中動態で表されるべき「創造」(深い創造)

2021.02.13 Saturday 13:07
井庭 崇



「どのような世界が出来上がるか、神はあらかじめ知っていたはずなのだ。それなのに神は、出来た世界をわざわざ目で見て確認し、「よし」と評価する。このことは、たとえ神においてであれ、実現に先立って頭に思い浮かべられていたものとそれが実現してできた実味の事物とのあいだに、区別があることを示唆する。創造によって現実に存在するようになったものには、創造主にとってすらあらためて目で見て「よし」と確認する必要や余地があるような、見ることによってはじめて捉えられる何事かがあるらしい。」(森田亜紀『芸術の中動態』)

「おそらくつくり手は、出来上がった作品を「見る」ことで、頭の中にあったことを超える何かが、今まで知らなかった何事かに出会うのだろう。」(森田亜紀『芸術の中動態』)


"万能"の神でさえ、「創造」(creation)とはそのような事態なのだ。創造とは、頭のなかで考えたことを外化するということではないのである。

それは、自分を座(場)として何かが生成するという出来事のことを言うのである。

これが、僕の、中動態で表されるべき「創造」の考えである。

創造は、能動/受動フレームでは正しく捉えることができず、どうしても中動態という物の見方を取らないと理解できない。「中動態」の捉え方でなければ、正しく捉えることができない事態である必然性と必要性が、そこにはある。

以上が、創造と中動態の関係として、僕が考えていることである。

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