3578 返信 Re:田中上奏文について -意図はあったが計画はその都度考えたのでは? URL 渡辺 2000/09/04 01:07
これは小林哲夫さんの「3551 Re:田中上奏文について - その2」にたいする返信です。
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小林哲夫さん:>
そこで私から渡辺さんへの質問です。
もし田中上奏文に代わる、同じ内容の本物の文章を示してもらえれば、貴殿の謀略征服目的説を了解できます。
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まず、「田中上奏文」は世界征服の具体的政策を書いたものではありません。序文に2ヶ所世界征服に関する記述があります。2ヶ所目には「中国の資源のすべてを得た後にはインド、小アジア、中央アジア、そしてヨーロッパにも征服のため進出するのだ!」とあり、1ヶ所目はさらに南洋に触れ、明治天皇の遺した計画だとしています。これらの記事から世界征服の計画があったとされていたのです。
これが田中義一の作だとして、これだけでは具体的な「政策」や長期計画があったとは言えないと思います。
日本の意図を簡単に説明できるこの文書、というより世界征服の個所だけが「田中上奏文」として利用されたということだと思います。
しかし、「田中上奏文」が利用されたときには、もうこの文書の通りに中国への侵略が本格化していたのではないでしょうか。そのため、この文書の正真性は現実に起こっていることで十分だという説明がされていたのではないでしょうか。

さて、1915年の二十一ヶ条の要求では中国政府そのものを支配下に置こうとしているように思われます。
(第五号 中央政府に政治財政及び軍事顧問を日本から雇うことを要求、 第二号 南満州での日本の権益の恒久化と拡大)
また1927年には中国から満蒙を分離させようとする「満蒙分離政策」といものがあったということです。「田中上奏文」は事実である部分も多いのです。
[「田中上奏文」に「満州・蒙古は中国の領土ではない」ことを論じた個所があります。その根拠は矢野(仁一)の説に求めています。(「満蒙蔵は支那本来の領土に非り」(1913年,大正2年)という論文があります。)]
中国、満州を支配下に置くという考え方は少なくとも1927年にあったことになります。長期的な侵略計画は作成されていないが中国支配の意図はあり、実行可能な場合に政策に移したと考えます。

明治においては、いい獲物が中国にあるのでみんなで一緒にハンティングに行きましょうとういう感覚であったようです。
山県有朋首相は、1900年の「北清事変善後策」という意見書の中でこのように言っているそうです。[註1]
「諺に曰く二兎を追ふ者は一兎を獲すと 今各国共同して支那に猟するに当ては先ず南方の一兎を追ひ之を獲るの後再び北方の一兎を追ふも未た晩しと為さヽるなり」
これは、南方の一兎(中国)を先に分割してから北方の一兎(朝鮮)を取りにいっても遅くはないということを意味しています。
「将来分割の機に会して違算なからんことを図るへきは勿論なり 而して之か方策としては其の勢力範囲を拡張し其の方域内に在りて軍隊を駐屯し鉄道を敷設し鉱山を採掘する等の特権を得んことを要求すへきなり」

こういう発言からみますと、中国にある資源を早くからねらっていたが、具体的にどうするかはその都度考えていたということではないでしょうか。
当然、外交、経済、軍事などの観点から具体的な政策や軍事行動については、やり方や時期について内部で賛否があるのではないでしょうか。

「田中上奏文」は「上奏文」という体裁で匿名化し、日本の意図を資料によって論証しようとした論文ではないかという印象をもっています。
「偽書」というのは田中義一が書いた上奏文ではないということであり、内容がすべて偽りということではないと思います。
例えば、日本書紀には史実でない個所がたくさんあります。例の「憲法十七条」もそのまま事実とすることはできないようです。天皇の権威を高めるために創作された個所はたくさんあります。しかし、やはりその偽造、改変の意味や、背景にある資料・史実を研究することは意味があると思います。

わたしは、次のような点を調べています。
政治や軍事の主人公が変わるのに、なぜ、日本にはあたかもひとつの計画が存在するかのように朝鮮、満州、中国、南方へと侵略したのか、
彼らにあった侵略を支える思想、価値観、信条とは何かということです。

歴史に偶然はつきものです。しかし、交通事故は偶然起こりますが、事故の原因はあるのです。欠陥部品がその日時、場所で破壊したということは偶然でも、原因が「偶然」ということにはなりません。
部品に亀裂があったのか、材料が不良であったのか検証すると思います。また、不良が人為的「ミス」で終わっては調査したことにはなりません。「ミス」がなぜ起こったのか、なぜ「ミス」が頻発したのか、やはり原因があると思います。
歴史は正確を帰すために微視的に、かつ全体像や流れを把握するために巨視的に見るこことを心がけています。微視的に見ていると偶然でも、巨視的に見ると偶然とはいえないことは多いと思います。

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[註1]吉岡吉典「日清事変から蘆溝橋事件」(新日本出版社,1999年) P99 からカタカナをひらがなにして再引用