井庭崇 (1996年)
第13回高橋亀吉記念論文 最終選考ノミネート, 東洋経済新報社, 1996
はじめに
日本経済の高度成長期には、多くの人々の気持ちが縦の一つの方向に伸びていた とすると、現在の「豊かな」社会を求める時代は、多様性を重視した横に広がってい
く社会だと言える。 国際政治の面では冷戦が終結によって国際関係が激変し、 経済ではバブル経済がはじけて高度経済成長が終了し、 また技術の面では情報通信の技術革新が飛躍的に進んだ。
これらのエレメントを考慮に入れると、日本社会が重要な転換点を向かえている のは明らかである。
情報化の波が、政治や経済など社会システムを大きく変えることはよく言われている。 しかし、キーワードとなっている「マルチメディア」は実は社会に革命的な変化を
もたらしたりはしない。なぜなら、それは表現のインターフェースでしかないから である。それがビジネスになることは間違いないが、それが個人のライフスタイル
を変えることはあっても、社会システムを変えるほどのインパクトはない。 情報化が社会変革を起こす最も重要な点は「ネットワーキング」である。
真の情報化とは、政治や経済と並んで社会参加のもう一つの新しいチャネル をつくることである。 そしてこの真の情報化こそが、歪んでいる市場と腐敗政治という妥協のチャネル
でしか我々が社会参加できていない、という社会の根源的問題を突破するトリガー となり、あらたな社会のパラダイムを生み出すのである。
本論文では、まず問題の所在を明らかにし、その解決策となるチャネルである 情報ネットワーク上での社会コミュニケーションに焦点を当てる。 そして、来たるべく多様化社会について「多様な多様性の存在」というキーワードを
用いて社会変革への提言を行ないたい。
政策の目標は、多様性に対応するだけの複数の目的関数を最大化し、社会を構成す る人々の「豊かさ」を実現することである。 そのためには本来、国民の声をもとに政策決定をおこなっていかなければならない
はずである。しかし現状はそうなってはいない。 利害を踏まえて偽造された「国益」という巧妙な政治的レトリックによって国民の声 を代替し、政策決定を行なっているのである。
米国との差を縮めるという高度経済成長期の位置エネルギーが弱まり、 多様性を重視する広がりをもった社会が望まれている現在、 その方法を変更していないということは、政府の独裁とも言える重大な欠陥なので
ある。
特に日本の場合は「強過ぎる官僚」「弱過ぎる政治家」といわれるだけに 問題は深刻である。 政治家の意志決定ならば次の選挙で一応評価されることになるが、
実際の日本の政策決定は官僚主導で行なわれており、その意志決定について我々が評価 を下す手段は存在しない。 マスメディアは当初ジャーナリズムとしてそのような役割を果たしていたが、
巨大化するにつれ政府同様に声が届かなくなり、一部の人々の玩具と化してしまった。
すなわち現在の日本には、民主主義ならば通常そなわっているはずのものごとを変える ためのメカニズムが圧倒的に欠けているのである。 貨幣が経済の血液だとするならば情報は組織の血液と言え、正しく循環していない
現状は、日本が組織としてきちんと機能していないことの表れである。
このような硬直した社会システムを前にして、国民一人ひとりが働きかけることに 無力感を感じている。 まさにカレル・ヴァン・ウォルフレンの言う「シカタガナイ」の心理である。
さらに、日本は米国などに比べてビジョンがない。 ビジョンというものは国民の多様性を全体として覆い、 社会全体をその方向に動かす一体感とパワーを持っている。
米国があれほど国内に様々な社会問題を抱えながらも社会を維持できているのは、 その歪みを覆い隠すほどの大きな何かが存在するからではないだろうか。 それは、ほんの一握りのエリートが語る壮大なビジョンかもしれないし、
文化醸造機構としてのハリウッドが創り出すイリュージョンかもしれない。
どちらにしろ歴史的に見て、国際的にリーダーシップを持ち、豊かである国というもの は、政治か文化において魅力的なビジョンを絶えず創り出してきた。 日本はキャッチアップ型の社会であったために、新しい独自のビジョンを創造する
ことに不慣れなのは理解できるが、それならばなおさらその手法の探求に努めるべき ではないだろうか。
以上のような問題を、解決または促進させるものが、情報ネットワークによる 新しいチャネルの創造なのである。
豊かな社会とは、多様な選択を可能とする社会ではないだろうか。 もちろん「選択(choice)」できるものが多いほどいいが、 多様性の維持には膨大なコストがかかる。
従って日本全国の均一の多様性は不可能である。 つまり、平等という名のもとに北海道でも東京でも、四国でも、九州でも、 どこでもまったく同じ多様性が準備されている、そんな社会は到来しないということ
である。
そうではなく「多様な多様性の存在」とも言うべき状況になるだろう。 各地域の多様性の存在自体が多様であり、人々はその多様性を求めて 移動したり、社会参加によって多様性の幅を広げることもできる社会である。
米国があれだけ多くの人種や民族、文化を抱えながらなおも存続し得ているのは、 米国が1つの国という枠ではなく、合州国(United States)であるということから
説明できる。 ネバダ州は独自にカジノを奨励しているし、カリフォルニアでは人々の意見により、 増税よりも住民サービスの削減を選択したこともある。 またこのような仕組みの場合は、国レベルでは不可能な実験的な政策も実現できる。
例えば、難航はしているもののカリフォルニア州で可決されたゼロ・エミッション法 などの環境対策については、州や県によって産業構造が異なるため、 地方政府による個別の試みも効果的であろう。
これらの「多様な多様性の存在」する社会を作るために、 大きくわけて特に以下の3点、すなわち「情報ネットワーク」「移動可能性」 「分権化」という社会変革のアプローチを必要とする。
それぞれは密接な関わりを持っており、一つも欠けることは許されない。
移動可能性
日本の労働者は、残業や接待、接待ゴルフなどを含め 労働時間と付随する時間が あまりにも多い。この結果、会社での労働以外の社会参加、例えば政治的活動、 家族における役割、コミュニティへの参加、社会貢献活動(ボランティア)など を行なう時間や余裕がなくなってしまっている。 また転勤をした男性のうち3割から4割が単身赴任をしていることを考えると、 会社という存在が人々の生活をいかに束縛しているかがわかる。
終身雇用制や年功賃金制度などの日本的雇用慣行は、 労働者を「閉じ込め」ることによって、自社で教育した人的資本の流出を防ぐ という、極めて経済合理的な選択であった。 失業率や生産性から見ても、非常に良いパフォーマンスを示していた。 しかし高度成長期を終え、「豊かな」生活が求められている今、 「成長」というある一つの価値観によって支えられてきたこの形態も崩れつつあり、 また壊さなければならないであろう。
この日本的雇用慣行を別の角度から見てみると、 労働市場が市場としてほとんど機能していなかったことがわかる。 人的資本は一般の商品と違い、売れ残ってはいけないし、 地域や職種に大きく依存し固定化していたことに起因する。 また雇用者と労働者の間にほとんど情報が共有されておらず、 労働の百貨店があるわけではないので、このディスコミュニケーションの状態では 健全な取り引きが行なわれるわけもない。
その結果、転職や中途採用、女性の就職に関して、自由が奪われることになるのである 。
同時に、労働情報が流通する労働市場に不可欠なのが、 多様性を考慮に入れた評価システムの推進である。 従来の学歴や資格では、多様性や実際の能力の評価が正当にできない。 また教育改革も不可欠であるが、これは長期にわたる努力が必要であろう。
このように、人々が労働や地域からの不当な束縛から解放され、 移動が用意になることが重要である。
分権化
すでに触れたように多様性を維持するには、「多様な多様性の存在」が必要である。 現在は地方の独自性が必ずしも発揮できないようなメカニズムになっている。 分権化は、コンピュータネットワークの普及によって「可能となる」という 消極的なものではなく、より積極的に必要なことなのである。 首都移転も含めて一極集中に終止符を打つことが、アメニティの追求にも つながっていく。
情報ネットワーク
社会コミュニケーション・チャネルとして情報ネットワーク・インフラストラクチャ の構築が最重要であり急務である。 現在のインターネットでは、セキュリティにおいても情報伝送においても 将来を背負うには負荷が多過ぎる。 これはインターネット普及の精神と歴史にかかわることなのだが、これらの 獣道程度の細く頼りないネットワークに変わり、いわゆる次世代の太い 「ハイウェイ」が必要なのである。 日本列島を中心に太い回線で背骨を作り、そこからまた分散させていくことができるため、日本は米国にくらべ地理的に明らかに有利である。
まわりの世界がどんな仕組みで動いているのかを知らなければ、 それだけ犠牲者になりやすい。 正確な情報を持っている人は、対人関係で明らかに有利な立場にたてるからである。 人々が今社会の何が問題なのか、どこに向かっているのかをわかっていない という状態での民主主義はどこか歪んでいる。 よき市民であるために不可欠なのはよき情報なのである。
政府情報へのアクセスは多くの国で国民の権利となっているが、 実際問題として、たいていの場合煩雑でなかなか手に入らないものである。
政府情報を公開することによって、単に情報が手に入るというだけでなく、 政府と国民との間に緊張関係が生まれることも効果的に働くだろう。
これらの公開情報を元に、「影の政府」のようなものがどんどん登場してくる かもしれない。 「影の政府」は政権を持っていない政党や人々が、模擬政府のようなものをつくり、 自分たちなりの解決策を考え提案するというものであり、イギリスのものが特に有名 である。これは政府の政策に対する評価を与え、また日本の進路に対して大きな影響を 与えることになるだろう。
コンピュータの普及は、できればコンピュータに触りたくないという人々まで 強引に巻き込まれていく。 自分宛に来た電子メールの処理だけでも毎日貴重な時間をさかなければならないのに、 さらに他の人々が書いた膨大な量の文章をネットワークで見るのだろうか。
そういった問題を解決するためのサービスや技術が登場するであろう。 これらは、インフォ・リッチとインフォ・プアの格差拡大の問題をある程度 乗り越えられる。 それは情報に触れる時の「インターフェース・サービス」であると私は考えている。 情報を送受信するのに、何もコンピュータのキーボードを使わなければならない、 ということはない。 電話でオペレーターが対応してくれるサービスも考えられるし、 本やテレビなどで情報加工品も多くなるだろう。 政府情報やディスカッションの内容を知るために、必ずしも生データにアクセスする 必要はないのである。
また技術面でもエージェント技術の研究開発支援が重要である。 「エージェント」とは、自律性、社会性、反応性、自発性を持ったコンピュータ上の 次世代の知的主体である。 ネットワーク・エージェント(あるいはソフトウェア・エージェント)は、 電子秘書のようなものであり、自分の好みやニーズに合わせて情報を探してきて、 必要ならば加工もしてくれる。また電子メールの重要度のフィルタリングをしてくれ たりと、我々と情報とのパイプ役を果たしてくれるのである。
21世紀まであと4年である。 ちょうど、このミレニアムの転換点に大きな社会変革が行なわれるであろう。 この変化は、ただ眺めているだけでは、大きな混乱を招き社会崩壊につながりかねない。
そこでコーディネートしていくことが大切であり、そのためのビジョンが求められている。日本は特に、今までの固定化された社会から大きな流動化へと向かい、 社会としての能力が試されているときでもある。
最近、移動体通信の分野で、 どこの国で立ち上がるよりも早い形でデジタル通信を基礎としたPHS規格が 日本で生まれた。大都市での居住を前提とした、日本に適したものである。
このような日本独自の環境に適した社会づくりも重要であり、 国際的な協調による社会づくりと併せて、社会のビジョンを創り出していきたいもの である。その可能性を引き出すのが
情報ネットワークによる新しい社会コミュニケーションチャネルの構築なのである。