| 24184 | 返信 | 労働価値説を前提にしたマルクス流社会主義批判 | URL | 山 | 2003/11/11 21:45 | |
| マルクス流社会主義の中身を知るためには、その理論的前提である労働価値説が何である かを確認する必要があると思います。 労働価値説とは広義には「富の源泉は労働にある」とするものであり、ロックやぺティに その端緒が見られますが、アダム・スミスによって、新たな狭義の定義がなされます。 古典派における価格論では、短期的に日々変動する市場価格と長期的に市場価格の重心として市場価格を規定する自然価格とを分けて論じていますが、アダム・スミスは、生産費が自然価格を決定するという生産費説を採った上で、社会の初期未開状態においては狭義の労働価値説が成り立つと主張しています。 アダム・スミス『諸国民の富』より 「資本(stock)の蓄積にも土地の私有化にも先だつ社会の初期未開状態においては、異なる物を獲得するために必要な労働量の比率は、これらの物をたがいに交換するための何らかの規則を与えうる唯一の事情であるように思える。 例えば狩猟者たちの民族の中では、ビーバー1匹を殺すためには、鹿1頭を殺すために要する労働の2倍を要するのがふつうだとしたら、ビーバー1匹は当然に鹿2頭と交換され、つまり鹿2頭に価するに違いない。 ふつう2日または2時間の労働の生産物である物は、ふつう1日または1時間の労働の生産物である物の2倍に価することは当然である。」(P.47.(1)185ページ) 狭義の労働価値説の定義 「個々の商品の生産に投下された労働量の比率は、個々の商品の交換比率(価格)と一致する」 スミスの思想を元に、リカードは、生産費説を採りながらも、生産費は労働量と比例関係にあるはずであるから狭義の労働価値説は初期未開状態以外でも適用されると主張しました。 古典派やマルクスは、労働は、すべての商品交換の共通尺度になるのであるから、商品の価値の大きさは,価値を形成する実体=抽象的人間的労働の量(労働時間)ではかられるとしました。 そこから交換される商品に費やされた労働時間は同じである等価交換という考え方 が出てくるのです。 マルクスの主張を確認してみましょう。 http://www.geocities.jp/hgonzaemon/capital.htmlより引用 「価値を表わす等式の秘密は、すべての労働が同じものであり、同じ意味を持つもの、普遍的な「人間の労働」であることである。だから、この謎を解くには、人間はみな同じであるという概念が万人の固定観念に発展している必要がある。しかし、そんなことが実現するには、社会の中で、商品の形態が労働生産物の普通の形態であり、商品所有者としての人間の相互関係が支配的な社会的関係になっている必要がある。 アリストテレスはその天賦の才を発揮して、商品の価値を表わす等式の中に同一性の関係が潜んでいることを発見した。ただ、彼が生きた社会の制約があって、この同一性の関係が「実際には」どこに存在するのかを発見できなかったのである。」 マルクス流社会主義の構想は、『哲学の貧困』と『ゴータ綱領批判』に書かれている。 『哲学の貧困』は↓ 宮地健一さんのホームページhttp://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/nakanomarx.htm より引用 引用開始 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「……社会の全構成員が直接労働者であると仮定すれば、物質的生産のために使用されねばならぬ労働時間の数量があらかじめ協定されているという条件においてのみ、等量の労働時間の交換ということが可能なのである。しかし、このような協定は私的交換を否定する(ドイツ語版では排除する)ものである。……労働時間が万人にたいして平等であるのは、大工業の本性にもとづくことにほかならない。きょうは資本と労働者相互間の競争との結果であるとも、あすは――もし労働と資本の関係が除去されれば――生産諸力の総和と現存の欲望の総和の関係を基礎とする一つの協定の産物となるであろう。階級対立がなければ私的交換はありえない。」(傍点引用者)中野徹三『社会主義像の転回』(三一書房、1995年) ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 引用終了 『ゴータ綱領批判』は↓ 「生産手段の共有にもとづいた協同組合的な社会の内部では、生産者たちは彼らの生産物を交換しはしない。・・・ここで問題にしているのは・・・資本主義社会から生まれたばかりの共産主義社会である。・・・個々の生産者は・・・これこれの量の労働を給付したという証書を社会から受け取り、そしてこの証書をもって消費手段の社会的な貯えのなかから、それとちょうど等しい量の労働がついやされている消費手段をひきだす。」 「ゴータ綱領批判」岩波文庫 P35〜36 マルクス流社会主義では、貨幣は使用されず、労働を給付したという証書によって、同じ 量の労働がついやされている消費手段と交換されることであるので、まさに、理論である労働価値説を現実に適用したものであるので、この社会主義は、労働価値説が正しいという理論的前提がなければ、成り立たないものなのです。 現実の経済において、交換がおこなわれるのは、交換当事者が合理的に判断して、両者が共に得をするからです。 一方、労働価値説では、交換においてはいかなる場合でも両者が得をするということはなく、等価交換ではどちらも損得なし、不等価交換では一方が得をし、一方が損をするとみなします。 さて、アダム・スミスは、狭義の労働価値説だけでなく、交換の説明として比較優位説を唱えました。 『経済学の原理―マルクス経済学批判・近代経済学の是正』 金子甫著 文眞堂 1995年 P112より引用 引用開始 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 人々が何らかの交換関係を結ぶのは、自給自足をするよりも交換に参加する方が得だからである。この交換の利益は、労働にかんしては、スミスが述べたように何らかの有用物を 「自分でそれを作ろうと試みたならば費したであろう労働量よりもはるかに少量の自分自身の労働の生産物で購入する」(P.356.(2)420ページ)ということである。 つまり、交換がおこなわれるためには、すべての参加者が自分の労働を短縮するー言いかえれば、自分の同じ労働時間でヨリ多くの有用物を得るーという利益を得なければならない。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 引用終了 この比較優位の考え方をもって労働価値説は常に成り立つのかを検証してみます。 最も単純な社会の構成員が2人のみ、生産される商品が2つというモデルを考えてみましょう。 AさんとBさんのビーバーと鹿の捕獲時間を以下のように仮定する。 Aさん ビーバー1匹 2時間 鹿1頭 1時間 Bさん ビーバー1匹 16時間 鹿1頭 2時間 (以下、匹、頭は表示しない。) 1.比較優位説による交換 Aさんがビーバーを1供給するのに対し、Bさんが鹿を2より大きく8より少ない範囲で供給するならば、双方が利益を得て比較優位説に妥当する交換比率である。 一例として、Aさんのビーバー1とBさんの鹿4が交換される場合を考えてみよう。 Aさん 交換して手に入れる物を自給自足した場合の時間(以後、自給自足と表記する) 4時間 交換で相手に渡した物を捕獲するのに要した時間(以後、交換と表記する) 2時間 交換後の労働時間の損失(自給自足−交換) +2時間 Bさん 自給自足 16時間 交換 8時間 交換後の労働時間の損失 +8時間 よって、この例では、Aさん、Bさん双方共労働時間を短縮している。 2.労働価値説による交換 スミスの引用文に基づけば、労働時間を単純に比較したとしても何の問題もないと考えられるが、労働価値説の定義に関する見解の相違を考慮して、誤解を避けるために、2人がおこなう労働は、労働の強度、労働の熟練度が共に一定で、同質・同等であり、労働時間が労働量を表していると仮定します。 この場合、商品の生産に投下された労働量の比率と商品の交換比率が一致するケースが、労働価値説による交換に当てはまります。 Aさんのビーバー1とBさんの鹿1が交換される場合。 この交換の場合、Aさん、Bさんの労働時間は共に2時間であり、交換される物の価値は同じである。 Aさん 自給自足 1時間 交換 2時間 交換後の労働時間の損失 −1時間 Bさん 自給自足 16時間 交換 2時間 交換後の労働時間の損失 +14時間 2の労働価値説による交換は、Aさんが労働時間を短縮することが出来ず、比較優位説に妥当する交換例とは言えない。 このモデルでは、労働価値説による交換が必ずしも比較優位説の妥当する範囲に収まるとは限らないということが分かります。 つまり、労働価値説による等価交換は、交換する当事者双方が得するという現実の交換の 法則を逸脱する場合があるので、マルクス流社会主義は独裁的、強権的な政権の下でしか 成り立たないと考えられます。 |
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