9376 返信 スマイス調査に対する疑問(長文失礼) URL 五番街 2001/09/03 07:54
スマイス調査は、1937年12月から翌年の3月の期間に実施され、その結果がいくつかの研究書にも取り上げられていますが、どうもこの調査結果の把握の仕方が研究者によって異なっているように思われます。その例をいくつか挙げることにします。

1. A. 市内での民間人の殺害3250人、拉致され殺害された可能性の大きい者4200人(小計7700人*)、
  B. さらに城内と城壁周辺の埋葬資料調査も合わせ、合計1万2000人
C. 近郊区(四県半を除く)の農村における虐殺者数:2万6870人
 (「南京事件」岩波新書 笠原十九司)


2. A. 市街地における日本兵の暴行による死者と拉致者(ほとんど行方不明)の合計:6600人
  B. スマイス調査(修正)による一般人の死者:2万3000人(おそらく、市内および郊外*)
  B項にもとづく不法殺害者数の算出:2万3000 X 0.5 =1万2000人 または 2万3000 X 0.33=8000人
 (「南京事件」中公新書 秦郁彦)


3. A. 兵士の暴行による死者2400人、拉致殺害された者4200人(小計6600人*)、
  B. 市内および城壁付近の一般犠牲者数:1万2000人
 (「決定版 南京大虐殺」 徳間書店 洞富雄)

4. A. 一般市民の死者:2400、拉致された者(大半は行方不明):4200人(合計6600人*)
 (サンケイ新聞1985年8月10日 鈴木明 ー「天皇の軍隊と南京事件」青木書店 吉田裕 に収録ー)

注:*の小計、合計などは五番街が書いたもの

洞富雄氏の「決定版 南京大虐殺事件」には、スマイスの作成した調査結果の表が収録されており、A項の市内での民間人の虐殺数の違いは、この表の分類の把握の仕方によるものと考えられる。そして、上記のサンプルを見る限り、この表から、A項の虐殺数を6600人と考える者が多い。

一方、洞富雄氏と秦郁彦氏は、この6600人は少なすぎると考えており、洞富雄氏および笠原氏は、スマイスが埋葬資料を加味した、市内および城壁付近の一般人虐殺者数1万2000人を挙げている。秦氏は、スマイス調査(修正)による一般人の死者2万3000人の半数あるいは3分の1を虐殺者数としている。この秦氏の把握の仕方の問題は、死者の半数あるいは3分の1を虐殺数と見なしているものの、その理由を全く書いていないことでる。

結論としていえば、スマイスは、家屋50戸につき1家族を調査した結果を50倍した数を虐殺数としておきながら、さらに、埋葬資料を検討し、市街地および城壁周辺の虐殺数を1万2000人と算出していることが分かる。そして、笠原氏のあげた同調査による近郊区の虐殺数2万6870人をこれに加えた約4万人が民間人の推計虐殺総数の最大値となる

さて、次に検討すべきは、はたしてこのスマイス調査による虐殺数の推計が適切なものかどうかである。

検討すべき資料として、「天皇の軍隊と南京事件」(青木書店 吉田裕)で記述されている第6師団(熊本)による虐殺数を用いることにする。なお、秦郁彦氏の「南京事件」にはこの虐殺は収録されていない。また、他の研究書ではどう扱われているかは調べていない。

以下に、同書に収録されたこの事件に関する証言の要約を箇条書きにしたが、それをまとめると、この事件の期日を特定することは私にとって困難だが、1937年12月13-19日の一日に、第6師団が南京城外の下関において、移動中の10万人以上の中国軍民を発見し、その一時間後に機銃等による殺戮を開始して、5万人以上を虐殺したことになる。

証言にもとづいて、この軍民の大群は、南京市内からの脱出者と推測され、大半は民間人であり、それを半数と見積もっても2万5000人が虐殺されており、スマイス調査の市内および城壁付近の虐殺数1万2000人の2倍の人数となる。むろんこれらの犠牲者が近郊の農村出身者と考えることもできない。そのため、スマイス調査では漏れた民間人虐殺数は、きわめて多大であることが推測される。


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第6師団歩兵第36連隊分隊長 山本武 (「一兵士の記録」に収録)
1. 12月19日、場所:下関
2. 揚子江沿岸に集まり退却しようした敵兵を機銃掃射、砲撃などで「大虐殺」を行い、「白旗を掲げた者を皆殺しにしたという」
3. その後、毎日、第6師団が死体処理を行う

第6師団輜重兵第6連隊小隊長 高木守一 (「揚子江が哭いているー熊本第6師団大陸出兵の記録ーに収録)
1. 12月14日、場所:下関
2. 揚子江の川面に「民間人と思われる累々たる死体が浮かび」、「それらのほとんどが、南京からの難民のようであり、その数は何千、何万というおびただしい数に思えた」
3. 「道筋に延々と連なる死体は」、「焼死体となって民間人か中国軍兵士かの区別もつかないような状態であった」。「子供に間違いないと思われる死体も、おびただしくあり、ほとんどが民間人に間違いないと思われた」

第6師団歩兵第13連隊二等兵 赤星義雄 (「揚子江が哭いているー熊本第6師団大陸出兵の記録ーに収録)
1. 12月14日、場所:揚子江岸
2. 揚子江の2000メートルの「川幅いっぱいに、数えきれないほどの死体が浮遊していた」。「それは兵士ではなく、民間人の死体だった」
3. 「上流に目を移しても、死体の”山”はつづいていた」。「少なくとも5万人以上、そして、そのほとんどが民間人の死体で」あった。

矢次一夫 (「昭和史動乱私史」上に収録)
1. 1938年1月、場所:下関
2. 中原大佐が「いま通っている道路の下には、何万と数知れぬ中国兵の死体が埋められている、と言い、この辺で戦死した中国人は十数万と伝えられているほどだ」という。
3. 「敗走する中国軍隊に対して大殲滅戦を敢行したので」、「十数万の死体は」、「後始末が大変で」、「この地下にはおよらく7、8万以上の死体が埋められていると考えられる」という。
4. 「自動車が通るとき、ふわ、ふわっとしていたのはそのせいですよ」という。

松井司令官専属副官 角良晴少佐 (証言による南京戦史<その総括的考察>に収録)
1. 12月18日、場所:下関
2. 第6師団から「下関に支那人(ママ)約12、3万人がいる」との報告がある。
3. 長勇中佐は「ヤッチマエ」と命令。同中佐は「支那人(ママ)の中には軍人が混じっております」という。
4. 約1時間後、第6師団から、再び「支那人をどうするか」との問い合わせがあり、長中佐は前回同様、「ヤッチマエ」と命じた。
5. 第6師団参謀長 下野一霍大佐が「下関の支那人(ママ)大虐殺は師団長の意図ではなく、軍の命令であった」と回想録に述べられているはず。

徳川義親 友人の藤田勇が、長勇中佐から聞いた話 (「最後の殿様」に収録)
1. 揚子江沿いに逃げる「女、子どもをまじえた市民の大群が怒濤のように逃げてゆく。そのなかに多数の中国兵が紛れ込んでいる」
2. 長中佐は、兵士に機関銃によるいっせい射撃を命じ、「大殺戮となったという」
3. 藤田は、長中佐に『「その話だけは誰にもするなよ」と厳重に口どめしたという』

魚更生(更生は一字)の証言(東京裁判における南京地方法院検察官報告)
1. 12月16日 場所:下関・草鞋峡
2. 幕府山付近の数か村に監禁されていた 5万7418人の中国軍民が日本軍によって集団が虐殺

谷寿夫元第6師団長に対する判決 (南京軍事法廷)
1. 12月18日 場所:下関・草鞋峡
2. 5万7418人の中国軍民が日本軍によって集団が虐殺