井庭崇 (1997年)
第6回学生・通信情報論文 第1位, 電通国際情報サービス, 1996
サイバーネイティブと近代社会システムとの衝突
軍事情報や学術ネットワークからはじまったインターネットや、 草の根のパソコン通信の側から眺めてみると、 現在のインターネット依存の社会的動向は異常な侵略に見えるかもれない。
はじめは、現実とは異なるサイバー文化が花開いた仮想未開社会であったものが、 コロンブスによるアメリカ大陸の発見後の歴史を見るかのように、近代社会に急激に
そして強引に吸収されつつあるといえる。 そんな中、サイバーネイティブたちの文化と社会システムとしての規則が衝突しているのである。 それゆえ、私たちは、サイバースペースの将来ビジョンを、感情論を越えた議論によって探っていかなければならない。
本論文では、サイバーポルノを巡る対立を例に現在のインターネットの表現と規制の 問題を考え、「ネットワークは多様性を認めるべきである」ということを主張したい。
そして、表現規制の代替手段として「情報ラベル」と「フィルタリング」について 提案する。 また、現在のインターネットを「セミパブリック・ネットワーク」として個人・組織の規制の少ない表現の場として利用し、新たにセキュリティの固い「ビジネス・ネットワーク」を構築することによって、ネットワークを二重化することを提案する。
サイバースペースの広義のセキュリティ問題
ネットワークが社会インフラとして成立するためには、 インターネット性善説のような楽観的なものではなく、 あらゆるリスクに対する様々なセキュリティが保障されなければならない。
ネットワークのセキュリティには大きく分けて以下の2つがあげられる。
ポルノグラフィをはじめとする表現の自由と検閲の問題が最近議論にのぼっている。 国あるいは宗教によって表現内容と規制基準は様々であるが、サイバースペースには
税関は存在しないため、国際通信回線の上をビット情報として流入するサイバーポル ノに対して規制することは法的にも技術的にも難しい。
1995年、「TIME」誌が「インターネットの画像の80何%はポルノだ」[1] と書いたため、 子供が見る可能性があるとして、大きな社会的衝撃となった。
しかしその1年後、Newsweekは 「『サイバーポルノ』問題にマスコミは大騒ぎだが、インターネットに流れる 情報の流通の中でポルノは5%にすぎない」[2]
と報道しており、マスコミによるセンセーショナルな情報に踊らされ、 議論の中にも感情論が多いことが問題をややこしくしている。
サイバーポルノの議論をするときには、子供への教育の視点だけでは 明らかにファシズム的な強引さが付きまとってしまう。 第一、日本一のアクセス数を誇るといわれた、風俗をテーマにしたページ「TokyoTopless」に1日に90万件を越えるアクセスがあったという事実を、どう捉えればいいのだろうか。[5]
それでけでなく、国内でもアクセスランキングの上位を占めているのがアダルト ページである現実を考えると、子供への影響という視点だけでそれを排除すること を、私たちはどう正当化できるのであろうか。
1996年1月ドイツ・テレコムは、ホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)はなかったとする 説を主張するサイトへのアクセスを切断した。 このサイトの所有者であるネオナチ活動家エルンスト・ツンデルはカナダに住でおり、
ドイツでは違法にあたるからといって、切断をした選択は正しかったといえるのだろ うか。[2]
また、アメリカ・オンラインは、フェミニストの議論フォーラムのいくつかを 締め出したことがあった。 広報担当者の話だと、「girl」という言葉をフォーラムの見つけた未成年者が
「バービー人形の情報をまちがって探しにいく」恐れのないように、 ということだが、これは明らかに行き過ぎの行為ではないだろうか。
一体、ある一部の人々の判断で、多くの人々がアクセスできる情報源を制限すると いうことは許されることなのだろうか。 もし、ドイツが他国で提供される情報の中身に口出しできるのなら、イラクや中国が
意見の相違を訴えて来たら、指定された情報をネットワークから排除するのだろうか。 また、各宗教の主張が違うからといって宗教に関する話題はネットワークに載せるこ
とができないのだろうか。政治に関しても同様に異なる立場を考慮して触れてはいけ ないのだろうか。
現在インターネット利用者は世界160ヶ国6000万人にのぼるとされており、 さまざまな集団が自らの価値観や信条、利益を守るために、 一度異なった意見を排除することを許してしまうと、ほとんどすべての
ものが排除されることになり、ネットワークはより無難で平凡な情報しか残らなく なってしまう。
私は、インターネットに規制や現実社会のルールを適用しようとしているのを見てい ると、ネットワークの特性を見誤っていると感じてしまう。 なぜならネットワーク全体が均質化してしまってはネットワークの意味がないので
あって、多様なものが混在してつながっていることが重要だからである。 むしろ各ノードの多様性やそれらの差異こそが、ネットワークに流れる情報をつくっ ているとも言える。
ネットワークはノンリニア(非線形)であり、質的に異なるさまざまな位相をもっている はずである。 しかし、それを一元的でリニアな評価基準で規制してしまっては、
ネットワークの存在意義そのものを否定することになってしまう。
また、サイバネティクスの分野では「多様性を許すのは多様な環境のみ」ということがいわれている。つまり、多様な価値観を反映させるためには多様性を認めるようなネットワークのルールがなければならないのである。
これらサイバースペース上での表現に関する問題は、 結局のところ「サイバースペースはプライベートでありパブリックでもある」 という特殊な性質をどう捉えるか、ということに帰着される。
インターネットが登場する以前は、個人が情報を発信することが困難だったため、 いろいろな考えや想像が個人の頭の中だけで留まっていた。 つまり、どんなすごい欲望や妄想を抱こうとも、それが自分の頭の中だけの
パーソナルなものであったために、問題は生じなかった。 ところが、サイバースペースという、想像の世界を共有するインターパーソナルな 空間においては、他人の頭脳とも連結されているために問題が生じる。
そこに社会を成立させようとし、社会的ルールを適用するとなると、そこに コンフリクトが生まれてくるのである。
私たちは今、インターネットを、 人間の思考(脳)の延長としての共有空間として位置付けるのか、 それとも現実社会のある地点と地点を結ぶだけのパイプとして位置付けるのか、
という選択を迫られている。
私は、インターネットは構造や歴史的背景を考えて、前者の想像共有空間として の機能を選ぶべきだと考えている。 そして、後者のビジネス用には、より安全で適した構造の新しいネットワークを構築
すべきであると考える。 自分が出した情報が人の裏庭を通っていくような構造 のインターネットで、安全なビジネスをすることは難しい。また、完全なプライバシー
を守るためには、現在の匿名性の強く、認証機能が甘いインターネットでは無理であ ろう。
インターネットは、アル・ゴアの言うところの情報スーパーハイウェイではない。 日本もそろそろ「NII = インターネット」という固定観念から脱却し、 ビジネスやプライバシー保護に耐え得る本格的な情報インフラストラクチャの
構築を目指すべきである。 そのためには、現在のネットワークの構造、プロトコルを根本から見直さなければな らないだろうし、日本列島を縦断する非常に太い回線を敷かなければならない。
そして現在のインターネットは、現実社会と構造を全く異なるインター パーソナルあるいはトランスプライベートの場と定義し、 より自由な発想へのコミュニケーション・ツールとして活用すべきである。
これは巨大なブレインストーミングであり、新しい価値観の創発が期待できるのでは ないだろうか。
情報の意味を理解する者が自分自身でしかあり得ない以上、 自分が(そして保護している子供が)どのような情報を受けとるかは各人が決めること である。 情報の受信はしばしば消極的な行為と思われがちであるが、広大な情報空間から自分の
欲しい情報を探すということは、積極的な行為なのである。 そして、同様に自分が見たくもないものは、積極的に切捨てていくことが必要である。 そのために、始めから見えないように設定したり、各人の価値観を反映させたりでき
るようなブラウザを開発すべきである。
ドメイン名の拡張子を100個に増やし、これを利用してポルノなども分類してしまおうというアイディアも提案されているが、これは必ずしも適切な方法とは言えない。
なぜなら、一つのマシンを複数の人間が使用し、各人が異なった種類の情報を載せて いるのが現状であるから、ドメイン名のついたマシン全体が一つの枠にとどまるはず
がないからである。
私は、その情報の一つ一つ、つまりWWWでいうならば、ページごと、またはパラグラフごとに、「情報ラベル」を付ける方法を提案したい。 そのラベルは、行政情報なら<label="gov">、ポルノならば
<label="xxx">、暴力的なものには<label="vio">のように、あらかじめ決められた ラベルをタグで指定できるようにする。もちろん、複数のラベル指定もできる。
これならば、ページ内の情報を書き換える度にラベルも検討し直し、容易に変更が 可能になる。そのラベル自体を検索の網にかけることによって、人々がたどり着く
ことも多くなるため、情報発信者のラベルづけのインセンティブにつながる。
そしてブラウザー側で、ラベルによってアクセスできないようにする制限が設定 できるようにしておく。これが「フィルタリング」機能である。 この設定のパスワードを親や教師が持っていれば、
子供が間違ってそのようなページに行きつくこともないであろう。 さらに親切にするならば、現在のページを読んでいる間にそのページ上のリンクを 先回りし、もしその先に制限されているラベルがあれば、そのリンクが自動的に
アクセス不能の色に変わるという機能をつければ、アクセス後拒否されるというス トレスを回避できる。
これらのラベルはより細かく分類することも可能であるから、100から500個くらいの ラベルを用意すれば、受信者の価値観によって見たくないものを見ずにすむように
なるだけでなく、ネットワーク上の情報の識別に用いることができるであろう。
結局、現実の社会そのものが矛盾や葛藤、意見の対立を抱えているのであるから、 それを解決しないで、サイバースペースでの問題にすり替えて排除したとしても、
本質的には問題は解決しない。 つまり異常なほど過剰なイノセントさで、ネットワークを無菌状態にしたからと いって、問題の本質が解決されるわけではないのである。
むしろそういった問題を解決するためのコミュニケーションツールが情報ネットワーク なのではないのだろうか。 問題解決のためには問題認識がまず行なわれなければならないのだから、
ネットワーク上で社会的な矛盾や対立に出会えるということは、問題解決の への第一歩を踏みだすことになるのである。
発見された問題は、インターネット上の電子ニュースグループやBBS(電子掲示板) で議論されたり、WWWページなどで意見を発表したりするだろう。 サイバースペースにおけるコミュニティは、地理的にも時間的にも解放されて、
共有の趣味や興味によってまとまることができるため、現実社会ではなかなか議論 できないマイナーなトピックでも扱うグループが出てくるのである。 つまり、現在のインターネットのは問題解決指向のネットワークなのであり、
現実社会のさびついた問題にメスをいれることができる唯一の世界的な``場'' なのである。
これからのネットワークは単にグローバルであることやリアルタイム性を追求してい るだけでは足りないのであって、新たなステージへの転換を求められているのである。
私は「セミパブリック・ネットワーク」と「ビジネス・ネットワーク」の二重構造 が、それに対する一つの答えであると確信している。