26231 | 返信 | 現ドイツ国境は、「謝罪・反省」の故か? | URL | 火の鳥草 | 2004/03/28 10:26 | |
にゃ×5氏は、ドイツが父祖伝来のドイツ固有の領土たる東プロイセンや、オーデル・ナイセ線以東の土地を放棄したことを、ブラント(の東方外交において)が、ナチスドイツによる侵略戦争の「重さ」のため、放棄した、と仰る。 そして、「それに対し日本は・・」と、かって朝日新聞がよく使った(そして、今はその自らのアホさ加減に気がついて全くいわなくなった)反日のためのやり口を、なお化石のように踏襲しておられる。 貴公投稿 26222 > 別にドイツをほめて言うわけじゃないんだけれど、ユーゴ空爆ではシュレーダーとフィッシャーのドイツも加担しているわけなんだしね、だけど、そのドイツはブラント時代に東プロシア・シレジア・ポンメルンなどへの領有権を放棄していますからね。これらの地域は歴史的にはドイツの固有の領土だったけれど、ポーランドやロシアなどに対して侵略者としてふるまった過去の重さゆえに、領有権の放棄に踏み切っています。 >日本だって朝鮮や中国に対しては、同じように侵略者としてふるまったという歴史的経緯があるわけだし、・・・・・(以下略) 「ポーランドやロシアなどに対して侵略者としてふるまった過去の重さゆえに、領有権の放棄に踏み切っ」たのは、果たして本当か? 以下の2文献のように、ポーランドに対し、ドイツは領土的野心を持たない、安心せよ、という意味で、ブラントはオーデルナイセ線を認めたわけだが、このとき、同時にブラントは、ポーランドと強硬に交渉し、ドイツの賠償放棄を確認させた。 どこが、ドイツの侵略戦争の「重み」で領土の放棄なのか? あえて小生が忖度するなら、この「重み」とは、領土的野心が無いという意味の「重み」であって、「反省・謝罪」といった、貴公の大好きフレーズで無いことは、陽を見るよりも明らかではないか。 このドイツの国境問題は、しかし、コール首相がドイツ統一に当たり、条件整理の中で再び持ち出す。 東プロイセン問題と、オーデル・ナイセ線問題だ。 当時、関係諸国に緊張が走ったのは承知のとおり。 尖閣諸島事件と、ドイツ国境問題とを侵略戦争反省うんうんで比較するナイーブさを大いに嗤う。 文献1(賠償問題)http://home.netsurf.de/tan.minoguchi/baisho.htm ポーランド側は強制労働者問題のほか、ドイツ占領下での親衛隊(SS)の不法行為の犠牲者や強制収容所の囚人等に対する補償を要求する。一方、ドイツはオーデル・ナイセ以東の旧ドイツ領土問題に触れ、ドイツ住民が残してきた財産所有権問題が未解決であることを指摘して、相手の気勢をそぐ。次に強制労働は、ナチス固有の不法行為ではなく、通常の戦争行為の結果だから賠償の対象であることを再確認する。さらに、ポーランド自身が一九五三年に賠償請求権を放棄していることを強調して、ガードを固めるのが、この独ポ懸案事項をめぐる対立のお決まりの構図である。 ドイツ・ポーランドの接近が開始する一九六〇年の後半に、この構図は出来上がった。この接近は後にブラント首相(当時)の「東方外交」として結実し、賞賛されるが、こと賠償問題に関してはドイツの立場がこれほどまでに強硬であることは日本ではほとんど知られていない。 ブラント首相は一九七〇年、ワルシャワのゲットー蜂起記念碑の前でひざまずく一方で、この論法を執拗に主張し、粘りぬいたあげく、一九五三年の賠償請求権放棄をポーランドに確認させるのに成功している 文献2(国境線)http://village.infoweb.ne.jp/~fwba0857/RESU0002.HTM c.冷戦期のソ連−ポーランド−ドイツ間国境問題 しかし,このポーランド西部国境問題については東欧社会主義圏内部のみで認められたものであって国際的に承認されたものではなかった.西ドイツや西側諸国はオーデル・ナイセ線は暫定的なものであるとの立場に固執していたことを,ポーランドでは脅威であると受け止めていた.ヤルゼルスキによれば,北大西洋条約機構(NATO)の設立,西ドイツの再軍備,西ドイツ国防軍の拡張ならびに(西ドイツ国防軍と)米国国防省と特別な関係については,ポーランド存亡にかかわる脅威としてとらえられていたから,西側政治家のどんな小さな集会も,マスコミのどんな小さなキャンペーンも,旧ドイツ領からの難民によるどんな小さな集会も,ネオナチ的報復の意思表明であると受け取ったのである.同氏によれば,ポーランドは西欧最強の軍備を誇る国である西ドイツによって公然と国境論争を仕掛けられた国であり,戦争勃発の場合,間違いなく核戦争の戦場と化し,ほとんど跡形もなくなくなってしまうことが容易に予想される国なのであった(注19). このポーランド西部国境に関する手詰まり状態を打開したのはブラントの東方外交である.1970年8月12日の独ソ条約と,1970年12月7日の独−ポーランド条約により,オーデル・ナイセ線が国境として画定される旨を西ドイツも認める旨を,明確に規定したのである.さらに,東西両独間の関係樹立に向けてのブラントの主張する条件整備に関して,?@1971年9月に米英仏ソ4カ国によるベルリン協定を仮調印してベルリンの地位を明確化したこと,?A 1971年5月3日に東独の立場に頑迷に固執してきたウルブリヒトを東独の社会主義統一党第一書記(注21)から解任させ,ホーネッカーに交代させたこと,の2点の環境セットアップをソ連と東独が行ったことを受けて東西両独間の基本条約が結ばれた.これにより,東西両ドイツ共にオーデル・ナイセ以東の領有権を放棄し,東西両独間(エルベ川)を含む全ての国境の不可侵(注20)がソ連,ポーランド,東西両独間で確認されたのである. |
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