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対立した議論:主張その1

 

この項ではまず、原発に関する情報を公開することで我々はどのような利点が 得られるのかを理解していただいた上で議論のきっかけになった私の主張とそ の根拠を議論の中であった反論に答えるという形で説明する。

原子力発電に関する情報を公開することはどのような利点を持っているのだ ろうか。それは次の三点だ。  

まず第一に原子力情報を公開することは国民が常に抱いている原発に対する漠 然とした不安を払しょくできるということだ。ご存じのように日本政府は、原 発は安全であるとして推進的な立場を取っている。しかし日本政府は安全であ るというだけで原発の安全性を立証するようなデータを公開していないという のが残念ながら今の現状だ。これでは国民が「実は原発は危険なのではないか」 と疑いの念を持つのは当然であろう。仮にこのような疑いが杞憂で事実無根で あったとしても、政府が原発に関する情報を非公開にすることからこの疑いが 生まれていることは間違いない。現に原発の近くに住んでいる住民の間では原 発についての不安なうわさやデマが流れることがあるというし、青森県六か所 村にある核燃料再処理施設や高速増殖炉「もんじゅ」が技術的に未熟でそのう ち大事故を起こすという論文も多数出ている。このような危惧や住民の漠然と した不安を打ち消すにはやはり政府は原発や再処理施設は安全だというデータ を実際に公開する必要があるのではないか。そのような情報が公開されてはじ めて国民は原発の安全性を信用し、安心することができるのだ。これが原子力 情報を公開する利点の一つ目だ。 

第二に日本政府に核の利用を平和目的だけに限らせ、絶対に軍事目的には使わ せないようにすることができるということだ。これは説明するまでもなかろう。 原子力情報を公開することで核の取扱いがガラス張りになり国民や世界が監視 することができるからだ。万が一、日本政府が核を軍事目的に利用しようとし ても世界や国民が監視しているためにそのようなことはできない。原子力の開 発利用はその歴史が示すように、もともと軍用に端を発している。そのため原 発で平和的に利用していた核を国家にその気さえあれば逆に軍用に転用するの は容易であるという考え方が一般的だ。たとえば槌田敦氏は『1995年、日 本は核武装する』(宝島30 1993年11月号)の中で東海村の高速増殖 炉燃料の再処理工場(RETEF)から取り出される高純度のプルトニュウム 利用は、容易に核兵器に利用できることを指摘する見解も表明している。また 海外からも日本のプルトニュウム利用の背後には核武装を目指す野望が隠され ているのではないかという指摘が、寄せられるようになっている。このような 日本政府にとって不名誉な疑念も原子力情報を公開しないということからくる 部分もあると考えられるので、このような疑念を晴らすためにも日本政府は情 報を公開し、進んで自らを国民と世界に監視させるようにしなければならない。 いわば原子力の情報とは日本政府が核を軍事目的に利用しないことを証明する 時に国民や世界に差し出す担保のようなものなのだ。

第三に原子力情報を公開することで万全の安全対策が可能になるということだ。 これも先の第二点と同じ考え方で情報の公開によって安全対策について国民の 厳しい監視が可能になるからだ。原発の事故などの情報を詳しく公開すること で国民自らが原発に設計上のミスはなかったか、安全管理体制は万全だったか などを調査し、不備がわかったら政府や企業に改善を要求することができる。 企業や政府にとってそのような要求は耳の痛い話であろうがそれを謙虚に認め 改善することでよりよい安全対策が可能になるのだ。アメリカのスリーマイル 原発事故、旧ソ連のチェルノブイリ原発事故、そしてスウェーデンなどの国が 国民投票によって原発から撤退するなど、原発の安全性が疑問視されている今 日、絶対に事故を起こさないよう万全の安全管理体制がなされなければならな いのは言うまでもない。それを可能にするのが情報公開なのだ。ここでもまた 原子力の情報とは政府が国民に安全運転を約束する担保としての役割を持って いる。 

さて、原子力に関する情報を公開することの意義を三つほど述べたがもう一 度まとめておこう。

  1. 安全であるというデータを国民に示すことで国民の漠然とした不安を払拭 できる。
  2. 日本政府に核を平和目的の利用だけに限定させることができる。
  3. 企業や政府に万全の安全対策をとらせることができる。

ここで原子力に関する情報を公開することの意義は他の情報公開の分野、たと えば閣僚の所得の公開や日本のODAの使いみちについての情報公開の意義と はその重要度が全く違うことに気づいてもらえないだろうか。閣僚の所得や ODAに関する情報公開が重要でないと言う訳では決してないが、原子力の情報 を公開することによって安全対策を万全にさせ原発の事故を起こりにくくした り、日本を核武装から守ることができるのだ。つまり閣僚の所得やODAに関 する情報公開とは違い、原子力の情報公開は直接国民の健康や生命の安全を守 ることになるのだ。私は原子力に関する情報公開の意義を先で三点ほどあげた がその究極の意義とは国民の健康や生命の安全を守れることにあるのだと言い たい。 

次に例の議論の話に入る。先ほど原子力に関する情報の公開は国民の健 康や生命の安全を守ることができるということを述べた。その点を踏まえた上で 次の議論に進みたい。第三者機関を作るという意見で一致した後になされ た議論とはその第三者機関がそれぞれの情報の公開、非公開を決定する際に公 開する情報と非公開にする情報との境界線をどうするかという点だった。こ の点について私は次のような主張をした。

「公開することで国民の健康と生命の安全を守ることができる原子力情報はた とえそれがいかなる企業秘密であろうとも公開するべきである」

この主張については説明せずとも先に書いた原子力に関する情報公開の意義を 思い出していただければ分かると思うが、公開によって日本政府に核の平和的 利用を徹底させたり、万全の安全対策を立てさせたりできるような重要な情報 を企業秘密という理由で非公開にするべきではないということだ。

このような主張がなされたとたんにつぎのような反論があった。それは

「推進派の企業や政府と反対派の国民の間に立つ第三者機関なんだから中立的 な立場になければならないのに『いかなる企業秘密であっても公開すべきだ』 というのはあまりにも国民側に偏り過ぎているのではなのではないか」

というものだった。しかしここで問題にしなければならないのは第三者機関 が企業よりか国民よりかという事ではない。大切なのは「国民の健康と生命の 安全」と「企業秘密」のどちらが優先するのかという点だ。これはいうま でもなく前者であろう。日本は憲法で国民の生きる権利を絶対不可侵の権利と して保証している。公開することで国民の安全を守ることができる情報を企業 秘密という理由で非公開にすることは国民の生存権を侵害する行為なのでこの 場合、企業秘密は非公開事由に当たらない。「国民の健康と生命の安 全」を「企業秘密」に優先させ国民の生存権を尊重するという、より重要な問 題をクリアーした結果、第三者機関が国民よりになってしまうのはしょうがな いというよりはむしろ必然的に国民よりになってしまう。なぜなら主 権者である国民の生存権に優越するような非公開事由はあるはずがないからだ 。(日本が王政国家や独裁国家なら別だが...)

しかし誤解しないでほしいのは国民よりだといったって第三者機関の構成員が 原発反対派の専門家だけからなると言う訳ではない。後の項でも説明するが構 成委員には推進派の電力会社、政府の専門家の人達やもちろん国民代表の原発 反対派の専門家にも参加してもらってそれぞれの立場から意見を出し合い公開 の是非について審議してもらうのが望ましい。だから立場が国民によっていたっ て推進派の言い分は十分聞き入れられ公正に審議される。

つぎにこのような反論があった。

「国民の健康と生命の安全を守るために公開した原子力情報が核ミサイルを製 造しようとしている国家や核テロリストに悪用されて反対に国民の生命を脅か す危険性はないのか。」

というものであった。この危険は確かに十分ありえる。実は原子力情報には公 開することで国民の安全を守ることができる情報とは逆に公開しないことで国 民の安全を守ることができる情報というものもある。前者は原発の事故などの 情報でありこれは公開するよう政府に勧告すべきだ。後者は核兵器に転用する ことができる技術などの情報であり、これは第三者機関が慎重に検討した上で 非公開にするべきだ。このように書くと企業秘密全面公開と言っていた私が急 に非公開にすべきだなどと矛盾したことを言っているように思えるかもしれな いが決してそうではない。私は原子力情報に関する情報公開の究極の目的とは 国民の生命を守ることだと考えている。だから公開によって核ジャックや核拡 散の問題が発生すると考えられる時は国民の生命を守るために逆に企業秘密で も非公開にされることはあるのだ。

ところで、これら2つのタイプの情報はそれぞれ公開することが国民のため になるか、ならないかのどちらかしかないから公開か非公開かの判断は比較的 優しい。しかし公開か非公開かの判断が難しいタイプの原子力情報というもの がある。それは一つの情報に、公開することで国民の安全を守ることができる 要素と公開しないことで国民の安全を守ることができるというふたつの要素が どちらもあると考えられる情報だ。このような情報にはたとえば核廃棄物 の輸送ルートなどの情報がある。ルートを公開してしまうと核ジャックにね らわれるという見方や逆に日本のような国ではルートを公開してしまって衆人 監視の上で輸送した方が安全だとする見方もある。このようなタイプの情報 は第三者機関に公開か非公開かの非常に難しい判断を強要するであろうが考え 方は前の二つと同じだ。つまり

    公開、非公開のどちらが国民の健康と生命の安全を守ることができるか

ということだ。だから公開した方が国民のためになる要素が多いと考えた ら第三者機関は公開を決定すべきだし、逆に非公開の方が国民のためになる要 素が多いと考えたら非公開にすべきだ。確かにどちらの要素がより多いか の判断は難しく第三者機関の専門家達の間で多いに論争されるであろう。しか し、考え方は単純で公開、非公開どちらの方がより国民の安全を確保できるか という一点なのだ。

さてこれまで散々「国民の健康と生命の安全」だの「生存権」だのと言ってき たがここまで私が国民の安全にこだわるのは原発事故の特殊性のためだ。情報 公開で原発以外を取り上げていたならこうもうるさく国民の安全確保のための 情報の完全公開を主張しなかったであろう。しかし我々の扱っている問題は原 発であり原発の最大の問題はその事故の甚大さなのだ。原発の事故の被害がい かに甚大なものであるか旧ソ連でおっこったチェルノブイリの事故を例にとっ て考えてみよう。

市川龍資 寺島東洋三編著 「チェルノブイリの放射能と日本」 より要旨抜粋

いかがであろうか。チェルノブイリ事故は国土が広く人口密度も低い旧ソ連の で起こったということに注意してもらいたい。国土が狭く人口密度が高い日本 でこのような事故が起こった場合このような被害どころではすまないかもしれ ない。原発はひとたび事故を起こすと何千、何万人という被ばく者を出し放射 能によって何百年という歳月の間、日本の広大な土地が、人が全く住めない廃 虚となってしまう可能性を持っている。このような恐怖を抱える原発は当然万 全の安全管理体制で運転されるべきだ。原発においてはこのような悲惨な事故 を考えるとどんなに国民の安全を強く主張しても強過ぎるということはないの ではなかろうか。

原子力情報の公開の究極の意義は何度も言うように国民の健康と生命の安全 を守ることだ。「公開することで国民の健康や生命の安全を守ることが出 来る情報の完全公開」を求めることはそれだけ強く政府や企業に原発の安全対 策を徹底させることにつながる。日本の原子力発電所が大事故を起こし放射能 が漏れたときその安全管理体制の杜撰さと設計上のミスの実質上のつけを払わ されるのは企業でも政府でもなく日本の国民なのだ。それなら国民は自分 自身を守るためにも政府に強く情報の公開を求め、原子力発電を監視して万が 一の事故が起こらないように予防線を張るべきなのではないだろうか。



Atsushi Kusano
Thu May 8 15:35:48 JST 1997