31069 返信 Re:「精神障害」をめぐる議論 URL 水原文人 2004/11/23 02:55
猫まんま様、

> 「精神障害」という語をめぐる議論ですが。

あれが「議論」と言えるほどのレベルのものかどうかは大いに怪しいですが…(笑)。一方的にヒステリックになっている人々があまりに多すぎますからね(私怨も含め)。

> 「精神障害」という言葉そのものが差別語などという物でないのは当然ですし、

原義にはありません。しかしこの語が「精神病」の言い換え語として、つまり「精神病は差別的だから精神障害と言いましょう」という文脈で出て来た時点で、差別性はそこに継承され付与されたのだと僕は考えています。ちなみに「精神病」だって元々差別的な意味は、その語自体には含まれていないのですから。

> しかし、議論いくら追っていってもですね、「論敵を精神障害と看做す」のが差別だというのか、明らかにはなってませんよね。

なるわけがありません。だいたいtaraなんとかさんは論外だとしても、八木沢様にせよ山田君にせよ、差別だとしたらなにを差別しているのか、その対象がなんなのか僕にもだんだん訳が分からなくなってきました。少なくとも特定の個々人に対する差別ではなさそうです。けっこう切り札であった皇族の精神障害がまるで無視されたのも予想外であり、かつその理由は把握しかねています。

失語症も鬱病も、典型的な精神障害なんですがね。それも日常生活に支障が出ると言う意味では、かなり重度な。


> 「オレを精神障害扱いしやがって」みたいなのは論外ですしが、他者を差別者を糾弾するには、その差別の構造を明らかにしなければならないでしょう?しかし、誰もその「精神障害」の言葉の持つ意味すら明らかにはしようともしないし。唯一水原さんだけが「自分は精神障害の意味を理解している」という意味の発言をされただけでした。

それは誤解です。理解しているとしたらベタに「精神障害」の文字通りの意味、つまり精神になんらかの障害があるという意味で使っているだけです。

> まず、俺自身は精神障害という言葉の持つ意味は興味そういう関係の本をいくつか読んだくらいですが、調べれば調べるほどその意味はわからなくなりました。

それはその通りだと思います。「障害」であるからには「障害のない」「健常」な状態がその相対的比較対象としてなければなりませんが、では「健常」「正常」な精神の状態があり得るのかと言えば、これは相当に難しい問題でしょう。何度も繰り返して来ていることではありますが、現在具体的に精神障害と総称される状態は、程度の差こそあれ、誰にでもあるようなものばかりですから。

この騒動の初期にトルティーヤさんがななかなか鋭い突っ込みをしてました。高所恐怖症についてなのですが、高い足場で作業しているときに怖かった自分は高所恐怖症なのかどうか? 高いところが怖いことそれ自体は、むしろ正常な自己防御反応です。ではどこからが障害である高所恐怖症なのかと問われれば、線引きはとても難しい。

僕自身高所恐怖症なのですが、なぜか飛行機は大丈夫です。これは子供の頃趣味で飛行機が飛べる理由を科学的にみっちり勉強したおかげなのかも知れませんが、飛行機に関しては飛ぶこと自体は安全な理由を理解しているから、たぶん怖くないのでしょう。しかし構造上安全だと分かっていても、たとえば東京タワーみたいな構造物は怖くて乗れません。なぜなのかはよく分からない。今は亡き国際貿易センター・ビルは、風で揺れることでかえってバランスをとっているのだという理屈は知っていても、試しにあがってみたら大変なことになりました。ところが吹きさらしのエンパイア・ステート・ビルは平気でしたし、エッフェル塔は途中で諦めました。

> かろうじて俺が理解するところでは、
> ○精神障害とはコミニュケーションの障害である

それは精神障害の一部で、自己投影の無限ループなどはその典型ですが、すべてではありません。またコミュニケーションの障害は、それ以前にまず認識の障害があります。

> ○その障害のために本人や家族が苦しんでいる

本人が苦しんでいることを自覚していない場合も多いので、怖いです。taraなんとかさんなんて明らかにそうですし、僕が当初に精神障害の危険を指摘した方もまったく自覚はしていないでしょうし、「左翼はみんな親中国で」云々と思い込めるのは、すでに立派に認識の障害ですし、昨日だっかた僕が指摘した中国の記念館での拷問の展示にケチをつけている投稿の問題点にしても、なぜその明白なおかしさが理解できないのかと言えば、それは純粋な知的能力の問題ではなく、思い込みの激しさの問題でしょう。

> ○コミュニケーションの障害であるがゆえに、偏見を持たれやすい。
> で、その偏見が差別になりやすい、ぐらいしか理解出来ません。

それは違うと思います。それどころか、これは精神障害とはやや別カテゴリーに属することに最近ではなっている「人格障害」と総称されるもののなかには、むしろコミュニケーション能力が異常に(なにが正常でなにが異常かはともかくとして)発達しているケースも多い。社会的に言えば「詐欺」にあたる行為を平然とできるケース(たとえばアメリカの報道史上最大のスキャンダルといわれるスティーヴン・グラス事件や、最近のNYタイムズのねつ造記事事件)も多く、そこで指摘されているのは本人に「それが悪いことだ」という認識がまったくなかったということです。

政治的プロパガンダとしてフロイトの理論を応用すると、抑圧はすべて悪であって人間はそこから解放されるべきであるという考えになります。50年代ごろまでの社会の封建的秩序批判がそうですし、それはマルクス主義のプロレタリア解放と結びつき易いものであり、現に結びつきました。

しかしそこで僕が先日引用したマルクーゼはもう少し高度なレベルでこの結びつきを再検証し、「必要な抑圧」と「過剰な抑圧」に分けたわけです。ジャック・ラカンによれば人間は本能が壊れた生物で、というよりもラカン尊師にご登場をあおぐまでもなく、人間が他の生物に比べて「本能」と呼べるものがほとんどないことは、これはもう日常生活から簡単に気づくことです。で、本能がないか極端に少ないのなら、人間の生存の大きな部分は’生まれてからの学習にかかっているわけで、その必要最低限の学習をするための抑圧はむしろ必要である、という考え方です。

ではどこまでが必要な抑圧でどこからが過剰なのか、人間の生存のためにはどこまで学習する必要があってどこから先が過剰な抑圧によって精神が歪められるのかの具体的な線引きはしなかったのが、マルクーゼ先生の賢いところでした。同じようにマルクス主義とフロイト理論の融合を志向したライヒになると、ドラッグ三昧で、あげくには獄死したぐらいでちょっと人生すごかったでしたし。でも、ではライヒが獄死に至ったのは社会的秩序を乱したためなのですが、ではその社会的秩序が「正常」と言えるのかどうかが、また問題です。

> しかし、具体的にどういう差別があるのか、とまでは理解してませんし、また、俺自身偏見が無いとはいえません。だって俺がそういう人とどういうコミニュケーションができるのか自信もないし。

差別はふたつの意味であると思います。まず第一に「キチガイだから危険」というストレートなもの。で、社会の治安を考えれば確かにこれは差別であっても、悪と言いきることはできません。現にたとえば重度の被害妄想は、ハタから見ればまったく無動機に無関係な人を殺したとしか思えない衝動殺人に至ることもあります。こうした触法精神障害者はごくごく一部なのですが、その「危険性」への過剰な防御反応が、まずストレートな精神障害者への偏見を生んでいます。

もうひとつ、これは前者の結果として生まれる差別だと思いますが、逆にだからこそ「精神障害」という語をつかってはいけないみたいな話になるわけです。美智子皇后が一時期苦しんだ失語症は精神的な理由で言葉が発せられなくなったのですから精神障害以外のなにものでもありませんが、周囲は確かに大変であるにせよ実害はまったくありません。鬱病にしたって、基本的にはなんにもしなくなるだけですから、一家の大黒柱がそれになってしまった日には家族の経済的困窮はあるにせよ、他人に危害を加えるようなことにはまずなりません。

分裂症にしても発症してしまえば妄想などが危険な領域に入る場合がありますが、発症していない「分裂気質」程度ならただ繊細で神経質で敏感で独創的な発想ができるくらいで、危険どころかむしろ有益ですし、発症しても他人に危害を加えることは稀です。自殺の危険はもう少し高い確立でありますが。

鬱病にしても、ただ暗く無気力に見えるだけだったりしますし…。躁病は誇大妄想のレベルに至ると大変ですが(ちなみにtaraなんとか氏が大騒ぎしている論文の一部は、薬物の副作用で躁鬱病になり誇大妄想に至った実話の映画化でした)、それがなければ徹夜で仕事をしてもぜんぜん平気で元気のいいエネルギッシュな人ぐらいにしか見えません。

線引きをどこに引くのかはまず問題ですし、コミュニケーションの問題でいえば、どの程度の症例かにもよりますが(またこれが、単純なモノサシで計れるものではなく、ケース・バイ・ケースで千差万別です)、むしろいわゆる「健常者」よりもより深いコミュニケーションが出来る場合の方がむしろ多い。芸術家や思想家などにいわゆる精神障害者が多いのは、そのせいでしょう。

> でこの議論の中で唯一理解してるらしい水原さんの文からもどう理解してるのかがわからないのです。
> 「差別は病理」とかで述べられてる事も誰にでもある心理的な防衛機能とかではありませんか?

日常のコミュニケーション、他者との関わりでいえば、「差別」に至れば防衛機能としての役割はまったく果たしません。危険でないものを危険だと認識すれば、むしろ本来なら起こるわけがない衝突をその過剰な反応が誘発してしまうことが極めて多いからです。

…とここまでいうと、「差別は病理」も認識障害もコミュニケーションに置ける障害も、別に精神分析の本のなかや精神科の病棟のなかにだけあるものではないことが分かってくるのではないかと思います。はっきり言えば、この掲示板を極めて冷静に、かつ精神分析理論や精神医学の入門書でも片手に読めば、定義上精神障害に属する事象がそこら中で起こっていますし。

またマルクーゼがフロイトの理論とマルクス主義の理論の思想的統合を考えたということは、「精神障害」と今の用語ではいう精神的な病理の問題を、個々人の内面だけでなく社会の分析手段として応用したことを意味します。というか、フロイトの時点ですでに、フロイトがもっとも注目した分裂症の原因としての父権的な抑圧によって生じるトラウマは、具体的な家庭内の「父」だけでなく社会の支配構造としての父権性の問題にすでに切り込んでいました。

つまり「精神障害」という厄介な差別言い換え語になってしまった言葉の原義は、社会全体の集合的な心理の問題の分析として用いることが出来るものですし、芸術作品の分析には、それこそ芸術は作家の潜在意識の表現の部分を常に含んでいますし、その受容もまた受け手の潜在意識に深く関わっていることですから、むしろ必須事項ですらあります。

> また、八木沢さんが述べられているのも、中国人やら差別一般の事であって、言えばいう程に「精神障害」から離れてゆくばかりではありませんか。

それはその通りでしょう。中国人や朝鮮人を、例の問題になっている文章における「精神障害」に置き換えるとまったく問題の本質は異なってきますし、「精神障害者」と言ってしまうだけでも違います。「中国人」「朝鮮人」の場合は、そもそもそうした言葉を投げかけられた相手が日本人であれば、その日本人が「中国人」や「朝鮮人」になるわけがないのですから、「〜人みたいだ」といえるのは前提としてその「〜人」自体を侮蔑対象にしていなければ成り立ちません。しかし所属民族によって個々人の生まれ持った能力に差異などほとんどあり得ないのは分かりきった話であり、これは明白に人種・民族的偏見に基づく差別です。

「精神障害」の場合はかなり違います。誰でも精神障害になる可能性はあるし、もっと言えば少なくとも現時点で「精神障害」として一般的な社会的認知を受けてしまう症例は、すべて単に程度の問題で「正常」であったり「障害」であったりするだけです。「電車男」ではありませんが誰だって自分が片思いしている相手の前では緊張するし赤面もするだろうし声もなかなかかけられないでしょう。しかしそれが重度になれば、対人恐怖症になります、と言った程度のことでしか実際はないのですから。

つまり「精神障害」というのは、そこらに掃いて捨てるほど転がっている人間の精神状態のありよう、状況の問題にすぎません。

そこで「精神障害」と言わず「精神障害者」といったとたんに差別になる可能性が大きくなるのは、一時的に極端になった結果目に見える「障害」になる物にすぎないのが、あたかもそうした気質があって発症に至ったこと自体がその本人の属性であるかのように、恒常的にその人間が「精神障害者」なのだと決めつけているようなニュアンスを持ってしまうところです。

> という訳で、「精神障害」についての議論であるはずなのに全然「精神障害」そのものはおいてきぼりではありませんか。なぜ「精神障害」の言葉におのおのが向かい合おうとはしないのでしょうか?

恐らく(というか、これはフロイトやマルクーゼの理論の流れではすでに定説ですが)、個々の人間がみな精神障害に陥る可能性や、そこに結びつく気質を持っている。発症したとたんに「キチガイ」「精神病患者」「精神障害者」というレッテルを貼られて共同体から阻害されて自らが生存できる環境が失われるのが人間の社会であるとしたら、「発症」はたいへんな恐怖の対象です。その恐怖が潜在的にあるからこそ、徹底的に忌避し差別をするのだろうということになります。

ここから先でやっと一般化、たとえば人種差別との比較が可能になります。たとえば自国がなんらかの形で侵略されたり、異民族が身近に存在する格好になった場合、まずその差別の意識される理由として極めて多いのはその他者を「野蛮人」と見なす傾向です。野蛮人であり、自分たちの(自覚あるいはうぬぼれとしての自己認識では)文明的で秩序ある共同体に対する脅威になるのではないか、という。最近やっと日本ではさすがに異民族のとくに男性を直接に性的な脅威としてみなす言動はなくなって来ましたが、一昔二昔前でいえば異民族に自民族の女を強姦されるとかの流言飛語は必ずといっていいほど飛び交うものでした。マルクーゼはそこに、社会的秩序の過剰な抑圧によって潜在意識に押し込められた差別する側の性的欲求不満の自己投影を見いだしたわけです。

強姦を含めた結婚などの社会的に正当化された性関係に属さない性的行為は、不道徳で社会を乱すものですから、文明的な社会では禁止されます。そんな邪悪な性欲など自分にはないと思い込んだ方がその社会の成員としてはうまくやっていけるわけです。しかし人間には誰にでも性欲は本当はあるはずで、その性欲は社会的秩序によって抑圧され、社会的秩序の一員として生活したいという欲求がその性欲をさらに潜在意識の奥底に押し込むわけです。しかしどんなに押し込んだところで、その性欲そのものは自分のなかに、自分が意識しまた社会的に演じようとしている表面的な人柄への脅威として、そこに存在しているわけです。その自分の潜在意識のうちにある恐怖の対象を、他者と認識される存在に投影して、恐怖の対象は無垢であるはずの自分や自分の共同体の外側にあるものとして認識するわけです。その恐怖が、ますます他者を激しく差別する方へと向かうわけです。

まだまだ「トラウマ」の問題だとか、いろいろ考察すべきことはあるのですが、だいたいこの話は始めたらキリがないわけですし、今日は疲れたんでここまで(笑)。

ただひとことだけ言っておけば、日本は60年代70年代の左翼運動でもなぜかフロイトやマルクーゼが理論支柱にならなかったし、「精神分析に行くのがまともなインテリのステータス」とまでは行かないまでも、病院の精神科と街角の精神分析医の区別すら社会的にほとんど認識されていないことなど、あまりにも人間の精神の病理に対するアレルギーがあり過ぎる気がします。結果として僕の専門分野である映画でいえば、溝口健二とか黒沢明の作品分析で欧米の方がよほどディープな分析が出て来てしまっているようなことになったりしてしまっていて、まぁ困ったもんだなぁ。と。

あと「トラウマ」って言葉はまったく誤解されてますね。自分でその恐怖の記憶があるのなら、それは定義上トラウマじゃないって。なにか悲劇が起こったときにそれを忘れさせようとする「心のケア」は、かえって症状を悪化させるんだって。