26582 返信 Re:釣魚島(日本名:尖閣諸島)問題 URL 毒芋虫 2004/04/13 06:06
毒芋虫です。
での拉致事件については、人質の解放が遅れていることを憂慮しています。この件について、毒芋虫の態度は明確なのですが、人質解放まではただ無事を祈るのみです。
さて尖閣諸島について、また投稿がありました。領土問題に詳しくない人はよく騙されるのでちょいと反論しておきましょう。

>  一、 釣魚島は古来より中国の領土

> 「十日、南風はなはだつよく、舟は飛ぶように進み、流れにそって下ってもあまり揺れなかった。平嘉山、釣魚嶼、黄毛嶼、赤嶼を次々と通りすぎ、見る暇もないくらいだった。一昼夜で三日間の航路を進み、夷の舟は帆が小さく、われわれの舟に及ばなかった。その後、十一日の夕方に古米山が見えた。これは琉球に属するもので、夷の人は舟上で歌い踊り、故郷への到着を喜んでいる。(訳注)」(1)古米山は姑米山(島)とも呼ばれ、現在の沖縄県久米島を指す。夷人は、当時船上にいた琉球人のことを指す。文中では琉球人が古米山を見て「舟上で歌い踊る」という、帰還の喜びがありありと描写されており、当時の琉球人が釣魚島を過ぎ、久米島に至って初めて「自国に帰ってきた」と認識していることがうかがえる。釣魚島、黄尾嶼、赤尾嶼などは元来琉球国には属さないことになる。

↑この文でいえるのは、尖閣諸島が琉球領でなかったということだけ。

>  明の浙江提督である胡宗憲が1562年に編さんした書物『籌海図編』の「沿海山沙図」には、福建省の羅源県、寧徳県沿海の島々に「釣魚嶼」、「黄尾山」、「赤嶼」などの島が描かれており、明代には釣魚島が早くも中国の領土として、当時の防衛対象区域に組み込まれていたことがわかる。
>  上述のとおり、明、清代の政府は一貫して釣魚島を中国の領土としてきた。甲午戦争(日清戦争)の1年前にあたる清代光緒19年(1893年)10月、慈禧太后(西太后)は、釣魚島を郵傳部尚書の盛宣懐に与え、薬剤の採取地とする詔書を発した。詔書には「盛宣懐が献上した丸薬は効果が非常に高い。上奏によると、薬の原料は台湾沖にある釣魚台小島のものである。この霊薬は海上で産出され、効能は本土のものよりも優れている。聞くところでは、汝の家系は薬局を開き、診察を行い、貧しい人や病気の人を助けてきた。これはとりわけ称賛に値することである。よって釣魚台、黄尾嶼、赤嶼の3島を薬剤採取に供するため、財産として盛宣懐にあたえる」と書かれている。(2)

↑芹田健太郎「日本の領土」から引用しましょう。
「尾崎重義によると、『籌海図編』巻四には「福建海岸総図」には澎湖島は記載されているが、台湾、台湾北東の基隆嶼、彭佳嶼、尖閣諸島はいずれも記載されておらず、「このほうが当時の実情に即している。」。『籌海図編』より時代の下がった『羅源県志』(明代1614年)、『寧徳県志』(清代1718年、いずれも官製の地方志)などを見ると、尖閣諸島が当時福建省のこれらの県の行政範囲に含まれなかったことが知られるし、また同じく官製の『重纂福建通史』(清代1838年)の巻一にある「福建海防全図」にも、尖閣諸島は全く記載されていない。」
以下長々と記述が続くのですが、めんどくさいのでやめます。
明代においては台湾ですら版図にはいっておらず、清代においても台湾はまともな統治が及んでいなかったのはよく知られた事実です。それより遠方の尖閣諸島に支配が及んでいたなどということはまず考えられない。結局、尖閣諸島を記載した地図がいくつかあって、だから中国領だと言っているにすぎません。
清代光緒19年の件については良くわかりませんが、この当時、既に古賀氏が公然と尖閣諸島を使用していたのだから、盛宣懐による使用の実体があったとは考えられません。

>さらに、清の北洋大臣・李鴻章が1879年に日本と琉球の帰属を交渉した際、中日両国が琉球は36の島でできていると確認しており、そこには釣魚島などの島々は含まれていない。

↑これに関して興味深い話があります。以下前掲書より引用。

明代、清代の福建省や台湾省の地方志によれば、各行政範囲に尖閣諸島が見当たらないことについて、すでに言及した。下関条約は、明治28年5月8日に批准書が交換され、同条約第5条により、6月2日、日本側全権委員樺山資紀と清国側全権委員李経方との間で「台湾受渡ニ関スル公文」に署名され、この折り、日本側の水野遵弁理公使と清国側李経方全権委員の間で、台湾付属緒島嶼の範囲について、次のような会話が交わされた。

李「台湾付属島嶼とあるその島嶼の名目を目録中に挙ぐるの必要なきか。何となれば平和条約中には澎湖列島の区域は経緯度を以って明瞭にせられあるも、台湾の所属島嶼に就いては、之等の区域を明につることなし。故に若しも後日福建省付近に散在する所の島嶼を指して台湾附属島嶼なりというが如き紛議の生ぜんを懸念すればなり。」
水「閣下の意見の如く、各島嶼の名称を列記するときは、若し脱漏したるものあるか、或は無名島の如きは、何れの政府の所領にも属せざるに至らん。是不都合の一点なり。又、海図及地図等にも台湾付近の島嶼を指して台湾所属島嶼と公認しあれば、他日日本政府が福建付近の島嶼までも台湾所属島嶼なりと主張する如きこと決して之なし。小官は帰船の上、此事を特に樺山総督閣下に陳述置くべし。況や福建と台湾との間に澎湖列島の横はりあるに於いてをや。閣下の遠慮は全く杞憂に属するならん。」
李「肯諾」

明治29年までに日本で発行された台湾に関する地図、海図の類は、例外なく台湾の範囲を彭佳嶼までとしており、台湾受渡の時に問題となった「海図及び地図等で公認しある台湾所属島嶼」に尖閣諸島が含まれないことは、日清双方の一致して認めるところであった。

清国政府が尖閣諸島に対する領有意識を持ってたということすら極めて怪しい。ましてや実効支配が及んだという証拠は全く無いのです。

>  日本の地図や公文書ではかつて、島の中国名を正式に使用していたことがある。統計によると、1935年から1970年にかけて日本で出版された地図21種類および大百科事典の3分の2に「尖閣列島」の記載がなく、「魚釣島」と記載しているものもあった。日本では釣魚島に属する島々の呼び方は混乱している。日本が最初に呼ぶようになった「尖閣列島」は、沖縄師範学校の黒田岩恒教諭が1900年5月、イギリス人が呼んでいた「尖頭諸島」から名づけたという。日本政府は1921年7月25日、同島の「国有地」編入に際して、赤尾嶼を「大正島」と改称したが、日本政府はこの名称を長い間正式に使用しなかった。第2次世界大戦後に日本が連合国司令部に提出した、海上保安庁水路部の海図は、依然として中国が命名した黄尾嶼、赤尾嶼を使用している。米軍占領下の沖縄県が1969年に発した正式文書や掲示でも、黄尾嶼、赤尾嶼などの島名が使用されている。1969年5月に釣魚島海域に石油が埋蔵されているとの情報が流れると、沖縄県は石油会社から相次ぐ調査申請を受け、同県石垣市長の命令で釣魚島に目印となる杭を建設、黄尾嶼を「久場島」、赤尾嶼を「大正島」と再度改称した。
>
>  しかし、これら島々の名称は勅令による命名を経ていないため、1972年以前の日本政府は各島の島名を出して領有権を主張せず、漠然と「尖閣列島」または「尖閣群島」と呼んでいた。今日に至るまで、これらの島に中国名を使用している日本地図も依然存在しており、平凡社が1984年に出版した『世界大地図帳』には、はっきり漢字と日本語読みで「魚釣島(うおつりじま)」、「黄尾嶼(こうびしょ)」、「赤尾嶼(せきびしょ)」と表記されている。また、現在日本政府や沖縄県の正式文書でも黄尾嶼、赤尾嶼という呼称を使用している。防衛庁が1995年2月に衆議院予算委員会に提出した「防衛庁資料」でも、中国名の黄尾嶼、赤尾嶼が使用されている。(3)

どの言語に属する名称であっても、領有権とは直接関係ありません。

> (二)第2次世界大戦後、中日間で未解決となっている釣魚島の領有問題は、米国が中日間に残した領土問題のしこりである。
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>  米軍が琉球占領後の1946年1月29日に発布した『連合国最高司令部訓令第667号』の第3項は、日本の領土範囲を明確に規定し、日本の領土は「4つの島(北海道、本州、四国、九州)および対馬諸島、北緯30度以南にある約1千近くの島からなる琉球諸島」としており、釣魚島は含まれていない。

↑「釣魚島は含まれていない。」と言うのはウソ。(世の中平気でウソつくやつがいるので困る。)

もうこんな低レベルな主張にお付き合いするのもめんどくさいので全部端折っちゃうけど、尖閣諸島についての領有権問題は、
・日本領編入前の古賀氏の漁業活動や日本軍艦による測量に対して、清国はいかなる取締 り、抗議も行っていない。(台湾附属島嶼については、日清了解済みであり、尖閣諸島 が含まれないことは先に引用したとおり。)
・戦後も1970年に至るまで何ら抗議を行っていない。
という2点だけでも日本の領有の根拠としては十分なのです。
(領有の根拠として地図に載ってることを挙げたり、中国はサンフランシスコ講和条約に拘束されないなどと主張したり、世の中変なことを言う人が多いのですね。)