35129 | 返信 | Re:首相の靖国神社参拝に反対する | URL | 水原文人 | 2005/05/16 23:47 | |
inti-solさん… > けれども靖国神社が最初から、戦死者を祀るための神社として明治政府が建立した、つまり戦争と不可分の存在なのに対して、 そりゃ軍神(戦争の神様)である全国の八幡宮にしても同じでございます。ちなみに八幡様が戦争の神様であるのも、日本の朝鮮半島への進出/侵略と深〜い関係がありまして。 > 伊勢神宮は天皇制イデオロギーが日本の国教となる以前から存在し、もちろん戦死者を祀るという目的で建立されたわけでもない。 神道と結びついた天皇制それ自体は過去1000年以上、日本の「国教」ですが… > 要するに、問題は感じるといっても問題を感じるものすべての排除を要求するわけには行かない、どこかに線引きが必要だ、ということです。 ええ。その線引きが妙だと言うております。 > > なんだか「資質」の問題云々の当初の議論の論点からずれまくっている感もなきにしもあらずですが、「行けば確実に後始末不能の状況」になるとは必ずしも僕は思いませんし、 > > いいえ、ことここに至っては、行けば後始末不能の状況になります。 そりゃ「靖国神社」と「靖国への参拝」と「小泉首相の靖国参拝」がごっちゃになっておりますがな… > より正確な言い方をするならば、他の点−つまり侵略戦争への総括、個人補償、教科書問題、閣僚の舌禍・・・・・・・・・といった問題が積み重なったその上に象徴として靖国問題がある。本来的には靖国の問題が日中間の最大の対立点ではないと思います。ですから、土台の部分をきちんと清算できれば、靖国神社参拝など大した問題ではなくなるでしょう。しかし小泉にそれができるとは思えないのです。 だから「靖国参拝」それ自体が首相としての資質を左右する、とは言えんでしょうが…。要するにそういう踏み絵的なレッテル貼りはやめましょう、と私は言ってるんですけどね。 > > また「確実に後始末不能の状況」になるのが日本側だけの責任かと言えばそれは違うでしょう。 > > もちろん、反日暴動は中国側にも重大な問題と責任があります。日中間の問題は戦争の清算だけではありません。尖閣諸島を巡る問題のように、日本側に非があるとは思えない部分もある。 で、たとえばその尖閣諸島を巡る問題や、台湾問題で日本を牽制するために、中国が最も使い易い「靖国カード」を使ってる面は否定できませんよね。それに国連改革問題でも(そりゃ自分が拒否権を持っているのに、常任理事国が増えることは明らかに中国の国家エゴには反する)。 > しかし、小泉が靖国に行く、行かないということに関しては、決定権は中国にはない。日本に、というか首相一人にしかない。 あの…。問題がズレまくってます。そもそも靖国に参拝するかどうかは本来日本の国内問題であり、侵略戦争についてどう反省するかも日本人の問題なんですから、中国がそこに自国の国家主義的なエゴの都合を押し付けることはおかしいといえばおかしい。 > ですから、ありがたみを感じるか感じないかは人それぞれじゃないんでしょうか。 …ですよ。当たり前じゃないですか。だからパブリックな立場ではなるべく広い選択肢を残しておくのが、他人様の「人それぞれ」を尊重するのにふさわしい態度でしょ? > 慰霊が特定の宗派の形式に従って行われるものである場合、それ以外の宗派の信者にとっては、やはりありがたみは感じないでしょう。葬式は仏教、結婚式は神前、でもクリスマスも祝う、というようなごちゃ混ぜ宗教信者の平均的日本人なら、特定の宗派の形式に則っていても、無宗教でも、どちらでもオッケーかもしれません。 あのぉ…。無宗教でもオッケーであればわざわざ葬式は仏教、結婚式はキリスト教、お宮参りと初詣と合格祈願は神道、なんてことはないでしょうが…。無宗教の方が安い上がりなのに皆さんちゃんと宗教的儀礼を求めるのはなぜかって言えば(以下略)。 > > ですからそれは「靖国神社」がやってることであって、政府が主導している状態ではないんですが。 > > 説明不足でした。これは戦時中の日本のことを言っております。つまりね靖国神社が建立されて以来1945年8月15日までは、「生者の目先の政治的な都合を死者に優先させ」るための施設そのものだったんじゃないか、ということです。 ほぼ明らかに違いますね。元々は戦争で戦死した人を祀る自然な感情から出て来たものでしょう。 > > 首相である小泉という個人が自分の意志で参拝することについては、その動機の不純さは彼の場合は批判しますけど、その行為自体を否定する権限や資格は僕にはない、と言っているわけなんですが。 > > 内閣総理大臣に「個人」などというものがあるわけがないと思います。 あの…。「個人」であってくれないと間接民主制の意味がなくなりますが…。 > > 「本当は死にたくなかった」からこそ祀る必要性が出て来ると考えた方が、むしろ自然です。 > > 本当は死にたくなかったものを「名誉の戦死」とか「英霊」とかと美化して祀ることは、当時の国家にとっては「必要なこと」だったでしょうね。しかし本人たちはどうだったでしょう。 本人は死んでますから関知のしようがありませんが、当時の遺族の多くにとっても明らかに「必要なこと」でしょう。 > > お寺さんで柏手を打つのは単に文化を知らない無知な輩だけでしょう(苦笑)。 > > だとしたら、日本人は「文化を知らない無知な輩」だらけです。お寺で柏手を打つ人は、かなりよく見かけます。 そりゃ現代の日本人が仏教と神道の形式上の違いすら知らないほど、自分たちの文化について無知だからでしょうに… > もちろん、それは厳密に言えば間違いです。しかし許容されているのではないでしょうか。 日本では宗教も歴史的伝統も軽んじられてますからね。 > > そして実際の多くの参拝者にとっての靖国の機能もまた、少なくとも戦後は明らかに「悲しいけれど、靖国に神として祀られることはせめてもの慰めになる」というレベルの問題であり、遺族の会などが靖国に政治家が詣でることを求めるのも明らかにその程度の感情(つまり、無駄死にとかではなかったことを保証して欲しい、というようなこと)でしょう。 > > この部分については、今回の議論とは別に考えなくてはならないテーマだと思っています。というわけで、改めて別に検討したい。(時間がないけど) あのぉ…。私は今回の議論でこのテーマしか主張してないんですけど? 芥屋さん、告天子さんも同様ですが。今までなにを議論して来たんでしょうか私たちは。 > > それを判断するのは個々人の倫理であり良心、ならびに現実的判断力であって、他人が介入することではありませんが。 > > 首相という立場の人間がとういう「現実的判断力」をもっているのか、というのは首相個人の問題では済みません。 首相の職にある人間の個人的な能力の問題ですよ。その能力がないとみなすなら、落選させりゃいいのが間接民主主義です。 > 「現実的判断力」によってどういう判断をして、その結果どういう事態を招いたか、それについて首相という立場の人間は国民の批判を浴びなければなりません。 だから首相を批判して落選させればいいことでしょう。 > > > これだけ世界の注目を浴びている中で首相が靖国神社に行くのは、すでに個人の私的な行為ではありません。 > > > > そこがおかしいし、全体主義なんですよね。 > > なぜですか? 文字通り全体主義だからです(苦笑)。 > 小泉は、総裁選で靖国神社に公式参拝することを公約にしました。「私的な行為」を公約にする人がどこにいますか?そして、その実際に参拝することで公約を半分実行したわけです。(半分というのは、「公式」ということを明言しなかったから) > いったいどこが私的な行為ですか。 誰が「私的」な行為だなんて言ったんですか? パブリック・パーソンが個人として行った行為だと言ってるんですけど? パブリック・パーソンが衆人環視の場所でやることがパブリックになるのは当たり前でしょう。 > > パブリック・パーソンなんですからパブリックな行為になるのは当たり前ですけど、パブリック・パーソンにだって…というよりパブリック・パーソンであればあるほど、自らの思想信条は明確に表明すべきですね。 > > 「パブリック・パーソン」が表明した思想信条の中身が評論や批判の対象になるのは当然のことだと思います。 そうですよ。だからそれだけを議論すればいいのに、靖国神社それ自体を持ち出すから「そりゃ政教分離に反するでしょう」って言ってるんですけど。 |
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