国際関係論履修者の人へ
〜1998年1月27日の授業について〜
以下の国家の役割に関する「主張」をよく読み、発言を求められたとき答えられるようにそれぞれ30秒以内の質問を用意しておいてください。(質問は、原則として一人の人に行うものとする。)全体として国家不滅論が主流なので、国家の役割は終わりつつあるという主旨での質問を多いに歓迎します。
また、プレゼンター同士の討論も可能性としては大いにあり得るので、プレゼンターには他の人がどのようなことを述べようとしているか、自分の意見とどこがどう違うか確認しておくようにしてください。
新美篤志 高島宏起 中田 学 柳沢正和・橘大史(共同) 山崎史 永野海 高山雄一郎 赤羽 隆志 平山幸恵 大場貴志 市河良隆 金子洋文 小杉安正
主題:国家は死滅しない
サブタイトル:グローバリゼーションとマルクス主義の亡霊
20世紀末を迎えて、現在声高に謳われている国家の死滅という予言は、大まかに言って以下のような論拠からなる。すなわち、国際経済、金融のグローバリゼーションに対し、貿易や通貨の流れに国家がもはやなんら有効な対処策を打出し得ないという現象が一つの論拠。もう一つは、いまや世界的な潮流である地方分権化や非政府主体の登場による中央政府の地位の相対的な低下である。
しかし、国家消滅論議を検討してみるに、単なる地方分権化による中央政府解体は国家のミニチュアを造るだけであり、既存の国際政治体制内の領土変更・国境線の変更と何ら変わるものではない。政府が存続したまま国境が
melt down するという論拠も「国家消滅」論には直ちに結びつくものでもない。現存の体制でも、たとえば国際海洋法条約のように経済的主権とその他の主権を分離し、別々の法的権利を設定する体制は機能している。すなわち経済的な動きと一国の政府の経済への統率力の相対的低下がその他の国家機能の消滅に結び付くという論拠は説得力を持たない。では無政府化か。国家は全くの存在意義を失い、およそ政治的なるものが一切消滅するのか。検討の余地があるのはこの論議だけである。
思えば、19世紀末にも国家死滅の論議が世界中で広範に起こっていた。すなわち社会主義である。彼らは帝国主義により経済的な下部構造が国際化する結果、国家は死滅すると主張し、労働者が国際的な連帯の下に革命を起こして国家消滅の歴史的役割を担うと期待した。しかし国家は死滅しなかった。むしろ社会主義は20世紀に入ってから民族自決論を導入し、各民族の利害を代表する政治主体としての国家政府を追認した。この20世紀末において、再び経済現象の国際化のみをもって国家の死滅を主張する人々は、民族や各国の文化的背景、法的利害関係を代表しかつ調整する機関を不要と宣言するに等しい。経済という普遍的現象は世界大で統一的に扱う事があるいは可能かもしれないが、法や文化など、土着的に固有の現象は必ず存続する。経済のグローバル化と非政府アクターの登場のみをもって国家の死滅化を主張するのはまったくのナンセンスなユートピアニズムでしかない。
要点を繰返す。経済のグローバル化のために国家が死滅すると叫ぶ者は意識的にであれ無意識的にであれ経済的下部構造が政治体制のあり方を規定するというもはや根拠のないマルクス主義の亡霊に憑かれているのである。第一・第二インターナショナル及びコミンテルンを通じて世界革命を誘導し、既存国家の死滅を図ろうとした社会主義の実験は無残にも失敗した。確かに歴史を通じての国家の相対的な権力変動はあろう。しかし、政治主体としての国家は決して死滅しない。
「国家の役割は、変化はするが終わらない」
経済や技術の進歩によって国家の必要が揺らいできたというのは正確ではありません。歴史をよく見れば明らかなように、ここ数世紀にかけて世界を支配した「国家の絶対性」という幻想が、世界大戦や冷戦という矛盾を経てようやく晴れてきただけです。
集団とは同じ環境や志向、利害関係をもった人々が相互利益をはかる為につくるものです。国家もその一形態ですが、決して究極のものでも絶対的なものでもありません。
一人の学生は家族、学校、サークル、バイトとさまざまな集団に属していますが、国家もそのうちの一つに過ぎないのです。税金が安いからパナマに籍をおく企業もあれば、将来の利益を考えて国籍を選べる個人もいます。その国家の形態も役割も、アメリカとバチカンでは比較の対象にすらなりません。日本にしても、国家のもとにまとまったからこそ近代化も高度成長もできたのでしょうが、今となっては邪魔なところばかりが目だちます。
さてそれでは、国家という集団形態は今や不必要なものとなりつつあるのでしょうか?国家という支えを失った為に、限りのない内戦に陥った国々を見て下さい。これらはかつて強制的に国家に組み入れられ統制されてきた人々が、その反動で過剰な自己主張をしているケースがほとんどです。
集団とは強制されて加わるものではなく、自分の利益の為に参加するものである筈です。パナマが税率を引き上げたら、ケイマンに乗り換えればいいのです。世界地図を明確な線で区切り、その中で自己完結を目指す時代は確かに終わりました。しかし全てを一つにまとめあげるには、世界はまだあまりにも未熟であり、多様です。
統制によって集団そのものの利益を求めるのではなく、個人が相互利益をはかる、自己参加的な集団の原則を守っていけば、国家はこれからも重要な形態であり続ける事でしょう。
※ この原稿で「国家」というときは古代ペルシャや中国の「専制帝国」でも、ムツゴロウさんの「王国」でもなく、近代以降の「国民国家」を指します。
まず最初に、私は「国家」が果たしている様々な機能のうち、行政サービスの機能の大半(警察・消防・教育など)については、過度の期待をするのは危険であり、また愚かしいことだと考えています。(断っておきますが、私は奇形左翼でもアナーキストでもありません。)私が、このように考えるに至った経緯については省略しますが、ただ17歳のときに体験した震災が多少なりとも私の「国家」観に影響を与えてしまったことは否めません。一部を除けば(例えば警察や国防など)、行政サービスの大半は民間で十分その機能を果たすことができるはずですし、何よりもそれらは本当に必要だとされる時に殆んど機能しません。
次に活発な議論がされているナショナリズムについて、「国家」の機能としての観点から私の考えを述べます。現在のところ、ナショナリズムはオリンピックやサッカーの応援をするときのモチベーションとして以外は、殆んど無意味であるばかりか、むしろ有害なことの方が多いようです。ナショナリズムが噴出すると、サッカーの試合ならフーリガンが暴れるくらいで済みますが、国政の場だと閣僚の首が飛んだり、国交が閉ざされたりします。
また、「個人がアイデンティティを確立する際には共同体が不可欠だし、共同体への忠誠がなければ社会的責任感やモラルが低下する。」との意見もあります。私もその意見は基本的には正論だと思いますが、その共同体をいきなり「国家」という枠にまで押し広げてしまっていいのかは大きな疑問です。アイデンティティやモラリティの問題とナショナリズムは同列に扱うべきではないと思います。
以上述べてきたように、近代以降「国家」が果たすべきものとされてきた機能の殆んどは今や「国家」がその主体である必然性がなくなっていたり、あるいは「国家」がその主体であること自体が問題になってきたように思います。「近代」という一つの時代が終りつつある今、その近代の最大の発明品ともいえる「国家」もやがてはその役目を終えるでしょう。それは歴史の必然であると考えています。
だが、私達はロビンソン・クルーソーではないので生活する上では共同体が必要です。そして叡知を集めて「国家」に代るべき共同体を創り出さねばならないと思います。
国家、特に国民国家は問題を多く抱えている。国民国家は常に「作られた共同体」をつくりだす。その共同体の共同の利益という名目の下に、かならずminorityが排除され、また対外国という形で、共通の対立が形成される。これが問題点である。具体的にいえば、明治維新後、政府は「日本」という共同体を意図的に形成した。たとえば、「日本」共同体結成のために、アイヌ民族が「消滅」という犠牲を払わされるなど、さまざまな制度によって標準的な日本人が形成され、制度化された。その結果は、「国のためなら死ねる」という思想であり、現在でも人をなお大きく規定している。そして、それが対外的な意識となる時、時に戦争や経済摩擦の原因になるのである。
しかし、国家なければ実現できないプラスの面もある。例えばそれは、基本的人権の保証や、教育など制度として、私たちがいきていく上でもはやかかせないものである。
このように考えると、現実的には、私たちはやはり国家という言う枠組を捨てることは難しいと考える。しかしながら、そのマイナス面は、あまりにも犠牲が大きい。
そこで考えられる選択肢は、積極的に国家を縮小していくことである。たとえば、国民国家に正当性を与える民主主義以外の過程を経たアクターを認めていくということが、挙げられる。それは、多数決の前に、抹消された小数派であったり、また国家では実現できないことを実現しようとするものである。具体的にはNGOが考えられる。このように、国家という枠、政治や経済や文化をすべて委託する意識を変える必要がある。今は、たとえば、もはや経済が国単位では語れないなど、国家が現実に追い付いていない面がある。私たちは、選択として、戦略的にその流れを作っていく必要があると考えるのである。
昨年末の京都会議で各国代表があつまったが、彼ら以外にも多くの人々、NGOが集まった。これは、現在地球が抱える問題は、もはや国というレベルだけで解決を図られるものではないことを表していると思う。
これまで国が重要なアクターであったのは、経済分野で顕著にみられるような、自国の利益追求(世界における地位の向上、生活水準の向上、そのための労働力、資本の集約)が、国家へ存在意義を与えた。つまり、一人ではできないことを、みんなでやり、そのみんなというのが、例外はあるものの、民族という単位であった。なぜ民族という単位であるかというかと、そのほうがなにかと思想や習慣、文化上の問題で都合がいいからである。
しかし環境問題や南北問題、人工問題など、自国の利益追求のために国家が立ち回るということが許されないのが現在の状況である。(実際はそうではない場合も多い。)京都会議についても、ニュースなどで大国のエゴという言葉がよくきかれた。では、これからの時代は国家という単位ではなく、世界レベルでの利益追求ということになるのだろうか。
利益追求といえば競争である。競争をするには相手がいなければならない。人間が利益を求めるならば、競争相手がいなければ、つまり自分よりも上の人間と下の人間がいるということを前提にしなければならない。全世界が一つになって利益追求というのは不可能である。
では国家は何をすればよいのだろうか。自国のことのみを考えるのではなく、他国の利益を考慮にいれて行動するという曖昧な姿勢をとらざるを得ないだろう。アメリカはそれを自由自在にやっている。なぜアメリカがそれをうまくやれるのかといえば、それはアメリカが世界のトップにあるからである。アメリカが強いから各方面に融通がきく。アメリカのルールが世界にまかり通るゆえに、アメリカは外交面でうまく立ち回れるのである。
日本の場合は、アメリカのようにはいかないだろう。日本が国際社会のルールにのっとって自国の利益追求を考えるならば、より小さな単位で利益追求を考えなければ、国際社会が認めるような外交はできないのではないだろうか。より小さな単位とは企業やNGOの活動である。よって日本においては、国家の役割は小さくなったほうが、国際社会ではより自由に日本人が活動できると思う。
国家の存亡について考えるとき我々は国家の本質的な2つの役割について触れなければならない。すなわち1つは対外的な国家である。対外的には国家は国益の追求を行う。しかし今日国境を越えた環境問題あるいは経済的相互依存そしてEUに見られるような主権の共有など、国益という概念そのものを曖昧にする現象が起こっている。また鴨武彦が言うような必ずしも国益に左右されない勢力、つまり政党や企業、圧力団体の影響力も近年増加している。これらの見地からは対外的な国家の役割の卑小化を見て取ることができる。しかし国家の存亡の本質を考えるときには、むしろ対内的な国家について考えなければならない。対内的な国家の役割とはホッブスのリバイアサンがいうような国民の安全、あるいは秩序の維持、一歩進んで国民の幸福を可能な限り追求することである。私は進歩史観の信仰者ではないが、ヘーゲルが言うように国民に真の自由を最大限に享受させることができるのは国家ではないか。これらは人間に生存欲・安全に対する欲求、また社会的自由への要求がある限り何らかのの権力組織がこれを代理的に実現させる必要があり、この権力として最適なのが国家なのである。しかし最後にふれなければならない重要な点がある。それは国家のあり方の問題である。リシュリューが作出しその後モーゲンソーやカーが主張した国家理性とは、国家の最大の責務を国家自体の保持とするものであった。しかし今日この国家を保持する主体としての国家というものが見えにくくなっている。前述したような複数の国益に必ずしも左右されない諸勢力も含めた力の総和が実は国家になっている。ここには一元的な責務遂行の主体は見られず、従って現状の国家を保持することの困難さにつながっている。こうした面からは、通貨危機にも見られるような国家の実質面での空洞化、あるいは国家の不安定化が起こることも当然予想される。
自分は国家という枠組はこれからも必要であると考えます。
何故そのように考えるかそれを述べるに当たり、まず国家を自国の国民やその利益を守る為の枠組とします。その上で、何故他国とのつながりを持とうとするのかを考えてみてください。それは、異なる民族や歴史的背景を持つ国々と交流を持つことにより、自国を今以上に豊かなものとしようとするからです。
ここで、仮に国家の枠組が消え、各分野の超国家機関のみにより世界秩序の維持が行なわれている世界を考えてみてください。例えば、今話題のIMFです。現在のIMFの行なっているアジア経済への介入は、下降する経済状況を救おうとする為に行なわれています。その一方で、この方針は米国的観点からの要素が強く、一部では経済植民地化であるとする批判も起こっています。この例が示すように、一つの超国家機関のみで世界秩序を保とうとすることは、多かれ少なかれその理想に向け各国の個性を変えることになります。そして目指すところが一つである訳ですから、それは世界の画一化へとつながる可能性がある訳です。
異なる個性が交わるということは、多くの場合衝突を生み出します。しかし、それと同時に今までは無かった新しい価値や利益もまた生み出される可能性があるのです。異国との交流により自国を豊かにするということは、正にこのことなのです。超国家機関だけによる秩序が行なわれ世界が画一化する可能性があるということは、そのような新しい価値や利益を創出する可能性を失うことにもなりかねず、それは真に豊かな世界とは決して言えません。
真に豊かな世界の実現には、民族や歴史的背景により作り出されてきた個性、これを国家という枠組で守っていくことが必要であるはずです。そして、超国家機関はこれら個性の交流を、新たな価値や利益の創出へと向ける為にのみ存在すべきであると考えます。
結論から言うと、国家の枠組・役割は終るべきではないと僕は考えます。その論拠はポジティブに見たものと、ネガティブに見たものの2つがあり、以下述べていきます。
まず、国家の役割は終るべきでないとポジティブに推すのは、国家間のコンフリクトこそが生産性の源となっていると思うからです。政治の雛型ともいえるスポーツの舞台に目を向けると、オリンピックやW杯サッカーが、ナショナリズムを強く刺激し,競争意識を燃えさせて展開され、そのことで経済効果を生み出しています。したがって、国家というものの枠組や役割があってはじめて、ナショナリズムが刺激され、その間に生まれるコンフリクトによって各国の競争心や生産意欲がうまれるもので、そういったものが統合されてこそ、地球規模の問題である環境問題や核問題を解決し得るエネルギーになると思います。確かに、国家間のコンフリクトは大きくなり過ぎると戦争を引き起こしかねないという危険な要素も持ち合わせていますが、それは「良薬、口に苦し」といったようなものです。
また、国家の枠組・役割が無くなると政治的・経済的に問題が生じた時、その悪影響が世界中に蔓延するかも知れないことへの危惧があり、国家の枠組・役割をネガティブにではありますが必要なものと考えます。社会学者ハバマスが「近代とは永遠の革命」といった様に、近代化の達成と近代国家の完成には未だ疑問が残る問題として捉えられます。日本でのバブルの崩壊、韓国をはじめとする東アジア諸国での金融危機、依然として減ることのない欧州での失業者の割合といった状況は、その証左といえます。すなわち、モダンが未完成なまま、ポストモダンを形成するグローバルスタンダードの概念を導入してしまえば、更なる政治的・経済的問題の発生は不可避になる上に、そういった問題が生じた際、国家に役割がなければ国家内での問題解消に至らず、国家に枠組がなければその問題は歯止めが効くことなく世界中に広がっていくのです。
以上から、国家の役割は終るべきでないと僕は考えるのです。
工業化社会において、主権国家は成長と繁栄の為の組織として正解であった。中央集権による強い支配があり、政府が全ての主導権を持ち、輸出主導型、製造業中心の優先産業強化によって経済発展をめざし、実際国家は繁栄してきた。
ところが、情報化社会の発達により世界がグローバル化すると、国家は足かせとなる。それは特に経済面において顕著だ。今の経済の主導権は民間資本と情報が持っている。企業は投資機会を得るために国境に関係なく魅力的な市場へと流れる。また、ワークステーションを利用により国境を越えた進出や事業提携が容易になり、企業のグローバル化や多国籍化が進む。半面、国家は利益誘導型政治の定着により、グローバル社会での経済活動を圧殺し、富の分配を主とする非効率なシステムとなった。また自国通貨を守る力が低下し、国のコントロール外にある人や機関の経済的選択により、国の行動が制約を受ける。グローバル経済において、経済活動の支配力は国家から市場原理に基づいて行動する消費者ネットワークに移った。つまり、国家とは別の自然な経済単位が存在するのだ。
しかし、だからといって国家の役割が終わったのではない。今後の国家は、市場が創れない、具体的なビジョンを伴ったリーダーシップを発揮する事が必要である。国が目指す方向を決め、その過程で必要・可能な義務と行動を示せば、市場原理に基づきながらも秩序が混乱することはなく、グローバル経済への統合を深め、自国を繁栄させられるのではないか。その前提として中央権力の分割が必要なのは言うまでもない。社会政策など代替可能な事は地方に任せ、中央にしかできない事、例えば安全保証、通貨の健全性、インフラの標準規格があることを認識するべきだ。それらが、高度情報化社会での国家の必要性や存在意義となろう。国家は姿を変えれば、必要な社会システムの1つなのである。
冷戦の終焉は国際政治における構造的変化をももたらしたと私は考える。なぜなら、国際政治が冷戦中には国益に拘束された国家中心主義的なものであったのに対し、冷戦後は主権の共有化を目指した脱国家型政治へと移行しているからである。こうした中で我々はこれまでの世界観にとらわれることなく、新しい基準が何であるのか考える必要があるだろう。私は以下の4点から国家の役割は終わりつつあるのではないかと考えた。まず、世界のボーダレス化があげられる。特に経済において市場のシェアを求めて相互依存が高まっている。さらに、環境問題などグローバルな問題に対しても国境を越えた取り組みが必要であろう。また、国家の枠組みを小さくする活動も増えてきた。例えば、地方分権である。より生活に即した問題に対しては、国よりも地方自治体やコミュニティの方が効率が上がるといえる。最後に企業の役割の拡大もあげられよう。民営化や大企業の政治分野への影響などがその例である。それでは、現在の国家に変わる役割はどうすべきであろうか。「文明の衝突」の中でサミュエル・ハンティントン氏は、新時代における紛争はイデオロギーや経済を巡る対立に変わり、文明上の対立により引き起こされると述べている。つまり、文明とか宗教の違いを軸として対立、抗争の線引きがされるというのである。私はこの点に細心の注意を払い、さらにここでいう「文明」を文化と文明に分けて考えてみた。文化とは社会の根幹をなすものでなかなか変化しにくく固定的であるのに対し、文明というのは変容がより可能なもののことである。私は、基本的枠組みを文化的側面によって規定し、文明的側面により世界共通の制度作りをはかっていくことが最も良いのではないかと考える。つまり、国家を文化を軸に再構成するのである。こうすることで、文化対立、宗教対立を避けて、最終的に国際社会における「平和連合」のようなものを樹立できたら素晴らしいのではないだろうか。
僕の議論では、国家の役割は終わるべきか、いやそうではないという答えを人類の歴史を振り返ることによって導きたいと思います。結論から言えば、国家の役割は将来なくなるべきだと僕は主張します。
人類が最初に国として建設したものは都市国家でした。彼らにとってその都市国家こそが世界であり、経済、政治共に影響しあえる範囲でした。しかしどうでしょうか、人間の経済範囲、行動範囲の拡大によってそれまでの都市国家は統合され、都市国家は国の中の一地域として扱われるようになりました。
そして現在、経済の影響範囲が世界規模になったためにASEAN,NAFTAなど国家レベルの統合が各地で進んでいます。中でもEUは経済レベルにとどまらず民族を超えて一つの国家へ向かっています。最も戦争の多かったこの地域が統合に向かっていることは、少なからず、好き勝手言って争うのを止め、人類が民族共存への道を選んでいることを意味しています。
このように問題を起こしながらも人類の発展によって統合が進み、国の範囲が拡大するのは自然の流れなのではないでしょうか。もはや、国という垣根の存在は人間の行動範囲よりはるかに小さくなってしまいました。国境という制限は非合理的な時代になってしまったのです。
ですから、将来は、それぞれの国家が国家ではなく地域的な役割を果たし、世界が一つの国家として運営されるべきと考えます。昔、いくつかの地方が統合されスイスという国ができたとき、こんなに広くて国として機能するのかと多くの反対がありました。当時、主力の交通機関である馬車でスイスを横断するときに2週間かかったそうです。現在それに比べて、地球さえも我々にとっては小さいものになりました。そろそろ、地球全体を国家として見なければならない世代に我々はいるのでしょうか?
私は、国家の役割は終わるべきではないと考える。
この考えを説明するために、私は経済の面から見てみたいと思う。経済をどのようにとらえて分析するかについては、いくつかの異なった考え方、つまり学派がある。しかしどのような学派においても、通常自由貿易によってもっとも効率的な資源の利用が可能となり、その結果人々の利益も高まると考えられている。自由貿易は良いことであり、保護貿易は好ましくないことであるという考えは、学派を超えて広い支持を集めてきた、ほとんど唯一の経済思想であるといっても過言ではない。事実、自由貿易によって国際的な競争力が促進されれば、技術進歩が高まり、世界経済全体を発展させる。また日本は機械産業、中国は繊維産業、オーストラリアは農業、というように比較的優位にある産業に特化することによってスケールメリットが生じる点も大きい。このように、経済のグローバル化は良いことである。しかし、国家はそれを阻害しようとする。たとえば、日本は、全体的に見ると関税は低いが、酒など一部は高い。さらに、官僚との談合などにより政府は自ら閉鎖的な市場を作り上げている。自由の国と呼ばれているアメリカであってもおなじである。日本との貿易赤字が拡大するとすぐに通商法301条などというあきらかにWTOの規定に違反する自己中心的な制裁措置を発動しようとするし、発動させようとしなくてもその存在そのものが、企業に自制心を促す。トヨタ自動車の方針を見れば一目瞭然だ。このように世界経済を発展させるはずのグローバル化を国家は阻害しているのである。では、国家は、必要ないのであろうか。短絡的にそう考えてはならない。たとえば、メキシコはアメリカとの貿易自由化を進め、NAFTAを形成したが、急激な経済状況の悪化がおきた。それは国内市場の開放には必ず国内産業の調整が必要となるからであり、いわゆる調整コストと呼ばれるものであるが、自然淘汰に任せていたら国内の産業がつぶれてしまう。ゆえに、政策によってある程度企業をサポートすることは必要であり、そのためには国家は必要であると考える。
現代社会にとって国家がはたして必要か?それに関する私の答えは「国家は依然として必要である」というものである。 国家に求められる役割としては、国民の生活を守る「安全保障」と国民の生活水準を発展させる「経済運営」がおそらくその主たるものであろう。「安全保証」に関しては、現在の酷さ的な枠組みでは、小国間同士の紛争解決にはある程度の解決能力は持つかもしれないが、台湾海峡での事例をみれば分かるように、依然としてパワーポリティックスが存在する状態であり、国家が無くなった無政府状態では、多くの国民が生存の危機にさらされる可能性はより高くなることは明白である。次に「経済運営」に関してだが、授業中に先生もおっしゃた様に、「国家の役割が衰退している」という意見が生じつつある。しかし、私はこのスピーチにおいて経済の運営に関しても依然として国家の役割が重要であることを協調したい。80年代後半から、重債務に苦しんでいたラテンアメリカ諸国が、IMFの経済政策によって急成長を実現しつつあり、最近では韓国・タイなどでも同じ様な政策が採られつつある。これは一見、経済の運営主体として、国家内部の圧力団体の意見を受け入れざるを得ない国家よりも、利害関係の薄いIMFなどの国際機関などのほうがよりよい政策を行えるかのように見える。しかし、国際機関が最終的な経済運営主体になるには、不可能である。その理由は「国際機関は政策立案は行えても、政策の実行はできない」からである。アジアにしてもラテンアメリカにしても、リー・クアン・ユーやフジモリなど国家の権力構造に精通し、かつ強力な権力を持ったリーダーが存在したからこそ、経済成長が達成されたのであって、地域の実体にさほど詳しくない国際機関に同じ様な能力はない。国際機関の経済運営に関する役割の強化は、あくまで「経済政策立案の補助」として有効であるだけであって、「経済運営の主体」としての国際機関を想定するのとは根本的に異なる。この錯覚によってさも国家が必要でないという結論に達するのは単なる幻想に過ぎない。
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