探究と方法/道具

2010.10.25 Monday 11:25
井庭 崇



物事を、自分で探究していく。

このことは、想像以上に難しい。



「自分で」というからには、他律的ではなく自律的に取り組まなければならない。

だから、「探究」はそのとき自分が持っている知識と経験から出発するしかない。

そして、そのたびごとに「考える」ことが求められる。



考えるなかで、今の自分では「到底 足りない」ということに気づくだろう。

こうして、探究の支援となるような「方法」や「道具」を身につけることになる。

むろん、方法や道具を習得し使いこなすのは、簡単なことではない。



そうこうしているうちに、人は方法や道具に飲み込まれてしまう。

「与えられた」方法や道具を、ただ盲目的に使うことになってしまうのだ。

こうなると、「探究する人」どころか、もはや「考えない人」である。



こういうとき、本人は「一生懸命考えている」つもりであるから厄介だ。

でも実際には、方法/道具を適合させる「接点」について考えているだけ。

ただ一点に注目するあまり、意義、経緯、限界への想像力を失っている。



そうならないためには、どうしたらいいのだろうか?



各人が十分気をつける ??? たしかに、それは必要なことではある。

それは重要で、必要なことではあるが、十分ではないだろう。

人間は、見えないものへの想像力をいとも簡単に失ってしまう生き物だから。



では、どうしたらいいのだろうか?



僕の考えは、こうだ。


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