18067 返信 ピアストル URL 帽子屋@革命的ドラえもん主義者同盟全国委員会 2003/02/03 00:00
帽子屋です♪
 
> 私は、ベトナムでも現地の人が香港のように日本軍の残した軍票の補償を求めてるような状況があるのかと聞いたのですが?つまり、戦後紙切れになった日本軍の大量の軍票使用があったかどうか。

あります。
ベトナムはもともと米穀の大量輸出国で、インドシナ銀行が農業金融と貿易金融を掌握しピアストル紙幣を発行していました。このため、1940年9月のヴィシー政府との協議の元、北印進駐がおこなわれた際、ピアストル回収のために軍票が発行されました。ただ、このときは協議の元進駐という形で、軍票も発行量も比較的すくなかったので良かったのですが、なにせ協定の元仏印に進駐したもんで、日本軍は現地でピアストル紙幣を調達しなければならず一苦労。現地インドシナ銀行から横浜正金銀行が、日本からおくられた円資金を換金する形でピアストル紙幣を借り入れる方式が採用され、軍票ピアストル発行はさけられたものの、借入額は増大しふくれあがった紙幣に現地ではインフレが加速。

ふくれあがる軍費に、現地通貨政府貸上方式を1944年4月より施行することになります。
これにより正金サイゴン支店は、正金東京支店のインドシナ銀行の特別円勘定に対価を払い込むことで、インドシナ銀行からピアストルを借り入れ、仏印政府にピアストルを貸しつける形がとれることになりました。日本からの軍事費送金をおこなわず、日本の臨時軍事費財源支出と切り離して軍事支出することが可能になったのです。さらに1945年3月のフランスのドイツ支配からの解放を機に、仏印処理が強行されることになります。あの有名なバオダイを皇帝に押したてフランス植民地を廃止して完全な日本単独支配に移行してからは、インドシナ銀行は完全に正金に業務管理が委託されピアストル発行量は急増しました。

むろん払い込まれたとされるインドシナ銀行特別円勘定なるものは、結局なんの意味もないものです。結局政府貸上金は11億円以上にのぼり、1945年8月末のピアストル残高24億8300万ピアストルに達しています。仏印進駐するまえの40年7月のピアストル残高が2億8000万だったので、特別円勘定を担保に9倍近い発券量の急伸をみたことになります。

むろん紙くずになりました。

> また、戦時中のベトナムは「交換すべき何者もない」ような状況だったのでしょうか?

インフレの最大の問題点は、進行することにより交換機能をまひさせ、ほんらい存在し交換できるはずのものさえ退蔵させてしまうことにあります。