Part2
Group B
平本典昭, 山本真智子 木田悟史, 太田陽介, 森川亜衣子, 石垣直美, 川田美穂, 相部健一, 田所歩, 島崎若菜, 後藤貴樹 ※順不同 |
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まず、レーガン、ブッシュ、クリントンと続く財政赤字の推移は以下の表のようになっている。
年 | 歳入 | 歳出 | 差引入出超 |
1977 | 355559.0 | 409203.0 | -53644.0 |
1978 | 399561.0 | 458729.0 | -59168.0 |
1979 | 463302.0 | 503464.0 | -40162.0 |
1980 | 517112.0 | 678920.0 | -161808.0 |
1981 | 599272.0 | 678249.0 | -78977.0 |
1982 | 617766.0 | 745755.0 | -127989.0 |
1983 | 600592.0 | 808380.0 | -207788.0 |
1984 | 666457.0 | 851846.0 | -185389.0 |
1985 | 734057.0 | 946391.0 | -212334.0 |
1986 | 769091.0 | 990336.0 | -221245.0 |
1987 | 854143.0 | 1003911.0 | -149768.0 |
1988 | 908954.0 | 1064140.0 | -155186.0 |
1989 | 990691.0 | 1143172.0 | -152481.0 |
1990 | 1031321.0 | 1252515.0 | -221194.0 |
1991 | 1054272.0 | 1323631.0 | -269359.0 |
1992 | 1090453.0 | 1380856.0 | -290403.0 |
1993 | 1153535.0 | 1408675.0 | -255140.0 |
1994 | 1257737.0 | 1460841.0 | -203104.0 |
1995 | 1355213.0 | 1519133.0 | -163920.0 |
1996 | 1453062.0 | 1560330.0 | -107268.0 |
1997 | 1505425.0 | 1631016.0 | -125591.0 |
(外国経済統計年報 1995) 単位:百万ドル |
レーガン、ブッシュ両政権においては、財政赤字は拡大の様相を見せた。前者は、減税政策と支出削減政策のアンバランスが主な要因であり、後者は、湾岸戦争による支出や経済不況が主な要因として挙げられる。
ただし基調としては増加傾向にあるものの、レーガン政権末期においては若干の縮小傾向が見られる。原因としては社会保障関係の支出削減や、景気回復による税収の自然増が寄与しているものと考えられる。
また、クリントン政権下においては一貫して増大傾向にあった財政赤字が、単年度においてではあるが減少傾向に転じている。そして来年度には単年度の黒字財政へと転換するとの見方も出てきている。
それでは以下に、増大した財政赤字がどのようなメカニズムで削減されていったのかを見ていく。
巨額の財政赤字を削減するための試みは、レーガン政権から始動した。レーガン、ブッシュ、クリントンの三政権に連なる財政赤字削減のメカニズムは、以下の三つの要素からなると言える。すなわち、
クリントン政権に入って、財政均衡に至るとみられているのは、主に増税による税収増と、支出の削減によるものである。しかし、その基礎には、レーガン時代からの減税政策、支出削減の努力があったのである。勿論、各政権はそれぞれ、自らの任期間中に、財政赤字を削減を完了しようと意図したと思われ、前述したようなメカニズムの全てが計画的に行われたものとは断言できない。が、結果的に(1)(2)の長期的な政策が底流に流れ、(3)によって本格的赤字削減に向かったというメカニズムが確認できよう。
減税政策の基礎を打ち立てたのは、レーガン政権であった。その後の政権は、基本的に彼の減税政策を維持する立場をとったのであり、新たに大きな減税策を打ち立てることはなかった。
減税政策は一見、財政赤字削減という観点からは、マイナスの政策に見える。税収が減少するからである。だがその意図は、長期的スパンからの、税収増にある。すなわち、減税によって民間投資や内需拡大を促進し、それによって、経済成長が促進される。経済が成長した後には、税収も増えるという意図である。
確かに、経済成長の動向は、世界市場の動向や国民心理など、様々な要因に敏感に反応するものである。したがって、減税政策が経済成長にどれほど貢献したのかという点は、正確な数値として算出は不可能である。だが、少なくともアメリカ経済がクリントン政権に至って上昇の向きを見せたのは事実である。そしてその背景に、レーガン政権以降の減税政策も少なからず含まれていたことは言えよう。
前述したような減税政策の基礎となったのは、1981年の経済再建税法である。また、これに準じるものとして、1986年の税制改革法が挙げられる。これらはいずれも、レーガン政権によって行われた政策である。
レーガン大統領は1981年、経済再建税法を実現した。これにより、法人・ 個人共に税率を引き下げ、個人の勤労意欲や消費・貯蓄のインセンティブ、また設備投資を活発化させようとした。また特に設備投資に関しては、加速度償却制度(ACRS)を導入し、投資の活発化を図った 。 ※
86年税制改革の意図は、過剰となりすぎた特例措置、投資家や法人の納税回避機会、さらに資本分配の不公平などを是正するというものであった。こうした問題点は、81年税法と、予想以上のインフレ抑制効果から生まれたものである。したがって、81年の経済再建税法を修正するという意味で、これに準じ、同じ方向性を持つものとして位置づけられる。
減税の実行については、計画以上の税収減をもたらした。これは、インフレによる、いわゆるブラケット・クリープ効果 ※ が効果的に抑制されたことによる。税収が予想以上の低下を見せ、対して支出削減は計画通りには進まなかったため、短期的にはレーガン、ブッシュ両政権において、財政赤字拡大につながった。また、法人に対する減税効果については、 設備投資 ※ は盛り上がったものの、いくつかの要因により、米国産業全体で見れば、当初意図したような競争力の向上は必ずしももたらされなかったという指摘もある。
ところで、こうした減税政策の国民に対しての影響を考えるとき、高所得者ほど有利な政策であったことに注意しなくてはならない。例えば、個人所得税については、81年の時点で最高税率者については、70%から50%に引き下げられた。ところが最低税率者については14%が11%になったにすぎなかった。また、特例措置などによって、個人投資家やき企業にとっては減税や納税機会の現象などの恩恵があったが、投資を行う事のない低所得の国民にとっては、まったく関係が無かった。86年の税制改革においても、法人などの特例措置が緩和はされたが、大勢は変わらなかった。このように、一連の減税政策は、高所得者層ほどその恩恵を受ける政策であった。
国防費の長期的推移をたどってみると、国防費比率(対名目GNP比)は、朝鮮戦争後から70年代まで、ベトナム戦争期間中の60〜75年を除きほぼ一貫して低下傾向を続けてきたが、80年代に入り「強いアメリカ」をするレーガン政権下で上昇傾向に転じた。
「強いアメリカ」の復活を公約としていたレーガン大統領の時代、軍事費はグラフからもわかるように82年には1853億ドルだったものが、88年には2904億ドルまでの増加を見せた。この背景に考えれらる理由としては、まだまだ不安定な冷戦状況が挙げられるが、デタントの進行の中で70年代以降は世界的に軍事費は緩やかな縮小傾向にあったのでありこれはレーガンの行った軍事費増大を積極的には説明し得ない。この軍事費増大の目的はベトナムやイラン大使館事件で失墜した基軸国アメリカの地位を、再び確固としたものにすることであった。そのため、ほかの部門が軒並み支出削減に向かう中で、軍事費だけは例外であった。
しかし、レーガン財政は以上のような取り組みの中で、1985年には2123万ドルにまで赤字を増大させてしまった。このことから85年以降、軍事費の増大に対する議会の批判の高まりがあり、軍事費の予算権限額は、85年以降にとうとう縮小傾向へと移った。ただし、軍事費の歳出額だけをを見ると、引き続き維持ないし増加傾向にある。これは、85年以前に使いきらなかった権限額の余りを85年以降にまわしていたからであった。軍事費の増大が財政に与えた影響とは、財政赤字拡大の大きな原因の一つになったことである。
しかし忘れてはならないのがその二次的効果である。つまり軍事費の増大が、財政にとってプラスに働いた面もあった。それはすなわち、「強いアメリカの復活」がその後の対外貿易政策(貿易摩擦問題など)で、有利に働いた面があった。
例えば、80年代は、当時日米間の貿易摩擦が激化したころであった。レーガンは88年、その日本を標的として、スーパー301条の制定を行い、厳しく市場開放を迫った。アメリカが日本に対して、半ば強引な貿易政策を押し通す事ができた背景には、世界の基軸国としての軍事プレゼンスがあった。確かに日本については、戦後から一貫して軍事プレゼンスを置いてきたのであり、やや特殊なケースかもしれない。しかし、基軸国アメリカとしてのの軍事的・政治的地位の復活が、プラザ合意によるドル危機の回避など、様々な対外交渉の場において、有利に働いたことは事実であろう。
また、レーガンが残した「強いアメリカ」という遺産は、ブッシュ、クリントンと続く後の政権にとっても対外的に有利な条件として残された。冷戦の終結に至るまでは様々な要素が絡み合ってのは事実であるが、そのひとつのきっかけとしてアメリカの軍事費の増大によるソ連への圧迫というものがあった事は否めない。このように、長期的に見れば軍事費増大が後の政権の財政にとって、プラス要因になったという見方もできる。
91年12月冷戦構造における東側陣営をこれまでリードしてきたソビエト連邦が解体した。これにともないWWΠ後続いてきた東西冷戦構造は幕を閉じた。それに伴い西側陣営をリードしてきたアメリカでも、ブッシュ大統領のもとで国防費削減の動きが加速した。
その一方で、米ソ間で軍縮交渉が進められ、81年から中距離核戦力(IMF)の削減交渉、82年からは戦略兵器削減条約(START)の交渉が開始された。そして85年からはINF,核兵器、宇宙兵器を対象とする米ソ包括軍縮交渉が開始され、ようやく87年にワシントンで行われたレーガン大統領とゴルバチョフ書記長による首脳会談でINF全廃条約が調印された(INF全廃条約は88年にモスクワで行われた米ソ首脳会談で発効)。82年に開始されたSTARTについても、90年5月ブッシュ大統領とゴルバチョフ大統領によるワシントン首脳会談で基本合意に到達、91年6月モスクワで調印が行われた。さらに91年9月にブッシュ大統領は一方的な核戦力削減を発表、これを受けて翌月ゴルバチョフ大統領も核戦力削減を発表した。
このように80年代後半、米ソ間で軍縮交渉が進み、世界的に緊張緩和が進展するに伴って国防費の伸び率は鈍化し、87年以降顕著に国防費比率が低下している。
しかし冷戦後、米ソの地域規模での核戦争に変わって湾岸戦争のような限定的な紛争の可能性が増加するとの判断から、「偶発紛争対応軍」を創設、保有戦略や兵器調達の縮小を進めるとともに、92年度の研究開発関連予算を399億ドルと前年度比15.3%増加させ、軍事ハイテクの研究開発を強力に推進する姿勢が明白になった。
支出削減のもう一つの大切な要素に社会保障費がある。なぜなら社会保障費は、ベビーブーマー(1946〜64年生まれ)が定年期に近づき、そうなると高齢者給付の負担も徐々に増加するといったようなニーズの拡大に伴い、支出費目の中で最も増大されると考えられたからである。社会保障費をいかに切り詰めるか、は支出の削減の重要なキーポイントであった。
まず、下の表を見てもらいたい。
連邦政府の目的別歳出額 社会保障 (単位100万ドル) | |
1990 | 248、623 |
1992 | 287、585 |
1993 | 304、585 |
1994 | 319、565 |
1995 | 335、846 |
1996 | 350、924 |
(現代アメリカデータ総覧 1996) |
この表から明らかなように、連邦政府の目的別歳出額の合計で社会保障では年をおうごとに歳出額が増加している。その事実をふまえつつ、レーガン時代からの社会保障面での支出削減をねらった政策を詳述する。レーガンは1983年、赤字削減プログラムの一つとして社会保障法の改正を行った。この背景には以下の3つが考えられる。
また、その内容は以下のように5つに分けられる。
以上のように83年の社会保障法改正は、歳出削減をめざしたものであり、70年代までの社会保障制度拡充の動きの一大転換といえるものであった。
先ほど、社会保障の歳出額を明記し、そしてその数値が増加傾向にあることは説明した。数値的には確かに増えてはいるが、ここで人口構成比を見てみると、年齢60歳以上の人口が1983年から1995年にかけて、漸増していることがわかる。
60歳以上の人口の推移 単位 1000人 | |||||
60〜64年 | 65〜74歳 | 75〜84歳 | 85歳〜 | Total | |
'83 | 10655 | 16414 | 8429 | 2518 | 38016 |
'85 | 10906 | 16858 | 8890 | 2667 | 39321 |
'90 | 10625 | 18046 | 10012 | 3022 | 41705 |
'95 | 10046 | 18759 | 11145 | 3628 | 44578 |
(現代アメリカデータ総覧 1996) |
つまり、先ほど述べた当時のニーズの拡大ということと照らし合わせると、ニーズの大きさの割には歳出はおさえられているといえよう。もしニーズに率直にこたえていれば、これよりもかなり大きい数値になっているはずである。こういった社会保障を改正するといった政策は支出削減をねらったものであり、もし仮にそれらが実行されていなければ、歳出の数値はいっそう高いものになったと考えられる。それ故、このような政策は支出抑制には有効であっただろう。
クリントン就任時の1993年の連邦歳入は、1兆904億ドルあまりであった。 これに対して、96年の連邦歳入は、1兆4267億ドルまで増加しており、 この4年の間に、約3300億ドルあまりの税収増があった計算になる。税 収増傾向はその後も1年間に平均1000億ドルペースで進んでいる(98年 現在)。こうした税収の延びに対して、支出の延びは、92年と98年を比 べると、3000億ドル強程度の増加に抑えられており、こうしたことが、 クリントン政権の財政赤字削減の決定打となった。
レーガン政権からブッシュ政権前半にかけて、1981年経済再建税法を基本 とした減税政策が維持されてきた。財政赤字削減のために増税政策が導入され 始めたのは、ブッシュ政権後半からのことであった。ただし、ブッシュ政権下 で行われた増税政策と、クリントン政権下でのそれは、少々性質を異にしてい るとみるべきかもしれない。というのも、ブッシュ政権下での増税政策は、湾 岸戦争というハプニング的支出に対処するための緊急的な増税であった。つまり、 湾岸戦争で生まれてしまった予想外の支出を補填するために、短期的な視野で 歳入を増加しようと、ブッシュ就任時には決してしないと公言していた増税に 踏み切ったのである。 それに対してクリントン政権下でのそれは、アメリカ経済が良好な推移を見せた ことから、十分に期が熟したと判断しての、本格的赤字削減を目指した増税政策 であったという見方ができる。以下には、クリントン政権下で行われた増税 政策の具体例を挙げる。
累進課税法個人所得税の最高税率を31%から36%まで引きあげ、最高 税率適用対象の中間所得層への拡大を行った。 これは、中間所得者、高額所 得者を対象とした増税である。高額所得者への増税については、年収20万ドル 以上の高額所得者の納税額が全体に占める割合は、94年の14%から96年の17% まで増加している。この増税政策によって新たに連邦政府の懐にはいるように なった、所得税の延びを年度別に見てみると、 93年から94年にかけて、400億 ドル。94年から95年にかけては、500億ドル。95年から96年は、約400億ドルも の所得税税収の延びがあった。 また、このような税収増の結果、財政赤字の 削減が実現し、それによって長期金利の低下が起こり、また金利の低下が設備 投資を促し、経済を活性化し成長を支えて、さらにまた更なる税収増を引き起 こすという好循環をうみだした。そのような好循環によって97年度は、当初の 予算を個人所得税で632億ドル、その他法人税などを含めて総額700億ドルを越 えた税収入があった。
法人税外国企業課税強化を含む企業増税によって448億ドルの増税を行う。
その他、エネルギー新税などの新税を導入して448億ドルの増税を行おうと試 みたが、連邦議会の反発にあい、見送られた。その代わりにガソリン新税が導 入されたが、議会において共和党からの反対にあい、当初の民主党案よりも低 い利益の320億ドルの増税が見込まれた。
次に、政府の財政赤字が削減されることによって、国民生活は豊かになったの かどうかについて、考察する。「豊かさ」には、様々な指標や考え方があると 思われるが、ここでは、所得五分位別の実質所得の増減を柱の指標として用い る。その上で、社会保障など、政府の行った政策を視野にいれて、国民の生活 の変化について考察する。以下は、所得五分位別の所得の推移で ある。
家計の実質所得(単位ドル) | |||||
年 | 最低位 | 第2位 | 第3位 | 第4位 | 上位5% |
1970 | 18301 | 29855 | 40545 | 55731 | 87018 |
1980 | 18728 | 31531 | 44658 | 62665 | 99040 |
1985 | 18298 | 31521 | 45661 | 66427 | 108760 |
1990 | 19102 | 32933 | 47669 | 69723 | 116063 |
1991 | 18498 | 31676 | 46789 | 68541 | 111883 |
1992 | 17654 | 31345 | 46478 | 67657 | 111981 |
1993 | 17405 | 30768 | 46183 | 68504 | 116080 |
1994 | 17940 | 31300 | 47000 | 69998 | 120090 |
(現代アメリカデータ総覧 1996) |
このグラフからわかるように、1980年から1994年にかけて、所得層最高位ほど 所得は増大した。逆に、最低層に至っては、減少的傾向を見せている。これら のことから言えることは、以下の二つである。すなわち、(1)国民全体とし ては、所得は増えたが、低所得者層はその限りではなかった(2)所得層間で の格差が大きくなった ことである。
勿論、こうした所得格差の拡大などは、技術変化が主要な要因であるとの指摘 もある。したがって、財政赤字削減政策が、どれほど直接的に国民の所得変化 に影響を及ぼしたかについては、議論の余地がある。
次に、こうした国民の所得の変化をふまえた上で、増減税政策と社会保障の観 点から、国民生活の変化を考察する。
既に確認した増減税政策は、高中所得者層ほどその影響を受けやすい政策であっ たが、 ※ 差引でみると、国民の税負担は財政赤字削減の過程において、 若干の増えを見せた。1980年レーガン就任前年の国民負担率は、35.06%であ り、85年レーガン政権中間の34.15%を経てクリントン政権の94年には36.14% に達したのである。高中所得者層の所得は税負担増を上回って増えたので、そ うした意味では彼らの生活は豊かになったという見方ができる。逆に低所得者 層の所得は、減少を見せたので、彼らの生活は苦しくなったという見方が可能 である。
社会保障については、財政赤字削減の過程において、政府によって支出削減の 努力が行われたことを確認した。それでも、高中所得者層は、自ら医療保険に 加入するなどの方策が可能であったし、メディケア削減なども、所得自体が増 えている中では、低所得者層ほどの打撃にはなり得なかった。これに対して低 所得者層にとっては、所得が減少しているなかで、生活保護給付や、メディケ イドの支出削減などが行われ、その生活を圧迫されることとなった。
以上のような点から、財政赤字削減の過程において、中高所得者層の生活はあ る程度豊かになったが、低所得者層の生活は逆に圧迫をうけるようになったと 結論づけられよう。ただし、国民の生活水準は、これまで見たような財政赤字 削減に関する政策以外にも、様々な要因から敏感に影響を受けると考えられる。 従って、今回の分析においては所得と税制、さらに社会保障の単純なモデルの 中に限っての、結論といわざるを得ない。
日本は、現在不況の中にあり、アメリカを初めとする各国から、減税や公共投 資による内需拡大政策を強く迫られている。しかし、一方では増大する財政赤 字を抱えており、橋本内閣はその板挟みに悩まされている。そこで私たちは、 今回おこなった調査に基づき、そうした内需拡大政策のあり方について述べ、 日本政府へのインプリケーションとしたい。
既に見たように、アメリカにおける一連の財政赤字削減メカニズムにおいて、 減税を中心とした内需拡大政策は、重要な意味を持った。すなわち、短期的に は財政にとってマイナスであったとしても、GDPの増大によって長期的に税収 増を期待し、また将来の増税政策の基礎とするという意味である。こうした点 で、確かに内需拡大政策は、日本をはじめとした世界経済にとってプラスとな ると同時に、日本の財政にとってプラスとなる可能性はある。アメリカなどが いう言葉にも、一理あるといえるのである。
ただし、われわれはここで、内需拡大政策は、支出の削減と平行して進められ ていくべきであることを強調したい。というのは、主にレーガン政権からブッ シュ政権にかけての財政赤字の増大が、減税政策と支出削減政策とのアンバラ ンスによるものであったことを既に見たからである。
経済不況への対処と財政赤字削減は、密接に絡み合った問題である。一方だけ
に重点をおいて対処すれば、もう一方へ悪影響を及ぼしかねない。今回のアメ
リカの財政赤字削減策を見る限りにおいては、まず経済を上向きにし、その力
をもって増税に踏み切り、財政赤字を削減したという方向性自体は評価できる。
しかし、その過程において、財政支出と経済政策とのアンバランスが、余計な
財政赤字を産み出したことは指摘されなければならない。こうしたことから、
我々は、財政支出削減政策とバランスをとった内需拡大政策をもって、日本へ
のインプリケーションとするのである。