18040 | 返信 | Re:石原慎太郎大統領インドネシアで日本軍が行ったこと | URL | inti-sol | 2003/02/01 13:34 | |
日本がインドネシアを独立させたかのような言い方をする方がいます。これこそデタラメの極地なのです。 確かに、オランダの植民地統治はひどいものでした。だから、太平洋戦争が始まって、日本軍がジャワ島に上陸すると、多くのインドネシア人が日本軍に協力しました。兵力では圧倒的に優勢だったオランダ軍があっさり日本軍に敗れ去ったのは、インドネシア人の抵抗と日本軍への協力によります。 が、 日本軍は、このインドネシア人の期待を、ものの見事に裏切った。 インドネシア人は独立を望んでいました。スカルノらの独立運動の指導者たちが日本軍に協力したのも、独立を獲得するためです。 ところが、日本がインドネシアを占領したのは、決してインドネシア解放のためではなく、その反対。有り体に言ってインドネシアの石油が欲しかったからです。 1943年5月31日の御前会議で決定された「大東亜政略指導大綱」は、マレー・スマトラ・ジャワ・ボルネオ・セレベス(つまりインドネシアの大部分とマレーシア・シンガポール)は帝国領土とすると定めています。 つまり、インドネシアを独立させる気は、日本軍には全くなかったのです。それを反映して、戦時中日本が占領地の傀儡政権を集めて行った「大東亜会議」に、インドネシアの代表は、呼ばれもしませんでした。 日本軍の軍政は過酷で、米の収穫の3割から5割を徴発したと言われます。このことが、インドネシアにおいても大量の餓死者を生む原因となりました。 インドネシアの歴史教科書にも載っている「ロームシャ(労務者)」という名の強制労働にかり出されたインドネシア人は多数にのぼりました。30万人もが海外に連行され、その大半が生きては帰らなかったのです。 ヘイホ(兵補)と呼ばれる日本軍の補助兵力にかり出されたインドネシア人の中にも、所属部隊の異動に伴って、ビルマ戦線やニューギニア戦線に送られ、日本兵同様のすさまじい飢餓地獄の中でその多くが命を落としました。日本兵ですら初年兵に対するいじめは陰惨なものがありました。まして、後述するようにインドネシア人に対する日本兵の差別意識は抜きがたいものがありましたから、インドネシア人「兵補」に対する日本軍の扱いがいかなるものだったか、想像するに余りあります。 加えて、アラーの神を信仰するイスラム教徒(インドネシアは世界最大のイスラム国)に、天皇教を強制し、メッカではなく東京の方向を遙拝させようとしたことから、反乱が続発しました。 具体的には、 ポンティアナック事件(1943年10月。西カリマンタンで、元オランダ総督が反日地下活動に関わって逮捕されたのをきっかけに、疑心暗鬼の海軍特別警察隊が無差別に住民を殺害した事件。犠牲者1500人以上、一説には2万人) シンガパルナ事件 インドラマユ事件(いずれも、1944年2-8月に西ジャワで起きた日本軍に対する農民反乱) ロアクール事件(日本軍の圧制に抵抗した住民が虐殺されて炭鉱に捨てられた事件) ババル島事件(44年10月、日本兵が殺された報復に住民数百人が虐殺された) など。 そしてついには、日本軍の組織した強度防衛組織である「ペタ」の、スカルノの出身地であったブリタルの部隊が反乱を起こすに至りました。事件の直接の引き金になったのは、階級では上のペタの幹部に対して、敬礼をしないなど日本軍の将兵が彼等の誇りを激しく傷つけたことだと言われています。 なお、あいうえお氏はインドネシアは激しい戦場にはならなかったと思っておられるようですが、氏はどうもイリアンジャヤ(ニューギニア西部)のことを失念しておられるようです。インドネシアから分離独立の動きはあるものの、イリアンジャヤはインドネシア領です。ここで日本軍と米豪軍の間でいかに激しい戦闘が行われたかは、今更説明の必要はないでしょう。inti-solの母方の親戚で、ニューギニア最西端のソロンというところで九死に一生、いや九百九十九死に一生を得た人がおります。(昨年亡くなってしまいましたが)その戦争体験+飢餓体験たるや、すさまじいものであったようです。当然、住民は、日本軍より更に過酷な状況に置かれたであろうことは、容易に想像できます。 さて、インドネシアを独立させないことにしていた日本ですが、このような反乱の続発に加えて、戦況の悪化によって、ついに44年9月、小磯内閣はインドネシアの独立を認めます。ただし、その本音はジャワ島のみの独立を認め、それ以外の地域(石油その他の資源豊富な地域)は引き続き独立を認めない、というものであったようです。 そして、独立の時期として予定されていたのは、45年9月7日。その前に日本の敗戦によって戦争は終わりました。 するとどうなったでしょうか。 2年ほど前、「インドネシア独立のために日本軍の兵隊たちが貢献した」と主張する「ムルデカ17805」なる右翼映画が作られたことがあります。(私は見ていませんが) 確かに、インドネシア独立のために協力した元日本兵が存在したことは事実です。 しかしそれは事実の一面でしかありません。 大半の日本軍部隊は、敗戦後、インドネシア独立派の軍隊から武器の引き渡しを要求されてそれを拒否、各地で日本軍対インドネシア独立派の激しい戦闘になります。つまり、一部にインドネシア独立に協力した日本兵がいたとは言え、大部分の日本軍は、はっきりとインドネシア独立軍に敵対したのです。 特に大きな武力衝突と言われるスバラヤ事件は45年10月に起こりました。降伏したはずの日本軍と、進撃してきたオーストラリア軍が一緒になって、インドネシアの独立軍と激戦を繰り広げたのです。 日本軍がインドネシアでやったこととは、そういうことだったのです。 |
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