27506 返信 「在韓財産」ってなんだろう・・・(その他雑談) URL ノンポリ 2004/05/05 15:13
>  日本側が在韓財産請求権と韓国側の対日請求権をともに放棄したのはもしこれを発動させると韓国側の支払い分の方が大きくなってしまうからですよ。

「在韓財産」とはどのように蓄積されたものであるか考えてみるのも面白いと思います。
たとえば植民地時代の初期には「夫役」(ぶやく)という、朝鮮人に対する無償強制労働がありました。
道路建設などのインフラ整備の際、建設地に住む朝鮮人を全く補償もせずに追い払い、さらに近隣に住む農民を納税の一環として建設工事に動員していました。無給な上に食事や宿泊の手当てもなく、往々にして農繁期も考慮されない過酷なものだったのです。

また一般的に朝鮮人労働者の賃金は概して「内地人」より低額でした。
1936年当時の朝鮮半島に於ける、
「左官」の平均日給は「内地人」3.37円、朝鮮人2.1円、
「石工」は「内地人」3.47円、朝鮮人2.09円、
「木挽」は「内地人」2.96円、朝鮮人1.82円、
「平人足」は「内地人」1.43円、朝鮮人0.77円、
「土方」は「内地人」1.83円、朝鮮人0.93円、
「下男」の平均「賄付月給」は「内地人」23円、朝鮮人11.22円、
「下女」の同上は「内地人」15円、朝鮮人7.66円でした。
(「昭和十一年朝鮮総督府統計年報」P-242〜245より)


以上のように「夫役」という奴隷的労働によるインフラ整備が朝鮮の産業を発展させる土台となり、また朝鮮人の労働力を安価に利用することが、植民地支配に於ける富の蓄積に役立ったのでしょう。
「在韓財産」が膨大な額だったというのは即ち、植民地支配が如何に過酷であったかということになります。

>  それに韓国はいつ、どこで日本と戦争したのでしょうか?

併合前後の義兵闘争は別にして、1910年以降は「韓国」という国家も「韓国軍」も存在しませんでしたから、日本と戦争は出来なくて当然です(笑)
もっとも個人的な認識では・・・・1910年から1945年まで朝鮮半島は日本軍の占領下にあり、有志による独立戦争が継続していた・・・・と言えなくもないと思います(笑)
バクダッド陥落によってフセイン体制は崩壊しましたが、決してイラク戦争が終結したとは言えません。イラク民衆による侵略者への抵抗は日増しに激しくなっています。同じように朝鮮民衆の抵抗も決して止むことはありませんでした。
たとえばシベリア出兵に於いて日本軍は革命パルチザンと戦うだけでなく、ウラジオストックなどで朝鮮人の独立運動家を弾圧しています。同時期に、豆満江に隔てられた「間島(カントウ)」地方での独立運動が活発化し、これを恐れた日本軍が侵攻し残虐な掃討戦を行なっています。朝鮮独立運動は朝鮮半島外でも展開していたのです。


>清とは戦争をして日清講和条約で日本は清国から朝鮮を独立させていますが、朝鮮とは戦っていません。

李氏朝鮮は清国と冊封関係にありましたが、独立国でなかったわけではありません。

>ロシアの南下政策から朝鮮を守るために戦いましたが、このときも朝鮮とは戦っていません。

逆の立場だと「ロシアは日本の北進政策から朝鮮を守るために戦った」とも言えます(笑)

>伊藤博文という併合穏健派だった日本の重臣が安重根により暗殺されたことで強制併合派が圧倒的に支持を得たわけです。

仰る通り、初代朝鮮統監だった伊藤博文は当初併合には反対で、様々な保護国化政策を打ち出しましたが、激化する一方の「義兵闘争」は伊藤への批判を強め、熱意を失った伊藤は辞意を漏らすようになり、保護国化案を捨て併合案に転じることになるのです。
「伊藤博文伝」によると、1909年4月、桂首相と小村外相が伊藤に恐る恐る「韓国の現状に照らして将来を考量するに、韓国を併合するより外に他策なかるべき事由を陳述」すると、
「公は両相の説を聞くや、意外にもこれに異存なき旨を言明」し、
なおかつ桂・小村の提示した「併合の方針」についても、「その大網を是認」したそうです。
その2週間後の東京での演説でも伊藤は、
「今や方に協同的に進まんとする境遇となり、進んで一家たらんとせり」
と併合を示唆し、聴衆を驚かせました。そして同年5月、統監職を辞職します。(以上、海野福寿著・岩波書店「韓国併合」より)
伊藤が暗殺されたから朝鮮が併合されたわけではないのです。

>韓国も加害国のはずですが?朝鮮人148名が有罪判決を受けて、そのうち23名が死刑になっていますよ。

当時「韓国」という国家は存在しませんでした。


・・・・脱線しますが、
(朝鮮人も含めた)BC級戦犯として裁かれた日本軍人・軍属の中の一部は、日本軍が日中戦争開始以来抱える根源的な欠陥の責任をも負わされてしまったと言えます。
マレー俘虜収容所など各所で捕虜の監視に当り、戦後蘭印法廷で裁かれた尹東玄さんという元朝鮮人軍属・BC級戦犯は次のように述懐しています。
「・・・・スマトラのメダンに派遣された。北スマトラ中央部に軍用道路を建設するため、俘虜を労働力として使ったのですが、私はコタチャーネにあった分遣所のキャンプコマンダー、要するに責任者として派遣された。山奥で食糧も薬もなく、栄養失調や病気、けがなどで俘虜が亡くなった責任を、全部私が負わされたのです」(内海愛子・岩波ブックレット226「朝鮮人<皇軍>兵士たちの戦争」より)
蘭印法廷でも67名の朝鮮人が有罪判決を受け、そのうち4名が処刑されています。彼らの無念は想像に及びません。「組織的テロ、抑留市民の虐待」という罪状で死刑判決を受けた朴成根という人は、同胞に「祖国再建に努力してくれ」と言い残し、処刑の際に目隠しを拒み、「それまで一度も口に出さなかった“朝鮮独立万歳”を叫んで死んでいった」そうです。(河合政「死刑囚」『秘録大東亜戦史』蘭印篇、富士書苑、1953年・・・・・・・・龍渓書舎「朝鮮歴史論集隋彈録、内海愛子「太平洋戦争下における朝鮮人軍属――蘭印法廷における朝鮮人戦犯問題――」より)

捕虜を虐待するつもりなどなくても、食糧や医薬品の不足は現場の監視員には如何ともし難いことです。あの戦争では捕虜を餓死させるどころか日本兵も大量に餓死・病死しています。上記の惨劇はその一例に過ぎません。

・・・・たとえば南京攻略のときに日本軍に充分な食糧の補給があれば、「食べさせるものがないから」という理由での捕虜の殺害は起こらなかったでしょう。
食糧の準備を怠り軍を動かすなど言語道断です。人口密集地では略奪して食いつなぐことも出来るでしょうが、ジャングルの中では餓死する以外にありません。日本は戦争をする資格など無かったのです。


>  それに韓国がベトナム戦争時の戦没者の墓参りをすることは正当行為だとして反省しないのは何故ですか?日本の靖国とどこが違うのでしょう?

靖国神社は「墓場」ではないですよね?