中動態で表されるべき「創造」(深い創造)

2021.02.13 Saturday 13:07
井庭 崇



「物語が何を求めているのかを聴き取るのが僕の仕事です」(村上春樹『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』)

「一旦決めて映画作りだすと、映画作ってるんじゃないですね。映画に作らされるようになるんです。」(宮崎駿『出発点 1979〜1996』)。


これを読むと、「創造」というものが受動態で表される事態のようにも見える。しかしながら、創造の思考・行為をしているなかで起きることについて言っているので、作家・芸術家は単なる受け身(受動)ではない。それは、能動的な面(つくろうという姿勢+思考+手を動かいて書いたり描いたり構築する)と受動的な面(物語の声を聴く、導かれる)という面を併せ持っている

つまり、「創造」というものを、能動/受動のフレーム(構造)で捉えることことに無理があるのではないか、と感じる。能動/受動ではうまく捉えられないような事態が「創造」ということなのだ。

そうだとすると、どう捉えればいいのか?

このような「創造」(深い創造)がどういうことなのかを捉える鍵は、能動/受動のフレームではなく、かつての能動/中動というフレームである、と僕は考えている。言語で言うと、中動態(middle voice)と呼ばれる態で表現されるものである。

「創造」(creation)とは、中動態で表される事態であって、それを無理に能動/受動のフレームで理解しようとするから、無理が生じていると考えることができるのではないか。

我々は現在、能動/受動 を対に考える言語・思考 に慣れ親しんでいる。「する/される」の対立である。

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