28534 | 返信 | 中国はいかにして欧米列強(と日本)によって半植民地化されていったか | URL | inti-sol | 2004/06/23 01:26 | |
欧米列強による中国に対する侵略、半植民地化は、アヘン戦争によって開始され、アロー号事件を経て、北清事変で完成した、と言って良いでしょう。 アヘン戦争(1840-42年)は、中国からのお茶・陶磁器・絹製品など大幅な輸入超過を取り戻そうと、イギリスがアヘンを密売したことが発端になりました。アヘンは麻薬の一種ですから、清朝はこの輸入を禁止し、密輸業者を摘発、アヘンを押収して焼き払っていましたが、これに対してイギリスが宣戦布告、あっというまに清国軍を撃破し、降伏に追い込みました。 その結果結ばれたのが南京条約であり、香港の租借、広東、厦門、福州、寧波、上海の開港、賠償金の支払いなどが定められました。さらに、追加条約によって治外法権(領事裁判権)、片務的最恵国待遇、関税自主権喪失などが決められました。続いて、清朝は同内容の条約を米国・フランスなどとも結ばざるを得なくなり、中国の半植民地化への道が始まります。 肝心のアヘンについては、南京条約では何も定められていません。表向きは、いくら何でも「アヘンを輸出する権利」など国際条約で言及できるはずがないのですから。従って、これは黙認という形になりました。 このアヘン戦争は、幕末にさしかかっていた日本に、大きな衝撃を与えたと言われています。 続いて起こったのがアロー号事件(1859-60年)です。中国人が所有し、イギリス人が船長であり、イギリスの租借地香港に船籍登録されていた(ただし、当時すでに登録は切れていた)商船アロー号が清朝官憲の臨検を受けて、中国人乗組員が海賊容疑で拘束されたことを口実として、イギリスがフランスを見方に引き込んで起こした戦争です。アヘン戦争同様、英仏軍の圧勝に終わり、天津条約が結ばれますが、清朝がこれを批准しなかったことから英仏軍は再度戦争を仕掛け、北京条約が結ばれます。 この条約によって、清朝は、再度莫大な賠償金の支払い、英仏の外交使節の北京駐在、開港都市の増加、英仏商船の内水面航行権、イギリスへの九竜半島割譲などが認めさせられました。次いで、ロシアとも条約が結ばれ、沿海州が割譲されます。 日清戦争(1894-5年)は、朝鮮に対する宗主権を日本と清朝が争った戦争です。戦闘は、朝鮮と、中国の東三省(いわゆる「満洲」)南部で展開されました。このときの中国軍は、昔日のアヘン戦争の中国軍とは違い、「定遠」「鎮遠」という当時最新鋭の巨大戦艦をはじめとして、軍備を整えていましたが、敗北しました。「定遠」「鎮遠」は、戦闘では日本の海防艦の砲撃をはじき返したものの、結局敗戦によって賠償として日本に引き渡されてしまいました。その他、朝鮮の独立承認、2億両の賠償金、イギリス他と中国が結んだ不平等条約と同じものを日中間で締結、遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲が認められましたが、後に三国干渉によって遼東半島は中国に返還しています。 イギリス、フランスなど世界の強国ではなく、日本という当時としては新興の小国(と見られていた)に敗北したことは、清の没落を決定的にしました。各国はこぞって中国への侵略を激化させたのです。 租借地について言えば、1897年ドイツが膠州湾を占領、租借を認めさせ、翌98年には先に三国干渉によって遼東半島を日本から返還させたロシアが、その遼東半島の大連と旅順を租借、同じ年、ロシアに対抗してイギリスが山東半島北岸の威海衛を租借、さらに、すでに割譲していた九竜半島の周辺に租借地を拡大、翌99年にはフランスが広州湾を租借と続きます。 しかも、問題は租借地だけではありませんでした。「不割譲宣言」なるものが盛んに行われました。言葉どおりに読めば、不割譲=割譲しないという意味に取れますが、実際には、これはA国の要求に対して、この地域はどこの国にも割譲しませんと宣言することであり、実質的にはその地域はA国の勢力圏であることを公認するのに等しい意味合いを持っていました。これによって、海南島・広東省西部・広西省・雲南省(フランス)、揚子江流域・広東省東部・チベット(イギリス)・山東省(ドイツ)・東三省(ロシア)・福建省(日本)などが、事実上の外国の勢力圏に組み込まれていきます。中国の領土は、文字通り欧米列強(と日本)によって引き裂かれ、奪い取られていったのです。 そして、とどめを刺したのが北清事変(1899-1900年)となりました。これら中国のとめどない植民地化の進行に対して、義和団が反乱を起こすと、清朝政府がこれに合流、欧米列強に宣戦布告して起こった戦争でしたが、日本軍を中心とした連合軍によってたちまち降伏に追い込まれました。北京議定書で中国が飲まされた条件は、 日本・ドイツへの謝罪使の派遣、責任者の処罰 賠償金4億5,000万両(利子も含めれば9億8,000万両)の支払い、そのための担保として海関税・塩税・常関(交通の要衝に設けられた内地関税)収入を連合国の共同管理下に置く 公使館区域の設定と外国軍の駐兵・北京−山海関の 12の要地における外国軍の駐屯 天津周辺20里以内における中国軍の駐留禁止・砲台の撤去 外国人への殺害が行われた地域での5年間の科挙停止 排外団体への加入禁止、各地の官吏に対する排外暴動鎮圧の義務 など、中国の主権を事実上奪い取るのに等しい状況であり、これによって、中国が実質的に欧米列強と日本の半植民地状態に置かれることになりました。 中国が、日本以外の国の半植民地状態を脱するのは、中華民国成立後、北伐によって国内的統一がほぼ完成した1925年以後のことです。その後1930年頃までにほとんどの租借地が返還され、残ったものも香港とマカオ以外はすべて、第二次大戦終了までに返還されました。ただ日本のみが、19世紀と同じ感覚で中国侵略と半植民地的支配を継続、否拡大しようとしたのです。 |
||||||
![]() |