24490 返信 Re:inti-solさん、ヒデです。よろしく。(訂正版) URL inti-sol 2003/11/29 21:23
ヒデ様

> >そして、件の長勇参謀についても、南京攻略戦にて、捕虜の処置について松井司令官を無視して、「ヤッチマエ」と独断で命令していたことが、証言によって明らかになっています。
>
> どうしてこの文章だけ引用文献がないのでしょう。引用文献とそのページをおしえてください。幕府山事件での事と考えますが、私はこの事件に関してわからないことが沢山あります。

おしゃるように、長勇参謀の「ヤッチマエ」は、幕府山事件でのことであったようです。
引用しなかったのはちょっと面倒だったからです。ご要望なので、あらためて引用しましょう

「私の見た南京事件」奥宮正武PHP研究所 P46〜47より
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わが陸軍関係にも次のような記録がある。
昭和十二年(一九三七)八月から翌十三年三月まで、松井石根大将の専属副官であった角良晴大尉(陸士三十二期、終戦時には大佐で台湾にいた第九師団参謀長)の回顧録を遺族がまとめた図書『七生賦』(自費出版・非売品)には、次の記事がある。

「南京は思ったより困難なく攻略できた。
下関に十三万人の支那人が対岸の浦口に渡れずに残った。
これに対し、第六師団から、
『どうするか』
との電話があった。
第二課長長参謀(中佐)(筆者註 長勇中佐は、中支那方面軍と上海派遣軍の参謀を兼ねていた)は、
『ヤッテシマエ』
と返事した。
私は、すぐ本件を総司令官に報告した。
総司令官は長参謀を呼ばれて、
『十三万の支那人を殺すことは許さぬ、直ちに解放せよ』
と命令された。が、長中佐は、
『この中には軍人も混ざっております』
と言った。総司令官は、
『軍人がいてもかまわぬ、却って軍紀がよくなってよいだろう』
と言われた。長中佐は、
『ハイ』と言った。が、二度目の電話でも、
『ヤッチマエ』と命じた」
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また、「南京事件」秦郁彦 中公新書P143〜144にも、やはり角大佐によるほぼ同内容の証言が掲載されているほか、長自身が田中隆吉に語った話が引用されています。
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「鎮江付近に進出すると・・・・・・退路を断たれた約三十万の中国兵が我軍に投じた・・・・・(自分は)何人にも無断で隷下の各部隊に対し、これ等の捕虜を皆殺しにすべしとの命令を発した。自分はこの命令を軍司令官の名を利用して無線電話に依り伝達した。
命令の原文は直ちに焼却した。この命令の結果、大量の虐殺が行われた。然し中には逃亡するものもあってみな殺しと言う訳にはいかなかった」(田中隆吉『裁かれる歴史』)
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二つの証言は、十三万人と三十万人など、細部には多少の食い違いはあるものの、極めて近いものだと言えるでしょう。

> 1.さて長勇参謀は、本間騎兵少尉あるいは相田俊二中佐のどちらに「ヤッチマエ」を命じ
> たのかお教え下さい。

分かりません。第六師団の「誰」に対して命令を下した、ということは2人の証言いずれにも明らかではありません。

> 幕府山の論点は、上海派遣軍が山田支隊に「捕虜の処刑」を命じたか否か、軍命令であったか否か、なのです。

長が軍司令官の名を使って勝手に出した軍命令によって処刑された、ということでしょう。後で、その命令は取り消されることはなかったし、長が処分を受けた形跡もない。従って、長が勝手に出した命令は、結果的に追認されたに等しいと言えるでしょう。

ちなみに、長勇参謀の人となり、参謀が勝手に軍を指揮することについて、前掲の「南京事件」秦郁彦 中公新書P144は以下のように書いています。
「幕僚が上官の意図に反する指示(指導)をすることは、軍隊の性格上本来はあり得ないはずだが、下克上、幕僚専制の風潮が横溢していたこの時期には必ずしも珍しくなかった。
長はその中でも格別の暴れ者で、南京戦線でも粗暴、奇矯な振る舞いが目立った。頭山満(右翼の巨頭)から贈られた陣羽織を着て馬にまたがり、従兵に旗差物を持たせて闊歩する姿を目撃した人もいるくらいで、命令違反や捕虜虐殺も、彼を知る人の間では『長ならやりかねない』とうなずく人が多い」

また、後年、沖縄守備隊参謀長となった長は、激戦のさなか、自決の直前まで司令部壕で連日女性を侍らせて酒宴を繰り返し、泥酔状態で作戦指揮をとっていたと伝えられています。いろいろな意味で逸話の多い人物であることは間違いない。

> 「銃撃戦で歩兵は分隊長に一発撃つ度に許可を求めることはない」のと同様に「実戦の中で歩兵砲小隊長は、投稿してきた敵兵を「処分」するのにいちいち中隊長(更に大隊長)の許可を得なくてよい」と書き直しても同じ事ですね。
> 確認させてください。Inti―solさんは、『捕虜の処分は歩兵砲小隊長に任されていた』
> という事でいいんですね。

法的・制度的には捕虜の処分は小隊長に任されていたわけではありませんよ。それは、ハーグ条約第四条・ジュネーブ条約第二条に「俘虜ハ敵ノ政府ノ権内ニ属シ、之ヲ捕ヘタル個人又ハ部隊ノ権内ニ属スルコトナシ」と定めていることからも明らか。本来は小隊長どころか、師団長だろうが上海派遣軍司令官だろうが「捕虜の処分」を決める権限などないはずです。

しかし現実はどうか。いったん捕虜として受け入れて捕虜収容所に入れた兵士に対してはまだしも、戦場において投降してきた敵兵に対しては、小隊長どころか一介の兵士が独断で殺してしまうことすら当たり前に行われ、それが黙認されていたのが現実です。

例えば佐々木到一少将の回顧(「南京事件」秦郁彦 中公新書P116より)
「その後俘虜ぞくぞく投降し来り数千に達す。激昂せる兵は上官の制止をきかばこそ片はしより殺戮する。多数戦友の流血と十日間の辛酸をかへりみれば兵隊ならずとも<皆やってしまへ>といひたくなる。白米もはや一粒もなく、城内にはあるだらうが、俘虜に食はせるものの持ち合わせなんか我軍には無いはずだった」
また「南京への道」本多勝一P254によると、第十六師団長中島今朝吾中将の陣中日誌にも
「尋問しようとした捕虜の工兵少佐を日本兵が勝手に惨殺したことを嘆いて『兵隊君ニハカナワヌカナワヌ』」という記述があるとのこと。

結局、戦場で投降した、あるいはしようとした敵兵が、その場の勢いで殺されてしまう、というのは南京でもその他の戦場でも(それは、多分日本軍だけの特異な現象ですらなかった)当たり前の光景であり、「百人斬り」競争もその延長線上のことでしょう。