28265 返信 Re:義和団事件・北清事変 URL タラリ 2004/06/09 15:53
はじめまして。小林哲夫さん。
小林さんの書き込みはたびたび目にしていますが、すべて「従来の史観」を理解できず、誤解あるいは歪曲して、その誤解、歪曲に対しての「反論」のように見受けます。

> 1900年に中国で起こった義和団事件が、西洋がむちゃくちゃ侵略をしていた証拠だ、という人がいますので、この事件を勉強してみました。

第一にお聞きしたいことは「義和団事件そのものが、西洋のむちゃくちゃ侵略である」という主張を誰がしましたか。義和団事件は西洋が中国を侵略した事件だとでも思っていらっしやいましたか? 義和団事件そのものは西洋の侵略に対する中国民衆の反撃です。


> この事件はいわば日本の幕末浪士による外国人襲撃事件を大規模にしたものです。

違いますね。浪士ではなく、ちゃんと藩に属していた下級武士です。下級武士とはいえ、彼らは支配階級に連なるエリート層です。彼ら突出した行動であり、決して日本の民衆全体の共感に支えられたものではありませんから、規模は比較になりません。


> この外国人襲撃を伴う騒乱が北清一帯に広がり、ついに義和団は北京に入って、在留外国人1000人が籠もる地域を包囲しました。(映画;北京の55日)

> この時清朝政府から連合軍に対して宣戦を布告したのですから、西洋による一方的侵略とは言いがたいものです。
> これを救出すべく八カ国連合軍が北京を攻略した際に略奪、虐殺があり、その戦後に莫大な賠償を課し、軍隊の駐留権を獲得したものです。
>
> このような事件は日本では起こりえないことであるのは、
> 先ずキリスト教が日本では民衆の中に全く浸透しなかったので、民衆の間での対立が生じなかったこと。

キリスト教の浸透はまったく事件や事変の本質に関わりありません。ちなみにお聞きしておきますが、キリスト教が浸透すると必ず拝外主義の運動、外国人殺害がおこりますか。

> 次に日本の攘夷運動は幕末のほんの一握りの武士のものであって、明治以後に民衆の排外思想や外国人排斥運動など一切無かったことがあります。

−「明治以後に民衆の排外思想や外国人排斥運動など一切無かった」
清末と幕末を比較しているときに明治以後のことは一切関係ありません。また、上述の認識もまったくの誤りです。


> これはイラクの反米感情と日本の敗戦後の親米感情の違いに似ています。

まったく、ピンぼけです。よって論外とします。


> 日本にも馬関戦争、薩英戦争と排外思想による戦争はありましたが、ちょっと戦って負けるや、変わり身早く今度は却って友好国になった経験があります。
>
> 日本は敵とすぐに仲良くなる能力が優れていたために、民衆の憎しみが外国人に向かったり、騒乱が起こるということが有り得なかったという意味で、義和団事件は日本にとって何の参考にもならないことなのです。
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> これに比べると中国では、キリスト教信者が急増したことが日本と違い、この急増が中国国内の対立を大きくしました。
> 日本にはこのような外国をめぐっての内部対立も起こらなかったという特性があります。

> 結論として、義和団事件には確かに西洋側(日本を含む)の行き過ぎもありましたが、事件は西洋が何かをたくらんで謀略で起こしたものでなく、中国民衆の排外思想が出発点でした。
>


中国はすでに西洋各国に侵略されて次々に領土・主権を奪われ、半植民地に追い込まれていたのです。この点、通常の通商関係を迫られただけで、本格的な西洋諸国の侵略戦争を経験していなかった日本とは大違いです。

列強の中国侵略の過程をみてみましょう。
■1840-42年 アヘン戦争
アヘン戦争ではイギリスが圧勝し、中国はイギリスの要求を全て受諾する形で、南京条約を結んだ。
 南京条約は香港島のイギリスへの割譲、主要港(広東・厦門・福州・寧波・上海)の開港、多額の賠償金支払い等となっており、中国にとっては極めて不利な不平等条約であった。 ⇒欧米による中国の半植民地化が始まった。

■1856−60年 アロー戦争(第二次アヘン戦争)
1858年 天津条約
 イギリスとフランスに圧倒された清朝は、天津条約を結ばされた。
 天津条約はアヘン輸入の公認・南京を含む10港の開港・揚子江の航海権等と、中国にとっては先の南京条約よりもさらに不利な不平等条約であった。

■1860年北京条約
 天津条約締結後、清朝軍が反撃した為、英仏連合軍は2万の軍隊で北京を占領し、円明園離宮を焼き払った。
 同年、ロシアの仲介により、北京条約が締結された。清朝は新たに、天津の開港・九竜のイギリスへの割譲・沿海州のロシアへの割譲をしなければならなかった。

■イリ紛争 1881年  イリ条約
清朝は、イリ地方の一部とザイサン・ノール地方をロシアに割譲し、賠償金をロシアに支払った。

■1894-95年日清戦争 周知につき略
■下関条約のすぐ後から、ドイツは膠州湾を租借、ロシアは旅順・大連を租借、イギリスは威海衛・九竜半島を租借した。1899年にはフランスも広州湾を租借した。

列強の侵略に対して反撃を試みてもなすすべもなく破れる清朝政府に不満を抱き、宗教的結社に率いられた中国民衆が無謀な抵抗を行い、清朝政府が愚かにもその尻馬に乗って傷を深くしたという悲劇です。

> 何でもかんでも西洋を悪者にすれば済むというものでは無い、ということを説明しました。

上述したような列強の侵略過程を見るならば、反撃のやり方に問題はあるが、民衆の正当反撃であることは間違いないでしょう。小林さんの第二の問題として正確な歴史史実の認識が出来ていないことが付け加えられます。

それでもなお、小林さんは西洋は悪くなかったのだと言い張りますか。