原子力政策に関する報告書
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第1章 はじめに

1997年10月、中国の江沢民国家主席は米国のクリントン大統領を訪ねた。12年ぶりの中国国家主席の米国訪問。歴史的交渉が行われた。

人権問題、経済問題、そして安全保障問題と、まさに両国の関係にとって、歴史的一歩であったことは間違いないのかもしれない。そんな交渉の中で、1つ、重要な合意が為されたことは忘れてならないだろう。それは、米国の原子力発電所が中国で建設されるという協定。それと同時に、中国からイランへの核関連技術の協力を凍結するという確約。多くの日本国民は気がつかなかったのかもしれないが、隠れざる大きな合意であった。

ところで、この話には一つの対立が存在するような気がしてならない。安全保障での妥結というのはよくわかる。だが、原子力発電所が中国に建設されるということは、経済的にみても、米国益に見合っていたのではないだろうか。安全保障と経済。米国はこの対立しかねない2つの国益のいったいどちらを念頭においていたのだろうか。あるいは、この2つは対立する国益ではなかったのだろうか。この米国の原子力政策における疑問を解明することで、米国の原子力政策全体を考えてみたい。


第2章 米国における原子力政策史

米国は1945年7月16日、アラモゴードで世界初の原子力爆弾実験に成功し、8月には、広島と長崎に原爆を投下した。陸軍の完全な秘密保持の体制の中で行われた米国の戦時中の原爆開発計画は、戦後見直しを迫られた。当時のトルーマン大統領は、10月、議会に対して原子力に関する教書を送った。教書の内容は、「現在の研究及び産業界の体制に支障の内範囲で、核燃料に関わる原料と製造過程の国家管理を提案」し、「議会にその具体策の立案を要請した」ものであった。軍部は戦中の体制を維持しようとしたのに対し、科学者達は通常の行政組織による管理を主張して対立した。約一年かけた論争も、ついには妥協が図られ、原子力法案が1946年8月に成立し、トルーマン大統領が初代の委員長を含む5人の原子力委員を任命し原子力委員会(AEC)が作られた。

1946年の原子力法では、原子力を連邦政府が開発するか、民間が開発するかが曖昧だったそのため、誰が原子力発電を支配するのかということが論争になった。トルーマン大統領が属する民主党は、機密保持の観点から、原子力産業の開発、設備所有の完全な独占権は連邦政府にあると解釈していた。

1952年の大統領選挙戦では、アイゼンハワーは直ちに「忍び寄る社会主義」という考えを取り上げ、連邦政府が電力を供給するするのに反対の立場をとった。アイゼンハワー政権の最初の4年間に、公共電力体制に劇的変化が起こった。アイゼンハワー政権は、1946年の原子力法を改正するとともに、1935年の公益事業持株会社法を後退させようと、研究がまだ十分に進んでいないにもかかわらず、原子力の分野を基本的に民間産業の手に委ねた。アイゼンハワー大統領は、1953年12月国連総会で「原子力平和利用宣言(Atoms for Peace) 」を掲げ、公開協調政策を打ち出した。

1954年8月、原子力法は改正され、民間産業の原子力開発に道を開いた。GEやウエスティングハウスらが他国に原子力技術を販売することに政府の承認が与えられることになった。この法の成立には、原子力産業会議(原子力機器製造業者、金融業者、建設工事請け負い業者、電力会社による協会)の支持があったといえる。しかし、原子力法の改正という重大な決定にあたって、大衆的論議は見られず、少数の人々が性急に行ってしまった。

原子力の急速な商業化傾向に大きな刺激を与えたのは、ソ連が地球を回る最初の人工衛星スプートニクを打ち上げたことであった。宇宙での競争が原子力での競争に加わり、安全性や経済性で疑問があったにもかかわらず、開発が強行されていった。1957年12月、シッピングポート発電所は、米国初の商業用原子力発電所として稼動し始めた。

1955年から1963年にかけて、主力となる発電用の炉型をどれにすべきかを決定するための計画が実施された。この計画は、民間企業が行い、政府が支援するという形で進められた。政府の支援は具体的には、資金提供、政府所有核燃料の無料貸与、国立研究所を利用させること、などの形で行われた。その結果、産業界では経済的及び技術的理由から、軽水炉を望ましい炉型として導入していった。

ケネディ大統領時代の米国は、世界的な技術優位を維持するため、ソ連との宇宙や核兵器分野での競争において比類ない努力を傾けていった。ケネディは原子力によるエネルギーの生産をスピードアップするように促した。また、ケネディは原子力産業における一競争勢力として公営電力組織を復活させるべく奮闘し、政府あるいは民間会社による電力の専売に反対する立場をとった。しかし、1961年、公営電力組織に対しハンフォードの原子炉を利用可能にする法案は潰されてしまい、連邦政府はハンフォード発電所を所有も運営もしないこととなった。

ケネディ政権は、明らかに危険が予想されるにもかかわらず、民間電力会社に対する規制を撤退する一方、公営電力組織所有の新しいダムや原子炉建設を促進したり、連邦送電線開発を進めた。

ケネディ大統領暗殺をうけて就任したジョンソン大統領は、当初はケネディの電力政策を自らのグレート・ソサエティ計画のなかに取り入れ、無限のエネルギー消費による繁栄の夢を広げようとした。ジョンソンは、原子力発電の民間開発をスピードアップさせようという動きに応え、大統領選挙の3ヶ月前の1964年8月、特殊核物質私的所有権法に署名した。この法律は、原子力産業に初めて核分裂物質を所有する権利を与えた。

1968年までには、インフレの現実に加えて環境破壊に関する一般市民の意識が高まり、電力産業に対する風当たりが強くなってきた。例えば、ウエストバレー再処理工場から汚染された排水が流されていることに対する市民の反対運動は、72年に工場を閉鎖させるに至った。

この時期、原子炉の新規発注は落ち込み、1968年では以前の半数の16件に、69年には更に減って7件になった。AECは、「豊富なエネルギー」という観念の普及をめざし、原発の建設コストは高くなっているが、クリーンな環境、発電コスト自体の低減をもたらすとしていた。

ニクソンはベトナム戦争問題から関心をそらすのをねらってか、環境問題を「この10年の中心問題」として取り上げ、政権の座について間もない1969年、国家環境政策法の制定によって、原子力発電や環境に関する懸念を取り除こうとした。この法は、建設プロジェクトに対して認可や資金提供を行う連邦政府機関に環境上の影響に関する報告書を提出するよう求めたものであった。

ニクソン大統領は、プロジェクトインディペンデンスの下で、2000年までに電力の50%が原発100機で供給されるようになることを求めた。また、1980年までには実用可能な商業用増殖炉を米国が持てるようにしたいと考えていた。

1975年1月、AECは廃止され、エネルギー組織再編成法によってエネルギー研究開発局(ERDA)と原子力規制委員会(NRC)が発足した。なお、原子力研究開発局は1977年にエネルギー省(DOE) として再編された。

1975年から1976年にかけて、公共料金改革推進のため環境保護団体と消費者団体が提携するようになると、原発反対の支持の輪は、地域団体、アメリカ原住民団体、農民団体、労働組合などへと広がっていった。

カーター民主党政権は、電源として原子力発電を「最後のオプション」として位置づけるという、消極的な政策をとった。1977年4月、カーター大統領は新政策を発表し、核不拡散政策の焦点として、「商業ベースの再処理とプルトニウム利用の無期延長」、「高速増殖炉の開発計画の変更と商業化の延期」などを述べた。1978年には核不拡散法が成立した。この法のポイントは、軍事転用防止の基準や規制の方向を示していること、各国と結んでいる原子力協定の内容に、米国の規制権を明記させること、各国すべての原子力活動に対し全面的な国際査察をかけることである。カーターの核不拡散政策は、核武装する可能性がもっとも小さくて原子力発電の必要性が最も大きな日本や旧西ドイツに大きな打撃を与えた。国際原子燃料サイクル評価(INFCE)という検討会議が1977年から約2年間開かれ、原子力発電や燃料サイクル開発の是非が論議された。その結果、プルトニウムは出来るだけ核拡散しにくい形で使う技術を採用するなどの条件付きで、日本などに認められた。しかし、会議の2年間は世界の原子力産業は足踏みを強いられた。

カーター政権が原子力発電を電源政策上の「最後のオプション」と位置づけたのに対し、レーガン大統領は「原子力は今後数十年間の新たな電源としては最も優れたものの一つである」と位置づけた。これは共和党が大企業の支持を得ているという一般論でも十分説明が可能な政策転換ではあったが、レーガン政優れたものの一つである」と位置づけた。これは共和党が大企業の支持を得ているという一般論でも十分説明が可能な政策転換ではあったが、レーガン政権のスローガンであった「小さな政府」に基づき、政府の側からの介入を出来るだけ少なくしたために、予算等で積極的な支援は行われなかった。議会ではクリンチ・リバー高速増殖炉計画が繰り返し予算の手当がつき二転三転したが、結局計画はキャンセルされてしまった。

結局のところ、新規の原子力発電所の建設は、カーター政権時と同じくゼロであり、後に述べる原子力発電に係るコストの問題、電力供給力がだぶついていた(ピーク時には39%のだぶつき)ことなどから、新規発注はない。ただ、原子力発電所に対する運転許認可や規制などについては、撤廃の方向で動き始めた。

レーガン政権の見解によると、連邦エネルギー政策の肥大化がコストの増大を招き、電力料金の値上げなどを引き起こしているということであり、その元凶は「大きな政府とその規制」というわけだ。レーガン政権には、電力業界やそれを後押しする金融業界から多数のスタッフが参画していた。特に世界最大の発電所建設業者であるベクテル社からは国務長官ジョージ・シュルツ(社長)、エネルギー副長官W・ケネス・デービス(副社長)国防長官キャスパー・ワインバーガー(法律担当重役)がやってきた。レーガン自体も俳優時代に10年間もGEのスポークスマン的役割を担ってきたこともあり、大企業よりの規制緩和策が遂行された。

レーガンの後を継いだブッシュ政権は1989年7月に「国家エネルギー戦略」の策定を開始した。これは、レーガン政権の8年間に、海外への石油依存度が強まり、将来の電力不足の可能性、増大する環境問題への関心などを背景にしたものである。原子力発電がこのまま新規発注も運転認可の更新も行わなければ2030年には原子力発電容量がゼロになってしまうが、新技術による新型炉の導入や許認可手続きの合理化、放射性廃棄物処分等の問題が解決されれば、2030年までに原子力発電容量は1億9500万KWとなると予測されている。ただし、レーガン政権と同じく原子力政策に対する政府の役割は民間活動を支援するための法規制の改善や予算措置を講ずることなどであると規定している。

1979年3月28日のスリーマイル島原子力発電所(以下TMIと略)2号基における事故は、それまで原子力はクリーンで安全な未来のエネルギー源だと信じ込まされてきたアメリカ国民にその危険性をその脳裏に深く刻み込んだ。

放射性物質の漏洩度という観点からは、そんなに深刻ではなかったと判明したのだが、危機管理体制の欠如による住民の避難などでのパニック状況の生起や事故発生時の運転員の誤った対応など、「人災」といっても良いような事故状況はその後のアメリカにおける原子力発電所の在り方に大きな影響を、規制や原発反対運動などで与えた。

2号基はその後状況が安定し、除染作業が続けられ、1986年には原子炉内部の調査が行われたが、その際に内部で70%もの炉心溶融が起きており、所謂「チャイナ・シンドローム」寸前の非常に危険な状況であったことが明らかになった。

TMI2号基は、バブコック&ウィルコック(B&W)社製のPWRであるが、営業運転をはじめて3ヶ月目で、数多くのトラブルが未解決のまま運転されていたという事実がある。もともとTMI2号基では

という前提状況があったが、これは明確にB&W社の運転技術仕様書に違反する行為であった。

2号基は当時脱塩塔からイオン交換樹脂の交換のための移送作業を行っていたがその際に移送用の水が弁制御用空気系に混入し、主給水ポンプが停止した結果タービンが停止し、原子炉は緊急停止した。その結果原子炉内の圧力は低下したが加圧器逃し弁が故障し開いたままであったため、一次冷却材の流出が続いていた。一方蒸気発生器などの2次系の部分では補助給水ポンプが起動し蒸気発生器に給水を行おうとしたが、先ほど記述したように元々弁が閉じられていたので、給水ができず、蒸気による除熱能力は著しく低下した。

原子炉自体の一次系では、一次冷却材の流出に加えて蒸気発生器の除熱能力の低下によって、一次冷却材が沸騰し、内部の圧力により一次冷却材を押し上げる効果を生んだために、運転員はまだ一次冷却材が十分あると誤判断し、一次冷却材の注入ポンプ出力を最低に絞る一方で一次冷却材の抽出量を最大にしてしまった。この結果、事故発生後2時間ほどの段階で、所謂「空炊き」状態に原子炉は陥り、炉心が蒸気中に露出し、その冷却が不可能になり反応が制御不能のまま、重大な損傷を温度の急上昇の結果被り、大量の放射性物質が一次系内に放出された。

その後、その状況に気づいた運転員が冷却水を投入し、一次冷却材注入ポンプを再起動させ、事故後15時間を経てようやく原子炉は制御可能な状況になった。

大量に放出された放射性物質は補助系統などから1ヶ月以上にわたり微量ながらも環境への漏洩が続いた。重度に汚染された一次冷却水などは辛うじて密封セクションからの漏洩を免れた。

以上のように、本事故は、まず明確に技術仕様に違反した運転が為され、それに機器の故障と事故時の運転員の判断ミスが重なり、重大事故に発展したことがわかる。

カーター大統領は即座にTMI事故調査特別委員会を発足させ、結果はケメニー報告書として公表された。

一方NRCも独自調査を行う一方で外部の調査グループに委託するなど(ロゴビン報告)して、各種の改善が為された。

NRCはまず、同種の事故を防止するために種々の通達や検査官の派遣などを行った。特にTMIと同種のB&W社製の炉については緊急措置、長期措置の2段階に分けて通達を出し、運転面と設計面双方での対応を行った。また、数多くのタスク・フォースを設置し、TMI事故の教訓を活かすための努力を行った。

NRCはロゴビン報告、ケメニー報告、NRC内部の調査などを踏まえ、1980年2月に「NRC実施計画書」を発表した。NRCが事故後に表明していた新規建設および運転の許認可凍結については必要な改善が以上のような形で為されたために、1980年2月末に解除された。

NRCが外部委託調査として行ったもので、1980年1月に報告が出ている。ロゴビン氏はワシントンの法律家で、報告の内容は下のケメニー報告とほぼ同様であるが、TMI事故は管理上の問題が事故を拡大したと断じ、産業界およびNRCの抜本的改革の必要性を訴えている。

カーター大統領は事故後2週間たった4月11日には大統領任命の事故調査特別委員会を発足させた。ケメニー博士はダートマス大学の総長であり、委員会のメンバーは学会、労働界、地方自治体の代表者および住民代表によって構成されていた。

12回の公聴会、150回以上の証人喚問、等を経て1979年10月末に大統領に報告した。報告書では事故の主要原因は運転員の不適切な操作にあるが、設備の欠陥や管理体制の不備など多くの問題も重なったとし、事故の再発防止にはNRCの全体的な改組と産業界における安全性に対する姿勢の根本的変更の必要性を強調している。

カーター大統領はケメニー報告を受け1979年12月に声明を発表し、同報告で提言された改善措置の実施を強く要請した。

政府機関に対しては

産業界に対しては

また、NRCに対して凍結状態にあった原子力発電所の許認可の再開を求めた。

議会も上下両院でそれぞれ調査を行った。調査報告の内容はケメニー報告とほぼ同様であったが、避難活動について

の3点を指摘している。原子力開発体制を総点検するまで原子力計画に対するモラトリアムを実施する法案も提出されたが、圧倒的多数で否決された。

独自調査を行い改善を進める一方で、次の機関を設立した。


第3章 アメリカ国内における原子力政策推進派と反対派の構図

原子力政策を推進する人物の一人にピート・ドメニチがいる。彼は、94年以降予算委員長を勤める上院の共和党議員だ。彼は、97年に行われた原子力学会の冬季大会の中で、今下火になりつつある原子力関係の開発を、もう一度見直していこうということを言っている。具体的には、使用済み核燃料の再処理と、MOX(混合酸化物燃料)への研究取り組みと、温暖化防止対策としての原子力研究開発をもっと積極的に進めていこう、といった内容である。

上下両院合同原子力委員会(JCAE)と、エネルギー歳出小委員会の委員長を兼ねるドメニチは、当然の事ながらアメリカの原子力政策に大きな影響力を持っていると考えられている。

93年当初、クリントン大統領は、カーター政権の時と同じく、原子力発電は、エネルギー政策の最後のオプションとしての位置づけにとどめるという、比較的消極的な立場をとっており、この姿勢は今でも公式には変更されていない。ただ、原子力政策に積極的とわれている共和党が多数をしめた94年の中間選挙以降、クリントン政権の政策には若干の変更が見られている。この点については、3に書く事例研究に述べる

→以上の2つは電力会社からの寄付金によって支えられている。

米国ではウェスティングハウス(WH)会社とゼネラル・エレクトリック(GE)社が主流であり、この他にはB&WやConbustion Engineeringがある。主力の両企業は市場を求めて海外進出をはかっている。その背景を以下にみていく。1974以降、アメリカ原子力発電所の新規発注はゼロであり、建設中の原子力発電所がキャンセルされる例も多数ある。この背景には1960ー70年代の経済成長の低迷や電力需要の伸び悩みがあり、また、より重要だと考えられる背景として、アメリカ特有の厳しい安全規制がある。TMI事件の反省から生まれた規制など、米国の複雑な手続きのために建設期間が長期化し、建設費が高沸するため会社の財政に大きく影響する。

こうした国内の壁を回避して、両企業は海外に市場を求めてきた。そして現在の市場ターゲットは中国である。くわしい記述は後の国際情勢のセクションに譲るが、米中原子力協定の85年以来の凍結が解除を契機に、沸騰水型原子炉および加圧水型原子炉それぞれの技術を独占するGE社およびWH社が中国に目を向けている。この流れを示す、現実の企業の動向として挙げられるのは、WH社のマイケル・ジョーダン会長が過去4年の間に6回訪中し、最近も米中首脳会談に先立って北京で江主席と会い、米政府の動向を伝える、といった積極的行動である。

また、国内での市場拡大がもはや望めないという現状の一方で、国内でも既存の原子炉のリペアなどといった活動も2社が担当していることは見逃せない。

こうして、企業界は原子力推進派として位置づけられる。

*National Academy of Sciences

94年の議会の中で、核融合開発研究に予算を振り分けるかどうかで、彼らは、核融合関係の予算を落とすことを中止するように要請した。

マサチューセッツ工科大学のメンバーによって設立された「憂慮する科学者同盟」(The Union of Concerned Scientists)や、消費者運動家として有名なラルフ・ネーダー率いる「パブリック・シチズン」等、積極的な反原子力運動を行っている著名な団体がアメリカにはいくつかある。彼らは、連邦議会へのロビー活動や訴訟活動、研究、調査、報告書の発表等の活動を行っている。

最近の原子力反対の活動として「憂慮する科学者同盟」は、次のようなことを行っている。

NRCに対して、Yankee Rowe 原子力発電所を即閉鎖することを要求

このように見てみると、NRCは原子力産業に対して非常に甘い、という構図が浮かび上がってくる。実際、米会計検査院(GAO)は、「米国の原子力行政の元締めであるNRCは、大事故につながりかねない原発の設計ミスや作業員の安全規律違反を放置したまま運転を黙認している」と、NRCを手厳しく批判する報告書を公表している。それによると、調査の対象とした1981年〜86年暮れまでの間に、NRCは全米の約100基の商業用原発で基本設計のミスや作業員の居眠りなど1万2170件の安全規則違反を確認、うち477件は「重大な危険性あり」と判断した。しかし、この期間中に、解決されないままだった違反が163件もあり、うち重大事故に発展しかねない違反が32件あった、という。

原子力賛成派が多い中、原子力産業が振るわないのは、決定アクターとも呼べる電子力会社が反対派であるからだと解釈できる。反対要因はコストと規制の問題である。

第一に、原子力の全体コストが石油・火力などにくらべて高いことである。全体コストとは、会社がもし原子力をとったときにかかるコストを包括したもののことで、1)原子力=危険、というイメージを払拭するための宣伝費、2)建設費、3)金利、4)保険、5)事故リスク代などが考えられる。実際に、石油火力ではkwあたりの建設単価が19万円、LNG火力が20万円程度であるのに対して、原子力は31万円程度もかかってしまう。

こうしたコスト高に加えて第二に、規制の問題がある。アメリカでは中小規模の電力会社が多いため、建設費の高騰を補うのは困難である上、建設までのコストを電気料金に入れられない、という規制もあり、会社の財政難は深刻である。

以上の経済的観点から、電子力会社は原子力反対派に位置する。

4の事例研究を参照

上の図式をより理解するために、一つの事例を取り上げて、その中で上のアクターがどのように動いているのかを見る。

「97年度予算における原子力関係研究開発費をめぐっての争点」

97年度会計予算の中で、下院と上院の中でもめた問題がある。「waterprojects」を推す下院に対し、上院の方は原子力関係研究開発の方を推し、両者の間で、どちらによりウエイトを置いた予算配分をするのかで議論になったのだ。この議論の過程の中で、クリントン政権は原子力関係の研究開発を積極的に支援している。

また、94年以降、予算委員長を勤める「Sen.Pete.V.Domenici」も同様に、原子力関係の研究開発を強く支援している。Domeniciは、上院の共和党議員で、エネルギー省の中でも強い影響力をもち、特に、この104期の国会が始まってからは、強い発言権を持っているといわれている。その意味で、クリントン政権の原子力政策に与えた彼の影響は、かなり大きかったといえるだろう。

そういった、原子力関係の積極的なサポートがある中で、太陽エネルギー開発や、再生可能エネルギー利用といった、新しい分野でのエネルギー開発予算は削減されている。再生可能エネルギー利用についてみてみると、予算は、95年の38億8千万ドルから、96年には、27億5千万ドルに削減され、さらに下院の試算では、97年には、23億ドルにまで削減されるという。

このように、97年度のエネルギー関係での予算配分は、原子力関係で肯定派と否定派の真っ二つに割れ、結果として原子力肯定派色の強い予算配分となった。


第4章 国際政治における米国原子力政策

まず、世界における原子力発電の需要を概観したい。現在原子力発電は現在世界の電力の17%を供給している。この電力量は中東最大の産油国である山灼益凡N間石油生産量(1995年実績約4億2.600万紬)を上回る約5億紬の石油を火力発電所で消費した場合に発生する電力量に相当。

1996年時点で世界の32カ国・地域で434基の原子力発電所が運転中で合計出力は3億6.600万キロワットにのぼる。アメリカが最大の原子力発電国。2位はフランス、3位に日本が続く。世界の原子力発電は1960年代の導入初期の時代を経て、1973年の石油危機を契機に、竿抃洌招・竪_から多くの国で70年代から80年代にかけて飛躍的に拡大。しかしながら、1979年の舜囲荷渦忿爪原子力発電所の事故、1986年のソ連(現在のウクライナ)のチェルノブイリ原子力発電所の自己により、国民の原子力に対する不安や反対がたかまり、原子力開発にブレーキがかかった。

原子力発電の将来的な見通しとして挙げられる事は、石油などの化石燃料による二酸化炭素の排出削減に寄与することができる点である。1kw時の電力を生産するのに、石炭では270g、石油では200g、比較的誇維といわれる天然ガスでも180五徘の二酸化炭素が排出される。新竿抃洌として注目されている太陽光や風力でも20〜60gの二酸化炭素が排出されるのに対し、原子力発電の場合は、2.5〜5gと格段に少ない。これは現在の原子力発電の発電電力量を全部火力発電所に置き換えた場合に比べ、約4億〜6億紬の二酸化炭素の排出削減に貢献している。このように地球温暖化など環境に対する影響を考えると、事故の危険性を抜きに考えれば、原子力発電の果たす役割が小さくはないとも言えよう。

主要国の原子力発電の開発状況は参考資料のグラフを参照。

こういった中でアメリカ国内での原子力産業の現状は一体どうなっているのであろうか。実は、アメリカ原子力発電所の新規発注は1974年以降まったくなく、建設中の原子力発電所がキャンセルされる例もかなりの数にのぼる。この要因のひとつは、アメリカ特有の厳しい安全規制にある。つまり、複雑な手続きのために建設期間が長期化し、建設費が高騰するため、電力会社の財政に大きく影響するからである。

アメリカの電源開発は、1960−70年代の経済成長の低迷や電力需要の伸び悩みを受けて、計画の中止、先送りが行われた。特に、原子力は1974年以降の新規発注による基数の増加がまったくなく、低迷を続けてきた。建設中の原子力発電所でも、運転開始のメドが立っていないところが非常に多く、建設をキャンセルするところもかなりあった。こうしたキャンセルの頻発する傾向は、アメリカにおける固有の事情に基づくものであった。アメリカでは、連邦政府の歴史的な原子力政策の変更に伴い、原子力規制項目の増加、規制手続きの複雑化を招き、操業可能になるまでにかかる時間が長期化し、さらに確実性に欠けていた。運転開始までの時間の長期化は電力会社にとって、当初予定していた以上の高金利を余儀なくされた場合に、その金利支払に相当の負担がかかる。特にアメリカでは、中小規模の電力会社が多いため、建設費の高騰を補えないほどの財政難にあってきた。さらにアメリカでは、こうした時間の長期化の上に、建設までのコストを電気料金に入れられないという規制があるため、財政難は深刻であった。実際のキャンセルの一例として、オハイオ州モスコーで、97パ ーセントも工事が終わっていた原子力発電所の建設が安全上の問題から中止になるといった衝撃的なものもあり、かなり深刻な状態であったことがうかがえる。

こうした受注難の情勢下にあって、原子力関連メーカーは一般に厳しい状況にあった。特に深刻なのが製造に携わるメーカーであった。建設中の原子力発電所がある限りは事業機会が残されるが、新規発注のない状況が続くようでは、事業機会はいずれ少なくなる。また建設中にキャンセルとなることも考えられる。このため、主要メーカーの中には自社内の製造部門を大幅に縮小し、かなりの人員を解雇したところも多いといわれている。また、主要メーカーは自社以外の部品・機器メーカーからも購入していたが、こういった専門メーカーのうち、特に中小メーカーが多大な打撃を受けており、すでに撤退したメーカーも相当数に昇ったといわれる。こうした結果、アメリカ全体の製造能力は大幅な減少傾向に陥ってしまった。

このようなキャンセルにもかかわらず、アメリカは電気の供給を依然として大きく原子力発電所に依存している。1994年6月現在運転中の109基の原子力発電所は、フランス、日本、ソ連を加えた原子力発電所と同程度の電気を生産している。1993年には総電力量のおよそ21%を原子力より得ている。しかも、1973年の石油禁輸以来原子力発電がアメリカにもたらした経済上の効果はかなりのもので、これまでに43億バレルの輸入石油が原子力によって置き換えられ、貿易赤字額は1250億ドルも削減された。また、原子力は10億トンの石炭と6兆5000億立方フィートの天然ガスを節約した。また原子力は、炭酸ガスの年間放出量の20%削減に加えて、硫黄酸化物、窒素酸化物、その他の浮遊汚染物質の放出を大幅に削減することにより、環境保護にも大きく貢献している。

1993年1月に登場したクリントン政権は、エネルギー環境政策上、原子力に対して高い優先度を与える必要性を認めず、短期的に商業利用の見込みのない原子力プログラムの中止を提案するなどの動きを見せている。このような状況の中でも改良型軽水炉の標準化プログラムは推進されており、将来必要とされる電源の確保に向けての準備が行われている。また、海外の市場への参画も積極的に行っていこうとしている。

こういった背景にアメリカのGE社やWH社は、原子力発電を海外へと輸出することによって会社としての存亡をかけた。しかしながら原子力機器や資材の輸出は非常に危険な一面をもっている。それは原子力発電のためにと輸出されたものが、軍事転用された場合である。この事が通常の製品とは性格を異にするところであり、輸出国の責任が大いに問われるところである。輸出をした後も輸出国は常に機器・資材の利用状況に目を光らせておく必要があり、相手国が軍事転用に絡んだ不審な動きをした場合はすぐに対処せねばならない。アメリカは特に核不拡散という国家戦略のもとで、原子力機器や資材を輸出する際には特に注意をはらっている。

1992年に12年ぶりに誕生したクリントン=ゴアの民主党政権は、発足後直ちに核不拡散政策のレビューを開始し、1993年9月に「兵器拡散および兵器管理政策」というシートを発表し、同政権の核不拡散政策を明らかにしている。この中でクリントン大統領は、

といった4本の柱立てを行うとともに、国際的保障措置の枠外での高濃縮ウランとプルトニウムの生産禁止、抑止力として不必要になった米国の核物質への国際原子力機関(IAEA)査察の受入れ、平和目的のプルトニウムの備蓄量の制限方法の開発、プルトニウム処分オプションのレビュー開始といった核不拡散を強化するための4つのイニシアチブを提案している。

日本の再処理計画に大きな打撃を与えたカーター政権以来、12年ぶりに誕生したクリントン-ゴアの民主党政権に対するわが国の最大の関心は、同政権の打ち出す核不拡散政策にあったといっても過言ではない。1992年の大統領選では財政赤字の削減や国内経済の再活性化が最大の争点となり、核不拡散を含めた外交政策が大々的に取り上げられることはなかったが、クリントン政権は、発足後直ちに核不拡散政策のレビューを開始している。

1993年9月27日に米国クリントン大統領は、「兵器不拡散および兵器管理政策」というファクト・シートを発表し、自らの核不拡散政策を明らかにしている。この中で、同大統領は、まず「大量破壊兵器およびその輸送手段であるミサイルの拡散を防ぐための米国の取り組みに関する基本姿勢を明らかにする」ことを明記した上で、「米国の兵器不拡散および輸出管理の基本指針」として、以下の3つの原則を示している。

続いて、核不拡散に関連した主な政策の柱立てとして、

といった4つの項目を打ち出している、以下に詳しく見ていきたい。

この項目では、「米国は、核兵器の解体や民生用原子力プログラムで生じる核物質の増大に対し、包括的な取組みを行う」として、以下の7つのアプローチを挙げている。

ロシアやこの問題について関心や経験のある他の国々を、この研究プログラムに招待したい。そして、「米国は、プルトニウムの民生利用を促進させる意志はなく、したがって、原子力発電あるいは核爆発目的であれ、プルトニウムの生産を行わない」との米国の姿勢を再確認するとともに、

「しかしながら米国は、西欧諸国および日本との間における、民生用原子力プログラムでのプルトニウム利用に関する現在の取極を今後も維持する」と明記している。

この項目では、まず「真の効果を得るためには、全ての供給者による統一的な輸出管理が必要である」との認識のもと、米国は「できる限り国内管理と多国間管理の調整を図る」ことがうたわれている。その上で、「米国の一方的な汎用品の輸出管理および政策を見直し、これらが国家安全保障上および外交政策上の利益にとって不可欠でないかぎり、撤廃する」としている。

また、大量破壊兵器やそれを運搬するミサイルの拡散に実質的に寄与する輸出は防止するが、米国の経済強化に重要な役割を果たす正当な輸出は禁止することのないよう、米国の兵器不拡散輸出管理システムの責任強化と効率改善を図るとしている。

この項目では、「米国は、NPTが1995年に確実に無期限延長されるようにあらゆる努力を行う。そして、IAEAがその保障措置上の責任を果たすために必要な資源を確保できるようにし、秘密の核関連活動を検知するIAEAの能力を強化するように働きかける」と記されている。

この項目では、米国の外交および他国との関係において、兵器不拡散を今後さらに重視し、考慮していくことが明記された上で、「朝鮮半島、中東および南アジアのような緊張地域での拡散の脅威に対する特別な取組みを行う」とされている。具体的には、まず、朝鮮半島については、米国の目標は「朝鮮半島の非核化」にあり、北朝鮮の核非保有へのコミットメントの完全な遵守と南北朝鮮の非核化協定の効果的な実証に向けた取組みを行うことが記されている。中東については、同地域の大量破壊兵器全廃に向けた基礎を築くため対話を促進し信頼関係を構築していくことが、ペルシャ湾地域については、他の供給国とともにイランの核兵器などの開発阻止、およびこれら地域におけるイラクの再興阻止に取り組むことが、それぞれ挙げられている。さらに、南アジアについては、インド、パキスタンの核およびミサイル能力を抑制し低減させることを目標に、両国を含めた不拡散・安全問題に関する多国間討議を奨励するとしている。

このように、全体としてはこれまでの政策の継続性を印象付けるクリントン政権の核不拡散政策であるが、その一方で、前述のような大きく変貌を遂げた核拡散を巡る世界情勢を反映して、核拡散の強化という点において以下のような4つのイニシアチブを新たに提案している。

軍事用の高濃縮ウラン(HEU)やプルトニウムの生産そのものを世界的に中止しようというこの提案は、これら核物質の問題国への流出やテロの危険性を踏まえたものと考えられ、クリントン政権の核不拡散政策の中でも最も重要な要素とみなされている。今回の提案は、保障措置がかけられている施設で生産された民生目的に限定された核物質には適用されておらず、日本や欧州諸国の原子力プログラムへの影響は生じないが、米国議会の核不拡散強硬派など一部の世論からは、核拡散の懸念を主な理由に、民生用核物質の生産も同様に禁止するよう要請が出されている。なお1993年12月16日には、国連総会が軍事用の核物質の製造禁止条約の作成を提唱する決定を採択している。

これは、冷戦終結に伴う核兵器の解体によって、米国において大量の核物質が発生することが前提となっているとみられるが、核保有国が従来機密扱いとなっていた軍事用核物質を自主的にIAEAの査察対象とすることで、IAEAの国際的な核不拡散体制としての権威が強化されると考えられること、また核不拡散強化のために米国が自ら率先して行動し、他の核保有国の追従を求めるアプローチを選択したことは注目に値する。

この提案については、何をもってプルトニウムの備蓄と見なすかがプルトニウム利用計画に大きくかかわってくるとみられている。例えば、当初の需給計画とのずれを備蓄と定義した場合、仮に増殖炉計画に遅れが生じたとすると、当初の計画との差は備蓄とみなされ、制限が加えられることになるため、このような需給バランスのずれを正当化する必要が生じる可能性がある。したがって、今後のプルトニウムの備蓄に対する国際的なコンセンサスの形成が、重要な意味を持ってくる可能性がある。

プルトニウムの処分技術オプション(ガラス固化して直接処分する、原子炉で燃焼する等)レビューに関する提案では具体的にロシアについて言及しているが、これはロシアの軍事用プルトニウムに関する米国の安全保障上の懸念が大きな要因となっていることを意味している。ここにプルトニウム処分に関する経験を有する国々、すなわち英国、フランス、日本、そしておそらくドイツといった国々が関与することによって、プルトニウム処分に関する技術的知見のさらなる構築をもたらすとともに、これらの国々と民生用の余剰プルトニウムの取扱いを検討する口実をつくることができるといった利点も指摘されている。また、このようなアプローチは、先に指摘したように、クリントン政権がカーター政権とは異なり、他国(この場合は少数に重要国)との相互対話を重視しようとしていることの表れであるとみなすこともできる。

このセクションでは、国際関係におけるアメリカの原子力政策について、米中関係を事例として取り上げ、理解を深めたいと思う。

米国と中国は、1985年7月23日に原子力協力協定(Agreement of cooperation pursuant to the Atomic Energy Act)に調印した。以来、この協定により両国は原子力の平和利用に関して協力していく姿勢を打ち出したが、1989年の天安門事件以来この協定は凍結されることとなった。この決定は、ブッシュ政権による対天安門事件として取られた数々の制裁措置の一環と位置づける事が出来る。

クリントン政権に移行した後、これらの制裁のうち一部は緩和されたものの、この原子力協定の凍結は、政権発足後も引き続き継続されることとなった。1995年10月3日の段階では、クリストファー国務長官の、「天安門事件以降課した制裁をまだ解く段階ではない。」との発言もあり、制裁解除への動きはみられなかったと言えよう。原子力協定凍結解除に当たっては、クリントン大統領が議会で以下のことを証明する必要があった。

しかしながら、中国にはパキスタンやイランに対しての何らかの協力をしている(していた)といったような疑惑があり、上記の条件は達成できないでいた。

一方で、この米国の制裁の有効性については、例えばフランスなどの国が中国に対して米国が制限している商品を販売しているなどということがあり、常に議論の的となっていた。この議論と関連して、米国内での原子力需要がほとんどない中、ウェスティングハウス、GE、ABB−コンバスチョンエンジニアリングなど、主要原子力メーカーにとって、今後電力需要が著しく増えることが予想される中国市場は、非常に重要であるとの議論もなされた。

この、原子力協力協定を巡っての議論は、1997年10月に中国の江沢民国家主席の訪米にともなって新たな展開を迎えることとなる。江沢民氏訪米の前に、原子力協力協定の凍結解除を目指す動きが米国内で活発になってきた。凍結解除の焦点は、中国がイランに対しての各関連技術協力の全面停止を約束するかというところにあった。これは、凍結解除に際して、議会の同意を得る必要があり、そのためにも核不拡散への協力を中国が約束するということが不可欠であるということからであった。この調整を巡り、米側からクリストフ大統領補佐官、アインホーン国務次官補代理などが北京を訪問し、事務レベルでの協議が行われた。産業界からも、米政府の議会対策の遅さに対する不満の声があがったり、ウエスティングハウスのマイケル・ジョーダン会長は、過去4年の間に6回も訪中したり、米議会公聴会で原子力協定の早期履行を訴えるなど、凍結解除のおぜん立てをした。

結局、中国側が、対イラン核関連技術協力の全面停止を確約したことから、米中首脳会談によって、1989年以来12年にわたって凍結されていた原子力平和協定は再び履行される運びとなった。このことによって、米原子力関係企業は、中国に対して原子炉などを輸出することが可能となった。中国の原子力市場は、200億ドルとも600億ドルとも言われるような巨大市場であり、この市場に米国企業が参入することが出来るようになったということは米国の国益にかなっているといえよう。

安全保障上の視点からは、米国の高い技術が中国に移転することになり、今後の中国の動向次第では核拡散に繋がりかねないという懸念は、依然として完全に拭い去れないものの、今回イランに対して中国が核関連技術協力を行わないとの確約を取りつけたということで、ある意味で核拡散に歯止めがかかった形ともとることが出来よう。米国は、核不拡散の政策をとりつづけているし、一番心配するイランのような国への核拡散の可能性が低くなったということでは、安全保障上もある程度米国の国益にかなった決定ではなかったかと思われる。


第5章 結論 −米国原子力政策における現状と課題−

既に見たように、アメリカ国内において原子力発電は、ある程度の見直しがされているとはいえ、もはや飽和状態にある。国内での新規発注がほぼ見込めない中、GEやWHといった原子力企業は、国外輸出の方向を目指さざるを得ない。これに対して、核の拡散や安全保障の観点から見ると、原子力を安易に輸出することは、アメリカの国益にとって極めて重要な影響を与える。アメリカの原子力政策のポイントは、経済上の利益と安全保障上の利益という相反する目的を、どのように両立するかにあると言える。

上のような状況に於いてアメリカが採っている政策とは、どのようなものであろうか。ここでは、先に出した中国の例を用いて説明する。アメリカは97年の米中原子力協定解除をきっかけに、中国に対して原子力発電を輸出することを可能にしたのであった。このとき、アメリカは経済上と安全保障上の二つにおいて、ある利益を得ている。すなわち、経済上においては、200億ドルとも600億ドルとも言われる市場に参入するという利益を得た。また国防上では、中国がイランに対して核関連技術援助を行なわないとの確約を取り付ける、という利益を得た。さらに、中国の原子力技術は、安全性において非常に遅れているという見方が多く、アメリカの先進技術の導入は、原発事故を未然に防止するという意味で効果があると言われる。

対中国の例から言えることは、アメリカは、原子力技術を安全保障上のカードとして活用しながら、輸出しているということである。つまり、一見核拡散につながる原子力技術の輸出であるが、それを欲しがる国に、なんらかの核不拡散の約束とバーターとして民生用の核技術のみを与えることで、逆に核不拡散に繋げるという意図である。しかも、安全性の低い原子力技術しか持たない国には、アメリカの先進技術を導入する事で、安全性も確保できるようになる。

このように、国によって様々に違いは出てくるものの、(1)民生用の核技術を輸出することで、経済的な利益を得る。(2)このとき同時に、なんらかの約束と民生用の核技術をバーターとすることで、核不拡散へと繋げるという二本立てのパターンが、アメリカの原子力政策には、一貫して見られるのである。

こうした政策に対する評価であるが、前述した経済上の利益と安全保障上の利益を両立しているという点では、ある程度評価され得る政策ではないだろうか。但し、今後の課題は依然として指摘されなくてはなるまい。

今後の課題のうちの一つは、原子力輸出のバーターとして取り付けられた約束が本当に守られていくのかを、厳しくチェックしなくてはならないことである。例えば中国については、ワッセナーアレンジメントなどの軍備管理の国際的レジームにしっかりと入っているわけではなく、その意味では江沢民との口約束に過ぎないという言い方もできる。前述したように、民生用の原子力輸出とはいえ、やはり原子力の輸出が、核の拡散に悪影響を及ぼすという可能性は拭い去れない。要は、アメリカがバーターとして取り付けた約束を、被輸出国どれだけ確実に実行させるかが、現在の原子力政策の大きな課題の一つであり、その達成によっては大きく評価が分かれてこよう。

もう一つは、原子力政策に限ったことではないのだが、アメリカの政治の特徴である、利益団体政治そのものが持つ不安定要素も指摘できよう。今後原子力業界が圧力を強めてきて、大統領をはじめとする行政府がこれらの圧力をうまくコントロールできないようにまでなってしまうと、米国の安全保障上に重大な問題を来たす可能性がある国、地域にまで、原発と原発技術が輸出されることになるのかもしれない。課題と呼べるほどのものではないかもしれないが、利益団体はしばしば自分達の利益のみを追求する傾向があり、これらを全体を通してみる視点でうまくコントロールできないと、全体のしかも重大な利益を失いかねない。



<参考文献>
本・論文
  • 「ドメニチの挑戦」 エネルギー総合推進委員会(平成10年6月)
  • 「CQ Weekly Report」94年6月18日号、96年7月20日号
  • 「Open Secrets」94年
  • 「Nuclear Energy Research Initiative」
  • Office of Nuclear Energy, Sciende and technology,U.S Department of Energy
  • 原子力委員会、「原子力白書」(平成7年度版)、大蔵省印刷局
  • 「世界の原子力事情と欧米主要国の原子力開発状況」日本原子力産業会議海外業務部次長小林雅治、国際資源
  • 「アジアにおける原子力発電の現状と見通し」通産省資源エネルギー庁原子力産業課橋本智之、国際資源
  • 「アメリカ原子力発電産業の現段階」藤岡 淳 立命館経済学 '97 2
  • 「アメリカ原子力産業の形成」藤岡 淳 立命館経済学 '96 10
  • 「アメリカ原子力産業の展開」R. ルドルフ、S.リドレー著、お茶の水書房、1991年。
  • 「原子力産業」武井満男、同文書院、1988年。
  • 「若者に贈る原子力の話」村田浩、(社)日本電気協会、1997年。
  • 「原子力委員会の闘い」石川欽也、電力新報社、1983年。
  • 「プルトニウム 核時代の危険物質をいかに扱うか」核戦争防止、国際医師会議、エネルギー・環境研究所、田窪雅文訳、ダイヤモンド社、1993年。
新聞・雑誌
  • 朝日新聞
  • 日本経済新聞
  • News Week
インターネットコンテンツ