『ゼロ年代の想像力』(宇野常寛)

2008.07.28 Monday 23:50
井庭 崇



宇野さんによると、二〇〇一年前後、この「引きこもり」的なモードは弱まっているという。それは、アメリカ同時多発テロ、小泉政権における構造改革、「格差社会」意識の浸透などによって、「引きこもっている」だけでは、生き残れないという感覚が出てきたことによる。「ある種の『サヴァイヴ感』とも言うべき感覚が社会に広く共有されはじめた」(p.18)のだ。これが「新しい想像力」である。この想像力を象徴する代表的な作品が『バトル・ロワイアル』だ。「社会が『何もしてくれない』ことは徐々に当たり前のこと、前提として受け入れられるようになり、その前提の上でどう生きていくのか」(p.20)が問題になってきたといえる。

このような「古い想像力」から「新しい想像力」へのシフトに、日本の文化批評はまったく追いついていないというのが、この本の指摘だ。特に、現在の文化批評の代表的な存在である東浩紀への批判は手厳しい。

「東浩紀の九〇年代における活動の集大成的な著作『動物化するポストモダン』(二〇〇一/講談社現代新書)は批評の世界を大きく切り開くと同時に、大きな思考停止をもたらしている。」(p.36)

「『セカイ系』という言葉が発案されたのは二〇〇二年、インターネットのアニメ批評サイトでのことだったが、この時期既に『セカイ系』的想像力は時代遅れになりつつあったと言っていい。しかし『オタク第三世代』を中心に、消費者の急速な高齢化がはじまっていた美少女(ポルノ)ゲームや一部のライトノベルレーベルといった特定のジャンルでは、九〇年代的な想像力の残滓として『セカイ系』が生き残り続け、東浩紀はそれを『時代の先端の想像力』として紹介したのだ。そしてサブ・カルチャーに疎い批評の世界は、東浩紀の紹介を検証することなく受け入れ、かくして、既に耐用年数が切れた古いものが新しいものとして紹介され、本当に新しいものは紹介されず、この国の『批評』は完全に時代に追い抜かれたのである。」(p.31)


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