| 24966 | 返信 | Re:「集団の罪」は犯罪思考・「うなぎ」をさばく(1) | URL | 梶村太一郎 | 2003/12/30 10:08 | |
| 小林さま さて、本論の(1)です。前の序論のお答えを待ってから書こうと思いましたが、 年末で明日も忙しくなりそうなので前倒しします。 お勧めした簡単な文献、ワイツゼッカー演説、ヤスパースの罪責論も読んでもわからないと主張して「のらりくらりと逃げる怠惰な未成年」の「うなぎの怯懦」を始末するためにはいたしかたないようです。 かば焼きにするうなぎをさばくときには、まずまな板の上で頭に五寸釘を打ち込みます。それを、まず(1)としてします。板前としては「南無阿弥陀仏」をいちおう唱えますが。 小林さん、あなたの「集団に罪がある」という論は、いかなる意味でも犯罪的な思考です。 わかりやすく至極具体的に論を進めましょう。 となりの家族の一員が泥棒をしたら、その家族の全員に罪がありますか? 在日の中国人の一部が強盗殺人をしたら在日中国人の集団全体に罪がありますか? ひるがえって、あなたの家族のあなた以外の一員が交通事故で誰かを傷つけたと仮定して、あなたに罪がありますか?家族の一員として、一定の責任はあるでしょう。そして賠償の一端を担うことはできるでしょう。しかし加害者としての罪を引き受けることはできません。できると考えるならそれは傲慢です。親が子供の犯した犯罪の賠償金を支払う責任はあります。しかし子供の代わりに刑務所に服役して贖罪できますか? 犯罪を犯した子供の親が、親としての罪悪感から出来たら自分が代りに罰を受けたいと考える気持は、よく理解できます。しかしそんなことは近代の社会では不可能です。 なぜでしょうか? 答えはしごく簡単ですね。親子と言えども人格は別です。国家をはじめ、だれにも無実の人間・個人を罰することは許されないからです。無実の人間・個人を罰するのは犯罪です。 封建社会や全体主義の体制、あるいは戦争では、まさにこの「集団の罪」を追及することが許されているのです。そしてその許容こそが犯罪なのです。 百姓だから部落民だから刀の試し斬りで斬り捨て御免が許されたのは野蛮ではありませんか?そんなことをした侍は無実ですか?やめろと制止した侍は間違っていますか? 侍のだれしもが犯罪者ですか? 朝鮮人だから中国人だから危ないので日本人の隣組で虐殺したのは野蛮ではありませんか?手を下した日本人の自警団員は無実ですか?外国人を保護した日本人は間違っていますか?日本人全体に罪が問えますか? 敵国民だからイラク人の子供が巻き添えになって殺されても、殺人者が罰せられないのは、それ自体が(不作為の)非人間的な犯罪ではありませんか?市民や子供を殺した英米軍兵士は犯罪者ではないのですか?同僚の犯罪を告発する兵士は間違っていますか? 英米の兵士全体に罪が問えますか? このように「百姓、部落民、朝鮮人、中国人、敵国民」あるいは「共産主義者、ユダヤ民族、シンティ・ロマ民族、同性愛者、障害者、白人種、黒人種、男、女、年寄、若者、ドイツ民族、日本民族」というように集団に罪をかぶせるのは犯罪者の思考なのです。 小林さん、あなたはワイツゼッカーの演説を読みもしないで、「教えて欲しい」と甘えた願いを述べていますが、ためにわたしがわざわざあなたのために先に引用した演説の一文: 「一民族全体に罪がある、もしくは無実である、というようなことはありません。罪といい無実といい、集団的なものではなく個人的なものであります。」 という言葉は演説の前後関係からしても、「一民族全体に罪がある」とするのは、まさしく「ユダヤ民族全体に罪がある」としたナチスの人種主義の犯罪思考を前提としたものであることは、だれが読んでも明らかなことです。これは人種主義者の思考なのです。 したがって、あなたが恥知らずにもますますのぼせて「ドイツ人の集団の罪」というタイトルで投稿されたのを見て、吐き気がしました。あなたが、それを自覚なさっているか否かは別として、人種主義はわたしのもっとも忌諱する思想ですので。 あなたと似たようなことを本に書いた人物が居たので、わたしはそれを批判したことがありますので、その一部を以下引用します: (これも前に紹介しました、古いものですので見つかりにくいでしょう。梶村「歴史改竄主義は知性への冒涜である・西尾幹二氏批判」『世界』1997年7月号掲載分の一部です。)文章がインテリ向けに書いてあるので、かなり堅いですがご容赦下さい。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ (以下引用) ドイツの実情と「西尾流改竄ドイツ史」 ドイツと日本の戦争責任認識が同じ枢軸国であったにも関わらず、戦後半世紀の今日、前述のように対極的ともいえる様相を示すに至ったのは何故だろうか。私の考えるところ、日本人をして自らの戦争犯罪を直視することを阻害してきた政治的要因は次の五点である。 1)昭和天皇の免責あるいは免訴と、それに対応して民衆側で機能した一億総懺悔論による責任主体の不明確化 2)原爆被害体験による加害責任意識の相殺 3)冷戦構造下での、国家間の実証的歴史研究交流の制限と、党派イデオロギーによる歴史事実の政治利用 4)アジア被害諸国における独裁政権下での民主化の停滞による被害者と被害事実の埋没と隠蔽 5)旧同盟国ナチスドイツの民族虐殺犯罪との比較による自国犯罪の相対的矮小化と意図的免罪 それぞれが大きなテーマであり、これらが複合的に作用して日本人の歴史観と戦争責任意識を、みじめでみすぼらしいものにしてしまっていると考えるのだが、ここでは5)の代表格の西尾幹二をとりあげる。私は以前に数度、彼のドイツ論の極端な史実改竄を指摘して批判したことがある。だが彼はまともな反論もせず、その後も「西尾流改竄ドイツ史」の吹聴に励むばかりだ。うかつにも私は、この人物を「議論ができる学者」だと買い被っていたのだ。ついに彼は「新しい歴史教科書をつくる会」の会長となり、日本の「歴史改竄主義」のアジテーターになりさがっている。自分の嘘を本気で信じる、本物の国粋主義デマゴーグとなってしまっている。 日本で流布する彼の主張の代表的な三点を検討しよう。 第一に、彼が最も憎悪するのは、ヴァイツゼッカー大統領の演説である。 西尾は代表作「異なる悲劇」で、戦後ドイツの評価を確定させた八五年五月の演説は「欺瞞」であると言う。この演説の一節に「一民族全体に罪がある、もしくは無実である、というようなことはありません。罪といい、無実といい、集団的なものではなく個人的なものであります」とあるのをやり玉にあげて、「つまり罪のあるのはナチ党幹部か、実行犯のみであって自分には関係ないという主張を言外に秘めている」、「これはドイツ民族が生き残る戦略の裏の心理を物語っている」などとまるで推理小説のように、事実ではなく主観的推定に基づいた解説をほどこし続けた上で、結論として「ドイツの戦後史は一部の目立つ人間に罪をなすりつけて、自分は無実の顔をした自己欺瞞の歴史だ」と決め付けてしまう。すなわち「大統領以下ドイツ国民は罪を認めぬ恥知らずの嘘つきの集団だ」と言っているに等しい。 ここで西尾が行っている「推定に基づいて、ある集団を断罪すること」こそあらゆる差別の根源であり、すべての人種主義に共通する思考法である。そもそも、自国民である身体・精神障害者やホモセクシャルのひとびとを「生きるに価しない存在」、「下等人間」などと集団として断罪し差別することなしには、「安楽死施設」や強制収容所は必要なかったのであり、とどのつまり「ユダヤ民族に集団の罪がある」とする人種イデオロギーなしには、ナチスは決してガス室を設けなかったであろうし、そこで赤ん坊までを集団虐殺しなかったであろう。 このような人種主義に基づいたゲルマン民族至上主義の過去の取り返しのつかぬ犯罪を、内外の被害者諸集団に対し、国家元首として謝罪し、若い世代にも自らの過去への自覚を促した演説を、「欺瞞」であると断罪する西尾の思考法それ自体が、大統領が「それをしてはならない」と指摘している当のもの、すなわち「一民族全体の断罪、もしくは免罪」にほかならない。西尾の主張の目的とは「ドイツの断罪と日本の免罪」に尽きるものだ。彼が日本の犯罪擁護のために、ナチスの犯罪を挙げつらって強調非難しようとも、西尾はナチスの思考法の日本での忠実な継承者である。 (彼と同じようにヴァイツゼッカーを憎悪して止まないドイツ人も存在する。それが西尾と同じ思考法を捨てないネオナチだけであることは偶然ではない。私は、「謝罪のためユダヤ人追悼記念碑をベルリンに設けるべきだと演説した民族の裏切り者、ヴァイツゼッカーを縛り首にする時がくるだろう」と記されたネオナチの地下文書を知っている。これは「自虐史観の大統領を殺せ」とのファシストの叫びだ。西尾らの反「自虐史観」宣伝が極右暴力を挑発するのは事の必然である。)(梶村注:この一節は『世界』掲載分からは紙面の関係で削除してあります) さて、ヴァイツゼッカーに見られる「民族集団の罪」の排除は、カール・ヤスパースの一九四五年末のハイデルベルグ大学での講義「責罪論」以来のものである。この「戦争犯罪と責任への考察」はドイツにおけるだけなく、戦後の国連をはじめ、国際社会の戦争犯罪解釈の基本的コンセンサスとなっている。誤解してならないのは、ヤスパースは「民族の集団の罪」を排除しても、決して「国家の政治上の罪に対する集団責任」を排除しないことだ。「政治上の罪に対しては責任がともなう。敗戦国には政治的権力と権利の制限と補償が課せられる。」、「ドイツ帝国の名のもとに行われた犯罪に対しては私たちは集団で政治的責任がある」とされ、この認識が後の膨大な国家賠償と国家補償履行の根拠となっている。ヤスパースの説いたように、ナチスの犯罪の政治責任については、ドイツ国民は誰であれ、元ナチ党員も孫の世代の納税者も集団で、現在でも計七兆円にもおよぶ個人補償履行を続けている。 刑事責任については、時効を撤廃して戦争犯罪容疑者を現在も追求し続けている。道徳責任については、個々人がナチスとの関わり方に従って、心の中で贖罪と再生にめざめ、それぞれが世界に罪ほろぼしをすることで果たされるのである。さまざまな教育の場で、この実現が追求されている。若者がナチ時代の歴史を学ぶのは道徳責任に関わる始まりである。若者に対して、この機会を与える責任を担っているのが、学校教育とメディアと教会である。信仰の場では形而上の罪、神の前での責任が問われる。このようにドイツ社会は戦後一貫して、可能なかぎりは戦争責任を被害者と、そして自国の次の世代に対しても引き受ける努力を続けている。そこにはナチスが犯した罪が、決して償うことができない重いものであるとの自覚があり、この自覚は戦後の若い世代とともにむしろ深化している。夏休みにワルシャワのユダヤ人墓地の清掃に汗を流しているのは孫の世代の若いドイツ人の男女だ。いたるところで見られる、このような贖罪の姿に対して、「集団の罪を認めるのが恐ろしくて、ナチスに罪をなすりつけて知らぬふりをしている」との西尾の説は完全に倒錯しており、ドイツへの誹謗中傷である。またドイツを知らない日本人をたぶらかす悪質なデマゴギーでもある。 (引用おわり) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 読まれたらおわかりのように、西尾氏の「改竄ドイツ史」を三点において批判した、その一点目、ワイツゼッカー演説の解釈に対する批判です。 七年近く前に書いた古いものですから、小林さんが読まれていないことは当然でしょう。単行本にもなっていませんので、元原稿のまま引用しました。 このように小林さんの「ワイツゼッカー批判」は西尾幹二氏の改竄史観にかなり近いものです。 小林さん、「集団の罪」を問うことはナチスがユダヤ人以下の集団に対して行ったことと同じなのです。ワイツゼッカーがなぜ集団の罪を排除するかが、これでご理解くだされば幸いです。 余談ですが、この論考は、「新しい教科書をつくる会」を立ち上げたばかりの西尾氏に対する古典的な批判として、多くの大学で参考文献として使われているとのことです。 以来、西尾氏がわたしを「天敵」として、見れば震え上がるのはこのためです。会おうとしても逃げ回ります。(ある学会で見事に逃げられました)。 すなわち「西尾うなぎ」の頭に五寸釘を打ち込んだのがこの論考でした。日本に帰れば、つかまえ、さばいてかば焼きにするつもりです。 以上です。 各位、長文ご容赦下さい |
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