Creative Reading:『形の発見』(内田義彦)

2014.12.27 Saturday 21:53
井庭 崇



そして、次のような「伝統の継承」という話題も出ていた。

【内田】伝統の継承というのは…意図してではなくて結果として行われるもんだ。…先生を継承する場合でもそう。たとえばシューベルトとベートーヴェンの伝承関係でも、やっぱりそうだよね。…」
・・・
【内田】…ヴェートーヴェンが新しく創りつつあって一般世人なり音楽愛好者が認めていない音楽を継承する自覚に立ったとき、創造者シューベルトが意識するのは、ベートヴェンはこういう仕事をしたので、自分はそのうちでこういうところをとり、こういうところを否定して自分の仕事をするというふうではない。ベートーヴェンへの全面的傾倒であり、同時に、自分が音楽と思うものへの全面的没入―――その意味でベートーヴェン音楽の全面的否定―――なんだな、創造者シューベルトにあるのは。結果が、後から整理すると、ベートーヴェンという伝統の―――ある面がとられある面がすてられた―――追究になっている。……一代限りでの伝承のところをとってみても、伝承は先生の場合はこうで、自分の場合にはこうだ、と明確に区別してそのよきものを取るという意図的行為ではない。つまり全面的傾倒だな、作るのは他でもない自分だという自覚に立っての。全面的傾倒であるがゆえに、かえって個性的になる。ここまでは先生で、ここから変えなきゃいかんといったら、ほんとうに個性的なものはできないんじゃなかろうか。それが創造者の立場なんだ、一般に。
(p.60-61)


このことはすごくわかる。僕はニクラス・ルーマンとクリストファー・アレグザンダーをそれぞれかなり(僕なりに)忠実に継承していると考えているが(本気で)、その上でそれを突き詰めることで、二人の書いたものを突き抜けてしまった。ルーマンの方は社会のシステム理論を超えて創造のシステム理論を構築したという意味において、アレグザンダーの方は建築分野を超えて他分野への適用とシステム理論との接合という意味において。どちらの場合も、ルーマンやアレグザンダーを否定して乗り越えたのではなく、ルーマンやアレグザンダーを徹底したところ、そうなってしまったのだ。だから、奇妙な言い方になるが、僕は、ある意味では、ルーマン(の思考・著作)よりもルーマン的、アレグザンダー(の思考・著作)よりもアレグザンダー的という自負はある。全面的傾倒の結果、個性が出てしまうということは、そういうことだろう。

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