24837 返信 Re:昭和天皇と東京裁判(梶村さまへ-3) URL 五番街 2003/12/20 15:45
梶村太一郎様

◇なんだか、多くの方々からの反応が一度にあるので、聖徳太子ならぬ悪徳
 少子たるわたしは一度にお返事できなくなっています。
 したがって、すぐお返事できる点のみad hocにしますのでご容赦下さい。

梶村様の投稿に多くの反応があるのは、それだけ注目され、歓迎されているからでしょう。私など、見向きもされません。でも、私も、プラプラと書いておりますので、宜しくお願いします。

さて、前回までの「事後法」の問題に関しまして、藤田久一の「戦争犯罪とは何か」を再読してみると、第二章の<あらたな戦争観の模索>には数多くの箇所でこの問題が検討されています。

そのうち注目されるのは、P54-55での藤田の指摘です。これは、私なりに要約すれば、「罪刑法定主義や不遡及の原則は、国内刑法にとって有効であり、初歩的発展段階にある国際刑法では不遡及の原則が適用されない」と指摘しています。

さらにp59 では、藤田は次のように述べています。

◆<不遡及の問題について、>ドイツ法学の大家の一人イェーリングは
 「不遡及の発端は恣意を避けることである。しかし、社会の目的は恣意を
 防ぐことではなく、正義を支配させることである。その結果、法典が
 定めなかった異常な頽廃が証明されれば、社会はそのために武装解除しては
 ならない」という。不遡及原則の例外は、この大戦の未曾有の(戦争法違反の)
 残虐行為に適用されうるともみられる。通常の国内刑法はここで武装解除されるが、
 国際法は武装解除してはならない。イェーリングの表現によれば、
 第一次大戦は法律が予見しなかったし、また予見できなかった異常な
 頽廃の一つに直面したからである。
注:< >の語句は五番街が付け加えたもの。( )は藤田が加えたものです。

このように、「未曾有の残虐行為」や「法律が予見しなかった異常な頽廃」などの例外的なケースに対しては、事後法による遡及効果によって処罰を行うこと、そして、藤田は述べていませんが、その処罰によって事後の防止効果が期待されると考えることは合理的であると思います。

また、この見解がドイツ法学の専門家から出されていることから考えても、国際法に対して大陸法的解釈と英米法的解釈が対立しているとは思えません。


◇そういわれて考えてみると「人道に対する罪」の源泉について私の知識が足りないことに
 思い当たります。ご教示ねがえれば幸いです。

藤田はこの著作のp108-109において、次のように述べています。

◆「人道に対する罪 crimes against humanity」ということばは1915年5月28日、トルコでの
 アルメニア住民の虐殺に関して出された仏・英・ロシア政府宣言ではじめてつかわれたもので、
 自国民に対する政府のおこなう非人道的行為を意味していた。また、すでにみたように、
 第一次大戦終結に際して平和予備会議の15人委員会は、戦争の法規慣例違反と
 人道の法違反が一般に戦争犯罪と人道に対する罪に対応するとみなしていた。
  第二次大戦中に「平和に対する罪」とならんであらたに登場する「人道に対する罪」の背景には、
 1933年ヒトラーの権力掌握によって確立したナチ体制のもとで、ドイツ国内において
 ドイツ国民とくにユダヤ人に対する迫害が始まったことがあげられる。同大戦中の1942年1月13日、
 ユーロッパの連合諸国の採択したセント・ジェームス宣言は、ナチ・ドイツの一般住民に対する
 人種的・種族的または宗教的所属を理由とする迫害から殲滅にいたる犯罪は戦争行為ではないとして、
 その責任者の処罰を求めた。

このように、「人道に対する罪」という概念は、東京・ニュルンベルグ両裁判の以前から存在していたと考えられます。上記の事後法が例外的ケースに適用されるという考え方とともに、私は、これらの罪を事後法として非難することはできないと考えています。


◇これは、そのように解釈することを前提に宣言を受け入れるということを通達したのが史実であって、
 アメリカが天皇をあらかじめ免訴することを公式に確認したから受諾したのではありません。アメリカとの
 政府間の合意事項ではありません。
 いわば、相互に阿吽の合意があったというのが事実で、まさに外交の妙です。


たしかに、ご指摘のように、「米国(連合国)と日本の合意事項となっていた」と書いたことは、筆が滑った(キーを打つ指が勝手に動いた)ようです。

ただし、日本は、米国に対して「右宣言は国家統治の大権を変更するの要求を、包合しおらざることとの了解のもとに、これを受諾す。(以下略)」と述べ、それに対して米国は「降伏の時より天皇および日本国政府の国家統治の権限は降伏条項実施のため、その必要とする措置をとる連合国最高司令官の制限のもとにおかれるものとす。(以下略)」とレスポンスしています。

このレスポンスの内容について、清瀬一郎は、「天皇は日本国占領中、最高司令官の下にあると言いながら、その存在を認めたうえの条件であるから、やはり天皇制それ自身の存在を承認したという趣旨である。すなわち日本の照会には、肯定的な答えを与えたのである。」(「秘録 東京裁判」中公文庫)と述べています。さらに、清瀬は、トルーマン政権の複数の高官の発言を、おそらくは議事録から引用して、同政権は天皇を保存し、占領政策に利用する方針を固めていたと指摘しています。

このことから考えれば、たしかに、天皇の不処罰が日米の合意事項であったとは言えないけれど、それが米国の方針であり、この方針を日本が理解したからこそポツダム宣言の受諾に踏み切ったと言えると思います。そして、この日本の理解の仕方は間違っていなかったのです。そして、この相互理解は、「阿吽の合意」というほど黙示的あるいは情緒的なものではなく、ある程度の明示的なものであったと考えています。

仮に、占領軍が天皇を追訴し処罰したならば、「米国はだました」として、東京裁判の事後法に対する批判を上回る攻撃がなされ、そして、この攻撃はある程度の説得力を持つために、当時の日本の国民に米国に対する深い怨嗟と憎悪や不信の念を抱かせる結果になったと考えられ、それは、今日においても、決して消えることがなく存続したと推測されます。占領軍による天皇の不追訴は、こうした決して消えることのない怨念を発生させなかったという点では、評価できるものと思います。

◇このご指摘は大変大切です。

どうもありがとうございます。

以上、私なりに、自分の考えを表明できたと思いますので、このあたりで今回の議論は終わりにさせて頂きたいと思います。愚論につきあって頂いて、感謝いたします。