も、天皇制打倒の叫びも、出てはくるまい。天皇の戦争責任を認めながら、象徴天皇は肯定するという先の引用も、そうした感覚に支えられていると思われる。「新しい歴史教科書をつくる会」における天皇への言及の不在は、こうした若年層の意識の反映であろう。
インタビューはちょうどこの引用を証明する形となった。
M氏も自覚しているとおり、「保守の保守たる所以」である天皇について「つくる会」が言及しないことが両刃の剣になっているわけである。それは、戦後生まれの「戦争にリアリティを感じられらない世代」に安心感を与え、若年層を惹きつける要因ともなったが、翻って「保守」の内部分裂を引き起こす原因ともなったのである。若年層の中にも(M氏のように)本の中から保守理論をひっぱってこようとする者がいる。自らに身体感覚として根付かない「天皇」認識を、言葉で埋めようとしている。「古きよき日本の伝統」を文章から想像し、自らのリアリティに変換しようとする。また、天皇に関して
M氏ほどこだわらないO氏は「つくる会教科書は、内容よりも存在自体に意義があると思う。極論すれば、どんな内容であっても問題ない。」とまで言っており、ドライに運動論のみを展開しているような印象を受けた。以上述べてきたような、戦中派とそれ以外の若い世代とがお互いにうちとけていないという現状は、「古き良き保守」の主張から考えてもかなり皮肉な状況なのではないか。史の会の参加者を見ていて思うのが、とても「個人主義」なのである。史の会以外でメンバーと連絡を取り合うことはほぼない。皆、それぞれ自分自身の「史の会利用目的」が存在して、それを満たすために時間をつくって公民館へ勉強しに来るのだ。他の参加者と交流するために、という動機は思ったほど聞かれなかったのが印象的であった。この会に圧倒的なのが、「サイレント保守市民」である。それはある意味当然の帰結と呼べるかもしれない。なぜなら、皆それぞれ異なった職について働いているし、史の会で隣り合わせになったとしても「自分の生活」には関係のない人なのである。
1ヶ月に1回、同じ史の会に参加している、ただそれだけの共通性で仲良くなって価値観を乗り越えるほど語り合えるということはないだろう。史の会に関しては、皆「それでいい」と思っているので、3年ちかくゆるやかに続いてきているという現実がそこにある。「草の根レベルの保守運動」と一言でくくるには、あまりにも参加者の意識が分かれすぎている、というのが筆者の素直な感想である。7
−2 教科書問題ブームのその後教科書採択戦が終わった夏以降、参与観察をしていて興味深かったのは「自虐史観」「従軍慰安婦」「南京大虐殺の真実」「歴史認識」などという一連の「つくる会」キーワードがほとんど姿を現さなくなったことである。
筆者の推測ではあるが、これは採択率がほぼ壊滅状態だった、という結果にもとづくものではないかと思うのである。小林よしのり氏や藤岡氏などつくる会幹部がテレビメディアでも大々的に取り上げられたり、
6月に出された市販本が異例の売れ行きを示したり、そうした状況が、つくる会運動を一種の「ブーム」にしてしまったのではないか。会員も熱に浮かされたようにそれらの言葉を使いながら勢いづいていたが、蓋を開けてみると夏に盛り上がったほどの結果が出なかった、というよりむしろ惨敗の様相を呈した。ここでインタビューのときのM氏の的確なコメントを言葉を借りると「結局は政治の問題です、結果取れなかったら意味ないんですよね。なんか中途半端なことをやってる気がしてならない。教科書の内容が「正しい」から採択すべきだ、っていう自分たちの善人の理論だけをもとにして動かそうなんて甘いと思う。」
ということなのであろう。すなわち、つくる会の一般会員は「教科書の採択」という利権の絡んだ特殊な世界をよく知らなった、単純に「この教科書は良いものだから、正しいものだから」という基準と勢いだけで採択戦をすすめようとした。だから惨敗した、ということを
M氏は言いたいのである。史の会でも、
10月、11月ごろは採択が思うように取れなかったという不満が「つくる会」本部へと向いた。飲み会では、西尾氏の出した「国民の歴史」という本が導入としては分厚すぎた、つくる会はITを軽視しすぎたのが問題だ、いや学者が内部分裂していたから動きようがないのだ、などさまざまな意見が出た。おもに「運動」として技術的に失敗があったのだ、という論である。これは前述のM氏やO氏に通じる考え方である。そして、いまや史の会の話題の中心は、「歴史」ではなく「夫婦別姓問題」にシフトしつつある。一時の「つくる会」フィーバーはどこへいったのか。もはや「過去」の問題になってしまっているのは確かである。
7
−3 普通の市民たちによる草の根保守運動とは本研究で明らかになったことは、大きく分けて3つある。
まず@に関して説明したい。参与観察を通して、史の会の参加者からよく聞いた言葉が「私たちは普通の市民」、である。産経新聞の講読率が
8割を占めるという時点で、世間一般の平均値からは外れたところにいるはずの彼らが、「自分たちは普通だ」と言う。「サイレント・マジョリティ」という言葉が「つくる会」の内部で好ましいキーワードとなっているように、あくまでも彼らのなかでは、極端なことをやっているという意識はそれほどなく「自分の国のことをもっと誇りに思いたい」「日本人として誇りを持ちたい」という願いが存在するだけである。私は、彼らがなぜ自分たちを「普通の市民」と表象するかというと、それ以外の適当な言葉を見つけられないからだと思う。彼らが忌み嫌うのは「左翼」、「うす甘いサヨク」である。それらに対するアンチとして自分たちを置いているだけであり、「右派」「右翼」「民族派」という言葉で積極的に位置づけしない。この事象の要因としては、戦中派の人たちとの「天皇観」の相違を第6章で述べたので参照されたい。Aについては、現に「つくる会」の教科書採択運動が失敗したことで説明はつくであろう。すなわち、彼らは運動に対してどこまでも「受動的」なのである。運動を支持するだけの良き観客にすぎなかったのである。なぜか。それはこうした保守運動というのは切羽詰った利害関係がない上に、彼らは自分自身の生活に忙しいからである。このタイプの保守運動は「既存の保守的言論の中に想像しうる限りの「古きよき日本」を探し出し、その幻想の中でナショナルアイデンティティを確立する」ことに重点が置かれている。たとえば訴訟問題のように、もし敗訴すれば生活すら危ういという意識からは程遠い。「日本の歴史教育が、こんな風になればいい。(という憧れ)」や「今までの教科書はおかしいから、こっちが採用されるべきだ」という議論が繰り返されることによりムードだけが高まり、そして現実的には採択戦で、純粋な市民運動家の多い左翼陣営に惨敗するという構造である。自称「平日は普通の会社員」には、保守運動をやる暇もなければ、運動を展開するほどのリアルな保守思想が存在しない。
そして、最終的にはBに行き着くのである。自分たちを「サイレント・マジョリティ」と規定する集団は、結果がとれないといっきに関心を失う、という傾向がある。
K氏(23)もインタビューに対し、“結局数字(採択率)がとれなきゃ駄目なんです”という答えをしている。これは今までの論理でいけば、当然の帰結であろう。「自分たちは正しいことを言っているし、自分たちの掲げる主張こそが世間の普通の人たちの共有するものなのだから、よい結果が期待できるはずだ」という思い込みが、結果第一主義に走らせる。2001年8月15日に採択結果が出てから、史の会のなかでの「教科書問題」は影をひそめた。HP掲示板では「つくる会」本部への批判・不満が書き込まれた。自分たちのせいだとは思っていない。採択率が低かったのは、つくる会本部の運動の仕方が悪かったから、そしてマスコミが悪質な言論弾圧を行ったからだと思っている。では実際「<普通>の市民」である彼らは何をしたのかというと、大部分は本を読んで講演を聴きに行っただけではないのか。彼ら1人1人が協力して、署名をあつめて地方自治体の教育委員会に請願しにいったりしたのだろうか。答えは、否であろう。
――目には見えない「国(くに)」に憧れを抱き、「伝統的な」と銘打たれた保守思想に安心感を覚え、日本人として誇りを持てる「物語のような」歴史を待ち望んでいる人たちが確かに存在する。
しかしそれが本当に「今、生きているひとたちのリアリティに基づいた」健全なナショナリズムなのだろうか。この保守運動を見ていると、彼らのリアルな世界、すなわち日常世界において夢や希望が持てないからこそ「こうであればよい」という幻想を抱いているような気がしてならない。彼らは、たくさんの本を読み、同じような考えの人々と交流しながら「理想の日本人像」を自分のなかで形成する作業が楽しいのであって、今の世の中を本当の意味で変えていく力にはなれないのが本当のところではないだろうか。
8.
資料8
−1 アンケート結果【アンケート調査に関して】
実施日時:
2001年6月30日(土)史の会にて。有効回答数:
29性別:男
21、女8平均年齢:全体
39.8歳 男39.8歳 女39.5歳アンケート質問項目:全
29項目1名前・性別・年齢
2出身地
3職業
4「つくる会」支援のきっかけ
5「史の会」入会のきっかけと継続期間
6購読紙(新聞)
7「自虐史観」という言葉で連想するもの
8「左翼」「サヨク」のそれぞれのイメージ
9支持政党
10好きな政治家・嫌いな政治家
11靖国神社公式参拝問題
12普段読む本の種類
13戦争経験の有無
14戦争の具体的な体験話
15戦争とはどういうものか
16アメリカは好きか
17中国は好きか
18「史の会」はあなたにとって政治活動かどうか
19日本経済の状態についてどう思うか
20家庭で「史の会」の話をするか
21「つくる会」運動は周囲で盛り上がっているか・誰と話すか
22最近の若者について
23日常的にパソコンを使うか
24日本の敗戦について、戦争責任は誰にあると考えるか
25学生運動の経験はあるか
26理想の日本人像とは
27「史の会」の継続意志の有無
28教科書市販本の感想
29藤岡信勝氏らの著作を読んだことがあるか
【データ・コメントの詳細】
―3職業について−
―4「つくる会」支援のきっかけについて−
―5「史の会」入会のきっかけ―
*「つくる会」の有志団体である史の会入会のきっかけは何か、という質問。沿革の項目でも前述したとおり、
T氏ら幹部の勧誘によるものが多い。また、一度参加した人たちが友人・知人を連れてくることで広まるケースが圧倒的。史の会ホームページを見て、という回答(4)も存在した。―6購読紙(新聞)―
*史の会における朝日・読売・産経・日経の大手
4紙の購読割合を調査してみた。1
位…産経のみ(13名)――44.82%2
位…読売と産経(4名)――13.79%3
位…日経のみ(3名)――10.3%4
位…産経と日経(2名)、読売のみ(2名)、読んでいない(2名)――各6.89%6
位以下…朝日のみ(1名)、朝日と産経(1名)、空欄(1名)――各3.44%参考までに、全国主要紙の販売部数の比率をあげておく。
1
位…読売(1023万部)――21.63%2
位…朝日(834万部)――17.63%3
位…毎日(398万部)――8.41%4
位…日経(305万部)――6.44%5
位…産経(201万部)――4.25%併読・単読という細かい違いは措くとしても、史の会の購読割合は、全国平均とはかけ離れた数値を示した。保守系紙である産経新聞の購読者が多く、併読をあわせると、半数以上になるという結果になった。
―7「自虐史観」という言葉で連想するもの−
―8「左翼」「サヨク」のそれぞれのイメージ−
−9支持政党・10好きな政治家・嫌いな政治家−
1
位…無し92
位…自民83
位…自由党44
位…自民・公明・民主 (連立の意)25
位…空欄 46
位以下…限定せず1、石原新党1(←もし存在するならば)―好き―
石原慎太郎 7
西村慎吾 6
李登輝、平沢勝栄、小沢一郎、高市早苗、小泉純一郎、古賀俊明など
―嫌い―
河野洋平6
土井たか子5
野中広務4
田中真紀子3
辻本清美3
宮沢喜一3
菅直人3
志位和夫、鳩山由紀夫、田中康夫など
−11靖国神社公式参拝問題−
結果、
29名全員「公式参拝すべき」との回答であった。理由として以下のような答えがあげられていた。−13戦争体験の有無・14具体的な体験−
*いわゆる「戦中派」の割合がもっと多いかと思っていたが、そうでもない。平均年齢が
39.8歳ということもあり、比較的若い年齢層の運動体であることがわかる。顕著なのは団塊世代である40代後半、50代の割合が少ないという点である。(回答者を100とすると10.3である。20、30代は55.2。)−15戦争とはどういうものか−
−16アメリカは好きか・17中国は好きか−
*国のイメージというのは、非常に面白い意識調査になるだろうと思って質問に盛り込んだ。幹部クラス(また、初期の自由主義史観研究会のメンバー)にはわりと強い反米傾向が見られたが、この史の会の参加者たちはそうでもないようだ。結果を見てみよう。
〜アメリカは好きですか。
―コメントから―
戦後米国海軍潜水艦学校に留学、日本の軍人として遇され、心の広さ深さを知り、感動。
(
76歳男性 会社員)〜中国は好きですか。
大好き0
好き0
どちらかというと好き0
どちらでもない6
どちらかというと嫌い3
嫌い7
大嫌い13
―コメントから―
・というより、「理解できないので警戒して付き合いたい」という意味です。(
27歳女性)・ただし中共政府。(
27歳男性)−18「史の会」はあなたにとって政治活動かどうか−
政治活動だと思う 2
−コメント−
・教育問題ではあるが、最終的に政治問題になる。(
23歳男性 学生)そうではない 27
−コメント−
−19日本経済の状態についてどう思うか−
よい0
ふつう14
悪い15
−20家庭で「史の会」の話をするか−
*結果は以下のとおり。きれいにバラけたが、さすがに月に一度の週末にでかける場所、目的などは家族に話すようである。また、史の会の活動内容がそれほど過激ではない、と参加者たちも認識しているため(質問18参照)話しやすいのではないかと思われる。
しょっちゅう2 (コメント:ただし(家族は)批判的。−
44歳男性 会社員)ちょくちょく6
週に1度くらい3
月に1度くらい7
話さない8(コメント:親は超保守ですが(知識もまあある)、「運動に関わっている」と
心配するので話さないのです。−
27歳女性)
−21「つくる会」運動は周囲で盛り上がっているか・誰と話すか−
〜周囲で盛り上がっていますか?
盛り上がっていると思う4
関心はあると思う10
それほどでもないと思う8
全然なし5
〜誰と話しますか?
友人13
職場の人間2
話さない8
話さないことにしているが時々話す1
―コメント―
話さないと答えた人:
友人にひとり「サヨク」がいてケンカになった。(
34歳男性 会社員)靖国・9条は話題に出るが
(賛成派有利)教科書は同僚が興味ないので話さない。(35歳女性会社員)
友人と答えた人:
たまーに。すぐこちらからやめてしまう。アレルギーをもたれては意味がないので。(
27歳女性)
−22最近の若者について−
(
−23日常的にパソコンを使うか−
よく使う 18
仕事場では使う 3
あまり使わない 4
使わない 1
空欄 3
−25学生運動の経験はあるか−
−26理想の日本人像とは−
−28教科書市販本の感想−
〜肯定的な感想
わかりやすい、常識的、歴史の流れがつかみやすい
〜批判的な感想
8
−2 インタビュー8
−2−1 タイプ分け史の会はどういった人たちによって構成されているのかをより詳細に分析するために、インタビューを行った。アンケート調査、参与観察による推察をもとに、史の会を構成する人々を3つの類型に分けた。
このわけ方はあくまでもおおまかなものであり、どのタイプにも属さない、あるいは@とAの中間などという人も当然存在する。
8−2−2 おもな質問事項
インタビューはあくまでも自然の会話の流れを止めるものであってはならないので、その点には最大限に留意しつつ、以下のような質問をしてみた。
8
−2−3 サイレント保守市民 M氏(21)、O氏【
M氏の場合】インタビュー時(
2001年11月26日)大学の法学部3年生。史の会へは2年ほど前から参加している。史の会の中では最年少の参加者である。かなり長い時間インタビューに協力をいただいた。M君は「サイレント保守市民」というタイプのなかでも、かなり熱心に本を読み、勉強会に参加することで自分の意見をはっきりと示す人であるという印象をうけた。そういう意味では、「サイレント」と括るのは適切かどうかが問題になってくるが、「運動」に積極的関与をしているわけではないという点に注目した。つくる会の運動そのものに関しては、純粋に戦略的思考の欠如(組織としてうまく動いていない)から、成功しなかったと分析している。インタビューの中では、「自虐史観」や「サヨク」という言葉がほとんど出てこなかったことが印象的であった。彼の話は「戦略論」に終始した。
―保守的な思想・活動に興味をもちはじめたのはどういうキッカケがあったからですか。
「もともと戦史に興味があったんです。小学校くらいのころから歴史小説とか読みはじめて。戦史に興味を持ったことで物事をどのように進めていったらいいか、っていう「戦略的思考」みたいなものを身につけた気がします。軍事・歴史ものを読んでいってところです。あとは、うちの親父の叔父さんがめちゃくちゃ反共の人で、そういう影響もあるかもしれません。」
−他に政治活動・ボランティア活動などをしているか。
「政治活動っていうわけではないけれど、勉強会には出てますね。「松下政経塾
16期生」がやってる、政策について勉強する会にはちょくちょく顔をだしています。」−史の会に参加する理由
「知ったキッカケは
K氏(23)の誘い。あれ(史の会)は道楽です、一種の。まあこじんまりしていて、講師の方と気軽に話ができるから魅力的です。ほかの保守の講演会とかだと、すごく大規模な場合が多くて質問もできないし。」―なぜ、「道楽」という言葉を使うのですか。
「政策形成とかつっこんだ話はできないですから。政策立案者とかが来て実際
how toを議論できる場じゃないと駄目だと思う。あの勉強会(史の会)は無駄だとは言いませんが、あれだけじゃ駄目です。」−史の会の参加者について
「(戦中派の人たちとは)見てる視点が違うっていうか、価値がかみ合わない部分も若干あったりします。実際にどんなことが昔に起きたのか、お話を聞くのは好きですけど議論はしないですね。ギャップがあるっていうか。」
「議論をしてて面白いのは○大学の
H君。40,50代とかで年齢でくっきり分けることはありません。やっぱり人によりますから。」−つくる会の「新しい歴史教科書」について
「歴史に興味をもたせるためのとっかかりとしては、大成功だと思う。中学生が読んで、たとえば司馬遼太郎の「坂の上の雲」とかを読みたい気にさせるんじゃないですか。でも愛国心教育という意味ではあれが限界でしょう。あれ以上書いてしまうと逆にナショナリスティックすぎる、過激だっていう反論に太刀打ちできない。」
−つくる会の「新しい歴史教科書」と在日朝鮮人
「在日朝鮮人の方がこの教科書を使ったら?…まあ、ありえないでしょうけど、かなりアイデンティティクライシスが起きるでしょう。民族の歴史は交わることないんですよ。彼らのアイデンティティが定まってなくて苦しんでいるのはわかりますよ、。。。僕には結論が出せません。でも考えていかなきゃならない問題だとは思います。」
−教育一般について
「やっぱり、今の教育は道徳と人権のバランスをちゃんと教えてないから駄目なんだと思うんですよ。僕の考えでは、道徳は他人のために自己犠牲する精神、人権っていうのは自分のためだったら他人にどんなことをしてもいいっていうイメージがあります。どっちも大切なんですけど、どっちかといわれれば僕は道徳をとりますね。」
「僕は勉強したものが最終的にはモノをいえるって思ってますから。だから別に偏差値教育は悪いものだと必ずしも思ってないです。やっぱり何かを考えるとき最低限の知識がないと(考えることすら)できないですよ。高卒の人間だからって僕は差別しませんけど、勉強で落ちこぼれちゃった人に関しては、もっとほかの才能を見出してあげるべきです。」
−つくる会本部による教科書採択戦について
「藤岡さんの本はねえ、読みましたけどみんな同じこと、言ってるんですよ。なんか最近は読まなくなってます。
what to(何をすべきか)ばかり書いてあって、どうすべきかが書いてない。だからいつまで経っても運動が成功しない。how to(どうすべきか)が書いてないんです。サヨクが理想論ばかり述べてるって言ってますけど、つくる会だって理想論ばっかり言ってる。運動をどうすべきか、っていう実際のレベルまで落とし込んでない。」「運動として失敗でしょう。技術・戦略論が足りないし。方針をきめるコーディネーター役がいなかったっていうことが敗因でしょうね。大衆運動をするのか、採択率を着実に取るのか、どっちを最優先したかったのかをはっきりさせなかったのがまずかったんじゃないですか。マスコミとかサヨクばっかり批判してるけど、お門違いじゃないかって。会社の経営であれば失敗してると思います。」
−市民運動、といった形で積極的に動いている人もいましたが…
「市民運動やってても、結局は政治の問題です、結果取れなかったら意味ないんですよね。なんか中途半端なことをやってる気がしてならない。教科書の内容が「正しい」から採択すべきだ、っていう自分たちの善人の理論だけをもとにして動かそうなんて甘いと思う。そういう死に物狂いの運動、それを支える理論、ハウツーみたいなものが左翼に負けちゃってるんですよね。僕はこういう問題で中途半端な抗議とかデモをするのは意味がないと思う。逆に言うと、普通の会社員や普通の主婦には市民運動はできないんじゃないか、と。市民運動とかボランティア活動が有効なのは、ごみ拾いしましょう、とかモラルを守りましょうとかっていう問題でしょう。やって自己満足を得られるかどうか、ですから。でも教科書採択っていう問題に関しては市民運動じゃ解決できない、政治の問題っていう気がしますね。」
−今、保守運動に欠けているものがあるとすれば、それは何だと思いますか。
「やっぱり、組織力のなさと運動が下手ってことでしょう。あとは保守内部でいろいろ割れてしまってる。それが問題。」
−保守内部で割れているっていうと、何が原因だと思われます?
「皇室をどう扱うかっていうところですね。僕、大学の
OBに言ったんですけどね、小林よしのりの「戦争論」がバカ売れしたとき大喜びしてるOBに。「戦争論」は戦争についてのみ語ったものだって。皇室論ぬきで保守思想をつくると、大変な混乱になりますよ、変形保守、なんとなく保守が出てくるって。皇室についてきちんと語っておかないと保守は保守自体のアイデンティティが保てなくなるって。案の定そうなってる。とりあえず国益最優先、という形で広がってるでしょ?若者の支持を集められたのは成功だったけど。皇室論は保守派の踏み絵ですよ。別に僕も天皇100%!っていう風に考えているわけじゃないんです。ただ、精神的なバックボーンとしてもう少し表現されてもいいかな、と思います。こういうと、すごく「極右」って思われるかもしれないけど、僕の理想の日本人像は「「皇室を中心とした「国民」をどうつくっていくか」というのを考えられる人間。」すっごく説明しづらいんですよ、この問題。「八紘一宇」っていうとこれも言葉が勘違いされてしまうことがあるけど、僕が言いたいのは、世界平和のために日本人が日本人としてどうしていくか、っていうのを考えられる国民像が理想ですね。ただ勘違いしてほしくないのは、それは僕の理想の日本人像であって、それを全国民にやらせるというのとは違う。それは全体主義ですから。」
―新聞は。
「図書館で読んでますね。ベースで読んでるのが日経と、あと必ず読むのが産経の国際面。僕のほしい軍事・国際政治の記事がいいと思うんです。朝日は朝日でやっぱり朝日新聞だな、と。国内政治の問題とかだと主義主張は嫌いですけど、一番冷静に客観的に分析しているのはやっぱり朝日ですよ。記事の質は群抜いていると思います。…そういうとほかの人に怒られちゃいますけど(笑)」
【
O氏の場合】O氏(28)は、史の会にときどき参加される方である。公務員の仕事をするかたわら、「東京講演会情報」というメールマガジンを週に1度発行している。O氏とは面識があるものの、直接インタビューする機会にめぐまれなかった。メールでの回答と、メールマガジンでの「ひとりごと」に拠ることで、彼のリアリティを探ってみたいと思う。
―保守的な思想・活動に興味をもちはじめたのはどういうキッカケによるものですか。
「学生時代は、学校が嫌い、教師が嫌いだったので、その流れから反日教組でした。でも、反天皇に反対するけど、皇室が好きだったわけではない。ただの反抗期だから。」
「運動の方に来たのは従軍慰安婦がきっかけ。でも、つくる会とは全く関係ありませんでした。最初につくる会に出会っていれば、運動方面には来なかったかも。」
−史の会の他に政治活動・ボランティア活動などをしていますか。
「直接政治活動はしていません。政治活動をする人の、理論的な支援はしますけどね。
キャッチコピー作りはその一環。単に講演会を聞きに行くだけなら色々行っています。」
−史の会に参加する理由(参加することで得られるメリットは?)
「メリットはありません。史の会ってレベル低いから。最近の勉強会で聞くに値するのは長谷川三千子先生だけかな」
「ただ、初心者が最初に来ることのできる数少ない勉強会という意味で、存在価値はあると思う。それ以外の参加する理由は、単に雑談が楽しいから。強いて言えば、人脈作りかな。」
−史の会の参加者について
−話しやすい人の年齢層はありますか? 逆に話しにくい人の年齢層は?
「ご老人方は運動センスがないので話しにくいです。他は殆どOK。」
−史の会参加者と、史の会以外で私的に会うことはありますか?
「他の講演会などで偶然会ったときは、一緒に二次会に行きます。基本的に、特定の人に会うために出かけることはありません。」
−つくる会の「新しい歴史教科書」自体に対する感想
「つくる会教科書は、内容よりも存在自体に意義があると思う。極論すれば、どんな内容であっても問題ない。」
−つくる会本部による教科書採択戦について(何でも結構です、ご自由にコメントをお願いいたします。)
「全然ダメです。つくる会の存在意義については否定しないが、彼らの採択戦に関しては全否定します。」
−今、保守運動に欠けているものがあるとすれば、それは何だと思いますか。
「結果よりも自己満足を求めて運動をしている。これでは結果を出せるわけがない。それから、保守派は「言葉」を軽視しすぎ。設問の中で「保守」という言葉を使っていますが、この「保守」という言葉は私がつくり、私が広めた言葉です。それまで、私たちは「民族派」「右派」と自称していましたからね。もし、今でも「民族派」とか「右派」と自称していたら、あなた(上野さん)は史の会に来なかったでしょう?」
−今、夫婦別姓関連の問題が盛り上がっていますが、積極的にかかわりたいですか。
「積極的にかかわっています。私にとって「歴史」はすでにメインテーマではありません。
これからは夫婦別姓とフェミニズムです。」
−今、あなたの一番興味のあることは何ですか。(政治、思想、にかかわらず、趣味など何でも
OKです)やっぱりフェミニズムと夫婦別姓、そして、「運動論」です。
8
−2−4 市民運動推進派 K氏(23)、Y氏(35)【
K氏の場合】K氏(23)はT氏とともに史の会を立ち上げた設立者である。いただいた名刺には「史の会渉外担当幹事、北朝鮮に拉致された日本人を救う神奈川連絡会議 事務局長」という肩書きがついていた。典型的な市民運動派タイプであると判断した。現在、大学院試験を控えて勉強中である。つくる会理事の高橋史朗氏を尊敬している。K氏には、インタビューといった正式な形ではないが、史の会で何度か話したことがある。その話の内容のメモと、メールでの回答をもとにして、彼のなかでの「草の根保守運動」に対するリアリティを探ってみた。
------
−保守的な思想・活動に興味をもちはじめたのはどういうキッカケによるものですか。
「私の場合は元々歴史が好きでしたが、きっかけは小林よしのりの「ゴー宣」ですね。」
−史の会の他に政治活動・ボランティア活動などをしていますか。
「昨年は
Y氏の選挙の手伝いをやりました。他に北朝鮮の拉致問題・藤沢の行政改革・教育問題など。昔はボランティアで赤い羽根募金とかやっていましたが、なんだか「結果」がしっかりと感じられなかったんでもうやっていません。地元藤沢で拉致問題について運動したり、地元で変な先生がいたら声をかけたり、とかそういうことのほうがやりがいがあります。」−史の会に参加する理由(参加することで得られるメリットは?)
「最初は私と
T氏とHさんで始めましたので、情報交換や会員の交流の場です。」−史の会の参加者について
−話しやすい人の年齢層はありますか? 逆に話しにくい人の年齢層は?
「そうですね、やはり同年代の人の方が話しやすいですね。お年寄りの話も良いですがやはり、話にくいところが有りますね。」
−史の会参加者と、史の会以外で私的に会うことはありますか?
「他の活動「拉致問題や他の教育問題」ではよく顔を合わせます。」
−つくる会の「新しい歴史教科書」自体に対する感想
「内容的には良いですが、やはり、不用意なことは書く必要はないですね。具体的に言うと、8月の東京都の擁護学校の採択の際、都庁に行った時、過激派の連中に天の岩戸の部分を批判された。「内容は神話の中で天の岩戸の前で女性が半裸で踊る話」」
−つくる会本部による教科書採択戦について
「本当に採択をする気が有ったのか疑問に感じました。本気でやるなら市民運動と訴訟活動そして議員に対するロビ−活動をやらないと駄目です。本部はその辺をほとんどやってませんね。これでは4年後も無理でしょうね。」
「つくる会本部は、史の会の掲示板も快く思ってないです。このまえ総会で千葉の支部長と一緒に出て、「(本部のやりかたが)おかしいじゃないか」ということを言ったらヤジを飛ばされましたよ。なんかギクシャクしてるんです。それで、もう知らない!ということで退席しましたよ。結局数字(採択率)がとれなきゃ駄目なんです、学者さんは動いてくれないし。」
−今、保守運動に欠けているものがあるとすれば、それは何だと思いますか。
「やはり、一般市民に受けるような運動をやらないといけませんね。具体的に言うと教
育や福祉や災害対策や町づくりそして経済の問題さらに環境問題です。もう、天皇陛下万歳と言っているだけでは駄目ですね。」
−今、夫婦別姓関連の問題が盛り上がっていますが、積極的にかかわりたいですか。
「そうですね、私は現在の状況から見て、民法改正ではなく、戸籍法改正で対処すべきです。」
−今、あなたの一番興味のあることは何ですか。(政治、思想、にかかわらず、
趣味など何でも
OKです)やはり、教育問題ですね。院の修士論文でも教科書問題や荒れる学校の問題をやりたいと思っています。
【
Y氏の場合】−
保守的な思想・活動に興味をもちはじめたのはどういうキッカケによるものですか「子供の頃から政治に関心がありました。自宅の近くにソ連大使館(当時、現在はロシア
大使館)があり、連日街宣右翼が「北方領土返還」を訴え抗議活動を行っている様子を
見ていました。
小学校の担任の女性教諭は、「日本はアメリカの属国だ。」とか「日本は昔ソ連に酷い
事をしたから何も言えない。」(これは明らかに歴史の歪曲)と言っていました。家に
帰り、母親に「なぜ米軍は日本から出て行かないのか。」と尋ねたところ、「そしたら
ソ連が入ってくる。」と言われ、「ソ連が来るとどうなるの。」とさらに尋ねると、「
日本は共産主義社会となり、あなたの大事なおもちゃや、今手にしているお箸まで、国
の物になるのよ。」と言われ、共産主義が嫌いになりました。」
−史の会の他に政治活動・ボランティア活動などをしていますか。
「北朝鮮による日本人拉致問題、偏向教育の改善、繁華街などの環境浄化運動に取り組ん
でいます。」
−史の会に参加する理由(参加することで得られるメリットは?)
「いろいろな方とお知り合いになることです。」
−史の会の参加者について
話しやすい人の年齢層はありますか? 逆に話しにくい人の年齢層は?
「あまり意識していませんが、民族派一辺倒や大日本帝国にノスタルジーを強く感じてい
る人には、コミュニケーションに限界を感じます。」
−史の会参加者と、史の会以外で私的に会うことはありますか?
「ありますね。」
−つくる会の「新しい歴史教科書」自体に対する感想
「反日左翼の集会に行くと、この教科書には女性史が無く、女性に差別的な教科書だと決
め付けております。従って、日本の歴史の中で、特に転換期などで女性がいかに大きな役割を果たしてきたか、決して男性だけが歴史を創ってきたのではないことについて、一章くらい割いても良いかもしれません。」
−つくる会本部による教科書採択戦について(何でも結構です、ご自由にコメントを
お願いいたします。)
「私はつくる会の会員ではありませんし、なりたいとも思いません。本気で採択戦に勝つつもりならば、もっと地道に、市民の目線で市民運動を推進するべきではなかったか、と思います。」
−今、保守運動に欠けているものがあるとすれば、それは何だと思いますか。
「壇上から人々を見下ろすのではなく、市民と同じ目線で運動を進めて行く努力をするべ
きであります。因みに小生は、一昨年の大晦日を以って保守派の運動を脱退し、昨年より自由革新派を立ち上げました。民族派・保守派が最後に守るべきは「文化」である、という姿勢に対
し、自由革新派のそれは「個人の自由」という違いがあります。」
−今、夫婦別姓関連の問題が盛り上がっていますが、積極的にかかわりたいですか。
「そう願いたいものです。」
−今、あなたの一番興味のあることは何ですか。
「世界に通用する映画やエンターテイメントを、日本から送り出すことが出来るかどうか
。石原裕次郎や勝新太郎が亡くなってから、日本の芸能界のスケールが小さくなってきて
いる印象があります。渡哲也とビートたけしが居なくなったら、いよいよ日本の芸能界
も終わりです。」
8
−2−5 戦争経験者C氏(76)インタビュー実施日は
2001年10月21日。夫婦別姓問題については言及しなかった。C氏(76)をはじめ、戦中派、とよばれる人々はどのようなリアリティで史の会に参加しているのか。想定した人間像では、戦争体験を語り継ぐため「若者とも積極的にふれあう」というタイプだったが、実際は事情が違うようだ。―なぜ史の会へ?
つくる会を知ったきっかけは日本会議にはいったことでしょうね。思想的にはずっと保守です。観艦式で
T氏と出会って誘われたんですよ。史の会へは毎月出席しています。あれはわりといい講師を呼んでくるからね、勉強になる。―飲み会へは?
うーん、最初のうちは出てたんですがね、もう今は出ない、意味がない。あそこで話すことがあまり意味があるようにはね、思えないですよ。若い人とはあまり話しません。
―思想的にはずっと保守とのことですが。
きっかけは大きく上げて二つある。
仕事柄、海外に駐在したんだが
インタビューでは要領を得なかった部分が手紙であきらかになることも多く、以下にその一部を掲載しておく。
―1通目の手紙
現在は、戦中のことはすべて悪をきめつけられておりまして何も語れない時代が長く続きました。ここに来て余りにもみにくい世相となった反省が少しずつ芽生えてきた感がいたします。
戦後の教育をうけられた
50歳代40歳代の人たちは現状が正常と認識しておられ、私たちがよき時代だったと認識している当時のことは誤りだと一顧だにしないのが実感です。(中略)戦後、規範とする教育勅語が否定され、規範を失った日本人はただ動物のように秩序のない集団になりさがってしまいました。添付しております戦争未亡人の歌のこの嘆きの言葉を何とおききになりますか。(中略)プライバシーだ人権だセクハラだと世間はだんだんせまくなり息が詰まるような世情、おおらかな向こう三軒両隣といった時代がなつかしい。
―2通目の手紙
「新しい歴史教科書」について足りないところ
世界中から畏敬と羨望をもって見られている万世一系、百二十六代、二千六百六十一年、連綿と続いている皇室を中心にして歩み、発展してきた日本の皇室、世界に誇る歴史がスッポリと抜け落ちている。
事象の羅列ではなくメリハリをつけ読者にインパクトを与える工夫が足りない。例えば
原始時代にこれほど重点をおかなくてもよいのではないか。古代以降神話から。
聖徳太子の十七条憲法は三条だけの記述だが、解説よりも十七条全文の要旨記述を望む。
元寇について平板すぎると思う。壱岐対馬が簡単に占領となっていたり高麗のかかわりが単に付け足しのように感じる。中国式の白髪三千丈的誇張は望まないが真実味を感じる記述が望ましい。
明治維新についても、もっと肉付けが望ましい。維新の礎となった人物など。
教育勅語 全文記述はよいと思うが、現代の子供たちには理解しにくいと思うので勅語の精神、
13か条の徳目を記述したほうが理解しやすい。孫文の中国革命に果たした日本及び日本人の役割を強調する。
東南アジア独立などについて 日中戦争はじめ東南アジア進出について日本は十派一からげに侵略国と決め付けているが日中戦争(日本は戦宣を布告していない)の発端である盧溝橋事件の真犯人はだれか。
不拡大路線を貫いた日本に対し、通州事件、済南事件、上海事件と拡大の狼煙をあげ続けた中共とその背後のコミンテルンに関して詳述すべきである。
大戦中に大東亜会議が招集され参加国の共同宣言を記述し日本が侵略国ではないとアピールすべきである。
終戦以後、東南アジアの独立のために帰国を拒否して独立軍に加わって地を流した兵士のいたこと。(インドネシア・ベトナム)戦中には、侵略者、英仏蘭を排除し、独立の組織、気概を醸成した日本軍の実績を明確に記述して侵略者という汚名を日本人の意識から払拭すること。
台湾、韓国の植民地時代における教育インフラの整備に最善をつくした日本政策を正しく記述すること。また、台湾、韓国のために汗と血を流した日本人の実績を記述する。
戦後の憲法にまつわる成立の経緯をつつみかくすことなく正しく記述する。
東京裁判の実態を国際法から解き明かす記述をすること。
8
−3 各種エピソード(エスノグラフィー)本研究の目的は、草の根レベルでの保守運動にかかわっている人たちの意識、メンタリティを把握することにある。前項でとりあげたアンケートは質的な方法に拠っているとはいえ、多少身構えて書いている人もいるであろう。アンケート記入時間などを考えに入れれば、全ての回答者が誠実な答えを書いたとは考えにくい。したがって、筆者が
2001年4月から数回にわたり史の会に赴いたときの記録をもとにして、史の会の「世界」を描き出してみたい。いわゆる人類学的な「フィールドワーク」の手法を用いている。【史の会の一日】
横浜市緑区鴨居町。
JR鴨居駅からほど近いのどかな住宅街に白山地区センターは存在する。史の会の開催場所だ。同じ時間には碁サークルやバトミントンクラブなどが活動をしている。地区センターに対して、史の会の活動内容を詳細に伝えているわけではない。歴史に関する勉強会といった位置づけをしている。たいてい土・日の13時に始まる。以下、史の会が開催される一日を時間を追って説明してみる。【署名の依頼、イベント案内】
アンケートでは、「政治活動とまではいかない」という評価が多かった史の会ではあるが、他の場所で政治活動をやっている人は存在する。たとえば「北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会(略称「救う会全国協議会」)」などの活動を積極的に展開している人がいる。
講師による講演が始まる前に、「横田めぐみさんたちを救出するぞ!第3回国民大集会」などのチラシが配られ、拉致問題に関する日本政府の対応の改善に関する署名用紙がまわされる。たいていの参加者は、それほど躊躇することなく署名をする。史の会ホームページのトップページにもリンクが貼られてあることもあって、この活動は史の会内では有名であることがわかる。
常連メンバーではない若い男性が、署名依頼を断ったところを観察していた。当然署名してもらえる、と意気込んでいた活動家が思いもよらず断られて、非常に気まずそうな表情をしていた。「名前と住所を書いていただきますが、情報が漏れたり悪用、転用されるようなことはありませんから」と食い下がっていたが、その参加者はやんわりと最後まで断りとおしていた。
また署名に関してこんなセリフがあった。60歳代前半と見られる女性である。
「この前、高校の同窓会で北朝鮮に拉致された人を支援する署名を頼んだら断わられて、ショックだった。面倒くさいことにかかわりたくないって、警戒してるんです、皆遠まわしに断わるの。本当にがっかりしてしまいました。」
署名というのは、そんなに軽々しくすべきものではないと筆者などは考えるが、史の会では「虐げられているもの」への同情、それを救うために頑張っている人たち(身内感覚?)への応援という意味合いが強いような印象をうけた。署名しない人は少し変わっている、とする雰囲気が存在していたのは事実である。
【座席と質問者】
座席は特に指定されていない。会場に到着した順に座っていくのであるが、たいてい戦中派の方たちは後ろのほうに固まって座っていることが多いようだ。幹部の3人は前のほうに、会の常連と呼ばれる人たちも前のほうに座る。
20代の若者や30代の主婦や女性の会社員は、散らばっていることが多い。史の会以外で親交がないので当然といえば当然であるが、彼らの談笑シーンはそれほど見受けられなかった。かといって特にギスギスした様子もなく進行する。講師によって質疑応答の盛り上がり方はまちまちであるが、必ず発言する人というのは存在する。
50代のG氏である。彼は自他共に認める勉強家であり、歴史・国際政治・軍事など細かい知識も豊富である。また、他の参加者から少しでも異論が出るとたちまち激しい議論が巻き起こる。(これは飲み会で顕著に現れるが) 他に質問回数が多いのが戦中派の方たちである。30代の方たちも時々発言している。しかし20代の質問は少ない。質問事項としては以下のようなものがあげられる。抽象的なものが多いが、自らの生活体験に根ざした質問も存在する。2001年9月24日 現代コリア研究所 佐藤勝巳氏への質問
------
「なぜ金正男を外交カードにしなかったのか」
「韓国が教科書問題で、最近トーンダウンしているが、実際は?」
「なぜ日本と韓国は、互いにこうも違うのか」
「韓国で教科書のことを聞かれたとき、どう対処すればよいのか」
「高校の同窓会で、北朝鮮に拉致された人を支援する署名を頼んだら
断わられ、ショックだった」
「韓国人の根底にあるのは(日本に対する)嫉妬?ジレンマ?」
「なぜ日本の官僚はシナや朝鮮を恐れるのか」
「川崎市は、韓国の都市と友好都市で、私は韓国人が入ってくるのに危機感がある」
「タイ人も韓国人嫌い」
「私は韓国で生まれて、終戦で帰ってきた。創氏改名・徴兵はしていない。自ら好んで変えた人はいるが、強制は見ていない」
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質問に対して講師が明確に答えられないことも多かったが、質問者は満足そうな表情を浮かべていた。
T氏のメールにあったとおり「とにかく皆、自分の意見に共鳴してもらえる場に飢えていたのだな、と今になって思います。」という心情と似ているような節がある。観察をしている限り、質問に対してどれほど正確な答えが返ってくるかということにはそれほど執着しているようには思えなかった。
【よく出てくる言葉】
講師も参加者もよく使うキーワードがある。肯定的に使われるものと、そうでないものにハッキリと分かれる点が興味深い。
肯定的
否定的
この語群をみて、わかるのは「自らを表象することば」が意外と少ないということである。攻撃対象としての「左翼」なり「サヨク」に対する「われわれ」の立場は「普通の感覚を持った庶民」である。「右翼」ということばに対しては、少なからず違和感を抱いているようである。飲み会での発言であるが、子連れの主婦が冗談まじりにこう言った。「こんな右翼ばかりの中で子供が育ったらどうなるかね〜。」もちろん本気で「わたしたちは右翼である」と思っているわけではなく、その場でも苦笑が起こったことから、「わたしたちは普通の感覚をもった(政治や思想に関心のある)庶民にすぎない」という感覚を共有していることが読み取れる。小熊氏の「左を忌避するポピュリズム」では、こうした現象を次のように推測しているが、的を得た表現だといってよいと思う。
------
このような「下からの」ナショナリズム、いわばポピュリズム型運動を、たとえば「自民党・文部省が一貫して企ててきた教科書攻撃の一環」「右翼」「ファシスト」などと攻撃しても彼らには届かないであろう。なぜなら、こうした運動の参加者には、自分たちが、「体制側」であるという自覚も、「右翼」的な「イデオロギー」を信奉しているという意識もなく、「健康」な「常識」=「リアリズム」に従っているだけだと思っているからである。
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「体制賛成側」だと思っていない証拠に、子供を持つ主婦から教育問題での不満が時々出ることがあげられよう。以下は史の会出席の主婦の方が、
WEB掲示板で書いたものである。ハンドルネームと本人が一致しているので、引用する。(1月17日の投稿より一部抜粋)------
投稿者:オバタリン 投稿日:
01/17(木) 16:11「習熟度別指導の大幅取り入れ」など日教組が快く取り組んでくれるんでしょうか。
もともと遠山文部大臣は、ある番組で「理科の得意な子は、もっとその勉強に取り組むことができるんですから」と仰ってて、「ゆとり教育」とは、個人の選択に任せ、得意科目をもっと学べるよう計らったものだと私は解釈してました。しかし学校の状況をみると『クラスで』総合学習として何を行うか・・を検討しているだけで、大臣の話は私の空耳か?もしくは、これまで登校日だった月2回の土曜日の話だったのかしら?とも思ってました。(誰が教えてくれるんだか疑問でしたけど)
はてさて、そうなると教師の数も質も問われることになりそうですし、時間も足りなくなるのではないでしょうか。う〜〜〜んやれるのかな〜〜〜〜。
だって今でさえ、遊びの要素が大きい「総合学習」の時間が多く、それが子どもたちの心の成長に繋がるとして信じて疑わない教師たちが、また授業に時間を費やすことを惜しまずやるでしょうか?まったく文部省はなに考えてるんだろ?
迷惑被るのは子ども達なのに・・。
------
教育問題を考えた場合、単純に「体制」の決断に賛成・反対などと割り切れるものではない。わが子の教育という身近な問題であればなおさらである。日教組・共産党などの左翼運動には激しい違和感を見せるものの、文部省の決定には疑問を感じている、というところだろう。右翼・左翼という軸にはフィットしきれない「母親」としての(庶民としてのリアリズムに従っている)姿勢が見て取れる。
【会終了後の「飲み会」】
史の会は非常にゆるやかな組織であるため、特に入会するための手続き等も必要とされない。しかし敢えて言うならば、会終了後の「飲み会」に出席するかどうか、が常連メンバーになれるかどうかの分かれ目であろうと思う。筆者が出席したのは4回ほどであるが、
「生きられた(
lived)史の会」は飲み会で観察できた。もともと女性の割合がすくないため、男性メインで15人ほどの飲み会となる。(回によって人数はまちまちであるが)ただし、この飲み会には戦中派の方々の顔が見えない。ここでも公民館で開かれた講演会と同じような「言葉」による仲間意識の創造がよりわかりやすい形で行われていた。ただし、ある程度騒がしくなってもかまわない場であることと、本音を言おう、という雰囲気があるため、熱い議論になることもしばしばである。
政治、思想関連のことだけではなく、趣味についての話も盛り上がる。ひとつのサークルのようでもある。コメントを一部ひろいあげてみた。
8
−4 史の会 招聘講師とテーマ一覧平成11年5月 参加者による「南京事件」についての研究発表、ほか意見交換
6月 講師 小関 邦衛 先生(元学校長)
「歴史教科書問題の経緯と採択について」
7月 フリートーキング
8月 講師 野牧 雅子 先生(中学校教諭)
「神奈川県内公立学校教育の問題点について」
9月 講師 荻原 貞夫 先生
(元商社韓国駐在員 「自由主義史観研究会」理事)
「日韓関係史について」
10月 講師 大師堂 経慰 先生(元朝鮮総督府事務官)
「従軍慰安婦問題の問題点」
11月 講師 小林 秀英 先生(チベット文化研究会理事)
「チベットを通して見た日本」
「川崎市平和館」の視察
12月 「足立16中事件について」
報告者 ライオンズ みね子様(被害者生徒のお母様)
12年
1月 講師 松村 俊夫 先生(南京事件研究家 「南京虐殺への大疑問」著者)
「だれでもわかる南京事件」
2月 「川崎市平和館」視察と「改善要望書」提出
3月 講師 小笠原 幹夫 先生(くらしき作陽大学教授)
「明治維新と自由民権運動について」
4月 講師 荒木 和博 先生(拓殖大学教授 現代コリア研究所)
「最新北朝鮮情勢について」
5月 講師 三輪 和雄 先生(「日本世論の会」会長)
「最新マスコミ事情と戦後日本の国民意識・教科書問題」
6月 講師 S ・ I 氏
(会社経営 北朝鮮渡航歴数度のエキスパート)
「スライド・ビデオで見る『自分の目で見た北朝鮮の実態』」
7月 講師 荻原 貞夫 先生・杉本 幹夫 先生
(「自由主義史観研究会」理事)
「日韓史新視点について」
8月 講師 田中舘 貢橘 先生
(元東京教師会長「歴史教科書のここがおかしい」著者)
「教科書よりみた教育の危機」
9月 講師 松村 俊夫 先生(南京事件研究家)
「南京問題をめぐる最近の動き」(ご本人への訴訟事件を中心に)
10月 講師 名越 二荒之助 先生(元高千穂商科大学教授)
「世界に発信する日本の心 いま日本人は何をすべきか」
11月 海上自衛隊横須賀地方総監部 護衛艦「はつゆき」乗艦見学および
横須賀三笠公園 記念艦「三笠」見学
12月 講師 三輪 和雄 先生(「日本世論の会」会長)
「平成12年の回顧および平成13年に取り組むべき課題について」
13年
1月 講師 酒井 信彦(東京大学教授)「チベット問題と日本(中国の侵略主義と日本)」
2月 休会
3月 講師 杉山 徹宗 先生(明海大学教授)
「中国人と付き合うための知識」
4月 講師 加藤 裕 先生(元産経新聞ジャカルタ支局長)
「日本−インドネシアと歴史教育」
5月 「歴史教科書の比較検討会」
6月 講師 西岡 力 先生(現代コリア研究所 東京基督教大学教授)
「最新日韓関係史について」
7月 講師 勝岡 寛次 先生(明星大学講師)
「韓国・中国『歴史教科書』の批判的検討」
8月 フリーディスカッション「歴史教科書・靖国問題等をめぐって」
9月 講師 佐藤 勝巳 先生
「最新日韓・日朝関係と拉致問題」
10月 講師 長谷川 三千子 先生 (埼玉大学教授)
「民主主義とは何なのか」
11月 講師 杉山 徹宗 先生(明海大学教授)
「日本は何をなすべきか」
12月 講師 三輪 和雄 先生 (「日本世論の会」会長)
「2001年を振り返って」
14年 2月 講師 小林 正 先生(前参議院議員・現自由党神奈川県支部副会長)
「日教組・社民党の実態、教育委員会制度の問題点」
8
−5 教科書検定から採択までのうごき本研究の追補として「つくる会」発足、検定、採択までの動きを時系列で示していく。採択が終わったあと、つくる会はその採択率の低さは「マスコミの妨害行為」「左翼の陰謀」によるものだ、と憤慨しているが、ここではそれが事実であったかどうかを検証するというようなことはしない。あくまでも、いつ、何が行われたかを客観的に記述するにとどめておく。
1997年1月30日 |
「新しい歴史教科書をつくる会」発足。 |
2000年4月初旬 |
扶桑社、『新しい歴史教科書』と『新しい公民教科書』の検定を 文部省に申請。 |
2000年5月30日 |
自民党文教部会・教育改革実施本部に「教科書に関する分科会」が発足。 |
2000年7月6日 |
石原都知事、東京都議会本会議で「採択権限につき周知徹底する」と表明。 |
2000年7月28日 |
毎日新聞大阪版にて、つくる会白表紙本に対する初めてのバッシング。 |
2000年8月8日 |
中川官房長官、大島文部大臣、参議院予算委員会で「採択は教育委員会の任務」と表明。 |
2000年10月27日 |
西部邁著『国民の道徳』刊行 |
2001年2月21日 |
朝日新聞、『新しい歴史教科書』の検定合格の可能性を示唆し、中韓両国の反発必至と報道。 |
2001年2月28日 |
韓国政府、『新しい歴史教科書』に憂慮を表明 |
2001年3月2日 |
中国が正式に『新しい歴史教科書』の検定不合格を要請。 |
2001年4月3日 |
『新しい歴史教科書』『新しい公民教科書』が検定に合格。 |
2001年5月10日 |
韓国の国会議員、『新しい歴史教科書』の出版販売の禁止を東京地裁に仮処分申請 |
2001年6月4日 |
『新しい歴史教科書』『新しい公民教科書』が市販。その後75万部以上の売り上げを記録。 |
2001年7月9日 |
日本政府、中韓両国の修正要求に対して事実上のゼロ回答。 |
2001年7月12日 |
朝日新聞、栃木県下都賀地区が『新しい歴史教科書』を採択する方針を決定したと報道。 |
2001年8月7日 |
東京都教育委員会、扶桑社版教科書の採択を決定。 |
同日 |
つくる会事務所に放火。東京都での採択に関係しているか? |
2001年8月8日 |
愛媛県教育委員会、扶桑社版教科書の採択を決定。 |
2001年8月15日 |
採択結果、シェア1%届かず。公立中学の採択はゼロ。 |
2001年8月16日 |
つくる会、採択結果を受けて記者会見 |
・採択までの手順
8
−6 採択結果
|
日書 |
清水 |
帝国 |
教出 |
大書 |
東書 |
日文 |
扶桑 |
地区数 |
平成12年度採択 |
71 |
14 |
8 |
106 |
76 |
190 |
17 |
0 |
482 |
平成13年度採択 |
39 |
15 |
50 |
95 |
77 |
259 |
7 |
0 |
542 |
藤岡信勝 『汚辱の近現代史』 徳間書店
藤岡信勝 『呪縛の近現代史』 徳間書店
1999年 10月藤岡信勝・自由主義史観研究会 『教科書が教えない歴史』 産経新聞ニュースサービス
1996年 8月新しい歴史教科書をつくる会編
『新しい日本の歴史が始まる』幻冬舎 1997年7月小林よしのり『ゴーマニズム宣言』・『新ゴーマニズム宣言』扶桑社、小学館
西尾幹二『歴史を裁く愚かさ』PHP出版
1997年6月小林よしのり・竹田青嗣・橋爪大三郎『ゴーマニズム思想講座 正義・戦争・国家論 自分をと社会をつなぐ経路』 径書房
1997年7月編集長:藤岡信勝 『「近現代史」の授業改革4』 明治図書
1996年6月新しい歴史教科書をつくる会『教科書問題資料集−検定から採択まで』
2001年9月俵義文『「慰安婦」問題と教科書攻撃』高文研
1997年 6月藤原彰・森田俊男編『近現代史の真実は何か』大月書店
1996年 1月小熊英二 『「左」を忌避するポピュリズム』世界
1998年12月号村井淳志 『歴史認識と授業改革』教育資料出版会
1997年12月佐藤郁哉『フィールドワーク
書を持って街へ出よう』新曜社 1992年9月永原慶二『歴史教科書をどうつくるか』岩波書店
2001年7月吉野耕作『文化ナショナリズムの社会学―現代日本のアイデンティティの行方』
名古屋大学出版会
1997年3月
最後になったが執筆にあたり多大なご協力をいただいた史の会の皆様に心からの感謝を申し上げたい。また、常に的確なアドバイスをしてくださった小熊先生にも感謝の意を表します。この論文は、皆様の助力なしには完成しえなかった。
本当にありがとうございました。