5996 返信 辻政信 URL inti-sol 2001/04/06 22:39
先日、某サイトのオフ会にて、辻政信の最後について話題になりました。彼は、戦後参議院議員の身分のままベトナム戦争中のラオスを視察に行きそのまま消息を絶ちます。その真相は、実はフランス軍特殊部隊に消された、というのです。
真偽のほどは私にはわかりませんが、ある程度信憑性のある話のようです。

それはともかくとして、太平洋戦争という理不尽で無謀な侵略戦争の本質を体現した代表的人物として、辻政信は特筆すべき存在です。この人物を研究すると、太平洋戦争における日本の過ちがすべて理解できます。

辻政信は、「作戦の神様」と称された大本営参謀、陸軍のエリート中のエリートでした。ところが、この「作戦の神様」まったくの詐称で、実際は勝ったのは太平洋戦争緒戦のマレー侵攻作戦だけ、あとはすべて負けという偽「作戦の神様」だったのです。
辻が重大な役割を担った二つの戦い、ノモンハン事件とガダルカナルを巡る戦いを取材した反戦文学の巨匠、故五味川純平氏は、日本軍の特徴をこのように言い表しています。

「かつて日本軍は(中略)戦闘に際しては確かに勇猛果敢であり得たが、戦争を組織する作戦家たちや、彼らを支持する政治家たちは、戦争組織の事務段階で粗雑であり、希望的予断に陥って思考的に未熟であった。戦力諸元の調整と準備と集中がほとんどいつも不十分であり、いつも齟齬を生じ、不足を来し、ために戦闘を不如意に陥らしめた。自国の矮小の規模においてしか敵の力量を測定せず、将兵の武勇のみを盲目的に過大評価して、敵の戦意と戦力を下算し、結果として惨憺たる敗北を喫した適例がガダルカナルでありニューギニアであった。」
そういった日本陸軍の中枢にいたのが、他ならぬ辻政信だったのです。

そもそも、制度の上では、参謀とは「作戦をつくる人」であって、「作戦を実行する人」つまり指揮を執る権限はないはずでした。にもかかわらず、これは辻に限らずたいていの参謀が、指揮官を差し置いて、実質的にはいくらでも部隊を指揮することができたのです。
ノモンハン事件を見てみましょう。辻は、当時少佐で関東軍の作戦参謀でした。関東軍の司令官ではありません。まして陸軍総司令官(という名称の地位は日本陸軍にはありませんでしたが)だったわけではありません。にもかかわらず、彼は「満洲国」とモンゴル人民共和国の間に国境紛争が起こると、無断で一個師団を出動させます。これは、陸軍刑法の規定によれば死刑に相当する犯罪行為でした。にも関わらず陸軍中央はこれを追認します。なぜなら、陸軍中央にいる将軍たち自身が同じことをやって、無断の戦闘によって中国との戦争を拡大し続けてきたからです。みんな共犯者なのに、今更辻だけを処罰などできない道理でした。
関東軍は、当時最精鋭とされていた歩兵第7師団と、第23師団の一部、計1個師団半に80門の野戦重砲と80両の戦車部隊を付けて、ソ連軍との国境紛争に送り込みます。
辻は、そして関東軍ひいては日本陸軍は、これで勝てると思っていたようです。重要なことは、ソ連軍の兵力がどれだけあって、それに対して日本軍の兵力がこのくらい多いから、という分析を行った上で「勝てる」と判断したのではなく、単に彼ら自身の価値観では十分な兵力だから、勝てるに違いない、という根拠のない思いこみにすぎなかった点です。彼ら自身の貧弱な思考による「十分な兵力」と敵にとっての「十分な兵力」が同じであるとは限らない、という当たり前の事実に気づくには、やはり彼らの思考は貧弱にすぎたようです。
結果として、戦車部隊は投入後数日にして壊滅的打撃を受けました。戦車部隊の装備は89式中戦車と95式軽戦車を主力に、最新鋭の97式中戦車(太平洋戦争の主力戦車となった)も4両加わっていましたが、97式中戦車も含めて日本の戦車はソ連のBT戦車に性能で劣り数も劣り、、そして鉄条網を使った対戦車戦闘法に劣り、まったく歯が立たなかったのです。
信じがたいことに、たった80両のこの戦車は、「満洲国」にあった関東軍の戦車部隊の約半分でした。(「無敵関東軍」「無敵皇軍」の実体はそんなものだったのです)そのため、文字通りの全滅を喫する前に戦車隊は戦場より撤退を余儀なくされました。
一方、最後まで戦場に張り付いていた砲兵部隊の末路は哀れでした。約80門の重砲に対して、ソ連軍の重砲は数で2倍以上、しかも射程距離が日本の砲より長く、さらに布陣した位置が、日本軍の砲兵陣地よりソ連軍の砲兵陣地の方が標高の高い位置という状況で、全くソ連の砲兵に圧倒され、最終的には約5門の砲を残してすべて破壊されてしまいました。

ノモンハンの敗北は、日本軍にとって貴重な教訓であったはずでした。にもかかわらず、日本軍はその敗戦をひた隠し、なんら教訓を得ることなく太平洋戦争において再び同じ人物の作戦によって同じ失敗を繰り返すことになるのです。
無断で兵を動かした挙げ句に投入兵力の7割以上が死傷する惨敗を喫したにもかかわらず、辻は何の責任も問われず、一時左遷されていたもののすぐに返り咲いて太平洋戦争で同じ過ちを繰り返します。

それがガダルカナルの戦いであり、ニューギニアの戦いだったのです。
ガダルカナルに上陸した米軍の兵力は、海兵隊約1個師団弱15000人でした。その兵力を、海軍の偵察機は正確ではないものの、ある程度つかんでいました。
それに対して陸軍が最初に派遣した部隊は、一木支隊(支隊長一木清直大佐は、かつて廬溝橋事件の時に一発の銃声をてこにひたすら戦闘を拡大した大隊長)、兵力わずか2000人。しかも、低速の輸送船に乗っていたため、「ガダルカナル島奪回を急ぐため」そのうちの900人を駆逐艦に移し替えて、先に上陸します。
この900人の一木支隊の装備は、歩兵砲2門(しかもこの砲は上陸地点に残していったと言われています)と重機関銃8、軽機関銃36、擲弾筒(小型の迫撃砲)24。これで100門以上の火砲と1000丁以上の機関銃を持つ15000人の敵に「勝てると思って」つっこんでいったのだからあわれとしか言いようがありません。もちろん、一木支隊は一夜にして壊滅、支隊長行方不明となりました。
続いて投入されたのが、歩兵第35旅団約5000人(支隊長川口少将の名を取って通称川口支隊)と一木支隊の残り約1000人です。あいかわらず兵力に劣るためジャングルの中に道を造って米軍の背後を襲う計画でした。しかし、この計画はガダルカナル島のジャングルの実相を見ないで計画されたものでした。とうてい現実性がないにも関わらず強行された結果、各部隊はジャングルの中でバラバラになり、攻撃は支離滅裂となって、簡単に撃退されました。
続いて投入されたのが、歩兵第2師団でした。今度は200門の重砲を並べて、米軍を正面から火力で圧倒する計画でした。しかし、未だに米軍の兵力がどれだけあるから200門の重砲で勝てる、という思考ではなく、日本軍にとって200門の重砲が大戦力だから、これだけあれば米軍に勝てるに違いない、という根拠のないものでした。
しかも、米軍の航空機の猛威の前に、この200門の大砲の大半は海の藻屑と消えました。その結果、一度失敗して懲りているはずのジャングルの中に道を造って米軍の背後を襲う計画を再び持ち出して、川口支隊の時と全く同じ経過をたどって敗北を喫しました。
日本軍の辞書には、「反省」と「教訓を学ぶ」という言葉は存在しなかったようです。

ノモンハンの時の日本軍は、惨憺たる敗戦ではあったものの、餓死者はでませんでした。一方ガダルカナルやニューギニアの日本軍は(いやねこの二つの戦場に限らずこれ以降ほとんどの戦場で)餓死者の山を出しました。激しい戦いで大量の戦死者がでたにもかかわらず、餓死者の数はそれよりもっと多かったのです。
日本軍は補給を軽視した、というのは有名な話です。ガダルカナルでもそうでした。ニューギニアの場合は、事前の図上計算で、物理的に補給ができない(すべてジャングルの中徒歩でポートモレスビーを目指すと、戦闘部隊の10倍以上の補給部隊が必要になり、しかも補給部隊自身が食料を食いつぶしてしまうため前線には食料が届かない計算になってしまった)ことがわかっていたにもかかわらず、作戦を実施したのです。
なぜこんなことをしたのか。
陸軍の将軍たちが阿呆だったからです。
もう少し身のある言い方をすると、これは中国における日本軍の侵略戦争の悪逆な実体と関連があります。
「食い物がなくては人間は生きていけない」これは、どんな阿呆でも理解できるはずの人間の摂理であるはずです。にもかかわらず中国での戦いでは、この摂理を無視して補給を施さなくても、日本兵たちは餓死しなかったのです。賢明なみなさんはなぜだかおわかりになるでしょう。食料が補給されない分は中国の一般民衆から略奪し、あるいは「徴発」してまかなっていたからです。そのような侵略戦争を続けているうちに、将軍たちは補給の重要性を忘れてしまいました。辻政信もそうです。
太平洋戦争で補給が軽視されたのも、中国での戦いと同じことをすればよい、という感覚があったからです。
中国での戦いは、基本的に人里での戦いでした(もちろん例外もあるし、日本の感覚で言えば相当人口密度は薄いにしても)。不幸なことに略奪の対象はいくらでもあったのです。
一方、ガダルカナルでもニューギニアでも、あるいは後のインパールでもレイテでも、太平洋戦争での戦いは、人影少ないジャングルの中や絶海の孤島での戦いが多かったのです。略奪しようにも対象がありません。
中国における侵略が、回り回って日本軍の兵士たちに降りかかってきたのです。因果は巡る、というものでしょうか。
これらのことに関して、辻政信は深い責任を負っています。さらに言えば、マレーでの戦いでは捕虜の虐殺を行っています。戦後連合軍に戦犯として行方を追われたのはそのためです。まんまと逃げおおせてのうのうと参議院議員になどなったのは、「日本の恥」としか言いようがありません。

ただし、ひとつだけ忘れてはいけないことがあります。それは、辻政信は暴走した、ではそれを黙認したのは誰か、ノモンハンで惨敗したのにガダルカナルやニューギニアでおなじ失敗を繰り返した、では繰り返すような機会を与えたのは誰か、ということです。
つまり、辻は日本陸軍のもっていた体質を具現化しただけの存在であり、本質的には日本陸軍、否日本そのものがそのような体質であったからこそ、このような人物が増長することができたのです。辻政信だけがすべての責任を負っている、ということではないのです。

ひるがえって、現在を見てみましょう。小林よしのりだの、藤岡信勝だの、「つくる会」だののやっていることは、かつての日本軍と全く同じこと、つまりおのれの過ちを反省せず教訓を得ず、再び同じ過ちを繰り返して多くの犠牲を出して平然としている道を進んでいるとしか思えません。彼らの増長を許すようでは、彼ら自身のみならず、日本という国自身がその理性を問われます。
第二の辻政信を産んではなりません。