30075 | 返信 | Re:極右による言論の自由侵害を許すな | URL | gaji | 2004/10/14 15:55 | |
>百人斬りが虚偽である可能性が高いと信じるのはあなたの自由ですが、私の見解では異なります。 >この問題に関しては、この掲示板でも以前よりやりとりが行われており、私も食傷気味です。(inti-solさん) 食傷気味のところ、恐縮です。 戦意高揚記事のために死刑にされた戦犯の、ご遺族のことを考えたことがありますか? 忘れられていた頃、蒸し返すように新聞で連載記事にされ(といっても、ただの聞き書きです)、二児の母親になっていた娘さんは「人殺しの娘」といわれ、家庭も崩壊しています。 -------------------------------------------------------------- 「百人斬り訴訟」は7月12日の第5回口頭弁論でクライマックスを迎えた。 東京日々新聞(当時)のカメラマンで、浅海一男記者に頼まれて向井・野田両少尉の写真を撮影した佐藤振壽氏(91)が、車椅子に座り看護婦二人と佐藤氏の長男に付き添われ、約2時間明瞭な証言を行った。 証言により、常州発の浅海記事の第一報から捏造だったことが明らかになった。記事には、既に二少尉は56人と25人を斬ったとあるが、撮影の際「これから始めると聞いた」と証言した。また本多勝一が『中国の旅』を著すに際して、同氏に一切接触がなかったことも明らかにした。 事後の弁護士会館における稲田朋美弁護士(写真右)の報告で、佐藤氏の家族は病身・高齢を理由に証人としての出廷に反対されたという。 しかし佐藤氏は 「記事は嘘でも写真は本物、自分が撮影した写真が中国の大虐殺記念館に展示されているので責任がある」 と、敢然と証人になることを承知した。 ----------------------------------http://www5f.biglobe.ne.jp/~kokumin-shinbun/H16/1607/1607008truth.html 佐藤証言・要旨----------------------------------------------- 1. 無錫で両少尉に会っていない、常州で浅海記者に両少尉の写真を撮るように頼まれ、太陽光線を考えて常州城門の側で写真撮影した。(註・これが現在も残っている有名な両少尉の写真である) 2.両少尉はこれから(つまり常州から)百人斬り競走を始めると話していた。 3.両少尉が当番兵を取替えっこして斬った中国兵の数を数えると聞いたが、信じなかった。(本多の代理人の執拗な反対尋問に対し)新潮で私が納得したように書かれているが、断じて納得していない。そのように書いたのは新潮の記者であって私は納得していない 4.翌年の昭和13年上海で「百人斬り」の記事を見たが「嘘っぱちを上手く書いたな」と思った。 5.当時日本軍は苦戦していたので大隊副官と歩兵砲小隊長が第一線で刀を振り回してチャンバラをするような戦況ではなかった。そもそも南京戦は近代の銃撃戦でチャンバラではない。 6.殺人ゲームとか上官からの命令という話は二人からも聞いていない。 7.戦後浅海氏が東京裁判に呼ばれた時に「嘘だ」と一言言えば良かったのだ。自分も呼ばれるかもしれないと浅海氏から聞いたが呼ばれなかった。 8.陸軍の検閲があったが戦意高揚の記事ということで、法螺話を通してしまったことにも責任がある。 9・南京軍事法廷に自分が撮った両少尉の写真が提出され、これが証拠となって二人は銃殺されたが遺族に対して本当に申し訳ないと思っている。 10.現在南京大虐殺記念館に私の撮った二人の写真が虐殺の証拠として展示されていることに腹が立って中共政府と喧嘩をしたいくらいだ。 11.この問題について私に何の取材もせずに「百人斬り」を書いた本多勝一と朝日新聞はジャーナリズムとして失格である。 ------------------------------------http://www.senyu-ren.jp/100/005.HTM ------------------------------------------------------------ 「東京日日新聞(現:毎日新聞)の「百人斬り」報道は、戦意高揚のための創作記事であり、本多被告が書いたような殺人の軍命令もなければ、捕虜や非戦闘員などの「すえもの斬り」もなく、全ては虚偽であり、殺人ゲームなど存在しなかった。 毎日新聞は現在、1937年の報道は真実であるとする一方、1989年の同社の出版物では、これは虚報であったと書いている。今となっては1989年の内容は、記者が勝手に書いたもので同社の見解ではないと逃げを打っている。 毎日新聞には「知る権利」の前提である事実の報道を行う社会的責務があり、虚報と判明した以上は、これを訂正する義務がある。 さて、1937年の一連の東京日日新聞の虚報が基で野田・向井両少尉は戦争犯罪人として処刑された。ところが後年、この話を本多被告は、両少尉が捕虜と非戦闘員の虐殺の実行犯であるという虚偽の記事にして朝日新聞に連載し、両少尉の名誉を著しく毀損し、また、遺族の社会的地位と生活を著しく破壊した。また、両少尉の遺族の敬愛追慕の情をも著しく侵害した。これらについては被告らが、これをあがなう責務がある。 これに対して朝日新聞は「日本将兵が捕虜・非戦闘員を多数虐殺したことは事実であり、事例も多い」と居直り、野田少尉も手紙で百人斬りをしたと書いたとしたり、第9連隊第3大隊の望月某が書いた出版物に野田少尉が、刀で捕虜を斬ったとする描写があることをもって両少尉による「百人斬り」は事実と主張しました。これについては朝日は、当時の重要資料としましたが、これは昭和57年発行の回想のような出版物の中にあるもので、抽象的であり、事実が書かれているとは限らないと稲田弁護士より反論されました。 次回の第8回目は、裁判長の提案により、少人数の弁護士による弁論及び準備書面の遣り取りとなり、10月27日(水)11時より12階の6部でありますが、一般の人は参加できません。 ---------------------------http://homepage3.nifty.com/kyoho-enzai/boad/contents/E0700_34.html ------------------------------------------------------------ さて、一番驚くのが向井・野田両少尉の新聞記事を拡大しただけのコルトンパネルである。これが最も目をひくように展示してある。 両少尉は「日本刀での百人斬り競走」という架空のホラ話の新聞記事が証拠とされ、南京法廷で死刑の判決を受け処刑された。 これは当時、東京日日新聞(毎日新聞)の記者だった浅海一男という人が書いたもので、特に軍部からの要請があったわけでもない。 単に軍に対するおべっかであり、私はこんなに前線で頑張っているからボーナスはずんでね、と本社に言いたかっただけの記事である。 「副官」という身分を記すと読者に嘘がばれるので、そこを伏せ字にするという狡猾さである。 裁判中、浅海氏は、向井・野田両氏の関係者による切なる依頼にも、記事が創作であることを認めようとはしなかった。 (昭和47.7.29の週間新潮に浅海氏がでている。「南京百人斬りの虚報で死刑戦犯を見殺しにした記者が今や日中かけ橋の花形」という記事で、毛沢東派の進歩的ジャーナリストとして知られる存在になっていたそうだ) ▲発掘された骨 日本人に殺された中国人の骨だというのだが、いつの時代か、兵隊なのか民間人なのか、戦闘によるものなのか虐殺なのか、判断できない。 そもそも、南京付近の揚子江沿岸では以前から国民党軍が、共産側や労働者、自軍の脱走者など多数を頻繁に虐殺していたし、雨花台は明時代からの処刑場で、どこを掘っても人骨が出てきて不思議ではないのが南京である。 しかも、この骨は文化大革命の時の被害者だと内緒で聞かされた人もかなりいる。朝日新聞の知恵蔵によれば、文革での死者は2000万人だとか。 それにしても、人骨を展示する神経というのはすごい。 -------------------------------http://www.asahi-net.or.jp/~ku3n-kym/index.html >李秀英名誉毀損裁判などの法廷の場において南京での虐殺行為そのものは史実であることが認定されているにもかかわらず(ウサギの眼さん) お言葉ですが、ウサギの眼さん。「虐殺行為」というよりは、「南京事件」そのものは史実であった、ということではないでしょうか。 また、李秀英女史のことですが、彼女の個人意思での訴えではないようですね。 --------------------------------------- ついで平成11(1999)年、その著書の中で名誉を傷つけられたと、松村俊夫氏(『南京虐殺』への大疑問』著者)と出版社の展転社を名誉毀損で東京地裁に訴えた。 一審、二審とも原告有利で、裁判所は150万円の慰謝料を支払うよう命じた。 平成15年5月現在、著者及び出版社は最高裁に上告し徹底抗戦の構え。 「南京虐殺への大疑問」記述中、彼女が気に障った部分。 →「南京法廷とマギーフィルムの李秀英とが、同一人であるとの保証がないというのはいい過ぎだろうか。」 ところで、日本語の読めない李秀英女史が、なんで松村氏の記述を知ったのだろう。 しかも、中共では個人が勝手に外国人を訴えられるわけがない。 じつは、井上久士という駿河大助教授が中共に持ちかけたものだった。 平成11年9月、南京事件と慰安婦の研究会が南京で開かれた際、井上氏が松村氏を訴えるよう中共に進言、李秀英女史が従ったという流れである。 ---------------------------------http://www.asahi-net.or.jp/~ku3n-kym/index.html |
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