23758 | 返信 | Re:チベットは平和な宗教的桃源郷だったのか? | URL | 森永和彦 | 2003/10/12 05:42 | |
日本人が西蔵「亡命政府」の宣伝に乗せられやすい理由を考えてみました。 最大の理由は、やはり中国差別意識です。日本人は日清戦争いらい、中国人を「支那人」「チャンコロ」といって差別してきたのです。だから西蔵が中国の一部として発展している現実を認めたくないのだと思います。ブラジルの日系人が「日本は太平洋戦争に勝った」と思い込んでいた(いわゆる「勝ち組」)のと共通するものがあると思います。 日本人が台湾独立を支持するのも、日本が中国に敗戦して台湾が中国に復帰したという現実を直視できない「勝ち組」精神から来るものです。日本が中国に敗戦したという事実を忘れるために、李登輝や金美齢のように骨の髄まで皇民化された哀れな植民地人を見て「日本は台湾を発展させた」と思い込みオナニーをしているのだと思います。魯迅が「阿Q正伝」で風刺した「精神勝利法」の日本人版でしょう。 ただし日本人式精神勝利法に還元されない要素もあるのではないかと考えました。それは日本が仏教国であることです。 これには二つの側面があります。一つは日本人の大多数が(一応)仏教徒であるために、同じく大部分が仏教徒である西蔵人になんとなく親近感があるという側面です。もう一つは、日本人の大多数が一応は仏教徒でありながら、仏教の本質とは無縁の葬式仏教(江戸時代に住民管理とキリシタンや一部の仏教宗派弾圧を目的として作られた寺請制度のなごり)に不満と反発を感じているため、上座部仏教や蔵伝仏教になんとなく親近感を持つという側面です。 既成仏教に反発したオウム真理教や、その母体となった阿含宗も、蔵伝仏教との関係を誇示していました。 ただし阿含宗は比較的親中国的な姿勢を取り、中国の仏教界とも交流しているようです。また、阿含宗管長の桐山氏が学んだのは、蔵伝仏教のニンマ派であり、ダライラマとパンチェンラマが指導するゲルク派とは異なるようです。 オウム真理教開祖の麻原氏(公判中)が学んだのが蔵伝仏教のどの派なのかはわかりませんが、ダライラマと一緒に写った写真があることから、ゲルク派を学んだのではないかと思います。(もちろん麻原氏のその後の行動に関してゲルク派にもダライラマにも責任はないと思います。) しかし、蔵伝仏教が日本の葬式仏教に比べて優れたものであるというのは単なる思い込みでしょう。むしろ、葬式仏教のほうが金を取るだけでほかに悪さをあまりしないので害が少ないかもしれません。 ということで、 > チベット仏教の戒律には法敵を殺害する義務があるのです。(ただし、殺害方法に > 呪殺も含む) > そして、歴代ダライ・ラマすら何人も毒殺されたり、第二次世界大戦直後にも > (ダライラマ14世未成年のため存在した)摂政の位をめぐる高僧同士の対立から > 約300人の死者が出たそうです。 > また、拷問や残虐刑があり、眼球をくり抜いたり手足を切断したりする刑もあった > そうです。おまけに、政敵に無実の罪を着せられた上級貴族や高僧の冤罪も日常茶飯事 > だったみたいです。(河口慧海 著「チベット旅行記(三)」講談社学術文庫参照) 日本の「なんとなく仏教徒」の幻想を覚ますには、こういう現実を広く知らせる必要があると思います。 > 昔のチベットは宗教独裁だったのです。官吏は貴族の俗官と僧侶の僧官が半数ずつ > だったのです。そして転生宗教観に基づいた決定的身分制度があったのです。決して > 民主的でも人権的でも自由でもなかったのです。 > > マインドコントロール状態にあるチベットの民衆を解放した中国共産党は評価 > されるべきでしょう。 現在使われている意味での「マインドコントロール」というのとは、やはり違うと思います。 解放前の西蔵では、宗教が社会制度であり生活そのものだったわけで、そこで宗教を疑うことは、信教の自由が存在する現代社会でカルト宗教から脱会するのとは違う意味があったのだと思います。 解放前の西蔵でも、仏教にいくつもの宗派があり、またボン教も存在していたことから、社会全体が完全に一元的な「マインドコントロール」状態ではなかったと思います。個々人に信教の自由はなかったでしょうが、いくつもの宗派が存在していたことから、ある程度多元的な社会だったのであろうと思います。 > 尚、インドに亡命するチベット人は僧侶マインドコントロール状態の信者や > 特権階級だった貴族だけでなく西側に亡命すれば豊かに暮らせると考えて亡命 > する者も多くいるのではないかと私は思ってます。 これはそのとおりだと思います。失業者や、貧しい放牧者などが、「ダラムサラに行けば今より良い暮らしができる」と考えて行く場合が多いようです。 |
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