9274 返信 証言(少し長い) URL JOHN_VOID 2001/09/01 01:38
>渡辺さん自身が当該サイトを訪ねておりながら、そのように受け取るとは唖然ですわ。
>そのように受け取る方は少数でしょう。これについてはれんだいこの受け取り方と渡辺
>さんの受け止め方とどちらが有り得るのかネットゴングでもしていただけたらとか思います。

 私はれんだいこさんの受け取り方の方がおかしくて、渡辺さんのほうが
まともだと思います。
 なぜなら、証言を通じて南京大虐殺を証明する場合、その下位目標は証言を
集めることだからで、その場合の第一条件は、「あった」「なかった」どちらの
証言を行うにせよ、あとの段階でその証言を資料として参照するようにその証言
を忠実に記録することだからです。
 
 誠実な研究者であればあるほど、まずデータを収集する段階では取捨選択せずに
集められるだけ集めて、そのデータの内容についての吟味は次の段階で行います。
なぜなら誠実な研究者であれば、データに合わせて結論を変更することはあっても、
結論に合わせてデータの変更は行わないからです。
 誠実な研究者であれば、当初の仮説と合わないデータを無視したり、そもそも
収集しなかったりすることはありません。
 偕行社の「南京戦史」などが良い例です。
 旧陸軍士官学校のOB会である偕行社は、当初は南京事件を否定するために調査
を開始し、将兵の証言や軍の記録を集めたのですが、その意図とは異なって
膨大な証拠の前に南京大虐殺を認めざるを得なくなったのです。
 偕行社は大量虐殺を認める方へ、結論を変更しました。

 したがって、

>知らないという証言があっても、正直に証言していただくことが「真相を
>明らかにしていく」ことになるんじゃないでしょうか。

 というのはデータを忠実に扱う誠実さを示すものです。

>4名の元兵士のいずれもが東京裁判判決文のような形での無原則且つ
>アナーキーな日本兵士の暴行且つ大虐殺を証言し得なかったことには
>理由があると考えます。

これはれんだいこさんの完全な誤りです。
 れんだいこさんは東京裁判の判決を読んだことがおありですか?
 判決文では「無原則且つアナーキーでない日本兵による大量虐殺」
が示されています。

>男子の一般人に対する組織だった大量の殺戮は、中国兵が軍服を脱ぎ捨てて住民の
>中に混じり込んでいるという口実で、指揮官らの許可と思われるものによって行わ
>れた。中国の一般人は一段に纏められ後ろ手に縛られて、城外へ行進させられ、機
>関銃と銃剣によって、そこで集団ごとにさつがいされた・兵役年れに合った中国人
>男子2万人は、こうして死んだことが判っている。
> ドイツ政府は、その代表者から、『個人でなく、全陸軍の、すなわち日本軍その
>ものの暴虐と犯罪行為』について報告を受けた。
(中略)
> 中国兵の大きな幾団かが城外で武器を捨てて降伏した。彼らが降伏してから72
>時間の家に、揚子江の紅岸で、機関銃掃射によって、彼らは集団的に射殺された。
> このようにして、右のような捕虜3万人以上が殺された。こうして虐殺されたとこ
>ろの、これらの捕虜について、裁判の真似事さえ行われなかった。
 「東京裁判判決」(「日中戦争資料集」所収、p396)

 れんだいこさんの一連の判断は、実際の東京裁判の判決とは異なっている、
単なる思いこみに基づいています。

>> このような議論において、適切な範囲で引用をするのは「著作権違反」になりません。
>>しかし、「元日本軍兵士の証言」を「元兵士の加害証言の大虐殺証言」としてしまうように、
>>内容を改変すると「著作権」を侵害します。

>こうまで丁寧にご説明いただいておりますが、れんだいこは果たして「内容を改変」しておる
>のでしょうか。「著作権」を侵害していますか、ご説明願えますか。

 著作権での「改変」とは、引用元の著作物と形態、様態を変えてしまうことです。
すなわち元の著作物に無い言葉を付け加えたりしてはいけません。
 引用元と一字一句ピッタリ一致していなければなりません。
 つまり原文のまま引用しなければなりません。
 場合によると改行を変更することも「改変」になります。(そのような判決があるのです)。
 れんだいこさんが「元日本軍兵士の証言」を「元兵士の加害証言の大虐殺証言」と
書いてしまうと場合、元の文章にない「加害」「大虐殺」という言葉が入っています。
 これは引用部分の著作物には書かれていない、れんだいこさんの言葉なので、
「改変」に当たる可能性が非常に高いと思われます。

 また、引用する際には引用した文章とそれ以外の文章が明確に分けられていなけれ
ばなりません。(引用の際の条件として、判例によって確定しています)
 れんだいこさんの文章では「加害」「大虐殺」が原文の中に入っているので
この点でもアウトですね。 

>これでは、れんだいこが、人様に「南京大虐殺」の実際の様子はこうだったんだよ
>と説明できないなと思った訳です。

 前出の偕行社の「南京戦史」をひもとけばいくらでも出てきますが、れんだいこさんは
読んだことは無いのでしょうか

 以下引用です
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井上又一日記(偕行社「南京戦史資料集」P469)
 歩兵第七連隊第二中隊・上等兵

 原本は手帳に書かれた自筆。
 
12月15日
 午前八時整列して宿営地を変更の為中山路を行く。
 日本領事館の横をとって外国人の居住地たる国際避難地区の一体の
残敵掃討である。
(中略)
 四拾余名の敗残兵を突殺してしまふ。
(中略)
 此の日記を書いていると人の部屋で盛んに歌う、手を叩く盛んに
やっている。


 拾弐月拾六日
 (前略)
 若い奴を三百三十五名を捕らえて来る。避難民の中から
敗残兵らしき者を皆連れてくるのである。全くこの中には
家族も居るであろうに。全く之を連れ出すのに只泣くので
困る。手にすがる、体にすがる全く困った。
 (中略)
 揚子江付近に此の敗残兵を連れて他の兵が射殺に行った。
この寒月拾四日皎々と光る中に永久の旅に出る者そ何かの
縁なのであろう。皇道宣布の犠牲となりて行くのだ。日本
軍司令部で二度と足腰の立て得ないようにするために若人
は皆殺すのである。


壱拾弐月弐拾弐日
(前略)
夕闇迫る午後五時大体本部に集合して敗残兵を殺しに行くのだと。
見れば本部の庭に百六十一名の支邦人が神明に控えている。後に死が近づくのも知らず我々の行動を眺めていた。百十六余名を連れて南京外人街を叱りつつ、古林寺付近の要地帯に掩蓋銃座が至る所に見る。
 日はすでに西山に没してすでに人の変動が分かるのみである。家屋も点々とあるのみ、池のふちにつれ来、一軒家にぶちこめた。家屋から五人連をつれてきては突くのである。うーと叫ぶ奴、ぶつぶつと言って歩く奴、泣く奴、全く最後を知るに及んでやはり落ち着きを失っているを見る。戦に敗れた兵の行く先は日本人軍に殺されたのだ。針金で腕を締める、首をつなぎ、棒でたたきたたきつれ行くのである。中には勇敢な兵は歌を歌い歩調をとって歩く兵もいた。突かれた兵が死んだまねた、水の中に飛び込んであぶあぶしている奴、中に逃げるためにしがみついてかくれている奴もいる。いくら呼べど下りてこぬ為ガソリンで家屋を焼く。火達磨となって二・三人が飛んできたのを突殺す。
 暗き中にエイエイと気合いをかけ突く、逃げて行く奴を突く、銃殺しパンパンと打、一時此の付近を地獄のようにしてしまった。終わりて並べた死体の中にガソリンをかけ火をかけ、火の中にまだ生きて動いている奴が動くのを又殺すのだ。
 (中略)


歩兵第七連隊戦闘詳報

12月15日

極秘 歩七作命甲第111号
歩兵第七連隊命令(12月15日午後8時30分、於 南京東部連隊本部
一(略)
二、連隊は明十六日全力を難民地区に指向し徹底的に敗残兵を捕捉し殲滅せんとす。
  憲兵隊は連隊に協力する筈。
三、各大隊は明十六日早朝よりその担任する掃討地区内の掃討特に難民地区掃討を続行すべし
 第三大体は部下各中隊よりかく一小隊を出し第一大隊長の区署を受けむべし
四(略)
五(略)
 連隊長 伊左大佐

  
上海・南京 見た 撮った

 従軍とは歩くこと
 
  佐藤 振壽(元毎日新聞記者)
 南京戦史資料集II p610
 
 一夜が明けると12月14日の朝だ。筆者が昨夜寝ていた建物は、中山門内の中国軍将校の社交機関・励志社である。
 (中略)
 そんな時、連絡員の1人が励志社の先の方で、何かやっていると知らせてきた。何事がよくわからなかったが、カメラ持参で真相を見極めようと出かけた。
 行った先は大きな門構えで、両側に歩哨小屋があったので、とりあえず、その全景を撮った。
 中へ入ってみると兵営のような建物の前の庭に、敗残兵だろうか百人くらいが後ろ手に縛られて坐らされている。彼らの前には5メ‐トル平方、深さ3メートルくらいの穴が、二つ掘られていた。
 右の穴の日本兵は中国軍の小銃を使っていた。中国兵を穴の縁にひざまザかせて、後頭郡に銃口を当てて引き金を引く。発射と同時にまるで軽業でもやっているように、回転して穴の底へ死体となって落ちていった。
 左の穴は上半身を裸にし、着剣した銃を構えた日本兵が「ツギッ!」と声をかけて、座っている敗残兵を引き立てて歩かせ、穴に近づくと「エイッ!」という気合いのかかった大声を発し、やにわに背中を突き刺した。中国兵はその勢いで穴の中へ落下する。たまたま穴の方へ歩かせられていた一人の中国兵が、いきなり向きを変えて全力疾走で逃走を試みた。気づいた目本兵は、素早く小銃を構えて射殺したが、筆者から一メートルも離れていない後方からの射撃だったので銃弾が耳もとをかすめ、危険このうえもない一瞬だった。
 銃殺や刺殺を実行していた兵隊の顔はひきつり、常人の顔とは思えなかった。緊張の極に達していて、狂気の世界にいるようだ。戦場で敵を殺すのは、殺さなければ自分が殺されるという強制された条件下にあるが、無抵抗で武器を持たない人間を殺すには、自己の精神を狂気すれすれにまで高めないと、殺せないのだろう。
 後で仲間にこの時のことを話すと、カメラマンとしてどうして写真を撮らなかったかと反問された。「写真を撮っていたら、おそらくこっちも殺されていたよ」と答えることしかできなかった。
 このような事件を見たのは筆者だけではなかったようだ。東京から第百一師団に従軍するため、大阪から同じ軍用船で上海へ渡った記者伸間に「東京朝日」の足立和雄君がいた。
 阿羅健一著『聞き書・南東事件』(図書出版社刊)の中に足立記者との次のような問答が記されている。
−南京で大虐殺があったといわれていますが、どんなことをご覧になっていますか。
「犠牲者が全然なかったとは言えない。南京へ入った翌日だったから、十四日だと思うが、日本の軍隊が数十人の中国兵を射っているの見た。塹壕を掘ってその前に並ばせて機関銃で射った。場所ははっきりしないが、難民区内ではなかった。」
 筆者が見た場所と足立記者が見た場所は、同じ場所ではないようだ。しかし、同じ十四日の出来事であった。

 さて筆者が目撃した場所はどこであったのか、大きな門の写真を撮ったが、その門の上には「駐軍八十八師司令部」の文字が読みとれる。さらに営門の両側の哨舎のうち、右の構舎には「伊佐部隊・棚橋部隊」、左の哨舎には歩哨の陰になっているが棚○○、捕虜収容所、占獲集積所」という文字が読める。「駐軍八十八師司令郡」の白いレリーフの文字は黒色に塗られていた。その下には横長に「青天白日」のデザインがレリーフになっている。八十八師といえば、中国軍の中でも蒋介石直轄の精鋭部隊として知られていた。
 ところで、八十八師の営門の哨舎に書かれている「伊佐部隊・棚橋部隊」とは、上海で勇戦し感状を受けた第九師団歩兵第七連隊第三大隊の通称である。

「従軍とは歩くこと」 南京戦史資料集II p610〜P612



 十二月十六日は晴天だった。社の車を使えたので、南京住民の姿をルポするために市内を走り回った。そして南京城外北東部にある玄武湖の風景写真を撮ったりした帰途、難民区近くを通りかかると、何やら人だかりがして騒々しい。そして大勢の中国の女が、私の乗った車に駆け寄って来た。車を止める助手台の窓から身を車の中に乗り入れ、口々に何か懇願するような言葉を発しているが、中国語が判らないからその意味は理解できない。しかし、それらの言葉のトーンで何か助けを求めていることだけはわかった。彼女たちの群れを避けて、中山路へ出ると多数の中国人が列をなしている。難民区の中にまぎれこみ一般市民と同じ服装していた敗残兵を連行しているという。憲兵に尋ねると、その数五、六千名だろうと答えたので、撮った写真の説明にその数を書いた。この時の情況が『南京戦史」の歩兵第七聯隊(金沢、伊佐部隊)第二中隊の昭和八年兵・井上又一氏の日記にくわしく書かれていた。

 壱拾弐月拾六日
 午前拾時から残敵掃蕩に出かける。高射砲一門を捕獲す。午後又出かける。若い奴を三百三十五名を捕えてくる。避難民の中から敗残兵らしき奴を皆連れて来るのである。全くこの中には家族も居るであろうに。全く此を連れ出すのに只々泣くので困る。手にすがる、体にすがる全く困った。新間記者が此を記事にせんとして自動車から下りて来る……十重二十重にまし来る支那人の為、流石の新間記者もつひに逃げ去る。

 難民区から敗残兵を駆り立てた時の様子が如実に書かれている。便衣に着かえた中国兵を〃処断〃する情景を書いた他の兵士の日記もあるが、私は現場を見ていないので評論する資格がない。私が自信を持って書くことができるのは、この眼で見た八十八師の営庭での敗残兵の〃処断〃だけである。

 十二月十五日午後八時三十分発令の「歩兵第七聯隊作命甲第111号」には、
 一、本十五日迄捕獲シタル俘虜ヲ調査セシ所二依レハ殆ト下士官兵ノミニシテ将校ハ認メラレサル情況ナリ、将校八便衣二更へ難民区内二潜在シアルカ如シ
 二、聯隊ハ明十六日全力ヲ難民地区二指向シ徹底的ニ敗残兵ヲ捕捉殲滅セントス憲兵隊は協カスルハズ




【編集部注】

 歩七の戦闘詳報によると、十二月十一二日から二十四日の間に敗残兵六、六七○人を刺射殺したと記されており、その大部分は十六日に処断されているが、それは歩七の前述の作戦命令によるものである。歩七聯隊長・伊佐大佐の日記をみても、
 「十四、五、六日ノ三日間デ六干五百人の敗兵ヲ厳重処分ス」と記されている。
 歩七の参戦者とは『南京戦史』編集委員が再度会談し、当峙の状況としては掃蕩命令を忠実に実行したとのことであったが、最近(昭和六十三年末)同師団の土屋正治氏の質問に対し「今にして思えば、聯隊長の当峙の状況判断については、痛恨の情に堪えない」と答えられた。【南京戦史331ぺ−ジ】

「従軍とは歩くこと」 南京戦史資料集II p618〜P619