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はじめに

今手元に雑誌に載ったレポートのコピーが二つある。班員の一人が参考にな ればと持ってきたものだ。一つは『SAPIO』(小学館)の3月9日号の「政府がヒ タ隠す殺人核施設」、もう一つはおなじく『SAPIO』の5月10日号の「青森、六ヶ 所の危ない話」という題名がついている。両者とも筆者は広瀬隆という作家 だ。思えばこれが全てのはじまりだった。

「殺人」だとか、「核のゴミはある日突然、原爆に変化し爆発する!」だと かいうオドロオドロシイ見出しが並ぶその内容は前者は原子力発電の耐震性に 関する問題。すなわち発電所の立つ岩盤の強度、メカニズムの強度、想定して いる震度の甘さ、活断層に関する調査の隠蔽疑惑などが問題とされている。後 者も同じように六ヶ所村の地質調査に関する疑惑について書かれている。そし て同時にアメリカで発表された論文を基に高レベル放射性廃棄物は、その金属 容器の腐食によって地中に溶け出し爆発の恐れがあると結論づけている。

いずれの話ももし本当なら恐ろしい話だ。同時にその嘘くささも我々は感じて いた。いったいこれらの話は本当なのか?当然湧き上がる疑問を誰しもが持っ た。丁度、規制緩和、行政改革、情報公開のいずれかを選ばなければならなかっ た我々はこの話にとても興味を覚えた。選択を迫られる中で、それぞれの意見 を表明する前に大勢は「原子力発電に関する情報公開」に傾いていた。

我々が情報公開を選んだわけには、もう一つ、行政改革も規制緩和も現在の ようにあまりに情報のない状態ではどういう判断も下せないという思いがあっ た。後の「判断基準としての情報」という考えはこういうところから生まれて いった。広瀬隆のレポートを読むうちにその思いは確信となった。嘘か真かは ともかくとして、このような政府の情報をまっこうから否定するレポートが有 名な出版社から発表されているというのはやはり違和感を覚えざるを得ない。 この違和感で我々は動きはじめた。

調査をはじめてまず我々が着き当たった壁はその問題設定の難しさだった。 原発と言う言葉が先行している状態から「判断基準を得るための情報公開」という ところまで命題は二転三転した。漠然とした原発問題から、原発の情報公開の 有無、専門家の判断へと議論は展開されていった。

この議論が尽くされた後もまた別の議論が我々を待ち受けていた。調査は順 調に進んだが、それは我々が「提案」を盛り込んだためだ。つまりただ単 に調査を報告し、後から無責任なことを言うのは簡単だ。しかしそうではなく 完全に整合性のとれた「提案」を我々は望んだ。話は民主主義論までに及び、 夜更けまで議論は繰り返された。この過程を本文には記そうと思う。

議論の核心はどこまで情報を公開するかということに還元される。これは情 報公開全般で議論になっているところだ。情報公開には必ずデメリットがつき まとう。それは例えば企業秘密だとかプライバシーだとかいわれる。原子力問題 の特殊性はこれらに「安全」という問題が加わることだ。原子力は莫大なエネ ルギーを生み出す代わりに一つ間違えば人間の命さえ脅かしてしまう。情報を 公開することで逆に国民の生命を脅かすかも知れないという逆説は、問題を単 に複雑にするだけでなく、情報公開の本質を我々に教えてくれた。

情報公開反対派の意見を無視し得なかった我々は当初、この意見の是非を判 断する機関を考えた。しかしそこで公開と判断された情報で国民はどうすれば いいのだろうか。この疑問につき当たった時、我々が「判断基準としての情報 公開」ということに帰着したのはいわば必然だった。原子力発電の安全は、原 子力の危険性のゆえにその是非と直結する。従って国民が原子力発電の是非を 判断しようとする時、必要な情報は安全性に関わる情報だ。ある情報が安全に 関わるのか否か判断する新しい機関を我々は考えた。そして安全に関わる情 報は全て公開されなければならない。

以上がこのレポートの概論だ。詳しいことは本文を見て欲しい。



Atsushi Kusano
Thu May 8 15:35:48 JST 1997