12773 | 返信 | ハリウッド映画の人種差別とポルノグラフィの性差別 | URL | にゃにゃにゃにゃにゃ | 2002/01/28 10:55 | |
ポルノ・買春問題研究会のサイトを見ていたら、以下の一文がありましたので、参考資料として紹介します。 http://www.app-jp.org/ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 2002年1月2日 (水) ハリウッド映画の人種差別とポルノグラフィの性差別 元旦の『朝日新聞』の一面に非常におもしろい囲み記事がありました。それは「アメリカ・アメリカ」という連載記事で「銀幕に映る画一と偏見」という見出しが出ています。その記事は、アラブ系のアメリカ人がハリウッド映画の出演面接でわずか5秒で合格した、という話から始まっています。わずかな時間で決まったのは、彼がいかにもテロリスト風に見えたからというものです。さらにおもしろい事実が書いてあります。レバノン系の学者が無声時代からのハリウッド映画909本を検証した結果、アラブ人が偏見なく描かれているものはわずか12本だったそうです。 この情報は、私が見たかぎりでのハリウッド映画をいくつか思い返しただけで、真実であることがわかります。たとえば、アーノルド・シュワルツネッガー主演のアクション映画、『トゥルー・ライズ(訳せば「嘘から出た真実」)』という映画では、アラブ系のテロリストが、ニューヨークを核攻撃するというもので、シュワルツネッガー扮する連邦政府の国家機密機関メンバーがそれを未然に防ぐという筋書きです。そこに出てくるアラブ人は恐ろしく冷酷で、しかも滑稽な存在として描かれており、それらテロリストはとにかく、全員が見事に主人公によって抹殺されます。いっさいの人間性を剥奪された形で描かれており、アラブ人テロリストには問答無用、とにかく銃で皆殺しにするしかない、というような意識を観客に植えつけるものとなっています。この映画の監督は、ジェームズ・キャメロンで大ヒットした『タイタニック』や『ターミネーター』をつくった人物です。 また一見するとアラブと何の関係もない映画でも、アラブのイメージは「荒廃」「貧困」「ならず者」のイメージに使われています。たとえば、2年ほど前の映画『スターウォーズ・エピソードワン』には、正義の共和国に従わないならず者が集まる星が出てきますが、その星の風景はどう見てもアラブの地域の風景なのです。『スター・ウォーズ』のような未来の宇宙活劇もの(死語)でさえ、アラブのイメージは「荒廃」「悪党」と結びつけられているのです。 これなどはほんの一例で、とにかくハリウッド映画に出てくるアラブ人はほとんどがテロリストと相場が決まっています。冷戦時代には、ソ連や東欧の人間が冷酷無比な悪党として登場してきましたが(たとえば、『ランボー・怒りのアフガン』などはその典型で、今現在行なわれているアフガン戦争さながらに、ランボーに扮するシルベスター・スタローンが、ソ連兵士を皆殺しにするというものです。ちなみにこの映画ではアメリカが積極的にイスラム原理主義者を支援していたことを肯定的に描き出し、イスラム原理主義者を「正義の側」として描いています。当時のアメリカの国策のほどがよくわかります)、ソ連崩壊後は、アラブ系が悪党の代表者になったというわけです。 アラブ人を十把一絡げにテロリストであるかのように描くような映画はどう考えても人種差別的映画です。最近のハリウッド映画は、黒人に対しては多少の配慮をするようになりましたが、それ以外の少数派の描き方はあいかわらずひどいものです。 特定の人種を貶め、その人間性を剥奪する形で映画を量産することは(一つや二つではなく)、明らかに人種差別であり、糾弾されるべきです。おそらく、人権問題にある程度敏感な人なら、このことに同意するでしょう。しかしよく考えれば、ポルノグラフィは、特定の性別集団(女性)を貶め、人間性を剥奪する形で描いており、しかもそれを、とてつもなく大量に生産しています。アダルトビデオだけで、年間3万本も市場やレンタルショップに出回っているのです。アラブ人を生まれながらのテロリストであるかのように描くことが許されない人種差別の実践であるのと同じく、女性を、生まれながらの淫乱、ないし、男性の性的欲望の客体物としてのみ描くことも、許されない性差別の実践です。 人種差別的ハリウッド映画とポルノグラフィとの比較論においてもう2つ重要な論点があります。一つは、そのような人種差別映画と実際に起こされる犯罪との関連性です。9・11テロ以降、アラブ系アメリカ人に対する迫害や差別がアメリカ全土で、何百件と起こっています。これははたして、アラブ人を十把一絡げ的にテロリストとして描いてきたハリウッド映画による洗脳と無関係でしょうか? そんなことはありえません。ポルノグラフィと性犯罪との関係を一貫して否定してきた論者たちはここでも、アラブ人をテロリストとのみ描く大量の映画と、アラブ系迫害とはまったく無関係だと言い張るでしょうか? ユダヤ人を劣った民族として宣伝する表現物は、ヨーロッパにおけるユダヤ人迫害と無関係だといえるでしょうか? 絶対に言えません。そんなことを言う人は、イデオロギーやプロパガンダは現実に何の影響も与えない無意味な行為だと宣言するに等しく、それは事実上、知識人である自分たちの言論活動そのものの否定でさえあります。奇妙なことに、ポルノグラフィは現実の犯罪と無関係だと繰り返し繰り返し言う人々は、そう言い張る一方で、自分の言論活動が現実の人間の行動に何らかの影響を及ぼすことを信じて、言論活動をしているのです、ポルノグラフィを擁護するという言論活動を…。自分の実践が自らの言説を裏切っている典型的な例でしょう。 もう一つ重要な論点は、そのようなアラブ人差別映画に出ているアラブ人自身はどうなのか、ということです。かつて、アメリカの無声映画には白人が黒塗りして黒人を演じるという差別映画が多数ありましたが、今はさすがにそういうのはありません。アラブ人をテロリストとして描く映画には、れっきとしたアラブ系アメリカ人が出演しているのです。このアラブ系アメリカ人の声が、くだんの朝日の記事に掲載されていました。「なぜ悪人とイスラム教を安易に結びつけるのか」、「アラブ人が家族と暮らし普通にモスクに通うシーンは、なぜ出てこないのでしょう」と語っています。アメリカでアラブ系として生まれ、映画俳優になりたければ、テロリスト役をやらないわけにはいかないのです。彼はまさに人種差別の犠牲者なのです。それは一般に、そのような映画に出ざるをえなかったという社会状況が差別的であるという意味においてだけでなく、その映画の中でテロリストとして描かれることそのものが、彼の人権を侵害しているのです。彼がそうした役に出ることを同意し、契約を交わしていても、それでもなおかつ差別であり、人権侵害なのです。 以上のことはポルノグラフィについても言えます。 この性差別社会で、女優になってお金を稼ごう、とすれば、多くの場合ヌード(あるいはセミヌード)になり、生まれながらの淫乱、レイプを楽しむ存在であることを演じざるをえないわけです。それは、出演している彼女自身の人権を侵害する行為なのです。たとえ、その中で暴力が行使されていなくても、それは差別であり、人権侵害なのです。また彼女が、その役柄に不快感を感じていようが(くだんのアラブ系アメリカ人の青年のように)、あるいは心から喜んで演じていようが、この人権侵害の本質は何ら変わりません。 妻を殴る行為が、その妻の主観的受け取りがどうであれ、犯罪的暴力であるのと同じです。 |
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