創造社会における「参加」(内と外の融解)について考える

2012.06.16 Saturday 14:01
井庭 崇



この感覚は僕もとてもよくわかる。何かをつくっているとき、つまり創造においては、うまくいくとこういう状態になる。このことを、創造の観点からすると、創造に関与しているのは、人も世界もである。つまり、創造に取り組んでいて、それについて考えようとすると、社会的なレベルでの主体と客体というのは消えさり、一体化するということだ。

このように、バーマンのいう「参加」とは、人が何かにコミットする・行為するという意味ではない。そうではなく、自分と世界の境界があやふやになり、その区別がなくなる(区別が重要でなくなる、その区別が本質的ではなくなる)ことを意味している。参加とは、内と外の境界の融解のことなのである。


自分の経験を思い出して、イメージしてみてほしい。何かをつくることに没頭しているときのことを。真剣に何かをつくっているときのことを。そうやって没頭して何かをつくっているときは、いまつくっているものがカタチづくられ、成長していくことが、中心的な出来事となる。そのとき、その創造で起きていることこそが、主要な出来事になり、それ以外のことは周辺的な事柄になる。

このとき、つくり手である「自分」と、自分がいる「世界」の境界・区別は、二次的な問題になる。創造にのめり込むほど、自分と世界の境界・区別は意識されなくなる。違う言い方をすれば、自分と世界はコラボレーションしているのであり、創造の企ての共謀者となる。あるいは、こう言ってもいい。いまつくっているものが成長していくのは、「自分」を含む「世界」が作用しているからだ、と。

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