Part1
Group B
平本典昭, 山本真智子 木田悟史, 太田陽介, 森川亜衣子, 石垣直美, 川田美穂, 相部健一, 田所歩, 島崎若菜, 後藤貴樹 ※順不同 |
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まず、レーガン就任時のアメリカの財政は、急速に悪化しているという状況だった。財政が特に著しい悪化を始めたのは、カーター政権下の1975年以降であった。(図表1)負債額を見ると、1975年以前まで4000億ドル台であったものが、1981年に9000億ドル台にまで急増している。レーガンは、財政が急速な悪化をしているさなかに大統領の座に就き、後の政権に先駆けて、アメリカ財政再建に一番始めに取り組むことになったのである。
次に、財政再建に取り組もうとする、レーガン政権が置かれていた状況を確認する。まず、強いインフレ傾向と、経済不況があった。(図表2、3)インフレ率は、1973年から高まりを見せはじめ、レーガン就任当時には13.5%にも上っていた。また、失業率こそカーターの雇用拡大政策により上昇は見せなかったが、(図表4)経済成長率は1979年から落ち込みを見せており、80年にはマイナス成長となった。このように経済不況が深刻化していた。また、対外経常収支(図表5)に着目すると、70年後半に赤字すれすれであったものが、80年代になるとついに本格的赤字に落ち込んだ。また、85年には、対外純資産がマイナスとなり、債務国に転落するなど、国際経済的にみてもアメリカ経済は弱体化していた。また政治的にも、アメリカの地位は揺らぎはじめていた。1973年?のベトナム戦争終結で露呈したアメリカの威信失墜は、1979年のイラン大使館占領事件で決定的なものとなったのである。このように、レーガンの財政再建の取り組みは、経済的にも政治的にも「弱いアメリカ」の中で始まった。彼が選挙で掲げたスローガンは、「強いアメリカの復活」であったが、このことは財政政策にもまた重要な意味をもったのである。
前述のような背景のなかで、レーガンが財政赤字削減のために取り組んだ政策は、大きく次の三つに分類できる。すなわち、
レーガン財政の背景において見たように、財政赤字削減のためには、不況脱却と経済再生が必要不可欠であった。レーガンは1981年2月に、大幅な減税、インフレ抑制、規制緩和、政府支出の削減を盛り込んだ経済再建計画(図表6)を発表し、その後これに基づく形で、具体的な政策を展開した。以下、それぞれの政策を見ていく。
レーガン大統領は1981年、経済再建税法(図表7)を実現した。これにより、法人・個人共に税率を引き下げ、個人の勤労意欲や消費・貯蓄のインセンティブ、また設備投資を活発化させようとした。また特に設備投資に関しては、加速度償却制度(ACRS)を導入し、投資の活発化を図った。※
さらにレーガンは、1986年に税制改革(図表8)を行った。86年税制改革の意図は、過剰となりすぎた特例措置、投資家や法人の納税回避機会、さらに資本分配の不公平などを是正するというものであった。こうした問題点は、81年税法と、予想以上のインフレ抑制効果から生まれたものである。したがって、81年の経済再建税法を修正するという意味で、これに準じ、同じ方向性を持つものとして位置づけられる。
減税の実効性についてはだが、実質の減税額は計画通りに推移した。それに加えてインフレが予想以上に効果的に抑制された事があり(ブラケット・クリープ効果※も薄くなった)、実効税率は予想以上に低下した(図表9)。したがって歳入が予想以上の低下を見せ、後述する財政赤字拡大につながった。次に景気に対する影響だが、81年7月から82年11月まで、景気は深刻に低迷した。この景気低迷の原因は、金融政策などが複雑に絡み、特定することは難しい。が、あまりに急激で大幅な減税だったために、貯蓄率が下がり、高金利につながるという形で、短期的に見ると逆に景気低迷に寄与してしまった可能性は考えられる。しかし中長期的に見ると、83年以降景気は上向きとなり、減税効果は現れたと言える。ただし貯蓄率はその後も低下傾向が続き、高金利から外資の流入を招き、対外収支の悪化という形で、財政に対して諸刃の剣的な影響を与えたことは注意しなくてはならない。また、法人に対する減税効果については、設備投資※は盛り上がったものの、いくつかの要因により、米国産業全体で見れば、当初意図したような競争力の向上は必ずしももたらされなかったという指摘もある。ところで、こうした減税政策の国民に対しての影響を考えるとき、高所得者ほど有利な政策であったことに注意しなくてはならない。例えば、個人所得税については、81年の時点で最高税率者については、70%から50%に引き下げられた。ところが最低税率者については14%が11%になったにすぎなかった。また、特例措置などによって、個人投資家やきkぎょうにとっては減税や納税機会の現象などの恩恵があったが、投資を行う事のない低所得の国民にとっては、まったく関係が無かった。86年の税制改革においても、法人などの特例措置が緩和はされたが、大勢は変わらなかった。このように、レーガン政権の一連の減税政策は、高所得者層ほどその恩恵を受ける政策であった。
連邦準備制度理事会(FRB)は、政治的な独立を強化し、政治的圧力から自由に、金融政策のみを考えてインフレ抑制を行えるようにした。FRBは、景気の低迷にも関わらず、81年に歴史的な高金利を実現し、インフレ抑制を行った。これにより、インフレ率は81年以降急激な低下を見せ、83年にはほぼ落ち着きを取り戻した(図表3)。同時に83年からFRBは通貨料増加を放置する政策に転換し、金利が下がった。この頃には前述の減税政策による消費増大効果も威力を発揮しはじめており、景気は金利低下と減税効果の二つによって、上昇へと向かうこととなった(図表2)。
レーガンはまた、規制緩和を経済再生のための重要な柱の一つとして位置づけていた。1981年就任直後、政府規制緩和作業部会(議長:ブッシュ副大統領)を作り、意欲を見せた。レーガン政権下の規制緩和は環境規制など、社会的な規制が過大とされていた。このうち実際に、自動車関係環境・安全規制の緩和、鉄鋼業の大気汚染規制緩和、放送事業の認可等に関する規制緩和、金利自由化、預金の認可等銀行等の業務拡大が実行された。しかし、確かに規制緩和の具体的影響はレーガン政権下において生じているが、それらの基礎的変更は既に70年代後半に実現したものであり、それ以後に大きな変化を生じてはいない。つまり、規制緩和については、特別にレーガンの仕事であったというよりは、むしろカーター政権からの遺産を実行に移したのみという見方が正しい。
レーガンの財政政策において、政府支出の無駄を切りつめる事は、経済再建計画にも盛り込まれていることからも分かるように(図表10)、非常に重要視されていた。レーガンが行なった財政構造の改革を見るとき着目すべきポイントは、以下のことである。すなわち、福祉や地方への補助金などが比較的厳しい削減対象となり、逆に軍事支出はカーター政権交代時よりも増加を見せていることである。(図表11)こうしたことの根底には言うまでもなく「小さな政府」を指向していることがあり、また「強いアメリカ」復活という意図があった。
福祉部門については、政府支出における社会保障関連費の割合が上昇していること、年金基金枯渇の恐れがあること、増え続ける需要の中で、過度の社会福祉政策を見直す必要があることなどの問題点があった。具体的には、1983年の社会保障法改正と、毎年の予算の中での削減という形でアプローチがなされた。社会保障法改正の大まかな方向性としては、社会保障税(年金)を増税する一方で社会保障給付(年金)の基準を厳格化し、積立金を増やし将来の給付金増大に備えるというものであった。これと同時に、身障者や貧困者などへあてられることの多い補助金は、対GNP比率で80年に3.4%あったものが、85年に2.7%、89年までには2.4%と、毎年の予算の中で削減され、家計調査に基づく生活保護などが削減された。こうした福祉政策は、高所得者層や中間層にとっては、比較的受け入れ易いものであった。なぜなら、彼らは個人所得税(身障者や貧困者への補助金はここから出される)の切り下げの恩恵を相対的に大きく受けており、それによって生じた余裕を、直接自分に返ってくる「保険の購入」という形に切り替えるという感覚を持ち得たからである。対して低所得者層は、個人所得減税の恩恵が相対的に小さく、その上自分達に対する補助金が削減されるということで、不満を感じていた。逆に言うと、高所得者優遇の福祉政策であったという見方もできる。
前述の通り、他の支出がのきなみ削減される中で、軍事費は82年に1853億ドルであったものが、88年には2904億ドルまでの増加を見せた。この事の背景には、まだまだ不安定な冷戦状況が考えられるが、デタントの進行の中で70年代以降軍事費は緩やかな縮小傾向にあったのであり、これは、レーガンの行なった軍事費増大にを積極的に説明しない。この軍事費増大の目的とは、ベトナムやイラン大使館事件で失墜した基軸国アメリカの地位を、再び確固としたものにすることであった。レーガンが大統領選において最大の公約としたのも、「強いアメリカ」の復活であった。そのため、他の部門がのきなみ支出削減に向かう中で、軍事費だけは例外であった。しかし後に詳述するが、レーガン財政は前述のような取り組みに反して、1985年には2123万ドルにまで赤字を増大させてしまった。このことから85年以降、軍事費の増大に対する議会の批判の高まりがあり、軍事費の予算権限額は、85年以降とうとう縮小傾向へと移った。ただし、軍事費の歳出額だけをを見ると、引き続き維持ないし増加傾向にある。これは、85年以前に使いきっていなかった権限額の余りを85年以降にまわしていたからであった。軍事費の増大が財政に与えた影響とは、財政赤字拡大の大きな原因の一つになったことである。しかし、財政にとってプラスに働いた面もあった。すなわち、「強いアメリカの復活」がその後の対外貿易政策(貿易摩擦問題など)で、有利に働いた面があった。例えば、80年代は、当時日米間の貿易摩擦が激化したころであった。レーガンは88年、その日本を標的として、スーパー301条の制定を行い、厳しく市場開放を迫った。アメリカが日本に対して、半ば強引な貿易政策を押し通す事ができた背景には、世界の基軸国としての軍事プレゼンスがあった。確かに日本については、戦後から一貫して軍事プレゼンスを置いてきたのであり、やや特殊なケースかもしれない。しかし、基軸国アメリカとしてのの軍事的・政治的地位の復活が、プラザ合意によるドル危機の回避など、様々な対外交渉の場において、有利に働いたことは事実であろう。また、レーガンが残した「強いアメリカ」という遺産は、ブッシュ、クリントンと続く後の政権にとっても対外的に有利な条件として残された。後に続く両政権は、レーガンが軍事費を増大させていたからこそ、「強いアメリカ」を維持したまま、冷戦の終結に伴い軍事費を緩やかに縮小していく事ができた。このように、長期的に見れば軍事費増大が後の政権の財政にとって、プラス要因になったことは事実である。
さて、以上見てきたような財政構造の改革であるが、実際の結果を見ると、計画通り良好に推移したとは言えなかった。1981年に790億ドルであった財政赤字は、1986年には2212億ドルに達してしまったのである。その後、後述するグラム・ラドマン・ホリングス財政均衡法によって若干持ち直したが、前述のような取り組みにもかかわらず、レーガン政権を通じて財政赤字は、むしろ増大したのである。原因は、計画を下回る経済成長率から、減税効果が、計画したほどの税収増へ結びつかなかったこともある。しかし、それよりも大きかったのは、減税による歳入削減が計画通りに遂行されたのに対して、歳出削減の方は計画どおりに遂行できなかったことである。そして、歳出削減が計画を下回ったのは、そもそもの計画自体に無理があったことが考えられる。なぜなら、歳出削減の内訳を見ると、科学研究費など非義務的な費目については、計画をほぼクリアできている。それに対して保険、医療、所得保障、社会保障といった義務的支出の高い費目は、削減計画をクリアできていない。こうした費目は、83年の社会保障法改正を中心に削減の取り組みが行なわれた。医療給付費など! 、基準の切り上げを行なったにも関わらず額として減少していない費目もあった。つまり結果的に見ると、基準の切り上げや厳格化を図ってみるものの、需要の増大が計画をはるかに上回ってしまった。この点から、そもそも削減計画自体の見通しが甘く、多分の無理があったと言わざるをえないのである。歳入削減の方はというと、インフレを抑制する事に成功し、インフレがもたらしていたブラケット・クリープ効果も薄くなったため、計画を上回る減税に成功した。こうしたことにより、1981年当時の計画とは大きく異なる、歳入と歳出のアンバランスが生み出されてしたまった。こうしたアンバランスの上に、軍事費の増大や、急増しつつあった財政赤字に伴う金利支払い費などが追い討ちとなり、ついには2212億ドルの財政赤字拡大へと発展してしまったのである。
ここで、先出した、グラム・ラドマン・ホリングス財政均衡法について触れる。既に述べたように、85年までに、財政赤字は拡大を続け、2123億ドルに達していた。グラム・ラドマン・ホリングス財政均衡法は、こうした財政赤字をなんとか食止めようと、85年に施されたものであった。しかし結論から言うと、赤字の増大に対するいわば応急処置程度の効果しかもたらさなかった。この法の概要は、毎年の赤字上限額を設定し、これを超える予算が組まれた場合、自動的に各項目一律に予算削減が図られるというものであった。しかしこの法には、前提となる経済見通しが甘く、赤字上限額の設定自体が楽観的すぎたあくまで予算作成時のみ拘束力を有し、予算遂行時に増大する赤字を食止める力がなかった等の問題点があった。従って、効果のほどは、87年から89年までの財政赤字がかろうじて横這いになった程度であった。
アメリカは85年債務国に転落した。国内経済への影響、国際競争力という意味でも、対外収支の悪化はレーガン財政にとって重要な意味を持った。レーガン時代に生まれた財政赤字と貿易赤字は、双子の赤字と呼ばれ、相互に影響し合い、不可分な関係をもっている。対外収支回復のために重要となったのは、ドル高の是正と、特にアメリカにとって最大の貿易不均衡国となっていた日本を標的とする、貿易不均衡の是正であった。こうした方針に基づき、レーガンは第二期に入った直後の85年、ニューヨークでG5を開催し、プラザ合意を行った。当時、円ドル相場は1ドル=240円台だったが、この会議をきっかけにドル相場は落ち込みを見せたのである。また、日本に対しての貿易不均衡是正については、いまだ日米構造協議発足(89年)であり、制度化されてはいないものの、分野別の協議が重ねられていた。摩擦分野は、70年代の繊維、カラーテレビ、工作機械から80年代前半に入り、自動車、半導体、VTRなどへと移っていった。具体的な方策としては、アメリカ側の輸入数量割り当てや追加高税率関税、日本側の輸出自主規制などが行われた。
しかし結果的に、こうした努力にもかかわらず、アメリカの対外収支は悪化の一歩をたどっていった(図表)。ドル高の是正は成功したものの、日本に対する貿易不均衡はさらに拡大した。85年には為替レートを調整して是正を試みたが、成果はあがらず、日米間不均衡は、87年には500億ドルを超えるまでに広がった。また、減税効果のところで前述したように、アメリカ企業の競争力自体がかんばしい向上をみせたとは言い難く、対外収支悪化の一因となったのである。
以上見てきたようなことが、レーガンが行った具体的な財政政策であった。最後に、全体としてレーガンの財政政策がどのような効果をもたらし、当初の目的はどの程度達成されたのかを考える。レーガン財政の当初の目的とは、冒頭で確認したように、経済的にも政治的にも「弱くなったアメリカ」を再び「強いアメリカ」へと復活させる中で、財政赤字の急増を抑え、削減することであったといえる。これがどの程度達成されたかという評価は、短期的に見るか長期的に見るかによって、評価は大きく異なってくると思われる。すなわち、短期的に見ると財政構造改革の失敗や、対外収支の悪化なども手伝って、当初の計画を大きく裏切って財政赤字を増大させた。このことから、財政赤字削減の目的に照らすと全くの失敗であったといわざるをえない。しかし、財政赤字増大の犠牲を払いはしたが、レーガンは経済・軍事的に「強いアメリカ」復活とまではいかなくとも、少なくともその土壌は作ったといえる。経済的には83年以降、落ち込んでいた景気を復活させ、対外貿易の面でも様々な外交努力を行い、世界における「強いアメリカ経済」復活の基礎を作った。軍事的には、軍事費を大幅に拡大し、世界各地における米軍プレゼンスを強化することで、基軸国としての地位を堅持した。結果的には91年の湾岸をきっかけに、「強いアメリカ」復活となるのだが、これもレーガン時代に築いた基礎があってこそであったといえる。このように、長期的に見るとレーガンの残した遺産は大きいものがあり、レーガンが作った基礎が、後の政権が財政赤字を削減するにおいて効果をもたらしたことは間違いない。
さらに、レーガンの財政政策が国民に対して与えた影響へと考察を進める。これについては、一般的には結貧富の差を広げる政策であったという指摘がされる。1988年11月、大統領選直後にAP通信が行った世論調査によると、「経済政策全般については、3分の2が『国のために良かった』としている一方で、『豊かな人が一層裕福になった』とした人が7割強、『貧しい人が一層貧しくなった』という見方も5割を超えた」のである。確かに減税政策においては、既に確認したように、高所得者層ほど恩恵を受けやすい減税であった。さらに、財政構造の改革においても、支出削減の槍玉にあがったのは福祉部門であった。中でも、生活保護給付などは相対的に厳しい削減対象にあったのであり、低所得者層にとってはマイナスの改革であった。こうした見方において、「貧富の差を拡大させた」という指摘は正しい。ただし、一方で貧困率の推移を見ると、83年以降景気が回復してくると、その率は次第に着実な低下を見せたのである。つまり、景気の回復や減税効果によって、いわゆる低所得者層の人々を中間層へとすくいあげたという点を忘れてはならない。そうした意味で、ごくマクロ的にみると人々の暮らしは豊かになったといえる。こうした点が、3分の2がレーガンの経済政策を「国のために良かったと」評価したゆえんであろう。以上のようなことから、レーガン財政政策の国民への影響は、「中間層の幅を広げ貧困率を下げるという意味で全体的には、国民生活を豊かにしたが、高所得者層ほど恩恵を受けやすい政策であり、それぞれの階層間の格差は広がった。特に中間層にすくいあげれなかった最貧相にとっては、生活給付の引き下げなどマイナス面の方が大きかったとさえ言える」というような見方が正確である。
1992年に選挙でクリントン民主党政権が誕生した時には、80年代からのレーガンおよびブッシュ共和党政権による福祉関連支出の削減と減税という「小さな政府」政策路線を変更して、「大きな政府」が復活されると予想されていた。実際、クリントン政権は財政赤字の解決策として増税を実現し、更に国民全体を対象とした社会保険による医療保険の創設を提案した。80年代からの共和党政権時代の財政赤字とはまったく異なった、高所得者層に焦点を当てた増税を盛り込むことで、福祉削減に歯止めをかけようとするものであった。
しかし結局、1994年にはその国民医療保険構想は挫折し、それどころかその年の中間選挙では共和党保守派が大勝利し、議会両院の多数を占めるようになり、再び80年代のような「小さな政府」型の福祉改革と税制改革が提案された。96年の大統領選挙でクリントンが再選されたが、それは初期の頃のリベラルな政策が認められたわけではなく、共和党保守派のアイデアを取り入れたスタンスが評価されたとみればよいだろう。評価というよりも、80年代の政策の良いところを享受して、経済が良好になってきたことに対して、有権者は現状是認し、従来の方針・政策の継続を求めていたと考えられる。
このような状況の中で、クリントン大統領は、連邦議会において行った包括的経済政策演説の中で、短期景気刺激策、財政赤字削減、長期投資計画を3本柱とする経済計画を発表した。この中で、特に最重点対策としてあげられていたのが財政赤字削減であった。
大統領は、上に挙げたような問題に対処するために以下3項目からなる財政政策を打ち出した。
5年間の合計で、4730億ドルもの大幅な財政赤字削減を行う。これによって、単年度財政赤字は当時の3000億ドルから2000億ドル程度まで縮小されることが見込まれた。
削減の具体的な中身は以下の通りである。
*エネルギー税は連邦議会の反発にあい、見送られ、その代わりにガソリン税が導入されたが、それも民主党案の1ガロン当り6・5セントから、4・3セントへ縮小され、結局増収額で320億ドルを見込んだ。
国防費をはじめとした政府経費の削減を行う。また医療費公的負担(メディケア、メディケイドの削減などを加え、総計で3750億ドルの削減を予定していた。
財政赤字は、クリントン就任の翌年の94年には2000億ドルまで削減され、その後年々削減されていき、97年には226億ドルにまで削減されている。
その結果、財政赤字の縮小は長期金利の低下をもたらし、それが成長を支えて、*金利の低下は、特に住宅投資、耐久消費財購入など金利感応部門を刺激をして、成長を促進した。)さらなる税収増に結びつくという好循環を生んだ。
また、実質経済成長率も92年の2・3%から97年には3・8%にまで達したとされた。加えて、91年から97年までの間に雇用は1515万人増え、97年11月の失業率は4・6%と4半世紀以来の低水準を記録した。
国防費は、80年から、実質で1000億ドル近い削減を実現した。
特に高所得者層への増税については、年収20万ドル以上の高額所得者の納税額が全体に占める割合は、94年の14%から96年の17%まで増加している。)
こうして、実質経済成長率も92年の2・3%から97年には3・8%にまで達したとされている。 また91年から97年までの間に雇用は1515万人増え、97年11月の失業率は4・6%と4半世紀以来の低水準を記録した。
このように、クリントン政権の行った政策は、どれも成功しているかのようである。しかし、果たしてそれはクリントン政権の政策自体によるものなのか、あるいは、そこにはもっと他の要因があったのかということについて考えてみたい。
まず、金融政策の功績が挙げられるが、連銀は、インフレ抑制のために90年以降、早め早めの対応を見せており、物価の安定と長期金利の達成に貢献している。この結果、個人消費や、住宅、設備投資を促し、それが景気を支える大きな要因になったと考えられる。特に個人消費の伸びは、GDP比率で第2四半期の3・4%から4・2%へと上昇している。これにより、個人所得税の増収が可能になった。また、ストック・オプションの普及などを背景にした、キャピタルゲイン税の増収も可能になった。これは、特に、97年の記録的な株高という状況の中でさらに促進されることになる。
加えて、クリントン政権に対する期待がある。93年に行われた世論調査によると、ブッシュ政権の時よりもクリントンはいい仕事をするだろうと答えた人は58%にものぼった。また、クリントンの経済政策プランにあなたは賛成するかという質問に対して、61%もの人が賛成と答えていることからも、こうした期待感が消費、投資を短期的にではあるが刺激したものと思われる。(*この世論調査はNationalJournal93年2月6日、27日のOpinionOutlookから抜粋)
*この点、現在の日本も、超低金利といわれているほど、金利が低いにもかかわらず、一向に需要、投資が伸ないのは、政府の施策に対する強い不信感があり、それが金利の弾力性を低くしているからだと考えられる。
また、カーターにはじまり、レーガン、ブッシュ政権を通じて行われた規制緩和が合理的な産業基盤を築き上げ、それが93年以降、ようやく実を結び始めたことも景気拡大に貢献したものと考えられる。90年代の場合は特に情報通信分野での規制緩和が大きな役割を果たした。(*特に日本が参考にすべき点は、この点であるかもしれない。)
ハイウエイ投資、地域開発への資金援助、失業保険期間の延長、生産設備への投資税額控除などを行うことによって70万人から100万人の雇用拡大を見込んだ。
投資促進減税、高速道路網、上下水道等のインフラ整備、情報ネットワークの構築、研究開発投資プログラムの推進などを行った。と同時に、生涯教育の推進、州、地方政府への助成金の増加、大学教育の資金提供のためのナショナル・サービス・トラストファンドの創設などの検討を行った。
*この点で、連邦予算は一律削減されるわけではなかったが、こうした政策によって、アメリカの国際競争力が高まることが期待された。
ブッシュ政権に引き続き、
クリントン政権にとって最大優先課題(選挙公約)は、「経済成長」と「雇用」である。これを達成しなければ、再選はない。貿易政策は、それを達成するための必要不可欠な手段。クリントン政権のもうひとつの優先課題である「赤字削減」が長期的なデフレ効果を米経済もたらすので、輸出増は、経済成長と雇用の確保するために必要。何でも輸出すれば良いというわけではなく、「高級」な輸出で、「高賃金の雇用」を創出するハイテク産業を優先する(ポテトチップよりもマイクロチップ)。冷戦時代のように、安全保障上の協力を得るために貿易相手国に貿易上の譲歩をするようなことはしない。貿易相手国の市場が閉鎖的な場合は、米法に基づき、必要な場合には一方的制裁措置も辞さず、開放させる。特に、「日本」に対しては、他国と異なり、マクロの国際収支不均衡是正とミクロの戦略部門市場アクセスの両面で、一定期間内に一定の結果を達成するよう義務づける数量目標を設定する方針。
80年代後半までは、伝統的な「完全競争」「収穫一定(逓減)」「外部経済の不存在」を前提とする自由貿易であった。だが、収穫が一定ではなく「規模の経済」があり、その結果比較優位は、所与ではなく、人に先駆けて規模の経済を達成したものが獲得するという新しい貿易理論に基づく「戦略的貿易政策」が台頭してきた。この中では、企業数が制限され、競争は寡占的で不完全な市場で、そこで開発された技術は、その産業の利益にとどまらず広く社会一般の利益となるので、政府がそれを保護・育成するのは意味があり、日本や欧州では、実際にハイテク産業を戦略的に保護・育成している。ハイテク産業は、政府によって「操作」されており、自由貿易は存在しない。アメリカのハイテク産業が貿易相手国の戦略的貿易政策に駆逐されることを防止するためにも、アメリカ自身も戦略的貿易政策を採用するとともに、ハイテク貿易に関するルールを二国間で交渉することが必要である。
92年の大統領選挙キャンペーンにおいて、クリントンとゴアの両民主党候補は、「国民最優先」綱領を発表した。「80年代を通じて、我々の政府は、機会を提供し、責任を負い、労働に報いつつ、アメリカを強くするという価値に背いてきた、富める者はますます富み、忘れ去られた中産階級は、勤勉に働き、規則をきちんと守っているにもかかわらず、痛い目にあわされてきた。彼ら中産階級はより多額の税金を納めながら、政府はほとんど何の見返りも与えなかった。ワシントンは「国民最優先」を怠ってきた。今この国の経済がこの50年において最悪の状況にあることは誰の目にも明らかである。同様に我々の政治システムも機能していない。ワシントンは強力な利益集団と堅牢な官僚制に牛耳られている。アメリカ人は非難するのにもうんざりしている。今こそ指導者達は責任を取らなければならない。我々の経済戦略は、財政赤字を半減する一方で、今後4年間に毎年500億ドル以上を投資することで国民を最優先するというものである。この投資によって、高収入が得られる職業を数百万創出し、国際経済にいけるアメリカの競争力を高めるのだ。」そのために、経済・医療・教育改革とともに、行政改革の推進を掲げた。「トップダウン型の官僚制を『企業政府』へと変え、市民やコミュニティの権限を強めて、ボトムアップからアメリカを変える」具体的な改革として、
G.Bush大統領(共和党)第41代目。共和党の大統領としては3回連続。
1988年11月8日の大統領選挙で民主党のデュカキス氏に圧勝
政権発足 | 1989年1月20日正午 | |
任期 | 1993年1月20日正午まで | |
議会 | 共和党のブッシュ政権と民主党主導の議会という組み合わせ、二院制(上院100下院435) | |
人事 | 国務長官 | ベーカー氏 |
行政予算局長官 | ダーマン氏 | |
大統領補佐官 | スヌヌ・ニューハンプシャー州知事 | |
財務長官 | ブレデイ氏 | |
就任時の課題 | レーガノミックスの負の遺産である双子の赤字への対応 | |
海外市場開放推進を掲げるレーガン政権路線の継承を表明 | ||
その他 | べーカー前財務長官を要の国務長官に就任させたことから経済政策については | |
これまでと大きくかわらないのではないか、といわれていた。 |
選挙中から「増税をしない」と宣言していたブッシュは、低い税率が経済成長をもたらすという理念のもとに、増税をしないで経済成長をうながし結果的に税収を確保し財政赤字を削減しようというスタイルを持っていた。ところが、任期の4年間でレーガンから引き継いだ財政赤字を、結果的に増大させてしまった。確かに外交では湾岸戦争をはじめさまざまな功績を残し評価が高いた彼であったが、内政という点ではその外交にばかり目をとられ、これといった政策もうたなかのではという評価が一般的である。そういった中でも、財政赤字を減らそうと数々の施策を打ち出しており、そのブッシュの意図していたものを、念頭に発表する予算教書を中心にみていきたい。
1990年度連邦予算 | |
歳出 | 1兆1604臆ドル |
歳入 | 1兆0656億ドル |
財政赤字 | 948臆ドル |
レーガンはメディケア(13%→9%)、メディケイド(9%→5%)と共に歳出を抑えようと意図したが、ブッシュ大統領はメディケイドの歳出削減は従来のまま大幅削減を提案したが、メディケアにおける歳出削減案は撤回従来通りとした。
1991年度連邦予算 | |
歳出 | 1兆1702億ドル |
歳入 | 1兆2333億ドル |
財政赤字 | 631臆ドル |
ブッシュ大統領は、レーガン政権のテーマの一つでもあった商務庁の経済発展管理(theCommerceDepartment'sEconomicDevelopmentAdministration)とアパラキアン地方委員会(theAppalachianRegionalCommission)と地方投資会社(theNeighborhoodReinvestmentCorp.)への資金援助の削除を申し出た。「特定の地方にしか利益を生まない経済発展計画に関する決断や資金収集は、中央政府ではなく、私的投資家や州や地元の政府が責任を持って行うべきだ」と、ブッシュ大統領は言っている。
低所得者への家庭エネルギー費の援助
1991年 13・9億ドル
1992年 10・5億ドル
「燃料費が減少した現在、エネルギー援助を中心とした低所得者援助計画よりも、所得維持を目標とした一般援助計画を政府は実行するべきである」とブッシュ大統領は述べている。燃料費が基本的に落ち着いた事で、多少の燃料費の価格変動では今までこの資金援助の受領者たちは生活面での困難には直面しないだろう、とも大統領は言っている。また、低所得者に対してのエネルギー費援助は中央政府が打ち出している他の計画にも含まれている、と彼は言っている。
公共交通網
1991年 19・1億ドル
1992年 11・6億ドル
ブッシュ大統領は、人口が一億人以上の都市部に対しての交通援助金の削除を申し出た。一例として、ワシントン市内の地下鉄網への援助金を47010万ドル削減し、最終的に3800万ドルに押さえようという計画が挙げられる。
メディケア・コントロール
1991年
1992年 −55億ドル
25年の歴史を持つメディケアに関する計画の負担額の上昇を押さえるために、ブッシュ大統領は病院を主に対象とした新たな計画を幾つか打ち出した。55億ドルの削減額の三分の一は病院への資本金の返済を制限する事に依って実現させる。また、病院が行った手術の回数に応じて中央政府が資金を返済するという、見込み支払い制度の導入も削減につながらせようとしている。大統領は議会と一緒に、郊外、市内などの異なる病院の実態を理解しながら現在の計画を改新すると述べている。また、彼は医師に対する報酬の制限制度も打ち出している。
使用費・利用費設置
1991年 0ドル
1992年 56億ドル
公共施設などの使用費を設ける事に対して多くの批判があがる事が予測される。その理由として、それぞれの使用費は微々たる額に過ぎないのにも限らわず、国民からの批判と反対の声が大きいため、議会は新たに使用費制度を設置する価値が無いと指摘するからである。大統領の計画の一例を以下に挙げてみる。
まだ利用されていない電波数を一般の人たちを対象に売る事に依って23億ドルもの資金を集めようとしている。
カルフォルニアとワイオミンに位置する油田の貸し出しから得る10億ドル近い資金
物資と旅行客に対しての通関税の上昇から得る8・06億ドルもの資金
原子力発電所が支払うコミッション・フィーの増額を要求
政府が提供するサービスを利用する際の利用費設置
レジャーやビジネスを目的としたボートの保持者に対しての資金請求
1991年度連邦予算 | |
歳出 | 1兆1650億ドル |
歳入 | 1兆4059億ドル |
財政赤字 | 3081臆ドル |
1991年度連邦予算 | |
歳出 | 1兆5167億ドル |
歳入 | 1兆1648億ドル |
財政赤字 | 3519臆ドル |
医療費については年々巨額になる一方で、多くのアメリカ人は健康保険に十分カバーされていないか加入できていない現実がある。この現状改善のために、質の高い米医療制度の強化を通じて、基礎的な健康保険に加入でき、財政負担を軽減するように提案した。このように財政赤字の削減、景気の回復のために、短期的には医療費負担を軽減すること、そして長期的な生産性を上げることを挙げている。
例年予算教書はつじつま合わせに終始し、グランド・ラドマン法に従った、経済実態に基づいていない非常に楽観的な見通しが示されている。財政赤字の規模は常に過少に申告され、総じて見通しには大幅な狂いが生じていたといえるであろう。
アメリカの医療費は急増。1990年の医療費は6763億ドルと世界全体の医療費の39.7%を占め、1人当たりの医療費は日本の2.1倍である。1992年度では、8170億ドル、GDP比14%、国民1人当たり3270ドルであった。連邦予算に占める医療費の割合は1970年度で8.5%であったの対し、1990年は15.3%にふくれあがった。
メディケア(老年者医療保障)はジョンソンの「偉大な社会」政策の一つで、1965年から65歳以上の高齢者と障害者となった人々の医療費を連邦政府が100%負担、対象はおよそ3200万人というもの。入院費用と医師報酬を支給する。しかし、病院の費用が年々高まり、最小限の入院に止めてあとはナーシングホーム(75%が私企業の経営)に移る。これは病院より安いが、医療能力は弱くサービスの質も悪い。メディケアの資金(病院保険信託基金)は2001年までに底をつき、290億ドルの赤字が見込まれている。
メディケイド(生活保護医療)は1965年にメディケアと共に創設された。低所得で貧困者と認められた場合にこれが適用される。費用は連邦と州で折半する。適用者は1993年には3200万人で、子供は4人に1人が適用されており、無保険者はこの対象にはならない。何らかの企業負担による医療保険を持っている人の割合は1988年62%から1993年57%と減少している。また団体健康保険でも被保険者の状況に応じて保険料が算定されるので、疾病リスクが高い人や低所得の保険料が高くなる結果を生んでいる。企業の退職者に対する医療給付金が企業経営の重荷になっているという事実もある。
アメリカで医療費が高騰する理由として、
以上の5点が挙げられる。
図 図
また、上のデータから、ブッシュ政権時代の90年から95年まで、医療・メディケア共に支出が着実に増加し続けているのがわかる。
アメリカの年金制度は老齢・遺族・障害・健康保険制度であり、1935年の社会保障法ではじまり、徐々に整備されジョンソン政権時代に拡大した。1965年の社会保障法改正で国民皆保険となる。アメリカの年金基金は機関投資家として大きな力をもつ。基金の運用を有利にするため国内のみならず海外にも進出。資金力が豊富なので銀行や証券の経営姿勢にも影響力がある。
財政赤字のなかで抑制が難しい連邦歳出のひとつに医療費がある。この医療費は、80年度に553億ドルで連邦歳出の9.4%を占めていたが、90年度には1558億ドルに増加し、連邦歳出の12.4%を占めるまでになった。実際赤字をつくっているのは、メディケイドの方である。これは障害者や低所得者に、連邦政府がと州政府が強力して医療を給与する制度である。メディケイドのような年齢制限もないため対象者は94年現在は1600万人に上り、貧困ライン以下の人々の50%近くが含まれている。
こんなに医療費が増える理由はその、医療費を負担している主体を調べると一目瞭然である。国民医療費の負担割合は、90年に、連邦・州政府が41%、民間保険会社が32%、自己が23%、その他が4%となっている。(93年大統領経済報告)このように大部分が政府の負担であり、国民はわずかな自己負担しかないので、医療費を節約しようとする誘因がない。
また、民間保険会社の負担が大きいことも一因である。アメリカの多くの大企業は社員の医療保険掛金を支払っている。多くのアメリカ人は医療費に関しては65歳までは会社をあてにし、その後はメディケアを頼っていのである。しかしながら、保険が医療費を払ってくれるので、やはり医療費を節約しようという誘因がない。これに加え、医師も所得を高めるため、あるいは医療過誤訴訟に負けて賠償金を払うことに備えるため、医療費をつり上げる傾向がある。この医療費を削減することが政赤字を削減する上でのおおきなポイントになることは間違いないであろう。
ブッシュ財政のうちレーガン財政と大きく異なる一つの特徴に、第二次大戦後続いていた冷戦構造がここに来て崩壊したために、国防費削減の動きが加速しつつある事がある。
GNP比)は、朝鮮戦争後から70年代まで、ベトナム戦争期間中の60〜75年を除きほぼ一貫して低下傾向を続けてきたが、80年代に入り「強いアメリカ」標榜するレーガン政権下で上昇傾向に転じた。その一方で、米ソ間で軍縮交渉が進められ、81年から中距離核戦力(INF)の削減交渉、82年からは戦略兵器削減条約(START)の交渉が開始された。そして85年からはINF,核兵器、宇宙兵器を対象とする米ソ包括軍縮交渉が開始され、ようやく87年にワシントンで行われたレーガン大統領とゴルバチョフ書記長による首脳会談でINF全廃条約が調印された(INF全廃条約は88年にモスクワで行われた米ソ首脳会談で発効)。82年に開始されたSTARTについても、90年5月ブッシュ大統領とゴルバチョフ大統領によるワシントン首脳会談で基本合意に到達、91年6月モスクワで調印が行われた。さらに91年9月にブッシュ大統領は一方的な核戦力削減を発表、これを受けて翌月ゴルバチョフ大統領も核戦力削減を発表した。このように80年代後半、米ソ間で軍縮交渉が進み、世界的に緊張緩和が進展するに伴って国防費の伸び率は鈍化し、87年以降趨勢的に国防費比率が低下している。
限定的な紛争の可能性が増加するとの判断から、「偶発紛争対応軍」を創設、保有戦略や兵器調達の縮小を進めるとともに、92年度の研究開発関連予算を399億ドルと前年度比15・3%増加させ、軍事ハイテクの研究開発を強力に推進する姿勢が明白になった。
ブッシュは、選挙期間中、「増税は行わない」と宣言していた。低い税率が経済成長をもたらすという考えから増税をしないで経済成長を促進する事に依って税収を確保し、歳出の伸びをゼロ(実質ベース)に抑え財政赤字を削減しようとするのがブッシュ大統領の考えであった。
しかし、1990年6月27日、ブッシュ大統領は、議会関係者との予算協議の声明を発表、何らかの増税策が必要との判断を示した。第一に、サンフランシスコ地震などの特殊要因もあったが、88年初めから89年半ばまでS&Lの経営不振が多発し、救済資金が急増したことを主因に景気が減速し、税収の伸びが予算を大きく下回った事、第二に、金利が予想ほどに低下せず国債利払いが増加した事、第三に、規制緩和の影響で貯蓄金融機関(S&Lの救済、89年から93年度政府負担265億ドル、99年度まで399億ドル、1989年2月6日発表)などのために公約を破らざるを得ない事になったことなどが挙げられる。また、1995年度までに現状延長のベースラインで生ずる赤字を4290億ドル削減する増税の計画が盛り込まれた。
湾岸戦争にかかった最終金額は、戦争が終わってから数ヶ月が経った時点でも発表はされなかった。ブッシュ政権は意識的に数字をあいまいにしているようにも見えた。
ブッシュの予算担当官リチャード・ダーマンは四月に議会に報告をしたが、その時、二月末までに「砂漠の嵐」作戦に315億ドルがかかったと述べている。この金額には兵士を帰還させる費用と、武器、兵器の修理・調整費は含まれていない。それらは120億ドルになる。ダーマンは「砂漠の盾」と「砂漠の嵐」作戦で総額600億ドルかかっただろうと発表した。アメリカ議会の試算では総額は戦後処理を入れて400億ドルにしかならない。これらの数字にはクルド難民の援助費用は含まれていない。
はっきりしている事は、連合国から多額の援助を受けたことである。今回アメリカが連合国から受けた援助は現金その他で55億ドルにのぼる。ブッシュ大統領は戦争で金儲けをする気ではないか、と一部の下院議員たちは批判し、ドイツからもそのような声が上がっている。ダーマンはそうはならないと約束した。
戦争の費用に加えて米国はイスラエル、エジプト、トルコ、ヨルダン、 他の国に援助を約束している。さらに、ブッシュ大統領は様々な約束を各国にしており、それを清算するにはこれから何年もかかる。日本、クウェート、サウジアラビア、ドイツそしてその他の湾岸諸国も、多くの援助を各国に与えている。この様に金銭がやり取りされた紛争は世界の歴史始まって以来の事だろう。
イスラエル
毎年の援助30億ドルに加えて、アメリカ議会は戦争保証のため6億5000万ドルの援助を約束した。戦時中搬入したパトリオットミサイルは、そのままイスラエルに残される。また更に、イスラエルは5年計画130億ドルの援助などをアメリカ側に戦争後要求した。
エジプト
エジプトは今回の戦争において金銭面の勝者であった。アメリカは70億ドルの負債を帳消しにした。さらに、エジプトはアメリカから追加軍事援助を受ける可能性も出てきた。
ヨルダン
サダム側に与したヨルダンは湾岸首長国とブッシュを激怒させた為、援助は当分なさそうだ。アメリカは現在の会計年度分として5700万ドルの援助を与えている。
シリア
シリアが湾岸派兵に協力したためアメリカ政府はシリアが援助しているレバノン政府に軍事援助を再開した。アメリカはシリアのテロリズム支援にも目をつぶっている。
トルコ
アメリカはトルコに2億ドルの援助を与えた。これは既に受けている5億5300万ドルの援助の上乗せである。ブッシュはトルコの繊維製品の輸入枠を広げる事に同意した。
サウジアラビア
サウジは湾岸戦争における最大の出資者であった。サウジは財政については秘密主義だが、戦争で640億ドルの支出があったと想像されている。石油の値上がり益で助けられたが、それでも及ばぬほどの支出であった。サウジはアメリカ、イギリスそして反イラク連合に300億ドルの援助を約束している。アメリカへの支払いは135億ドルであり、そのうち35億ドルはすでに燃料補給の形で戦時中に支払われている。さらにアメリカは73億ドル相当の兵器をサウジに売っている。そして130億ドルの兵器購入は延期されている。
クウェート
当然の事ながら、クウェートは最も積極的なアメリカの資金協力者であった。クウェートは連合諸国に185億ドルの援助を約束したが、そのうち155億ドルは対アメリカで、毎週、2億5000万ドルをアメリカに支払っている。更にクウェートはその復興事業の仕事のほとんどをアメリカ企業に出すといっている。クウェート政府は、湾岸危機に関連して死亡した連合国兵士の家族に資金援助をする予定を打ち出している。
日本
議会やホワイトハウスから援助が遅く不承不承だと批判された日本は、結局、アメリカ、サウジアラビア、クウェートに次ぐ湾岸戦争における4番目に資金提供国となった。日本は現金、ローン、援助の形で130億ドルにのぼる資金を提供した。そのうち110億ドルはGCFCG(湾岸危機金融協力グループ:ヨーロッパ諸国、湾岸諸国、日本、韓国に依って構成される機関で、反イラク連合諸国戦争費用の支払いを助ける為に作られている)の一部である湾岸平和基金を通しアメリカに現金で払うと約束した。1991年1月、日本は在日アメリカ軍の年間経費17億ドルの負担額を増やす事に同意した。この取り決めでは今後5年の間に、日本の負担は40%から50%に増える事になっている。
残りの22億ドルはGCFCGに提供されるが、アメリカ財務省の話によると、そのほとんどは、ヒモつきローンで特別プロジェクトにおける日本製品購入、業務提供に充てられるという。日本はそのほかにも医療チーム派遣、輸送船舶や航空機の派遣など色々な援助を計画したが国会の承認を得られなかった。日本は4月になって自衛隊の掃海艇を湾岸に派遣したが、戦争地域に日本軍が派遣されるのは第二次世界大戦以後初めての事である。
ブッシュ大統領は様々な財政政策を打ち出していったが、それらが国民に対してどのような影響を及ぼし、又、国民がどのような思いを抱いていたのかを分析してみよう。
1990年の1月の上旬に、ウォールストリートジャーナルが行った世論調査によると、「最近の一般的な経済の見通しに対してどう思うか」との質問に、21パーセントが改善した、33パーセントが悪化した、39パーセントが変化無し、7パーセントが意見なし、と答えた。当時の経済状況に対して厳しい評価を下したかのようにも思われるが、前年度の数値と比較すると(15パーセントが改善した、34パーセントが悪化した、49パーセントが変化無し、2パーセントが意見なし)、経済体制は改善されていると分析できよう。10月に、ウォールストリートが再度行った経済回復に関する世論調査によると、国民は衰退していた経済が徐々に改善され、回復の兆候を見せているとの結論出している。これは、前レーガン政権、ブッシュ政権がが打ち出してきた政策の成果によるものとも言えよう。しかし、1990年代にはいると、世界全体の経済が好調期をむかえたが、それがアメリカの経済回復に貢献したとも言えよう。
しかしながら、タイムスが1991年の11月に行った世論調査によると、物価の値上がりに対しての懸念度が52パーセント、失業率に対してが39パーセントなど、明るい兆しとは反対に、国民の間に経済の先行に不安と不満を示すなど、低所得を中心とした国民にとって苦しい時代が訪れたとも言える。
GRH法=グラム・ラドマン・ホリングス法、(「財務均衡法])
1985年12月に成立。自動削減条項を設けるなど一見、赤字削減への強制力をもつ法律のようであったが、様々な情勢により実質的な赤字削減の目標達成が困難だったというだけでなく、形式的な法律の要件をみたすための会計上の小細工により、実質的な赤字から目をそらせ、事態の一層の悪化に貢献してしまった。GRH法以前は赤字削減が試みられたときには、それなりに増税や支出削減が図られるのが常態であったのに対し、GRH法のもとでは、資産売却で歳入をふくらませたり、自動削減が予算編成時の見通しで発動され決算時の赤字は問わないために次年度の経費を繰り上げ支払いして予算上の赤字を小さくみせたりするようなつじつま合せが頻発した。また経済見通しを甘く見るのも常套手段であった。
その後1987年9月に財政赤字削減のための新財政均衡化法として内容が修正され新GRH法となった。その特徴としては、第一に歳出カットのメカニズムの合憲化を図ったこと、第二に財政均衡化の達成目標年度の2年繰り延べ、第三に国防費の扱いについて大統領に或る程度の裁量権を与えた、等が挙げられる。
そして「90年財政合意」の際、そのための手段の一つとして、再度GRH法は修正され、強制的に歳出を削減するメカニズムが強化されることになった。しかし結局は大統領が赤字目標額を上方修正することによって強制措置の発動が見合わされ、実効性ある赤字削減策はとられていないのが現実である。
85年に成立した財政収支均衡法(グランド・ラドマン法)は財政赤字削減のために考えられた法律であったが、あまりに抜け穴が多かった。85年当時は91年度には財政赤字をゼロにするという目標をたてたが、87年には現実不可能なことが判明し、同年に修正法が成立し、赤字ゼロは93年に先送りされた。では、なぜこの法律が当初の思惑通り機能しなかったのであろうか。大きくふたつの理由が挙げられる。まず第一にアメリカ経済の現実を直視せず、毎年360億ドルずつ赤字を削減するという目標をたてたことである。経済はさまざまな要素が絡み合い、だれもが予期しないような動きをする。それをまったく無視し、機械的に毎年赤字を削減するという目標はあまりに信頼度が低かったのである。第二に、87年度頃から増額していった社会保障年金基金の収支の黒字は分離して、残りの行政的歳出歳入で赤字削減目標をたてなければならなかったのに、その黒字を含んだ統合予算ベースで赤字を算出してしまった点である。80年代からの景気悪化というマイナス要素はあったものの、こうした政府の楽観的な予測がアメリカ経済の復活を足踏みさせてしまったことは否めないであろう。
1990年11月5日ブッシュ大統領が財政赤字削減策を含む予算調整案に署名、政府と議会の間で、むこう5年間に計5000億ドル弱の赤字を削減することが合意された。これには赤字上限目標をはずさせないために制約条件が、総予算での赤字額に対してだけでなく義務的経費と歳入と国防・対外援助・内政経費の3つの裁量的経費のそれぞれに課されている。制約条件を維持するために、複雑な算段階の自動削減メカニズムが設けられ、前の年の支出超過によっても発動されるようになり、次年度送りの対策はない。また非常事態や景気後退等の条件で赤字目標を上方修正することが認められている。
1992年に選挙でクリントン民主党政権が誕生した時には、80年代からのレーガンおよびブッシュ共和党政権による福祉関連支出の削減と減税という「小さな政府」政策路線を変更して、「大きな政府」が復活されると予想されていた。実際、クリントン政権は財政赤字の解決策として増税を実現し、更に国民全体を対象とした社会保険による医療保険の創設を提案した。80年代からの共和党政権時代の財政赤字とはまったく異なった、高所得者層に焦点を当てた増税を盛り込むことで、福祉削減に歯止めをかけようとするものであった。
しかし結局、1994年にはその国民医療保険構想は挫折し、それどころかその年の中間選挙では共和党保守派が大勝利し、議会両院の多数を占めるようになり、再び80年代のような「小さな政府」型の福祉改革と税制改革が提案された。96年の大統領選挙でクリントンが再選されたが、それは初期の頃のリベラルな政策が認められたわけではなく、共和党保守派のアイデアを取り入れたスタンスが評価されたとみればよいだろう。評価というよりも、80年代の政策の良いところを享受して、経済が良好になってきたことに対して、有権者は現状是認し、従来の方針・政策の継続を求めていたと考えられる。
このような状況の中で、クリントン大統領は、連邦議会において行った包括的経済政策演説の中で、短期景気刺激策、財政赤字削減、長期投資計画を3本柱とする経済計画を発表した。この中で、特に最重点対策としてあげられていたのが財政赤字削減であった。
大統領は、上に挙げたような問題に対処するために以下3項目からなる財政政策を打ち出した。
5年間の合計で、4730億ドルもの大幅な財政赤字削減を行う。これによって、単年度財政赤字は当時の3000億ドルから2000億ドル程度まで縮小されることが見込まれた。
削減の具体的な中身は以下の通りである。
*エネルギー税は連邦議会の反発にあい、見送られ、その代わりにガソリン税が導入されたが、それも民主党案の1ガロン当り6・5セントから、4・3セントへ縮小され、結局増収額で320億ドルを見込んだ。
国防費をはじめとした政府経費の削減を行う。また医療費公的負担(メディケア、メディケイドの削減などを加え、総計で3750億ドルの削減を予定していた。
財政赤字は、クリントン就任の翌年の94年には2000億ドルまで削減され、その後年々削減されていき、97年には226億ドルにまで削減されている。
その結果、財政赤字の縮小は長期金利の低下をもたらし、それが成長を支えて、*金利の低下は、特に住宅投資、耐久消費財購入など金利感応部門を刺激をして、成長を促進した。)さらなる税収増に結びつくという好循環を生んだ。
また、実質経済成長率も92年の2・3%から97年には3・8%にまで達したとされた。加えて、91年から97年までの間に雇用は1515万人増え、97年11月の失業率は4・6%と4半世紀以来の低水準を記録した。
国防費は、80年から、実質で1000億ドル近い削減を実現した。
特に高所得者層への増税については、年収20万ドル以上の高額所得者の納税額が全体に占める割合は、94年の14%から96年の17%まで増加している。)
こうして、実質経済成長率も92年の2・3%から97年には3・8%にまで達したとされている。また91年から97年までの間に雇用は1515万人増え、97年11月の失業率は4・6%と4半世紀以来の低水準を記録した。
このように、クリントン政権の行った政策は、どれも成功しているかのようである。しかし、果たしてそれはクリントン政権の政策自体によるものなのか、あるいは、そこにはもっと他の要因があったのかということについて考えてみたい。
まず、金融政策の功績が挙げられるが、連銀は、インフレ抑制のために90年以降、早め早めの対応を見せており、物価の安定と長期金利の達成に貢献している。この結果、個人消費や、住宅、設備投資を促し、それが景気を支える大きな要因になったと考えられる。特に個人消費の伸びは、GDP比率で第2四半期の3・4%から4・2%へと上昇している。これにより、個人所得税の増収が可能になった。また、ストック・オプションの普及などを背景にした、キャピタルゲイン税の増収も可能になった。これは、特に、97年の記録的な株高という状況の中でさらに促進されることになる。
加えて、クリントン政権に対する期待がある。93年に行われた世論調査によると、ブッシュ政権の時よりもクリントンはいい仕事をするだろうと答えた人は58%にものぼった。また、クリントンの経済政策プランにあなたは賛成するかという質問に対して、61%もの人が賛成と答えていることからも、こうした期待感が消費、投資を短期的にではあるが刺激したものと思われる。(*この世論調査はNationalJournal93年2月6日、27日のOpinionOutlookから抜粋)
*この点、現在の日本も、超低金利といわれているほど、金利が低いにもかかわらず、一向に需要、投資が伸ないのは、政府の施策に対する強い不信感があり、それが金利の弾力性を低くしているからだと考えられる。
また、カーターにはじまり、レーガン、ブッシュ政権を通じて行われた規制緩和が合理的な産業基盤を築き上げ、それが93年以降、ようやく実を結び始めたことも景気拡大に貢献したものと考えられる。90年代の場合は特に情報通信分野での規制緩和が大きな役割を果たした。 (*特に日本が参考にすべき点は、この点であるかもしれない。)
ハイウエイ投資、地域開発への資金援助、失業保険期間の延長、生産設備への投資税額控除などを行うことによって70万人から100万人の雇用拡大を見込んだ。
投資促進減税、高速道路網、上下水道等のインフラ整備、情報ネットワークの構築、研究開発投資プログラムの推進などを行った。と同時に、生涯教育の推進、州、地方政府への助成金の増加、大学教育の資金提供のためのナショナル・サービス・トラストファンドの創設などの検討を行った。
*この点で、連邦予算は一律削減されるわけではなかったが、こうした政策によって、アメリカの国際競争力が高まることが期待された。
以上クリントン政権期の主に国内経済についてみてきたが、次に対外収支の問題を考えるという意味で、クリントンの貿易政策について考えてみる。対外収支問題は、レーガン以降、状況的には、為替レートの変化などがあったが、未だに解決されていない問題であり、現在のクリントン政権にとっても、また今後のアメリカ経済にとっても大きな課題であると考えられる。
ブッシュ政権に引き続き、
クリントン政権にとって最大優先課題(選挙公約)は、「経済成長」と「雇用」である。これを達成しなければ、再選はない。貿易政策は、それを達成するための必要不可欠な手段。クリントン政権のもうひとつの優先課題である「赤字削減」が長期的なデフレ効果を米経済もたらすので、輸出増は、経済成長と雇用の確保するために必要。何でも輸出すれば良いというわけではなく、「高級」な輸出で、「高賃金の雇用」を創出するハイテク産業を優先する(ポテトチップよりもマイクロチップ)。冷戦時代のように、安全保障上の協力を得るために貿易相手国に貿易上の譲歩をするようなことはしない。貿易相手国の市場が閉鎖的な場合は、米法に基づき、必要な場合には一方的制裁措置も辞さず、開放させる。特に、「日本」に対しては、他国と異なり、マクロの国際収支不均衡是正とミクロの戦略部門市場アクセスの両面で、一定期間内に一定の結果を達成するよう義務づける数量目標を設定する方針。
80年代後半までは、伝統的な「完全競争」「収穫一定(逓減)」「外部経済の不存在」を前提とする自由貿易であった。だが、収穫が一定ではなく「規模の経済」があり、その結果比較優位は、所与ではなく、人に先駆けて規模の経済を達成したものが獲得するという新しい貿易理論に基づく「戦略的貿易政策」が台頭してきた。この中では、企業数が制限され、競争は寡占的で不完全な市場で、そこで開発された技術は、その産業の利益にとどまらず広く社会一般の利益となるので、政府がそれを保護・育成するのは意味があり、日本や欧州では、実際にハイテク産業を戦略的に保護・育成している。ハイテク産業は、政府によって「操作」されており、自由貿易は存在しない。アメリカのハイテク産業が貿易相手国の戦略的貿易政策に駆逐されることを防止するためにも、アメリカ自身も戦略的貿易政策を採用するとともに、ハイテク貿易に関するルールを二国間で交渉することが必要である。
92年の大統領選挙キャンペーンにおいて、クリントンとゴアの両民主党候補は、「国民最優先」綱領を発表した。「80年代を通じて、我々の政府は、機会を提供し、責任を負い、労働に報いつつ、アメリカを強くするという価値に背いてきた、富める者はますます富み、忘れ去られた中産階級は、勤勉に働き、規則をきちんと守っているにもかかわらず、痛い目にあわされてきた。彼ら中産階級はより多額の税金を納めながら、政府はほとんど何の見返りも与えなかった。ワシントンは「国民最優先」を怠ってきた。今この国の経済がこの50年において最悪の状況にあることは誰の目にも明らかである。同様に我々の政治システムも機能していない。ワシントンは強力な利益集団と堅牢な官僚制に牛耳られている。アメリカ人は非難するのにもうんざりしている。今こそ指導者達は責任を取らなければならない。我々の経済戦略は、財政赤字を半減する一方で、今後4年間に毎年500億ドル以上を投資することで国民を最優先するというものである。この投資によって、高収入が得られる職業を数百万創出し、国際経済にいけるアメリカの競争力を高めるのだ。」そのために、経済・医療・教育改革とともに、行政改革の推進を掲げた。「トップダウン型の官僚制を『企業政府』へと変え、市民やコミュニティの権限を強めて、ボトムアップからアメリカを変える」具体的な改革として、
次にクリントンが行った医療改革の問題について考えてみたい。医療制度の問題は、長年アメリカの抱えてきた問題であり、財政赤字の大きな要因にもなっていた。これから高齢化を向かえていく中で、医療制度の改革は、アメリカならずも、先進国に共通する課題である。ここでは、クリントンがこの問題についてどのように取り組んだのかということについて考えてみたい。
クリントンは、1993年9月に連邦議会の両院合同会議で医療改革制度のプランをはじめて公式に明らかにし、それを1994年の議会審議の最重要項目とするように求めた。そして10月末には、1300ページあまりにも及ぶ「健康保障法」案を指導的立場にある議員に提示し、同時に国民向けに「健康保障」と題するパンフレットを発表した。クリントン政権の、この医療制度改革の試みについては、「今世紀における社会政策のもっとも記念碑的な挑戦」とか「アメリカ史上最大規模の社会的エンジニアリング」とか評されているが、クリントン政権がなぜそのような大規模な改革への取り組みの提案をしなければならなかったのだろうか。
大勢の無保険の人がいること
1992年15%のアメリカ人(3900万人)
1991年14.1%
医療費のインフレが著しくて、これが政府の財政、企業の国際競争力、家計の収入に悪影響を与えていること
1993年GDPの14.3%(9400億ドル)が医療につぎ込まれる
1991年13.2%(7520億ドル)
この年にOECD加盟国のほかの豊な国は、GDP比平均8%。
80年には、アメリカはGDP比8%であった。
2000年には、このままだと19%にまで上るだろうと予測されている。
また、医療費のインフレは、アメリカ企業の国際競争力にも悪影響を与えている。
企業においては、保険料の急増に対して実質賃金上昇を抑えている。
例)自動車1台作るのに1100ドルくらい(日本の倍)
これは医療費のためアメリカの医療制度の全体に、不合理な面が多いこと
クリントン政権としては、様々な検討の結果、現行の私的保険の企業による購入という仕組みを、すべての雇用されている人々に拡大するというやり方で、医療保障の実現を目指すことにした。GDPの7分の1を占める医療関連企業や保険会社、保険料を払っている企業、医療を受けるすべてのアメリカ人を対象としたものである。現在は、保険料の100%を企業が負担しているが、改革案では80%が企業負担、20%が本人負担となる。保険料の負担が困難な小規模企業や貧しい人に対しては、政府から補助金が支給される。また、クリントン大統領案は、保険会社に経験率を禁止してもいる。経験率とは、医療保険加入に当たって、本人の病歴や年齢によって保険料に差を付けてきた。リスクの多い人にはそれだけ多くの負担を求めるのである。その結果、医療をもっとも必要とする人々が、保険会社から保険への加入を拒否されるといった事態が生じるようになってしまった。改革案は代わりに、地域料率、つまり同一地域内では、病歴や年齢に関わらず、同一の保険料を払う仕組みをとるように求めている。ここで所得の再分配が生じる。
クリントン大統領が、このような大きな福祉医療改革に着手しようと考えた背景には、以上に述べてきたようなアメリカの医療制度の現状と問題に関わる、純粋な政策課題としてとらえたということもあるだろう。しかし、もう一つ、全体としてのアメリカの再生という問題もある。アメリカの医療保険は、再三申し上げたように企業から与えられる恩恵としての性格を持っているので、失業や転職によってそれを失うことになるかもしれない。経済の再生に向けての動きを活発にするためにも、そのような不安定感は取り除いておかなければいけない、とも考えたのであろう。また、経済の再生を長期的に確かなものにするためには、80年代に顕著になった不平等の増大が是正さる必要がある。(Ex.アフリカン・アメリカンの人種問題、所得格差)特定のグループを対象としない形での、いわば普遍的なアプローチとしてこの改革案は評価できる。
クリントンの医療制度改革案は、アメリカ社会保障制度の抜本的改革をねらった野心的なものであったが、議会で否決された。そもそも、医療産業はアメリカ経済の7分の1を占め、利害関係者も多岐にわたる。改革の受益者となる労働組合は、当然改革を支持したが、負担増を伴う中小企業に加え、大企業や全米商工会議所、製薬業界のほか権限を侵害されることを恐れた全米知事連盟も反対に回った。また、議会予算局がクリントン側の調査とは違った、政府案は財政赤字を拡大させるとする予測を出したことも逆風となった。医療制度改革の失敗は、1994年の中間選挙の民主党大敗の大きな原因となった。
次は雇用問題いて言及したい。アメリカの失業率は、90年以降軒並減少傾向をたどっている。これは低ンフレの中では非常に珍しいことである。この背景にはいったいどのような要因があるのか考えてみたい。
実質賃金伸び悩みと賃金格差拡大への対応
しかしこのクリントンの目指す社会とは裏腹に、アメリカでは、雇用が大きな問題として残存しているのが現状である。というのも、クリントンはブッシュ時の国内無策を批判してきただけに、質の良い雇用の確保を最優先の課題としている。それでは、雇用政策の問題点を2つにあて、その原因をあたってみる。
この問題に関しては、2つの仮説がある。技術進歩元凶説、貿易元凶説、この2つがそれである。
労働市場の競争力激化については、そのメリットを生かしつつそれが生み出す弊害を緩和することであるといえる。
学歴という観点からみてみると、たしかに高学歴化は進んでいる。しかし、相次ぐ技術革新の進化によって企業が高卒者、大卒者、に求める能力は必然的に高くなっているのが現状である。教育省の委託で実施した「アメリカ企業の雇用、トレーニング、管理」調査によれば、「従業員に要求されるスキルに水準は、高くなっている」という問いに対して、57しかし、この反面大学卒の学歴を持ちながら、「高水準の仕事」にしかつけていない人の比率は、1990年にはすでに18%をこえており、増加傾向をはらんでいるものと思われる。また、「WALLSTREETJORNAL」では、(1995年9月8日)製造業界、労働不足を嘆く一方で、採用に踏み切らずー応募者の多くはスキル不足」といった見出しで、コンピューターを使いこなすための能力に欠け、このための基礎的学力をもった人間が見つからず、苦戦を強いられている企業が多いのも、現実である。
企業が国内のみならず、熾烈な国際競争にさらされるようになった現在、経営者は効率的経営による、生産性の向上と人件費を中心としたコスト削減に必死になっている。そうした状況下、コンピューターや情報通信によって投資資金が瞬時に世界を駆け巡るようになった結果、経営者は世界中の投資家にたいして、業績をみせる必要がでてきた。したがって、今必要とされているのは、「人件費を極力削減し、かつ、弾力的企業体質を維持することで、競争力を強化しようという企業のニーズ」、「適切な所得水準の確保、雇用の保障、各種労働関係法規の適用、などといった労働者側のニーズ」とを、強調させるようなシステム作りである。このような必要性のなかで、国民の生活水準を向上させ、なおかつ安定させていくことは、これからのアメリカにとっては最大の問題点である。ライシュ国務長官は、「企業経営者が現在生じている傾向を放置することはできない。という認識を持たなければ、最終的には労働者の不満が、企業繁栄の前提である政治的安定を揺るがしかねないことになるだろう」とのべている。
最後に、クリントン政権期の経済の流れを、世論調査などをもとに概観してみた。
1992年「経済こそが問題だ」当選 1994年経済好調==========にもかかわらず、民主党大敗!! (理由)50%以上がクリントンへの不満 U.S.NEWS&REPORT4/241995クリントンを風刺した漫画あり
(背景)1991年の湾岸戦争勝利の熱が冷める中、アメリカ国民の目は経済へ向かう。
(理由)FederalfundsLate(政策当局のスタンスを示すと言われる) (準備預金不足を他行の準預から借り入れるときの金利) これが、1989年後半からはっきりと低下している。 (例)1989年第一期、二期の平均9、85%9、53% 第三期、四期の平均9、02%8、45% 1990年7、3% 12月公定歩合7、0%から6、5%へ この間の消費者物価上昇率は1988年4、1%、 1989年4、8%、1990年5、4%である。したがってこの数字からわかるのは、インフレ率が低下することを見越して金融政策がなされたのか?ということである。
大統領選挙前年の1991年金融緩和のスピードは大きく加速していく。公定歩合は2、4、9、11月と4回にもわたって各0、5%の下降がみられ、12月には3、5%へ。1992年の7月にも0、5%ポイントの引き下げがあり、公定歩合3%という1963年以来の低水準で、大統領選挙を迎えた。しかし、1980年代に積み上がっていた企業や家計の債務負担を一挙に緩和することもなく、消費や、投資は低迷。1991年の実質経済成長率はマイナス0、6%に終着し、失業率は年末に7、1%まで上昇。
この時点で「少なくともブッシュは勝てない。」というTHEWEFAgroupによる予測(経済予測機関)が「3、8%の法則」というものを発表し、その通りになってしまう。(大統領選挙の前年の実質個人化処分所得増加率が3、8下回ると、現職大統領、もしくは所属する党の大統領は落選する、というもの。1991年の同増加率は2、3%にすぎず、ブッシュはしたがって当選しない。というもの)
NationalBureauofEconomicReserchによると、ブッシュ就任の1990年7月をピークとしてその後、resession。1991年の3月、底を回り回復していく。このデータを第2次世界大戦後の経済危機をこれと比べると、ブッシュは20ヶ月でこの景気回復を大統領選挙までに終始させた。しかしこの結果はなかなか国民には知られず、クリントン就任後(1993年秋)にやっとわかり始めた。
図1 1994年の経済情勢 図21970年代以降の景気回復、拡大プロセスアメリカの景気は中間選挙に先立つこと3年8ヶ月も前に回復していた。しかも選挙の年は低インフレ下の高成長を絵に絵に描いたようであった。それにも関わらず、クリントン民主党は、1946年のトルーマン民主党以来の大敗であった。このことは、アメリカ国民の不満が根深く短期的には解決困難であるということを示唆していた。
1994年の中間選挙における共和党の40年ぶりの大勝利の評価方法には2つの見方がある。
アメリカの経済情勢が好調な動きをするなかで、民主党が大幅に議席を減らさ ざるを得なかった理由
CNN/TIMEの世論調査によると、 |
1964年76% |
1988年44% |
1994年19%以上「政府はほとんど常に、正しい行動をしている」と考えている人の割合。 |
1994年19%「ワシントンの人は正直である」と考える人の割合 |
過剰期待と現実とのギャップがクリントン勝利を招いたのではないだろうか。
(背景)1992年は冷戦終結後はじめての選挙であった
そこで、クリントンの登場。
彼の掲げた政策は、以下の通り。
(理由) 1993年のTEXAS州で起きた狂信的宗教団体集団自殺事件にたいして、責任回避の姿勢を示す。この事件によって、司法省の組織作りがしっかりとしていなかったことが明るみに。そして、1993年の補正予算案である景気刺激策が上院共和党の攻撃で流れてしまう。このように、クリントン自身、公約ばかりで、実行が伴わない。
NEWYORKTIMESDoudo記者のコメント
「アメリカとの契約」という共和党の政策を用いた
クリントンとしては、政策の主導権を握っているのは、あくまでも共和党である、という意図をほのめかすために、このキーワードを用いた。
TIME/CNNの世論調査によると | |
「国の主導権はどちらが握っているのか」 | |
1995,4調査 | |
43% | クリントン |
41% | 共和党 |
1995,12調査 | |
30% | クリントン |
46% | 共和党 |
実際にアメリカ国民の不満とは以下のようなものだった。
経済のグローバル化、急速な技術発展にともなう、実質所得の減少、貧富の差の拡大、雇用不安、といったものが、具体例としてあげられる。
各社会成員の自立と自助努力を推進する一方、支援、協力する社会。
HBJ出版:マイケル・J・ボスキン著,野間敏克監訳,河合宣考,西村理訳
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