2091 | 返信 | Re:黙祷は宗教行為ではない。−「黙祷」強制の問題点 | URL | 渡辺 | 2000/06/14 16:28 | |
これは、加減乗除さんの「2083 返信 Re:黙祷は宗教行為ではない。−「黙祷」強制の問題点」への返信です。
>むやみに長くなることを避けたいので二点に絞らせてください。どうしても、ここには答えろと言うことがありましたら別にご指示ください。 確かに、「黙祷」の宗教性について明確にする必要性があると思いますが、すに述べましたように、今回の場合はそれ以外にもいくつか問題があります。 1)踏み絵としての「黙祷」−起立について 「黙祷」が思想信条の踏み絵であることはすでに指摘しました。 「黙祷」に従わなかった教師がいることをどのようにして加減乗除さんが知ったのでしょうか?それは、起立しなかったからですね。「黙祷」は自分のやりかたでやれば良いと加減乗除さんは投稿されましたが、実は起立させるという行為を指示していたのですね? 加減乗除さんは、ある教師が「黙祷」をしなかったかのを見たのではなく、見たのは「起立」しなかったということではないのでしょうか。遠くから見た「起立」しないという行為で、内面的にかかわる信条を判定できてしまった。ここに問題の一つがあります。 なぜ、「黙祷」に起立が必要なのですか?その答えには、誰が、どのような思想を背景に「黙祷」を指示したかに関係があると思います。誰が「黙祷」をさせることを決め、どのようか経路で指示したのか、ぜひ教えていただきたいものです。 2)思想信条の自由に反する「黙祷」 まず、問題となる憲法の内容ですが、下記のようなものです。 第20条【信教の自由】 (1)信教の自由は,何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。 (2)何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。 (3)国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。 これは、憲法に書かれていなくても守るべき最低限の礼儀を示したルールだと私は思います。 >1.宗教性のある行為はすべて宗教であり、思想信条の自由とからんでくる。=渡辺さん > 宗教性のある行為でも、一種の儀礼であり、生活文化の一環に含まれるものもある=加減乗除 「宗教性のある行為でも、一種の儀礼であり、生活文化の一環に含まれるものもある」ことに反対しているのではありません。「一種の儀礼であり」という点には疑問がありますが、「生活文化の一環に含まれるものもある」と認識されていることも当然ありえます。問題としているのは、それが「強制」されたかどうかとういう点にあります。 「(2)何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。」ということは、自分が信じていない宗教行為を自由意志で行ったり、知らずに行うことを規制するものではありません。 「宗教性のある行為はすべて宗教であり、思想信条の自由とからんでくる。=渡辺さん」というのは少し違います。宗教的な行為の強制が思想信条の自由に反すると言っているのです。 「宗教的な行為がすべて宗教」というのは関係が逆転しています。「行為」が「宗教」ではありません。その「行為」が「宗教」に関係しているかどうかということです。 >素朴な宗教的行為の中には、「民俗」であり、宗教とは呼べないものもあると思います。 ... >それは「体系だった教え」に基づくものでもないし、 とのことですが、ちょっとお待ちください。「体系だった教え」でなかったり、「民俗」なら学校で行為を強制していいということですか?また、「宗教とはよべない」と誰が決めるのですか? たとえば、コックリサンは「体系だった教え」でもなく「民俗」だから、いまから皆でやってみましょう、という指示をクラスでしたら問題ではありませんか? 次に、学校以外での宗教的行事について述べます。 「町内会の一員として参加する地域の祭りや単なるイベントと化したクリスマスなどがその例です。」とのことですが、今問題としたいのは学校での強制についてです。しかし、若干コメントいたします。 「地域の祭り」が、ただの夏祭りと称するものなら問題はないと思いますが、神社と関係があるなら問題があります。神道の信者ではないから協力できないという人が出てくる可能性はありますし、町内会費として徴収したものを神社の行事に直接使えば問題があります。 また、クリスマスがイベントと化そうがやはり宗教的行事であることに変わりはありません。たしかに、クリスマスには非宗教的と宗教的の2種類が伝統的にあります。クリスマスの歌はこの分類により歌詞も違います。しかし、やはり宗教的ではありますから強制はできません。 仏教信者にクリスマス会に出席させたり、会費の徴収を強制できません。また、エホバの証人は明確にクリスマスを拒否しています。 ここで「強制」というのは、拒否すると村八分にしたり、いやがらせをすることも含みます。 >「祈る」以上は「宗教」だというなら、「世界平和を祈る」とか「健闘を祈る」などと言う言葉も「宗教」になってしまいます。 「宗教」になるのではなく、それを行為として行えば「宗教的」だということです。クラスで「世界平和を祈ります。起立して祈りましょう。」とか「健闘を祈ります。起立し祈りましょう。」と指示したら問題があります。 >儒教を宗教と捉えるか、哲学・道徳と捉えるかが、今回の問題を考える上でのリトマス試験紙になると思います。 儒教が哲学・道徳であろうと宗教であろうと、学校で儒教的な行為や儀式、あるいは思想を強制できないのではありませんか? >2に関しては「異論がある」場合、「卑怯」でない人なら管理職と交渉したでしょうし、全国的にはそのような行動を取った人も(少数ですが)いたようです。それをしなかった以上は単なる職務命令違反です。 お聞きしたいのですが、加減乗除さんのいわれる「上司」や「管理職」とは具体的に誰のことですか?また、その人は「黙祷」をさせるかどうかの決定権を持っているのでしょうか?決定権がない人に交渉しても意味がないと思いますが、いかがでしょうか。 >命令そのものが憲法に反するというのが渡辺さんの主張の根拠であるなら尚更そのことを問題化すべきです。自分のクラス以外の多数の生徒に他の教員が憲法に反して「信教の自由」を犯す行為を強制することを見過ごしにすることになるのですから。やっぱり「卑怯」です。 わたしの知る範囲では、現在の学校で思想信条を理由にして行事などを忌避できる体制があるのでしょうか?「きみがよ」は弾けないという教師に何か道があるのでしょうか?また、わたしのいた学校では、いかに筋の通った意見でも反抗と受け取られると関係のないところで報復を受けました。例えば、何か失敗したときの処分を厳しくする、生活指導を担当のクラスに徹底的に行う、配置転換などです。 『「信教の自由」を犯す行為を強制することを見過ごしにする』と「卑怯」との発言には恐れいりました。では「見過ごし」にしないとは、どういうことを具体的に意味するのですか?ひとりの教師で何をせよというのでしょうか? 加減乗除さんは、「黙祷」忌避を「密かに」や「卑怯」ということばに変えることにより、本来の問題から外れて、その教師を非難しているように思います。 前首相にたいする「黙祷」の強制を拒否することは「冒涜」でもなんでもありません。信条に反する行為の強制こそ、現在生きている人の尊厳への冒涜だと思います。 |
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