2021.06.24 Thursday 22:31
井庭 崇
「本を読むことで、認識の手段としての概念装置を獲得する。これがかなめです。それも、-----概念装置が自分の眼に代わってものを見る手段に化けちゃわないで、自分の眼そのもののはたらきを補佐する手段として役立ちうるようなかたちで獲得することがかなめですから------認識手段としての概念装置を習うについても、単にこれをを覚える、配線図のリプリントみたいに筋がきを頭にたたきこんじゃ駄目です。組み立てながら、たえず自分の眼をはたらかせてその効果のほどを験してみながら、組み立て方・使い方を体得する。そういう操作をすることで、はじめて既成の概念装置も、自前の概念装置として役立ちましょう。」(内田義彦『読書と社会科学』)
「概念装置は、同じ自分の眼を補佐する装置であっても、物的装置とちがって、身体の外部ではなく内部にあるもの、自分の脳中に組み立てるものです。・・・一人一人、苦労して組立て作業をやらなければなりません。製品を調達するのではなく、自己製作をする。新しい概念装置を自分で開発する場合はもとよりのことですが、先人が作り上げて学界の共有財産になっている既製の概念装置をそのまま使う場合でも、それを自分の認識手段として使いこなすためには、組立て作業それ自体を、一、一この眼を働かせながらキチンと、ていねいにやって、自家薬籠中のものとしておかなければなりません。でないと、その概念装置は、知ってはいても、自分のこの眼でものを見る認識手段としては、役に立たない。その意味では、既製の概念装置の修得も、真にそれを自分の概念装置として獲得するためには、新しい概念装置の開発とまったく同じ種類の自主性と労苦がいる、ということを強調しておきたいと思います。概念装置はすべて、新旧を問わず自前でやらなければならない。で、心血をそそいで組立て作業をやる。やらざるを得ない。」(内田義彦『読書と社会科学』)
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