17083 | 返信 | 学校と法治主義 | URL | 鈴木 康 | 2002/12/26 16:41 | |
野崎さん、こんにちは。Sisiさんはじめまして。お二人から頂いたご意見に対して重なるところがありますので、一緒にレスします。ただ、私は法律も素人ですので悪しからずお含みおきください。なおご覧になっている方で法律に詳しい方おられましたらご助言ください。 > > 学校は校則に関して法治主義の感覚が希薄ですし、処分に関して罪刑法定主義も十分ではありません。けっしていまの日本社会のあり方がいいとは言えないにしても、学校と比べればだいぶましだと私は思います。(鈴木) > > 校則が厳しいのは管理教育のたまものであり、法治主義の感覚が希薄なほうがいいです。 > 懲罰が厳しいことこそ、子どもの権利より、教員の権威を増長させるからです。(野崎さん) 校則にいろいろ問題があるのは承知していますし、ばかげた校則があるのも知っています。ただそれでも、校則が条文に忠実に運用されるほうが教員の恣意的な権力濫用よりはましだと私は思います。 具体例を挙げますと私の中学校時代には「男子の髪は襟と耳にかからないこと」という校則がありました。とりあえずこの校則の是非についての判断は棚上げしましょう。大変疑問に感じたのは、角刈りの男子生徒が教員から「坊主にしろ」と責められることでした。言うまでもなく角刈りは校則をクリアーしています。それにもかかわらず教員が切れというような事態を、私は、学校は校則に関して法治主義の感覚が希薄であると書きました。 学校に法治主義を求めるというのは、決して校則を否定するものではありません。一例を挙げるならば、携帯電話の教室持ち込みを禁止するといった程度の校則はあってもいいと私は考えます。ただ、何事であれ取り締まる必要があるのならば、まずルールを制定してから取り締まるのが法治主義です。それがないことには、取り締まり権が濫用されます。たとえば教室でガムを噛む行為が不都合ならば、まず校則を制定してから取り締まるべきです。たしかに、教室でガムを噛んではならないといった校則の存在はみっともないです。しかし教員が恣意的に取り締まるよりはましです。 重大な校則違反にたいして処分が下される場合には、教員の裁量や地域の有力者の顔色を伺いながらの処分ではなく、明文化された規定による処分、すなわち罪刑法定主義の発想で処分すべきであると私は考えます。窮屈な考えに思われるかもしれませんが、少なくとも法の支配があるということは、教員という権力者の権力濫用よりはましだと私は考えます。そのためには、Sisiさんご指摘の通り教員が法律の支配に服することが大前提になります。痴漢や体罰といった違法教員の処分規定は明文化し、罪刑法定主義の原則を明示すべきです。もちろん野崎さんご指摘のように意味もなくきびしい校則は不要ですし、校則制定過程の公開と民主化が望まれます。 追記 以下「刑法おもしろ事典」(和久峻三著)より、法律の格言、名言を引用します。(通俗的入門書しか読んでなくてお恥ずかしい限り) (引用開始) 刑法は犯人のマグナカルタである 名著「ドイツ刑法教科書」をあらわしたウイーン生まれの刑法学者フランツ・フォン・リスト(1851〜1919)の有名な言葉であり、今日では罪刑法定主義の尊重を意味する法格言となっている。刑法は拡大解釈をしてはならず、それを許すと国家権力の恣意を招く。これが罪刑法定主義の精神だ。条文を気ままに拡大解釈して、なんでもかんでも処罰してしまえという勇み足をいましめているのだ。ナチスの刑法やスターリン刑法は、逆に拡大解釈をせよ、とうたいあげていたことを思えば、罪刑法定主義がデモクラシーと密接に結びついていた法原則であることが容易に理解できるだろう。 法律なければ刑罰なし ドイツ近代刑法学の創始者フォイエルバッハの名言である。日本国憲法代39条に「何人も、実行の時に適法であった行為・・・・については、刑事上の責任を問はれない」と定められているのも、これと同じ意味だ。行為のときに適法であったものを、のちになって刑罰法規を作り、さかのぼって処罰する事後立法を禁じているのだ。どのような行為が処分に値するのか、あらかじめ国民に知らせておくべきだという考えに根ざしている。 (引用終了) ちなみに日本国憲法で罪刑法定主義は、31条に「何人も、法律の定める手続きによらなければ、その生命若しくは自由を奪われ、又はその他の刑罰を科せられない」と規定されています。 |
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