2689 | 返信 | 文化大革命と愛新覚羅溥儀 | URL | クマ | 2000/07/08 10:52 | |
こんにちは、クマです。 どうもいろいろと立てこんでいて、ん?と思う投稿があってもそのままにしているんですが。mikimamiさん、どうもすいません。時間の関係上、継続的な議論ができないので、今日も「読みきり投稿」です。そういえば、最近のとほほさんの投稿は何だか堂々としていますね。 今、休日である土曜日を利用して『溥傑自伝』(河出書房新社)を読んでいます。溥傑は溥儀の弟で、日本の旧華族の嵯峨浩を妻としていたことで有名なので、知っている人も多いと思います。文中に撫順戦犯管理所での生活が述べられており、そのなかで日本人戦犯に対する客観的な立場からの記述(どちらかというと憎しみがこもっている)があるということで参考のために読んでいるのですが、本論から外れて、元「満州国」皇帝・溥儀の『わが半生』で記述されていなかった、溥儀の文化大革命時代の様子などが書かれており、とても興味深く思いました。 溥儀の『わが半生』も実に感動的な本で、彼を描いたとする『ラストエンペラー』という愚作映画とは比較になりませんが、撫順を釈放されてからの生活については、最終章の「新しい一章」で、植物園での労働生活、およびその後の史料編纂関係の仕事に就いたことを短く述べているだけです。1961年の3月前後までですね、時期としては。 溥儀が癌によって没するのは1967年の10月(享年61歳)、1966年から深刻化する文化大革命の混乱を溥儀は体験しているはずですから、それについて溥儀がどのように見ていたのかを知りたいと思っていました。 『溥傑自伝』にこれに関しての記述が詳しく書いてありました。 文化大革命期には撫順管理所で戦犯たちに接していた所員たちが、日本人戦犯に暖かく接したこと、食事などで優遇したことを「罪」とされて悲惨な目にあったことは、当時の管理所長だった金源さん(今、訪日中)などのお話等で知っていましたが、愛新覚羅家もやはり「漢奸」として理不尽な攻撃の対象になったようです。 溥傑は、文革時代の様子を「大災厄の日々」と題する章で述べています。 「当時、もっともこの環境に適応できなかったのは溥儀であった。ある日私たちが三家村を摘発・批判する文献を読んでいる最中に、彼は遅刻して部屋に入ってくると、泣きながら言った。 『廖部長が縄で縛られ、トラックに乗せられて引き回されていた。彼はいい人です。何とかして彼をトラックから下ろして縄をほどいてあげたかったけれど、トラックに追いつけなくて、叫び声をあげるのがやっとだった・・・』。後は泣くばかりであった。みなも彼のまじめな言葉に心を打たれたが、その正直な態度が心配でもあった。・・・溥儀は自分の経験から、廖沫沙は絶対無実でいい人だと信じるといった。」 溥儀は癌になりますが、「出身を審査され」、適切な治療を受けることができません。周恩来が手を尽くして溥儀に対する治療を命じますが、これも現場段階でなかなか実践されない。 「沈酔が見るに見かねて、溥儀の病気を心配して政協の責任者に話し、直接周恩来総理のところまで報告された。総理は中央統一戦線部平杰三部長にただちに名医を招集して溥儀の命を救うよう指示されたが、当時は天下大乱で、中央統一戦線部の部長たちや申伯純たちも街を引き回されている有様だった。大哥(溥儀)はそれを聞くと大声をあげて泣き泣き言った。 『いったい、どうしてこんなことにならなければならないのか?平穏無事な国をこんなにしてしまって、これは誰の考えなのか?』」 「溥儀の病気については、総理は指示されたが、病院は彼を置いておきたがらず、入院できてもまともに治療もしなかった。入退院をくり返しているうちに病状が悪化し、一九六七年十月初めには、癌細胞の拡散のため、痛みでベッドを転げまわるほどだった。妻の李淑賢はどうしよいかわからず、政協に駆けつけてお願いした。最後はまた、周総理の指示で、ようやく人民医院が入院を認めた。しかし尿毒症を併発して一九六七年十月十七日未明の二時三十分、彼はついに人生の道を歩み終え、この世に別れを告げた。享年六十歳であった。」 「享年六十歳」というのは数え方が違うのだろうと思います。溥儀は1906年2月生まれなので、数えと満年齢でも享年61歳になります。 私にとっての本論とは離れましたが、以上、とても興味深いものだと思いましたので、書き込みいたします。 それでは。 |
||||||
![]() |