日米経済摩擦は鎮静化したのか?

 

草野研究会3班 田中香輔 木原稔 小山功 大浜あすか 今村彰延 三宅周兵

 

 日米経済摩擦が、メディアでどれくらい取上げられているかを調べてみた。(資料:朝日新聞における日米経済摩擦に関する記事数のグラフ)その結果、96年は以前に比べて、記事数が著しく減少しているといえる。一見、日米経済摩擦は沈静化したように見えるが、本当のところはどうなのだろうか。

 

日米経済摩擦について(大浜)

 経済的側面からのみ考察すると、日米摩擦の原点は貿易不均衡にある。理論的に言えば、日米に国間の貿易不均衡、つまり貿易ギャップは存在していても、世界全体で均衡がとれていれば、問題にならない。しかし、この貿易ギャップも一定の割合を突破して大きなものになると、貿易赤字国の産業や企業にとって耐え難いものになりることも事実である。たとえば、日米貿易ギャップの大きさは、日本の対米黒字比率(日本の対米黒字額を日米輸出入額合計で割ったもの)が20%を超えると、危険な水準に達すると言われた。

 

日米経済摩擦ー2つの型

日米摩擦を産業の視角から見ると、明確に2つの型に分類できる。

アメリカの産業について国際競争力の弱いものと強いもの、といった2つの型である。摩擦の焦点となっている典型的な例を挙げれば、前者は半導体産業であり、後者は建設業である。

 

・半導体型

アメリカは行成貿易・管理貿易という名の下に保護主義を主張し、優位に立つ日本製品に対して事実上の輸入制限を断行する、ということ。いわば、自由・無差別・多角化というGATT(関税及び貿易に関する一般協定)の原則に反する後ろ向きの政策を取っている。

・建設型

強力な国際競争力を背景に、貿易相手国の門戸を開放し、日本市場の拡大を求めてくる、ということ。場合によっては米国通商法301条(不公正貿易慣行に対する制裁条項)を援用し、力によって市場解放を達成しようとする。

 

日米摩擦が生まれる構図

 日本もアメリカも市場経済の国である。市場経済のルールとは、市場で自由競争を行い安価で良質の商品・サービスを販売し、マーケット・シェアを拡大し、最大の利益を獲得た企業が勝利すると言うことである。この市場原理が機能する限り、経済摩擦は生じないずである。

 ところが、例えば自動車産業についてみると、1980年11月、アメリカの政府機関である国際貿易委員会(ITC)において、日本車はダンピングしていないという「シロ」裁決を獲得したにも関わらず、日米貿易摩擦の対象になり、1981年4月から1994年3月まで、対米輸出については自主規制が継続された。

 なぜ、日米自動車戦争が火を噴いたのか。デトロイト、つまりアメリカの自動車産業の主導権を握るGM、フォード、クライスラーのビッグスリー、巨大多国籍企業は、経済の舞台で敗北したにも関わらず、政治の舞台で巻き返しをはかり、米国連邦政権と連帯プレーを演じて、日本に対して政治的圧力を行使した。

 つまり日米経済摩擦の本質は「経済摩擦」ではなく、「政治摩擦」であった。

 

アメリカ産軍複合体の拡大

 日米経済摩擦がアメリカの政治権力構造と深く関わりを持つとすれば、有名な産群複合体の論議をさけて通ることはできない。

「産軍複合体」(アイゼンハワー大統領の言葉)

それは完全なる組織体として、中央の指令で動く存在ではない。それは、国防総省と兵器の大メーカーを越えるはるかに巨大な無形のコングロメレーション(複合体)である。それは、選挙区に金をばらまく軍事施設の存在によって、政治的に利益を受ける議員、軍需工場の労働者、その所属する労組、国防総省の資金援 助を受ける研究期間や大学の科学者も含む。さらに、それは軍事基地を提供する地主、そのための食料品店、自動車セールスマンから軍人を顧客とする各種店舗にまで拡大される。

 

 この巨大な無形のコングロメレーションの中核は、産軍企業である。その主力は売上高の大半を米国国防総省の発注に依存する、巨大航空宇宙会社を中心とする軍需会社である。アメリカの巨大多国籍企業は、程度の差こそあれ、産軍企業の性格を持っている。例えば、デュポンや、コカコーラ、イーストマン・コダックなどもそうである。1960年代にアメリカのビッグビジネスは、対外直接投資を行うことによって多国籍企業に変身したが、それと同時に世界最強の軍事力と政治力を誇る連邦政権の対外政策に影響力を行使し、米国政権との連帯戦略を展開して利益と成長をはかってきた。1970年代後半、相対的に政治パワーを強めた連邦議会に対しても、猛烈なロビー活動を展開し、強力な産業・政府・議会複合体を形成するにいたった。

 

米国の産業・政府・議会複合体の関係

 アメリカの産業・政府・議会複合体の意志は全く一体であり、米国政府と議会で意見が異なるわけではない。ただ、米国政府の方が外交辞令で表現がソフトであり、米国議会の主張が自国民向けのメッセージであり、本音であり、厳しいという差違があるにすぎない。

この複合体の中核に存在するのがアメリカ産業であり、各産業の主導権を握っているのが多国籍企業であり、これらの主要企業が多国籍企業グループとしてのパワーを形成している。この多国籍企業グループは、その利益を最大にし、その成長を維持するためり、最も有利な内外政策を提案し、世界最強の軍事力と政治力を要する米国連邦政権に圧力をかける。また、最強の産業ロビイストを通じて、米国連邦議会に対しても大きな影響力を行使している。

 

利益団体

 日米摩擦の歴史を振り返ってみると、これまでその原点である日米貿易ギャップをいかにして自国に有利なかたちで埋めるかの両国の攻防戦であったといえる。両政府の背後には、日米の多国籍企業が存在しており、アメリカの競争力優位の産業・企業は対日市場の開放を要求し、逆にアメリカの競争力劣位の産業・企業は、2ちょんせいひんの対米輸出を阻止することに腐心した。

 ここで、日米貿易摩擦は利益団体による圧力が大きな原因となっている例を紹介する。

 

日米コメ摩擦

1993年12月、ウルグアイラウンドの合意により決着。日本は向こう六年間関税化を猶予され、国内消費量の4〜8%(ミニマム・アクセス=最低輸入量)を輸入することになった。政府の講評したコメ関税化特例扱いに関するドウニー調整案によると、第一に、関税化の猶予期間中も関税率年々下がり、6年間で1 05%低下する。第二に、7年以降のミニマム・アクセスは8%以上に拡大する。

アメリカのコメ輸出量は297万トンで、世界第2位の地位にあり、これは世界コメ輸出量全体の20%をしめている。コメは米国にとって重要な輸出農産物である。アメリカ農業の政治パワーは、軍事産業と並ぶほど強大といわれている。しかし、アメリカでは農民の人口比率はわずか2%程度である。しかし、実際には2%という数字以上に、アメリカ農業グループは大きな政治力を発揮している。

それは、RMA(全米精米業者協会)によるものであり、RMAは米国政府筋と密接な関係を保ち、コメ関係業者の利益を計っている。RMAは、1986年9月、日本のコメ輸入禁止に対して米国通商法301条を適用せよ、と米国通商代表部(USTR)に提訴したことで、にわかに脚光を浴びたグループである。RMAは1899年設立、現在は27の農業協同組合と精米業社から構成されており、 傘下の農協による米生産はアメリカ全体の65%を占めている。また、注目すべ きなのは、1984年には23社の準会員が加わったことである。その中には輸出業者がふくまれ、アメリカのコメ輸出を支配する穀物メジャーズも含まれていると推定される。無名のRMAが日本のコメ提訴で一躍有名になり、米国政府に大きな影響力を行使できた背景には、穀物メジャーズのパワーがあったとおもわ れる。

 

主な日米摩擦

 日本の本格的な摩擦は、1970年代から開始された。ニクソン政権時代の日米繊維交渉に始まり、カーター政権時代のカラーテレビ、鉄鋼、農産物交渉、電電解放、自動車戦争にまで及んだ。これは国際競争力で対等の地位に立った日米間の摩擦問題であり、経済力では部分的にアメリカを凌ぐに至った日本が、アメリカの政治力の前に譲歩した事例である。

 

・日米繊維摩擦

1970年代、日本の化合繊維業は、ナイロン、テトロンをつくる東レ、帝人、旭化成を要する花形産業であり、アメリカのデュポン社を先頭とする化合繊産業とがっぷりと4つに組んで対決し、一歩も譲歩しなかった。1972年1月の日米政府間繊維協定によって、日本製繊維の対米輸出は厳しい数量規制を受けることになった。この繊維紛争は、日本の沖縄返還交渉と時期が重なっていたため、佐藤・ニクソン首脳会談をめぐって密約説が唱えられ、日本が繊維交渉で譲歩して、アメリカから沖縄を返還してもらったのでは、という疑惑を生んだ。

・鉄鋼・テレビ

1977年、カーター政権のもとで日本の鉄鋼とカラーテレビの対米輸出が規制された。鉄鋼についてはトリガー価格制度でダンピングが規制され、カラーテレビについてはOMA(市場秩序維持協定)という日米政府間協定により、対米輸出が規制された。

・日米自動車摩擦

・日米半導体摩擦

・日米建設摩擦

この摩擦は、競争力の強いアメリカの建設業が、政治力を駆使して日本建設市場の開放を要求したことによって生じた。アメリカ側の主導権は、巨大な多国籍建設会社が握っていると見ていい。\\

この摩擦は、1986年5月、当時のC・C・ヤイター米国通商代表が日本側の三塚博運輸省に対して、関西新空港へのアメリカ建設企業の国際入札を要求したことに始まった。アメリカは日本の建設市場開放を求めて、相互主義の原則を振りかざし、12月には、1988年度包括通商法を可決し、日本など「不公正な建設市場閉鎖国に対しては、公共事業の全面的な発注禁止」といった対日制裁条項をもりこんだ。さらに、米国政府は、日米建設協議を有利に展開するため、米国通商法301条を発動すると圧力をかけ、1988年5月には難航の末、一応日米合意が成立し、前期の日本建設会社の締め出しは、1989年度からは削除された。1988年5月の「日米建設合意」には「2年後にその効果を検討する」という約束があり、これによって、1990年5月から見直しが協議された。

すでに1989年11月には、カラー・ヒルズ米国通商代表は、日本の建設市場は閉鎖的という「クロ」裁定を下したが、建設協議を促進するため、301条に基づく制裁期限を1991年5月末とした。ぎりぎりの6月1日、日米建設協議は決着した。

・日本製工作機械

1986年11月。対米輸出の自主規制。87年7月、東芝機械のココム違反事件。

・牛肉・オレンジ

1988年6月、3年後に自由化ということで日米合意が成立。91年4月から牛肉・オレンジの輸入自由化がスタートした。

・日米コメ摩擦

 

・MOSS協議

1985年から日米間で開始された協議方式で、当初電気通信、衣料品・医療機器、エレクトロニクス、林産業の四分野を対象としていた。これに86年5月の日米首脳会談において自動車部品を含む輸入機器分野を協議で取り上げることに 合意し、86年12月にはスーパーコンピューターがエレクトロニクスMOSSの場で協議対象とされることになっていた。87年3月のMOSS協議の枠組みの重要性を確認し、アメリカ側が各分野での対日輸出の伸びを評価した。

・日米構造協議

1989年7月、パリで開かれた日米首脳会議でブッシュ大統領の提案により正式に開始が宣言された。目的はマクロ面での日米政策調整を補完し、保護主義的な制裁措置を回避することになった。同年9月東京での第1回会議でアメリカ側 から日本の構造問題討議のテーマとして、1 流通システム 2 内外価格差 3 株式持ち合い 4 土地利用 5 独占禁止法運用 6 貯蓄・投資バランス、が提案され、日本はアメリカの構造問題討議のテーマとして、1 貯蓄・投資バランス 2 企業の投資行動 3 輸出規制 4 研究開発 5 労働の質的向上 6 企業の経営戦略の改善、が提言された。同年11月、ワシントンでの第2回会議でアメリカ側が日本の排他的商慣行や系列化など流通システムの改善を始め、投資障壁の除去を強硬に迫ったこともあり、会議は目的に向けて進展するどころか逆に日米間の溝の深さが明らかになった。リビジョニストによる日本特異論がこれを増幅したことも否めない。90年2月下旬東京での第3回会合、ワシントンでの第4回会合を経て、6月下旬第5回会合で大筋決着した。

・日米包括経済協議

日米構造協議に続く2国間経済協議。日米間の貿易・投資を促進するため、クリントン大統領は、日本の経常収支黒字を3年後に国内総生産の2%以内に削減すること、製品輸入をGDP比で3分の1増やすことなど、結果重視の対外経済政策を強く日本に迫った。日本側はこの要求を危険な管理貿易として批判したもの の、市場開放に関する分野別の協議で、公約にはしないとの条件付きで数量指標を導入することで妥協した。1994年10月1日、政府調達、保険、板ガラスの分野で合意にこぎ着けた。しかし最大の争点である客観基準を数値目標とするかどうかは日米で解釈の違いが生じ、規制緩和、競争政策分野では合意できず棚 上げとなった。その後は、自動車、半導体、保険、政府調達など分野ごとの協議が続いた。

 

スーパー301条(廣澤)

スーパー301条の成立過程

 いわゆるスーパー301条は、1974年制定の通商法301条に起源をもつ。この301条は、諸外国の不公正な貿易慣行に対して対抗措置をとる権限を大統領に与えていた。80年代になると貿易赤字は増大し、世論からも議会からも貿易赤字に対処する行動を政府に求める圧力が非常に高まっていた。そこで85年、4種類の対策が提言された。第一は、ドル高を転換するため諸外国政府と調整手段をとること。第二は、財政赤字を削減し、通貨政策を緩和すること。第三は、貿易赤字の大きな比率を占める基本的な工業製品の輸入に対する制限を課したり強化すること。第四は、『外国の不公正な貿易障壁を除去するための積極的な政策の採用』である。つまり、政府は、貿易赤字の是正には成長促進、輸出強化をする必要があると認識しており、後者に関連する提言の第四を実現したのがスーパー301条であった。これは88年包括通商競争力法によって、それまでの通常の301条を大幅に改正する形で成立した。これは90年までの時限立法であったため、一度は失効したが、その後も不公正な慣行・障壁は続いているとして議会などから復活を望む声が高まり、94年3月に大統領命令で復活した。これも2年限りの時限的なものであったが、翌95年9月にはさらに2年延長する大統領命令にクリントン大統領は署名した。

 

運用法

 スーパー301条の諸規定によって通商代表部(USTR)は、米国の輸出にマイナスの影響を与えている不公正な貿易慣行、障壁について毎年3月に年次貿易障壁報告書にまとめることとされている。それに基づいて、優先交渉国(priority country)および優先交渉慣行(priority practice)を特定し、大統領は、18カ月以内にそれら諸国にその慣行を停止させるため、指名された諸国と交渉に入らなければならない。実際には、通商代表部が指定された国との交渉にあたる。この交渉が決裂すれば、報復が行われることになる。ただし、通商法の他の条文によって、大統領がもしこうした措置が米国の経済的国益に沿わないと考える場合には、この措置をとらないでもよいという自由裁量権を与えられている。よって、対象国の特定、交渉、報復のいずれの段階においても大統領は事態の進行を停止することができる。

 

問題点

 最も重要な問題点は、WTOの規定に違反しているということだろう。WTOでは、スーパー301条が持ちあわせているような一方的な報復措置を禁止しているからである。WTOのルールでは、貿易・通商に関する紛争は全加盟国が合意した紛争解決手段によって解決を図らなければならない。さらに、そこで決まった解決案に相手国が従わない場合、提訴国は対抗措置を、その解決案に従って提訴案件と同じ分野でしかとることができない。よって、スーパー301条のように紛争当事国が一方的に相手国の協定違反を断定することは、WTOの紛争解決手続きの利用義務に反している(紛争解決協定第23条)。

 

WTOとスーパー301(小山)

 アメリカが第2次大戦後から掲げてきた自由貿易の立場と、1985年9月にレーガン大統領が掲げた「新通商政策=公正貿易、相互主義」の考え方には、ちぐはぐな面があると考えられ、それが日米間でも問題として取り沙汰された。その二つの立場は、ダブルスタンダードと言われるものである。そのダブルスタンダードに基づくアメリカの姿勢を見る上で、また、アメリカがその二つのスタンダードの間のギャップをいかに巧みに隠そうとしてきたのであろうか。それらを語る上で、WTOとスーパー301条に触れることで、アメリカの2種類の経済紛争解決アプローチを見ていくことは重要であろう。

 

WTO

 1995年1月から、ガットウルグアイラウンドの決定事項に基づき、新体制WTOがスタートしたことは記憶に新しいことである。ガット及びWTOの基本方針というものは、世界貿易の活発化・自由化である。従って、アメリカがWTOに提訴する時の戦略は、「貿易相手国に対し、市場開放や不公平な商慣習などの、閉鎖性の解除を求める」ということであろう。

 

そこでまず、WTOに貿易問題を、ある国が訴えるときの過程を述べてみよう。

  1. 二国間で貿易問題の協議が開始され、60日以内に解決しない場合、当事国は、小委員会の設置を要請できる。紛争解決機関は30日以内に設定される。
  2. 全加盟国を構成員とする紛争解決機関の設置
  3. 紛争解決機関が小委員会を設置し、小委員会の報告に基づき、勧告等を採択する。
  4. 勧告などの実施妥当期間を決め、それ以内に合意されない場合は、提訴国による対抗措置の要請と、承認が行われる。

 尚、(1)〜(4)の間の意志決定方式は、ネガティブコンセンサス方式と呼ばれる一国でも賛成する国が有れば、請求事項が採択されるという、積極的な方式である。また、(2)〜(3)の間の機関は15カ月以内と決められている。

 

 以上の様に、WTOは単なる協定であったガットから、機関として発展した物であるため、紛争解決機能もネガティブコンセンサス方式を導入するなど、大幅に強化されている。ガット時代には、この機能が非常に弱く、また、解決までの時間を多く要したので、日米間の紛争にはあまり関わらず、ほとんどその枠外で協議されてきた。その例として、日本の自主輸出規制、数値目標の設定、などがあげられる。

 だが、WTOになり、紛争機関が強化されると同時に、今までアメリカが用いてきた、一方的措置、数値目標の設定、自主輸出規制などの方策は禁止された。WTOの協定に乗っ取った範囲のみでしか、対抗措置が取れなくなってきているのだ。この点について、アメリカはWTOの範囲で対抗措置を取るか、強行的に301条を行使するという方策に出るだろう。301条に関しては次章にゆずる。

 ここでアメリカが、WTOに提訴する際の目的に目を向けてみたい。WTOの目的というのは、基本的に経済の自由化である。つまり、アメリカ企業が他国に参入できない時に、市場開放を求めるという際に、アメリカはWTOへの提訴に踏み切るであろう。WTOへの提訴は、自国の市場を守るときには使いようがないと言える。従って、80年代に多くの日本企業がダンピングで訴えられたが、当時にもしWTOが在ったとしても訴えられなかったであろう。尚提訴の具体例として、フイルム問題や、蒸留酒の関税問題があげられる。

 以上のように、アメリカがWTOにより日本を訴える時は、日本の市場を解放させようとする場合で、なおかつ自国が勝利する確立が高い時か、火急の重要性を持たない物に限られるだろう。それは、WTOの対抗措置の方法と言う物が、301より弱いという点から判断できる。

 クリントン政権は1995年に、WTOに対して懐疑的な議会をなだめるために、「連邦控訴審判事によって構成されるWTO紛争処理検討委員会が、アメリカに不利な裁定が下されたパネルが5年間に3回在った場合、米議会が大統領にWTO脱退を勧告できる」という法案を提出した。この様に、世界貿易の中心国であるアメリカがこのような機関を設置してしまうことによる影響でWTOが弱体化しないかという議論がある。この議論の行方とアメリカ議会の出方が今後、注目される。

 

ケーススタディー

日米半導体摩擦(大浜)

 1987年、日本の半導体メーカーは、日本の国内需要の95%以上を供給し、アメリカの市場の25%以上をしめた。アメリカは、半導体の純輸入国になり、半導体市場はアメリカよりも日本の方が大きいという状態になった。アメリカの半導体産業は、初期には国防総省の多額の資金援助を受けていたが、その重点は厳密に軍事上必要性のあるものだけに限定され、民間の要求とはかけ離れたものになった。民需での競争力を失ったのは当然であり、次第に軍事面でも、アメリカの半導体は日本に対して競争力を失うに至った。やがてアメリカの国防は、半導体の先端技術において外国の供給元に左右されるのではないかという危惧を抱き、摩擦に至った。

 この結果、1986年9月に管理色の濃い日米半導体協定がむすばれた。この協 定により、アメリカは価格設定段階にまで介入し、日本メーカーの収益状況まで監視することになる。また、日本の海外工場経由の輸出にまで規制をかけた。しかしこれは、ECから日米による市場支配という警告を招いた。また、新製品の開発の段階から、早くも監視の網がかけられるようになった。

 米国政府は、日米半導体摩擦では、自主規制というかたちを要求しなかった。それよりも、もっと厳しい政府間協定の形を取ったのは、安全保障や国防問題と関連する半導体のような戦略的ハイテク分野においては、日本を押さえつけて、主導権を回復したいというアメリカの執念があったと見て良い。

 1986年12月には、当時のクレイトン・C・ヤイター米国通商代表は、日本製半導体の第三国市場でのダンピングに警告を発した。87年3月、米国上院本会議が日本の協定違反を理由として、レーガン大統領に対日報復措置の実施を求める決議を全会一致で可決した。大統領は通商法301条を発動し、日米半導体協定違反として日本側に対する報復措置を決定した。実際にパソコン・カラーテレビ・電動工具の三品目に100%の報復関税をかけた。

 しかし、1994年12月16日付の日本経済新聞によると、日本市場における外国系半導体のシェアが、日米半導体協定で明文化された20%を越える状態が1年以上も続き、定着をしめしたため、通産省も「日米半導体摩擦は事実上終息した」と見ている。

 

日米自動車摩擦(三宅)

 1993年4月の日米首脳会談において、日米構造協議にかわる新しい経済協議の枠組として「日米包括経済協議」が提案され、「分野別協議」「マクロ経済問題」「地球規模の協力」の3つを柱とし、交渉を開始した。分野別協議のなかの最優先課題が「自動車・同部品問題」であった。

アメリカは、慢性的な貿易赤字を解消するため、対米貿易が輸出超過となっている日本に対して再三圧力をかけてきた。かつては日本の輸出を抑えさせるため「自主規制」を押しつけるという構図であった。けれど、市場原理に反した貿易抑制は、かえって経済合理性をそこなうことになり、自由貿易を原則とするGATTにおいて自主規制とは不透明な措置である。このためむしろ米国産の買付け増大による不均衡改善を日本にもとめるようになった。こうして問題は一転し輸出国側の市場解放、輸入拡大といった輸入体制、制度が問題の焦点となってきた。1993年からはじまった自動車交渉はこのような流れをうけて「日本の市場」をめぐる交渉となった。

アメリカ側は、「日米貿易不均衡の60%が自動車関係の輸出入からきている。日本の自動車市場は閉鎖的であり、解放するには、日本の自動車メーカーは数値目標を定めて、米国製自動車部品を購入するべきだ」と主張。これに対し日本側は、購入目標の設定は政府権限の範囲外であり、数値目標は管理貿易につながるとして拒否をした。この交渉で焦点となったのは「数値目標」である。具体的には、ブッシュが日本メーカーから引き出した自主的部品購入計画(ボランタリー・プラン)の上積みや、日本のディーラー網の拡充である。

 日本の市場が閉鎖的だと指摘せれる点は、「企業の系列化」である。日本の自動車メーカーは、各種部品を系列化された企業から購入し、他の企業が参入する余地がない。また、日本のディーラーは外国車の販売を望んでも国内自動車メーカーから報復を受けるのではないかという恐れを抱いて、米国車の販売を拡充できない、と米国側は主張。そういう状況を打破するためには具体的な「数値目標」を定めて、米国製品の輸入拡大を図らねばならない、というのである。

 これに対して日本、とくに交渉役の通産省は「管理貿易につながる」と反発。その背景には1986年の半導体協定の苦い経験があった。同協定は、外国系半導体の日本市場でのシェアを20%超とするという「数値目標」をはじめて受け入れた協定である。通産省には「外圧→譲歩」という悪しきパターンを返上したいという思惑があった。

 このため「数値目標」をめぐり議論は長期化。1995年に入っても双方妥協することはできなかった。交渉が長びいた要因の一つにカンター米国通商代表は来年の大統領選挙に向けてクリントン大統領の確固たる外交姿勢を有権者に印象づける必要があった。一方橋本通産大臣の首相の座を視野にいれて得点を稼いでおきたかったということもあるだろう。

 これに対し米国は通商法301条にもとづき日本からの高級車輸出を対象とする制裁候補リストを発表。これは、トヨタ自動車の「レクサス」、本田技研工業の「レジェンド」など高級車13種に対して100%の制裁関税を実施するもので、制裁額は59億ドルと史上最大規模となった。くわえて、日本の自動車市場の閉鎖性を理由に、WTOに日本を提訴した。日本はこれをうけて米国の一方的措置はWTO違反であるとして直ちにWTOに提訴した。

 交渉は膠着状態におちいった。アメリカ側は制裁を振りかざしながら市場解放を要求して譲らず、日本は「数値目標」をかたくなに拒否して、双方引くに引けず、もはやお互いのメンツを立てる道はないかにみえた。ついに破局かとおもわれたとき、水面下で動いていた日本の自動車メーカーが米国製部品の「自主購入計画」と日本国内の外国車販売網の拡充を発表。このお善立てがあって、両国政府は、制裁決定の期限である6月28日当日にようやく合意に達し、米国側は対日制裁をとりさげ、日本側はWTO提訴を撤回した。

ただし、その合意内容は日本の自動車メーカー各社の自主計画を基に、カンター米通商代表が北米製部品の購入増加額や、外国車を扱うディーラーの増加数の予測を独自に見積もった数値を明示し、同時に日本政府はこの見積もりの計算が政府の責任の範囲を越えるものであるから、日本政府は何ら関与しない旨を明記するというものとなった。しかも、見積数字の一部は空欄のままという極めて異例の合意となった。

日米貿易摩擦は鎮静化したのか?

 

米国有力産業における好景気(木原)

 米国経済は急ピッチで拡大を続けている.1期目のクリントン政権で経済政策の調整役だったローラ・タイソン前大統領補佐官は好景気の要因として次のような点を挙げている.

 まず1つに情報通信革命の効果である.技術革新を続けるハイテク分野が株式相場上昇の推進力になり,民間投資を後押ししている.技術革新を支援して花開かせたのは政府だが,基本的には政策主導ではなく,民間主導の成長である.

 第2にアジアや中南米など新興市場の開放と改革が進んで米国の輸出が増え,同時に安い輸入製品がさらに入ってくるようになった.

 そして金融機関の不良債権危機や財政赤字の拡大といった,いま日本が直面しているような政策課題を乗り切ったこと.

 主にこのような点が現在の米国の景気拡大の要因であるとタイソン氏は述べている.実際に米国の国内経済は,失業率は低下し,新規雇用は記録的に伸び,国際競争力は上昇し,インフレ率も落ち着いている.一方,日本経済は内需がなお力不足で,経常黒字拡大に伴う日米摩擦再燃も心配され始めた.このため今月8日以降,橋本首相や榊原国際金融局長の露骨な「円高・ドル安誘導」発言により円は急騰したが,この為替の急激な変動に対しては日米両国の国内事情が強く反映されている.

 まず米国においてはクリントン政権が98年の中間選挙をにらんでいる、ということだ。米乗用車市場での日本車シェアが30%を超えたのをとらえて、ゲッパート下院院内総務(民主)、ギングリッチ下院議長(共和)は超党派で対日批判に出ようとしていた。95年7月から始まった円高是正で日本の黒字増加が本格化するなかで、一段と円安が進めば中間選挙で貿易摩擦が焦点となるのは必至とにらんでのことだ。

 一方日本の摩擦防止に対する政策展開は八方ふさがりである.内需拡大をもたらす公共投資などの財政政策は財政赤字の削減に水を差すし,金融政策も金融システム不安が払しょくできない中で容易に動くことができない.結局は「介入効果」を高く売り込んで為替水準を修正するのが残された手段であった.

 また日本が以前から米国の長期的経常収支の赤字要因として指摘してきた財政赤字と貯蓄率の低さはそれぞれ改善、増加の傾向にある。財政赤字削減に関しては、クリントン大統領と議会共和党が財政均衡計画に合意した。この計画は税収増を前提としているため、現在の安定経済成長を維持することが必要だが、米国の財政が順調に改善の方向に向かっていることを示している。

 家計、企業、政府の各部門を合わせた貯蓄の方も顕著に増加している。この背景には個人が老後への備えから貯蓄志向を強めているほか、企業も好況で内部留保を増やしていることがある。貯蓄増加は海外からの借り入れに頼らずに資金調達ができるようになるため、米国経済の体質を強化し、景気拡大の長期化につながるといえる。

 米国の経済が順調であり、今後北米自由貿易協定の拡大問題と中国への永世最恵国待遇付与の問題という重要な議案の審議が予定され、議会との厳しい応酬が待ち受けているだけに、通商問題で日本と現地点で衝突するのは避けたいとの思惑が大統領側近にはあるようだ。しかし米国の景気後退と日本の輸出の急増が同時に起こると、通商摩擦が一気に再燃する可能性もあるだろう。

 

日本の規制緩和(木原)

日米経済関係は日本の規制緩和の問題を規定した面を持っている。1989年から1年間にわたっておこなわれた日米構造協議は、日米の経済摩擦を解決するためと称して設定された協議であるが、日米経済関係におけるきわめて重要なターニングポイントになったといえる。なぜならアメリカを中心とする国際経済ルールを日本に適用させる突破口になったからだ。たとえば流通規制緩和をみても、日米構造協議は、アメリカ大手流通産業のトイザらスが日本市場へ参入してくる突破口になった。このように、日米構造協議は、アメリカを中心とする国際経済ルールを日本に適用させ、日米経済の同質化を推進する重要な転換点になったといえる。

また1991年以降、深刻な不況に陥った日本の経済的な地盤沈下がおきているが、そのなかで、アメリカは日本経済にたいする再支配を確立していこうとして日米経済包括協議をはじめたといえる。日米構造協議と違って日米経済包括協議は、個別的な産業分野におけるアメリカ側の要求の貫徹の場となった。日米構造協議は、少なくとも名目的には日米間の諸問題を協議していくという関係であったが、日米経済包括協議は日本がアメリカの要求に応じて実行すべきテーマだけがとりあげられ、アメリカは日本の要求を一切受けつけない。そして制裁発動をつねにちらつかせるかたちで、日本に個別産業の開放を要求していくものであった。日米構造協議と日米経済包括協議を軸に、日米経済関係が大きく転換をしてきたといえる。

 このような日米経済関係のなかで、規制緩和が全面的におこなわれようとしている。規制緩和は、グローバリゼーションとメガ・コンぺティション(大競争)というキーワードに規定されて、財界、ジャーナリズムによって広く展開されている。政府の規制緩和2823項目が決定されたが、これは行政改革委員会規制緩和小委員会がまとめたものが実行の段階にうつされてきているとみてよいだろう。

 

米USTR貿易障壁報告の骨子(日本関連)(木原)

・官民関係 官民の緊密な関係は外国企業を排除する温床

・競争制限行為 排外的な商慣行、行政手続きの不透明性の是正

・NTT調達協定の延長を要求

・輸入政策 発砲酒を巡る税制は日本企業優遇

・サービス障壁 日本政府の金融ビッグバンの推進に期待

 

この報告の日本の章は今年も各国別では最大のページ数を割いたが、昨年より6項目少ない。これによって、日米間の貿易摩擦は沈静化していると言えるだろう。競争制限行為については、新たな大項目を設け、排他的な商慣行、官民関係、行政手段、公正取引委員会の強化を盛り込んだ。同報告はUSTRによって年に1度まとめられ、報告書の中で指摘した相手国と市場が、米通商法301条(貿易相手国の不公正取引慣行に対する報復)に基づき9月末に認定する優先交渉分野の候補となる。

 

米国の矛先の転換-中国(今村)

 

現在、我々日本人が80年代のような米国との経済摩擦を肌で感じることはさほどなくなった。それは米国人も同じ様で85年から毎年ニューヨークタイムズなどが実施している恒例の世論調査で94年12月にはじめて「日本との貿易が米国のとっていいこと」とみる米国人の割合が51%と、半数を超えた。十年間の同調査で「いい」が「わるい」を上回ったのは初めてのことだ。

米国の景気回復にともなう「日本脅威論」の衰退、それと入れ替わるように、急成長する中国への関心と潜在的な警戒感の広がり…。

米商務省が96年6月20日に発表した6月の貿易統計で、米国の貿易赤字相手国でトップを続けてきた日本が単月とはいえ、二位となり、中国が米統計史上初めて最大の貿易赤字国となった。確かに96年上半期の米国の貿易赤字は、日本が222億5000万ドルで中国の157億1200万ドルと大きく差がついてはいる。米国にとって日本が最大の赤字国であることに変わりはないが、前年比で見ると日本は31.2%と大幅に減少したのに比べ、中国は逆に8.0%増と追いあげている。

 米通称代表部(USTR)が中国担当を94年から95年にかけて実質2倍に増員していることから、米国の貿易政策は日本中心から軸足を中国やその他のアジア諸国に移しつつあることがうかがえる。90年と93年を比べてみると米国からアジアへの輸出は1.2倍、直接投資額は2.1倍で対日を遥かに上回っている。一概にこの数値を信用する訳にはいかないが、米国の方向性は見えてくるだろう。

米商務省が問題視しているのは対中輸出が伸び悩んでいることである。96年前半の対中輸出は前年比の1.4%の増加に留まり、米国の輸出全体の伸び、7.8%を大きく下回っている。

この中国において米国がもっとも問題視していたのが知的財産権の問題である。この知的財産権を巡る両国の攻防は90年頃から始まった。中国国内における音楽CD、CD-ROMの海賊版の流通が原因で起こった摩擦である。USTRはスペシャル301条(知的所有権侵害国の特定)に基づく中国製品への100%の報復関税実施をちらつかせていたが、中国側の目に見える努力---91年にコンピュータソフトの保護条例案を国務院常務会議(日本の閣議に相当)が了承---をうけ制裁を回避させた。しかし95年にバーシェフスキ次席USTR代表(現USTR代表)が、米議会で「中国で生産された海賊版により、95年だけで米ソフト業界に8億6600万ドルの損失が発生する」と発言したことで知的財産権を巡る貿易摩擦を再燃させた。米国側は「最恵国待遇更新」と定番の制裁を外交カードとして用い、中国側の「海賊版のより一層の取締り強化」と「中国市場への米ソフト産業の参入機会拡大」を引き出し制裁を回避させた。

 米国が96年の経済制裁を回避させた理由にはクリントン大統領の大統領再選をにらんだ思惑があった。映画やコンピュータソフトなどの知的財産権問題の被害者は、最大票田のカリフォルニアに集中している。また制裁リストに載っていた中国からの輸入衣料品、これに制裁を発動すると廉価な衣料を使用する、民主党のこれ又大事な票田である低所得者層を失いかねない。米国、つまりクリントン大統領が恐れていたのは交渉決裂による、海賊版への歯止めの消滅、輸入物価が上昇してしまうことによる両方の民主党の票田の喪失だったのであろう。

中国の成長著しい巨大市場に参入したい米国は、中国に対しあまり強硬な姿勢を貫くことで市場を失うことを最も恐れているように考えられる。

 

結論

 

以上の理由から、日米経済摩擦は無くなってはいないものの、最近では沈静化していると私たちは考える。

 

参考文献

「アメリカの通商政策と自由貿易体制」 

アン・クルーガー  東洋経済新報社

「アメリカ経済論」    

佐久間 潮  東洋経済新報社

「世界経済の基本」 

貞広 彰  日本経済新聞社

「朝日キーワード 経済」  朝日新聞社

「日米摩擦の政治経済学」 

石川博友   ダイヤモンド社

「日米逆転」 

C・V・プレストウィッツJr.  ダイヤモンド社

「日米経済関係」  n青木健 馬田啓一 

「アメリカ通商政策と貿易摩擦」  秋山憲治  同文館

「DATA PAL '89」 小学館

日本経済新聞

朝日新聞

読売新聞