中動態で表されるべき「創造」(深い創造)

2021.02.13 Saturday 13:07
井庭 崇



creationに関して、ひとつ興味深い話がある。

西洋では、creationと言えば、その最大のものは、大文字のCで始まるCreation、すなわち、神による世界の創造(創生)である。

神は、自分を座として、世界の創造を行った。神を人のような主体と捉えると、世界は主体の外でつくられる。

しかしながら、スピノザの神の理解によれば、神は無限であり、限りがない(外部をもたない)ので、世界全体が神だということになる(國分功一郎『はじめてのスピノザ』など参照)。

そうやって中動態+スピノザで理解すれば、神は座となり世界を中動態として表されるべき出来事としての「創造」によって世界が立ち現れたと言えるのではなかろうか。これが中動態+スピノザでCreationを考えるときの、僕の捉え方である。

神の世界のCreationについては、森田亜紀が『芸術の中動態:受容/制作の基層』で興味深いことを指摘している。

「旧約聖書「創世記」の冒頭には、神が「光あれ」と言って光が出来たその後、「神は光を見てよしとされた」と書かれている。天地創造において、神は自らの創造したいちいちのものについて、それを見て「よし」とする。すべてをつくり終わった後にも神は「その造られたすべてのものを御覧になると、見よ、非常によかった」と述べたという。全知全能であるという神の定義からすれば、これは不思議な記述である。全能である以上、神は、意図したこと着想したことをそのまま実現することができる。こうつくろうと思った世界を、思った通り確実につくることができる。」(森田亜紀『芸術の中動態』)

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