井庭崇のConcept Walk

新しい視点・新しい方法をつくる思索の旅

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哲学するということ:永井均『西田幾多郎』を読んで

哲学者 永井 均さんの『西田幾多郎:<絶対無>とは何か』なかで、哲学するということはどういうことか、ということについてのとても面白い発見的な部分があった。

この本の冒頭で、この本の位置付けについて書いている部分に、次のように書かれていた。面白い。

「解説書や入門書に意味があるのは、それがそこで独立に哲学をしている場合だけだと思う。それ以外の仕方で、哲学を伝えることはできないからである。独立に哲学をしているのだから---驚かれるかもしれないが---本書の内容は、実は西田幾多郎とは関係がない。正確にいえば、関係なくてもぜんぜんかまわない。いや、ものすごく関係がある、それどころか西田が言わんとしたことは本書で私が言ったようなことで、私は西田よりもうまくそれを言い当てている、という可能性はもちろある。いや、少なくとも私には西田がそう読めるし、そう読まないとさっぱり意味がわからない。しかし、ほんとうにそうであるかは、私にとってはじつはどうでもいい。西田幾多郎の実態がどうであれ、本書にはそれとは独立の哲学的意義がある。ここで述べられていることは、西田幾多郎という人物を離れて、名なしで剥き出しの哲学的議論として提示されても、それ自体で意味があると思う。それが、独立に哲学をしているということの意味である。
 独立に哲学をするなら西田はいらないのではないかと言われるなら、それはちがう。他人の哲学の解説がそれを使って自分の哲学をすることによってしかできないように、自分の哲学のほうも他人の哲学の力で引っ張ってもらわないと進めないという面があるからだ。私はこれまでウィトゲンシュタインとニーチェについても、解説書のようなものを書いたことがあるが、どちらの場合も、彼らに引っ張ってもらいながら、その勢いをかりて自分の哲学を勝手に進めさせてもらった。そして、そういう点で、西田幾多郎の「場所の哲学」は、彼らの哲学に劣らず、素晴らしいものなのである。」(p.7-8)

これは、自分がこれから考え書くときの参考にとてもなる。これまでわかっていることをベースに積み上げていく自然科学的な学問をかじったあとに、社会学や哲学にくると、つい、「誰々がこう言っている。ゆえに、そこから考えると、こう言える」ということで、自分の論を展開しがちになる。しかし、自然科学の場合と異なり、そのベースになっているものは、ある先行者のひとつの考えや見方にすぎないので、それを踏まえても、正しいとは限らない。僕が社会学的な研究を始めたときに学んだのはそのことだった。だからといって、先行研究を一切踏まえなくていいわけではない。

必要なのは、先人たちが「どのように考えたのか、それはなぜなのか」を踏まえ、自分が考える際の一つの仮設(仮説ではなく仮に設置する補助具)として用いるということだ。つまり、結論だけを利用・応用するのではなく、自分も同じように深く考えることが求められるのである。先行者が歩んだ同じ道を歩くときには、当然、その人と同じように内側から見て考えることになるので、結論としては、似たようなことになる。そのまま歩みを進めて、自分の考えたいことを考えてみる。そういう試みである。

その意味で、哲学では、そこで得られた結論ではなく、問いや視点、考え方を学ぶことが重要になる。
そのことを端的に見事に言葉にしてくれている文章に、僕は、ここで初めて出会ったように思う。「私は西田よりもうまくそれを言い当てている、という可能性はもちろある」という感覚は、僕も、ルーマンやアレグザンダーに対して感じたことがある。僕の場合は、ルーマンは、社会システム理論を社会学として読んだときではなく、創造システム理論をつくるときに、パレフレーズしながら読んだときが、ルーマンの問いや視点、考え方をなぞることで、最もルーマンを理解できたと感じた。アレグザンダーについても、建築ではなく行為のパターン・ランゲージとは何かということを考えたときや、無我の創造について考えるなかで、アレグザンダーの視点や彼の歩んだ道を辿り直す(しかし、別のことを発想するために)ということになり、もっともアレグザンダーを内側から理解し、彼よりもうまく説明できるのではないかという感覚をもった。

実際にそうできているかは別問題だが、ここで永井さんが言わんとしていることは、きわめて重要だ。つまり、自分が追い求めている問題について、哲学するために、先人の哲学の道をくぐり直す。それこそが重要なのだ。創造的読書(クリエイティブ・リーディング)の極みだと言えるだろう。

今後も、自分のなかで「誰々が言っているから・・・(正しい)」という安易な引用を避け、自らが哲学するために、読んでいきたい。そういう意味で、目が覚めるような素晴らしい文章だった。

それでは、自分が追い求めている問題というのはどういうものだろうか。別の箇所の脚注で、とても重要な視点を見つけた。哲学の天才とはどういうものか、ということを書いているが、これは、すなわち、哲学するとはどういうことか、ということである。

「実は、哲学は科学と違って非民主的な営みで、凡人は天才の並外れた技芸の前にただひれ伏すしかないという一面がある。ここで天才とは、並外れて頭がいいというようなことではなく、むしろ逆に、普通の人が即座に(あるいは最初から)分かってしまうことがなぜかどうしても分からず、しかも信じがたいほどあきらめが悪く、執拗にその理路を問い続ける一種の化け物のことである。・・・こう規定するなら、西田幾多郎が大天才(超弩級の哲学的な化け物)であったことは疑う余地がない。」(p.69)

僕が、哲学の本を読むとき、多くの場合、あまり楽しめないのは、まさに、この点に関係していると思った。哲学者たちが問題としている論点にあまり興味が湧かないのである。実のところ、永井さんの<私>の問題についても、永井さんにとってかなり重要であることはよく理解できるが、僕自身はその問題に惹かれない。だから、ほとんどついていけなくて理解できない。そういうものなのだろう。
そう考えると、僕は何に(他の人よりも)こだわり続けているのだろうか。それが研究の根本的なテーマであろう。
いま思うのは、僕が、ずっと興味をもっているのは、「新しい発想はいかに生まれるのか」「創造的であることはいかにして可能か」「生きているとはどういうことか」ということである。これは、高校生のときに、オセロ・ゲームのプログラミングをしたときに、どうしたら、対戦相手の人工知能が強くなるのかを考えたときや、詩を自動生成するコンピュータ・プログラムをつくったとき、チャットで会話できるボット(コンピュータ上の人工知能)をつくったとき、そして、コンピュータ・シミュレーション上で人工生命をつくったときや社会シミュレーションをつくったときに原点がある。どれだけ仕込んでも、「なんだ、ぜんぜん賢くならないな」「結局、これを面白いと楽しめる人間の方がすごいな」「シミュレーション上だと新しい進化も、イノベーションも、当然、起きないんだな」ということなどを実感したからだ。

それでは、一体、新しい発想はいかに生まれるのだろうか?創造的であることはいかにして可能なのだろうか?生きているとはどういうことなのだろうか? これが僕の学問的探究の根本にある(ニューラルネットワークの研究をしていた僕は、「それは脳がすごいから」という説明ももの足りないと思い、そこでどういうことが起きると創造的になるのかの原理の方が知りたくなった)。

その点に執拗なまでに興味をもち、そのことのまわりで手を変え品を変え、取り組んでいる。そういうことなのだ。

永井さんのこの箇所を読んで、今後、僕がどういう道に進むべきなのかも、非常にクリアになったと思う。他の人は当たり前に理解し、特段それほど注意を払わないことで、僕が異常に気になってしまうこと、そのことに専念して進んでいくのがよいのだろう。

そういうテーマに触れるときだけ、哲学できるのだろう。先人たちの辿った道も、結果だけ利用させてもらおうという意識ではなく、もう一度追体験するようなかたちで内側から理解し、活かす。その感覚を大切にしながら、これからも研究していきたい。


『西田幾多郎:<絶対無>とは何か』(永井 均, NHK出版, 2006)

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SFCについての熱い言葉たち

SFCを創設した方々のSFCについての熱い言葉を振り返ると、その当時のコンセプトはまだまだ古びていないし、かつ、僕らにはもっともっとやるべきことがあると感じる。そのなかでも僕がいまでもパワーをもらい刺激を受ける言葉たちを紹介したい。


  • (『総合政策学部』設置の要旨と構成)「ここでいう”総合”は単なる既存知識の寄せ集めということではなくて、政策が本来もつべき性質としての総合という意味であり、『政策学』はその意味での新しい学問体系の確立を目指すものである。」(慶應義塾年鑑・別冊, 大学教育委員会, 1995)


  • 「今日の社会科学の大半は、一九世紀思想の産物である。…要するに、個々のいわゆる学問分野が着々と制度化されていく過程は、前世紀にはじまったことであって、それ以降のことにすぎないのである。…学問分野の個別化を抑制し、理論と方法論を刷新するためには大学システムの再編成が急務である。」(加藤寛, 『教育改革論』, 1996)


  • 「知の再編成:…藤沢キャンパスでは…近代西欧が生み出した、「観照の知」、「分析の知」にあえて挑戦し、主体と客体が互いに変化する中で、問題を発見し、解決し、デザインする、「行動の知」を追求するのである。」(加藤 寛, 『慶應湘南藤沢キャンパスの挑戦』, 1992)


  • 価値前提なき社会科学は空虚である」(加藤 寛, 中村 まづる, 『総合政策学への招待』, 1994)


  • 「政策判断は、総合的視点なくしては分析し判断することは不可能である。近代科学から排除されていた価値前提を復権させることが、政策の総合的判断を可能にするのである。」(加藤 寛, 1994)


  • 「SFC開設の背景としては、そうするとこれから21 世紀をつくっていくのを慶應の中につくり出さなけりゃいけない。さまざまな難問がある。で、しかもそこで要請され期待される新しい知と⽅法は何なんだろう? 従来の個別科学ではない。…湘南藤沢キャンパスは、⼈間として、⽇本⼈として、21世紀・22世紀に向かって、今までとは違うかたちで⾃⼰の存在の証を⽴てるのはどうしたらよいかってことなんです。これが新しい知と⽅法の創造なんです。これをしようとしている。」(井関 利明, 授業講演, 2008)


  • 「だから、やっぱり、藤沢みたいなところのもともとの考え方は、従来の考え方とは違うんだよ、ね。古い学問やるんなら三田に来てやったらいい。だけど、あそこでは新しいメソドロジーで学問を展開しようという野心があったんだな。」(石川 忠雄, 映像「SFCキャンパス革命」, 2000)


  • 未来からの留学生」 「ミネルヴァの梟(ふくろう)」(加藤 寛, 1990, 1994)


  • 「(SFC創設の)2年後くらいあとにその結果を見て、ちょっと失敗だったかなと思った。というのは、ものすごく成功したんですね。『我々の考えはかなり先進的だから、わかるまで5年はかかる』と思っていました。ところが、ものすごく評判がよくなって、『こんなにも早わかりされるコンセプトは安かったな』 『もう少し長めでよかった』と思った」(高橋 潤二郎, 授業講演, 2009)


  • (政策・メディア研究科の創設時 1994)「新大学院構想委員会に期待された基本的な目標は、『今後の変化する社会において、「社会変革と自己変革を連動させることのできる競争力のある個人」を生み出す』ことは、いかにして可能なのか、そしてそれを保証する制度としての新大学院とは何かを追求することだった。」(孫福 弘, 小島 朋之, 熊坂 賢次 編著, 『未来を創る大学』, 2004)


  • 「SFCは、そこで実践されることが研究であれ教育であれ、つねに「先端性」にいさぎよく徹することこそ、SFCの使命であると確信しています。「実験する精神」で未知の領域に果敢に挑戦することにこそ、SFCの使命があると思います。またかつてのように、あらゆる意味で境界が明確であった二〇世紀的社会では、学問的なディシプリンに典型的にみられるように、分化と統合という方法が妥当有効であったのでしょう。しかし、今すでに展開されつつあるすべての境界が曖昧なネットワーク環境にあっては、新しい方法への模索が開始されなければならないはずです。ここでは先端性と表裏の関係として、融合という方法が価値あるものだと思います。」(SFC21世紀グランドデザイン素案 (2002) by 小島 朋之, 熊坂 賢次, 徳田 英幸,『未来を創る大学』, 2004所収)


  • 「SFCっていうのは、実に遠⼤なる⼀つの計画と願いのもとにつくられたんだよ。あの時代の背景の中でね。混迷する時代の中で。混乱と混迷は今なお続いています。だから、その意味での新しい学問をつくり、新しい学部をつくり、新しい⼤学をつくるための条件が失われたとは思わない。」(井関 利明, 2008)


  • 「SFCはこれからも、『未来を創る大学』として挑戦し続ける。」(『未来を創る大学』, 2004)



  • References
    加藤 寛, 『慶應湘南藤沢キャンパスの挑戦:きみたちは未来からの留学生』, 東洋経済新報社, 1992
    加藤 寛, 中村 まづる, 『総合政策学への招待』, 有斐閣, 1994
    慶應義塾年鑑・別冊 自己点検・評価 検討結果報告書, 「慶應義塾大学における改革とそれを推進した組織について」, 大学教育委員会, 1995
    孫福 弘, 小島 朋之, 熊坂 賢次, 『未来を創る大学:慶応義塾大学湘南藤沢キャンパス(SFC)挑戦の軌跡』, 慶應義塾大学出版会, 2004
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    Vision Cube: 未来の社会をかたちづくる「新しい学問」をつくる

    僕は、いま行なっているパターン・ランゲージの研究や社会システム理論 / 創造システム理論の研究を通じて、未来の社会をかたちづくる「新しい学問」をつくることに寄与したいと考えている。

    学生時代、当時できたばかりの慶應義塾大学SFC(湘南藤沢キャンパス)で学び、研究し、現在はここで教員をしている。SFCという既存学問分野にとらわれない研究・教育の場にいたからこそできる知と方法の探究を、さらに推し進めたい。

    未来の社会をつくる「新しい学問」とは、どのようなものだろうか。それを考えるために、ここでは次の3つの軸で構成される空間を考え、位置づけを試みたい。ここでは、この空間を「Vision Cube」と呼ぶことにしよう。

    以下、走り書きのようなかたちになってしまうが、いま考えていることをまとめておくことにしたい。

    (1) Academic-oriented ←→ Issue-oriented
    (2) 狭義の“科学” ←→ 事実/価値を不可分とする新しい学問
    (3) 個別学問分野(Discipline) ←→ 超領域的(Trans-disciplinary)

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    このVision Cubeのなかの黄色で書いた領域こそが、僕が取り組みたい、未来の社会をつくる「新しい学問」の領域である。それは、このCubeの位置付けでいうならば、「超領域的で、事実/価値を不可分とする新しい学問」である。それがどういうものであるかを示すために、それぞれの軸について紹介していく。


    まず最初に、(1) Academic-oriented ←→ Issue-oriented の軸から見ていこう。「学問体系の発展」に重心が置かれているのか、世の中のイシューからスタートして「実際の問題解決」が目的とされているのか、ということを表す軸である。 Issue-orientedというのは、現実問題の解決ということでSFCでもずっと言われてきたことである。多くの場合、いくつかの個別科学分野(ディシプリン)の協力によって「学際的」(Inter-disciplinary)に取り組まれることになる。Academic-orientedに行くほど、学問体系の発展のために研究がなされ、Issue-orientedに行くほど、問題を解決するということが優先される、という軸である。


    次の軸は、(2) 狭義の“科学” ←→ 事実/価値を不可分とする新しい学問 である。「狭義の“科学”」とは、一般に広くイメージされるいわゆる「科学」(サイエンス)のことだ。つまり、何らかの"客観的"なデータを用いて実証していくことで、何が「真」(true)であるかを明確化するという、近代的な科学観である。これに対し、「事実/価値を不可分とする新しい学問」とは、事実(真)と価値(善)は不可分である = 独立に決めることはできない、という立場をとる。

    近代の科学観しか知らなければ、奇妙に見える「事実/価値を不可分」という主張は、長い知の歴史や哲学的潮流から見れば、それほどおかしなことを言っているわけではない。もちろん、近代化以前に戻ろうという話ではない。狭く取り過ぎていた学問の境界を引き直そう、という話である。哲学におけるプラグマティズム(例えば、H・パトナム『事実/価値二分法の崩壊』)や、政策学の価値判断の不可分性の話に通じる。

    この点について、パターン・ランゲージを例に、もう少し論じておこう。パターン・ランゲージは、「狭義の“科学”」的な基準ではなく、「事実/価値を不可分とする」ことを重視している(井庭崇 編著『パターン・ランゲージ』第1章参照)。パターン・ランゲージのつくり手は、自らを透明な外部観察者・外部記述者として位置付けたりはしない。その代わりに、「何がよいことなのか」「どういうことがおすすめされるべきか」ということについて、自ら(自分たち)の価値判断をくぐらせる。多くの人がしているからといって、それがよいと思えない(おすすめできない)のであれば、それは共有すべきパターンにはならないだろう(パターンにはしないだろう)。逆に、少数の事例に見出されたものであっても、多くの人に知られるべきであると判断されれば、それはパターンになるだろう(パターンにするだろう)。

    このように、自ら(自分たち)の価値判断をくぐらせるということは、「狭義の“科学”」の立場から見れば、もろく危ないやり方に映るというのは理解できる。しかし、事実/価値は本来的に不可分であると考える立場からすれば、本来できないことをできるかのように振る舞うことの方が欺瞞であると思う。

    いまパターン・ランゲージについて述べてきたことをより理解するために、ノンフィクションのドキュメンタリー作品をつくるというメタファーを取り上げたい。ノンフィクションであるからには、何らかの「事実」に基づいて作品がつくられるのは当然である。しかし、その事実のどこをどのように表現して伝えるのかは、そのつくり手に委ねられている。より明確に言うならば、そのつくり手の価値をくぐらせることになる。それはネガティブなことではなく、それこそがドキュメンタリーのつくり手の力量であり、特徴となる。ドキュメンタリー作家は、透明な存在ではない。そうではなく、その作家の価値判断を通して取捨選択され、強弱がつけられている(このことは、すべてのマスメディアも同様である)。

    以上のように、パターン・ランゲージは、「狭義の“科学”」では行うことができない、「事実/価値を不可分とする新しい学問」を志向している。


    Vision Cubeの三つめの軸は、(3) 個別学問分野(Discipline) ←→ 超領域的(Trans-disciplinary) である。ここで、「学際的」(Inter-disciplinary)と「超領域的」(Trans-disciplinary)は異なるものである、という認識が重要である。

    学際的」(Inter-disciplinary)とは、個別学問分野(Discipline)の組み合わせを意味する。「国際的」(Inter-national)が、「国」(nation)の「際」(inter)という意味であるのと同じように、「学際的」(Inter-disciplinary)とは、「個別学問分野」(discipline)の「際」(inter)なのである。ここで注意が必要なのは、「学際的」(Inter-disciplinary)においては、個別学問分野(Discipline)の存在は前提とされ、また変わらず存在し続けるという点である。このことは、複数の個別学問分野(Discipline)をつなぐ「multi-disciplinary」と言ったところで同様である。

    これに対して、「超領域的」(Trans-disciplinary)というのは、個別学問分野(Discipline)を超えた領域を指している。哲学や数学、システム理論などはこのような超領域的な学問であり、パターン・ランゲージもここに位置すると僕は考えている。

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    この区別をしっかりと理解した上で、Vision Cubeに戻ると、先ほどよりも、軸の取り方の意味がよりわかると思う。「超領域的」(Trans-disciplinary)は軸の一方向になっているのに対して、「学際的」(Inter-disciplinary)は軸には正式には書かれていない。あくまでも、「Issue-oriented」に補足するかたちで添えられているにすぎない。

    また、よくよく見ると、Vision Cubeには、「モード1」「モード2」という言葉も添えられているのに気づくだろう。これは、マイケル・ギボンズが『現代社会と知のの創造』のモード論に対応している。そこでは、「Academic-oriented」かつ「個別学問分野」の従来の学問が「モード 1」と呼ばれ、「Issue-oriented」かつ「超領域的」な知の生産様式を「モード 2」と呼ばれている。

    ここでもう一度、Vision Cubeを載せておこう。

    VisionCube440.jpg


    (1) Academic-oriented ←→ Issue-oriented
    (2) 狭義の“科学” ←→ 事実/価値を不可分とする新しい学問
    (3) 個別学問分野(Discipline) ←→ 超領域的(Trans-disciplinary)

    この3つの軸で構成される空間において、黄色で描かれた領域が、僕の取り組みたい「新しい学問」ということになる。それが、「超領域的で、事実/価値を不可分とする新しい学問」である。

    (2)(3)は片側に寄ったかたちになるが、(1)の軸である「Academic-oriented」「Issue-oriented」は、どちらにもかかったかたちで領域が取られている。つまり、「Academic-oriented」でも「Issue-oriented」でもある得るということである。

    パターン・ランゲージを例にとると、「建築」「ソフトウェアデザイン」「学び」「プレゼンテーション」「企画」「料理」「認知症とともによりよく生きる」など、現実世界の個々の問題・課題ごとに、それを解決できるように研究・制作・実践していく。これはパターン・ランゲージの「Issue-oriented」な研究である。

    これに対して、パターン・ランゲージの「Academic-oriented」な研究もある。それは、方法論に関する研究であったり、哲学的な位置づけに関するものなどがここに当たる。つまり、パターン・ランゲージの学問体系を発展させる研究がここにあたる。


    パターン・ランゲージは、単なる知識共有のひとつの方法というふうに捉える人が多いかもしれないが、僕は、このような「超領域的で事実/価値を不可分とする新しい学問」のプラグマティックな実践であると考えている。そして、それこそが、社会や学問における縦割りの閉塞感を打ち破り、未来をのびやかにかたちづくる道だと、僕は信じている。

    SFCでこれからも、未来の社会をかたちづくる「新しい学問」をつくっていきたい。



    井庭 崇 編著, 中埜 博, 江渡 浩一郎, 中西 泰人, 竹中 平蔵, 羽生田 栄一, 『パターン・ランゲージ:創造的な未来をつくるための言語』, 慶應義塾大学出版会, 2013
    マイケル・ギボンズ, 『現代社会と知の創造:モード論とは何か』, 丸善, 1997
    ヒラリー・パトナム, 『事実/価値二分法の崩壊』, 法政大学出版局, 2011
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    「つくることによる学び」とそのための場所

    「生きる」とは、ただ同じことを繰り返すことではなく、自分の今とこれから、ひいては自分たちの今やこれからを「つくる」ことである。

    だからこそ、「生きる」ためには、「つくる」力が不可欠なのだ。

    つくる力の育成においては、これまでの教育では、基礎となる知識やスキルを学んだのちに、その「応用」として実践するという段階的な方法がとられてきた。

    しかし、変化が速く大きな時代にあっては、また、個人の価値観が多様化し、生き方の変更が自由な時代においては、基礎の習得ののちに応用という段階的方法が必ずしも適しているとは言えないだろう。

    そこで僕は、段階的方法とは異なる考え方に基づく方法として、最初から「つくる」実践に取り組む「なか」で、知識やスキルを身につけていく、という方法に注目してきた。そしてそれを「つくることによる学び」(learning by creating)と呼び、それこそが「創造的な学び」(creative learning)だと考えた。

    このような方法は、僕のいるSFCや、市川力さんのTCSなど、いくつかの学校教育でもすでに行われているものと重なる。

    そして、「つくることによる学び」は、学習の理論でいうと、経験学習(learning by doing)の、「つくる」(creating)に特化したものだと言うことができる。また、正統的周辺参加のなかの、最初から創造に直接的に関わるバージョンだと捉えることもできる。

    このような「つくる」力は、日々の実践のなかでも強化されるが、そのような実践の機会が適切なタイミング / 難易度で生じるとは限らない。しかも、学びよりも成果の方が優先されることが容易に想像できる。そこで、適切な機会を生み出し、学ぶことが許容される安全な、「つくる」力の育成の場が重要となる。

    これからの学校は、そのような「つくることによる学び」の場の提供というのが、中心的な役割になるだろう。これが、MOOCsなどオンラインコースがインターネットで提供される時代における学校の姿だと思う(もちろん「つくることによる学び」も一部はオンライン上で行われることになるだろう)。
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    「生き生きとした学び」を実現する教師の新しい役割=アーキテクトビルダー

    前回「生き生きとした学びの実現に向けて(アレグザンダーの文献から考える)」で書いたような「生き生きとした学び」を実現する教育においては、教師はどのような役割を担うのであろうか。その発想を得るため、再びアレグザンダーの『パタンランゲージによる住宅の建設』(C.アレグザンダー他著, 中埜博 監訳, 鹿島出版会, 1991, 原著1985)を紐解いて、考えていきたい。

    結論からいうと、「生き生きとした学び」を実現するためには、教師は、アレグザンダーのいう「アーキテクトビルダー」(Architect-Builder)になる必要がある。生き生きとした学びを実現するアーキテクトビルダーだ。

    私たちの思い描く生産プロセスには、新しい種類の職能人が不可欠です。それは、現代の建築家の職能と、請負業者の職能の両面を兼ね備えた人間です。(p.51)

    建築家(architect)と請負業者(constructor)の両方の面をもつとは、どういうことだろうか。

    今日の社会では、全く異なった二種類の人によって建物がつくられています。彼らは建設プロセスの中で全く別の役割を担当しています。一方は建物を設計する人、もう一方は施工する人、つまり建築家と請負業者です。
    私たちはこの分業、職能分離は全く間違ったものであり、この分業体制の中では健全な環境など創造できないと考えています。(p.52)

    このような分業ではなく、アーキテクトビルダーが必要なのだ。

    アーキテクトビルダーという統合された存在が、健全な環境をつくるという問題解決の場面で必ず必要になる (p.52)

    今回も、文章の「住宅」を「学び」に、「住宅生産」を「教育」と置き換え、「家族」と「人々」をともに「人々」=「学習者」と捉え、読み直してみてほしい。そしてここでは、「建築家」を「カリキュラムや学習内容を規定する人」、「請負業者」を「現場の教師」と置き換えてみよう。こうすることで、建築の分野の話として語られていることを、教育の分野を考えるためのアナロジーとして理解することができるだろう。

    さて、ここで確認していおきたいことがある。それは、学習者が自ら自分の学びをデザインし、生き生きとした学びを実現するというとき、教師がまったく不要になるというわけではない、ということである。

    自らの学びをデザインするというのは、そのコントロールの権利が学習者にあるということであって、独りっきりでデザインしなければならないという意味ではないからである。

    住宅生産プロセスの基本、おそらく最も大切なものは、家族が自分たちの手でレイアウトをしていくという原則です。これは、必ずしも家族のメンバーが施工のプロセスに労働者として携わるということではなく、どの家族も自分たちの環境を直接にコントロールする権利を持っているということです。(p.113)


    このように自らの学びをデザインする学習者を支援する教師は、新しい種類の役割を担うことになる。学びのアーキテクトビルダーとして、学習者と密に話し合いながら、学びの場をつくり続けていく。そういうことが求められているのだ。

    多様性を可能にする生産が基本になっていなければなりません。しかも、その多様性を許す生産は大きなスケールで可能でなければなりません。ですから、少なくともプロセスの上では何らかの統一が必要です。私たちの結論としては、プロセスに家族の多様性や独自性を入れ込みながら、実際にこの素晴らしい多様性を大規模な生産に不可欠である施工や工法の一貫性と何とか[なじませる]には、大規模に住宅を生産する力と個々の住宅を個性的で人間的に生み出す力とを結び合わせることのできる全く新しい種類の人間がいなければ不可能だということです。
    それは、全く新しい人間 新しい管理組織体であり、このような建設プロセスを支える新しい専門家です。[これこそ、アーキテクトビルダーという概念の具体的な姿です。](p.58-59)

    もちろん、このような統合は簡単なことではない。これまで担当してきたよりも、また、想定される範囲よりも広い範囲の多様性に応じる必要があり、しかも、個々人に合わせたかたちで成就させていくことが求められているのだ。難しいが、非常に重要な役割である。

    アーキテクトビルダーとは、単に小さなスケールで小じんまりと美しいものを手作りするような職人ではありません。そういう面とともに、何よりも彼は大規模なスケールでこのことを実現させるプロセスの中心的存在なのです。彼は新しい役割を持った人です。彼は非常に多くの住宅を生産する方法を扱うことができると同時に、小さな物の中に人間性を与えていく敏感さと繊細さを失わずに持っている人です。(p.59-60)

    従って、教員養成も、この能力を伸ばすかたちで行われなければならない。教育の仕組みだけでなく、教員要請の仕組みも変革が求められる。

    アレグザンダーのこの本には、別の箇所に、アーキテクトビルダーの役割について触れているところがある。

    アーキテクトビルダーの演じる様々な役割(パタンランゲージを教えること、人々が自分の住宅をデザインできるようにすること、さらに自分の住宅を施工できるようにすること、そして近隣全体としての漸進的な改善を助けること) (p.84)

    通常の場合には、その地域のアーキテクトビルダーが、その地域性に応じて、パタンを修正し洗練することになるはずです。 (p.98)

    これらを読むと、学びのアーキテクトビルダーが何をするのか、少しはイメージがつかみやすいかもしれない。

    最後に、アーキテクトビルダーの活動の規模感がわかる、具体的な数字が出ていたので、取り上げたい。

    どのアーキテクトビルダーも一度に二〇軒以上の住宅を扱うことはありません。けれども、彼は設計と施工の両方に全面的に責任を持ち、各住宅に固有のディテールまで立ち入って個々の家族と密接に関わりながら働きます。このように、この施工モデルでは設計と施工の両方が一つになると同時に、地域に分散、密着していきます。(p.60)


    僕の大学の研究室の指導学生の数とこれまでの経験を踏まえると、この数字は、学びのアーキテクトビルダーの話としても、結構いいラインではないかと思う。
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    生き生きとした学びの実現に向けて(アレグザンダーの文献から考える)

    クリストファー・アレグザンダーが近代の建築の生産システムについて語っている批判を読むにつけ、それはそのまま近代の教育システムにも当てはまると感じる。つまり、これは一分野の問題なのではなく、近代の問題なのだろう。

    ここに、『パタンランゲージによる住宅の建設』(C.アレグザンダー他著, 中埜博 監訳, 鹿島出版会, 1991, 原著1985)を読みながら考えたことを、(荒削りだが)覚え書きとして記しておくことにしよう。

    建築と教育の問題の同型性を考えるために重要となる箇所について、『パタンランゲージによる住宅の建設』から引用しながら話を進めたい。

    今日世界中にある住宅生産のシステムを考察してみると、そのほとんどに、人間社会に必要な二つの基本的な認識が欠落していることに気づきます。
    [ひとつは、すべての家族、すべての人間は唯一無二であるという認識であり、人間の尊厳を表し守っていくにはこの独自性が表現されなくてはならないということです。もうひとつは、すべての家族、すべての人々は社会の一部分であり、他の人々と協力するという結びつき、つまり社会の中での他の人との信頼関係を保てる場が必要だという認識です。]
    この二つの相補的な認識は、今日の住宅からはすっかり失われています。住宅は機械のように均質で判で押したようになり、様々な家族の個性を全く表現できていません。それは個性を抑圧し、家族にとっての素晴らしいもの、特別なものをすべて抑え込もうとしています。さらに、住宅は身近な地域コミュニティの基盤を人々に与えることにも失敗しています。(p.29)

    これは、住宅の生産について語っている文章だが、この文章の「住宅」を「学び」に、「住宅生産」を「教育」と置き換え、「家族」と「人々」をともに「人々」=「学習者」と捉え、読み直してみてほしい。
    まったく分野の違う話ではあるが、問題の構造が似ていると言えないだろうか。

    この部分だけでは、わかりにくいので、もう数カ所、取り上げよう。

    現代社会の住宅生産システムはあまりにも中央集権化されています。(p.35)

    もう少し具体的に言うと、現在の生産システムではほとんどの決定が全く「人間性を無視して」(at arm's length)なされていて、決定を下すのは結果とは無関係な人々だということです。建築家は全く面識のない人々に関する決定を下します。(p.37)

    ここでも「住宅生産」を「教育」だと置き換えてみてほしい。
    ちなみに、ここでいわれている「建築家」は、建設現場には来ない、設計図を書く人のことを指している。教育の場合には、現場の教師ではなく、教育方針を決める立場の人を指していると考えてもらうとよい。

    これに加え、それなりの質のものを大量生産するために、標準化されたユニットを組み合わせるという方式が一般的であると指摘する。

    今日の住宅生産の形態は、ほとんどが高度に繰り返し可能な「標準化された」住宅ユニットを用いるという考え方に依拠します。…これらすべての標準化は生産の「必要性」が生み出したことになっています。つまり、たくさんの量を低価格で生産するには、厳格な標準化が必要だと言うわけです。しかし、たとえ標準化が十分に進んだとしても、このプロセスは、決して多くはない数の住宅を非常に高い価格で、以前と同じように生産しているにすぎません。(p.117)

    このような理由から、そこに住む人たちに本当に合ったものなどつくれるはずがない、と考えたのだ。以上の問題意識から、アレグザンダーは住宅の新しい生産の仕組みを考え、提案したのである。

    そこで私たちは、このような遠くからのコントロールに替えて、家族自身がコントロールするプロセスを提案します。標準化された住宅ユニットという考え方ではなく、そこに住む家族が住宅(や集合住宅)をデザインするという考え方です。個々の住宅は家族独自の必要や性格に十分に対応するようにデザインされます。そうすれば、情感の面からみても、住宅は本当の生活の基盤、心のかよう場所、さらには家族が社会の中で独自の存在として根を下ろし、成長していく場所となるのです。(p.118)

    新しく住宅が建てられる時、その配置計画や基本的な構成は、開発業者や建設業者あるいは政府から出されるのではなく、そこに住む家族自らの手で生み出されるべきです。そうしてこそ、一つ一つの住宅がその家族独自の希望や夢を表すものになるのです。
    そのためには、家族がこのことを効果的に実現できるような、何らかのシステム化されたルールやパタンランゲージ、あるいは同様の使いやすい手段が必要です。(p.113)

    こうして、自分たちで自分たちの住宅の設計に関わることができるようにするためのパタン・ランゲージが開発されたのであった。

    僕らが作成した、ラーニング・パターン(創造的な学びのパターン・ランゲージ)は、学習者が自分たちで自分たちの学びをデザインすることができるようにするための手段である。

    これは、政府や委員会で決められた学習ユニットをこなすというやり方ではなく、自分らしいやり方で学びを実現いていくということがイメージされている。まさに、上で取り上げたアレグザンダーの考えと非常に近いということがわかる。

    以上の考察は、あくまでもアナロジーによる考察にすぎないが、むしろアナロジーであることを力にして、従来の教育改革のアプローチとはまったく異なるアプローチを見いだしていきたいと思っている。
    「研究」と「学び」について | - | -

    2011年度に僕が行った対談・鼎談の公開映像一覧

    今年もたくさんの対談・鼎談を行いました(おつきあいいただいたみなさん、ありがとうございました!)。

    その対談・鼎談のうち、SFC Global Campus(SFC-GC)のサイトで映像が公開されているものをリストアップしました。どなたでも無料でご覧になれますので、興味がある回があれば、ぜひどうぞ。リンクをクリックすると、ブラウザ上で映像再生が開始します。

    ■「“自分”から始まる学びの場のデザイン」
    (市川 力さん × 今村 久美さん × 井庭 崇 鼎談, 2011年5月21日, 3時間)
    → 鼎談映像 《前半》《後半》

    ■「学びと創造の場づくり」
    (中原 淳さん × 井庭 崇 対談, 2011年7月9日, 3時間)
    → 対談映像 《前半》《後半》

    ■「カオスの生成力」
    (合原 一幸先生 × 木本 圭子さん × 井庭崇 鼎談, 2011年11月5日, 3時間)
    → 鼎談映像 《前半》《後半》

    ■「社会を変える仕組みをつくる」
    (井上 英之さん × 中室 牧子さん × 井庭 崇 鼎談, 2011年11月12日, 3時間)
    → 鼎談映像 《前半》《後半》

    ■「内からのことばを生み出す」
    (山田 ズーニーさん × 井庭崇 対談, 2011年11月28日, 1時間半)
    対談映像

    ■「ユーザーエクスペリエンスデザイン」
    (長谷川 敦士 さん × 井庭崇 対談, 2011年12月12日, 1時間半)
    対談映像

    ■「デジタル・ファブリケーション、パターン・ランゲージ、複雑系」
    (田中 浩也 さん × 井庭崇 対談, 2011年12月13日&20日, 計3時間)
    → 対談映像 《前半》《後半》
    イベント・出版の告知と報告 | - | -

    探究型学習のためのパターン・ランゲージの制作(ブレスト→パターンの種)

    今日は、探究型学習をファシリテートするためのパターン・ランゲージをつくるため、東京コミュニティスクールの市川力先生にインタビューをし、実践知の抽出・記述を行った。朝10時半から夜10時半までの計12時間の充実のコラボレーションとなった。

    InquiryBasedLearningPatterns.jpg


    探究型学習のミッションをどのようにつくるのか、アクティビティはどのようにデザインするのか、子どもたち同士のコミュニケーションの連鎖をどのように誘発するのかなど、市川さんのコツと考え方についての語りを引き出していく。それが、僕の役目だ。

    特に、パターン・ランゲージとしてまとめることを想定して、語られたコツ(Solution)が、どのような問題(Problem)を解決しようとして行なっていることなのかや、どのような状況(Context)で使われるものなのか、について聞き出していく。ここが、パターン・ランゲージをつくるためのインタビューの重要なポイントである。

    実例やキーワードが出れば、それもホワイトボードに書いていく。さらに、僕もただ聞き手をしているのではなく、「これはこういう意味ですか?」とか「これとこれは関係していますね」というように、自分の気づきや考えをどんどん話す。それに市川さんが反応することで、さらに語りが引き出される。その結果、市川さん自身がこれまで意識しなかった暗黙的な意味・前提や、隠れた関係性・構造などが見えてくるようになる。

    そして、一通りコツと考え方の抽出・記述ができたら(ここまでで開始から7時間)、次はパターン・ランゲージの形式に当てはめながら、内容を詳細に詰めていった(これには5時間かかった)。

    記述された要素を振り返りながら、その要素はどのようなProblemのSolutionに関係するものか、を考えていく。具体的には、それぞれの要素が、Context、Problem、Forces、Solution、Actions、Consequences のどれに当たるのかを考え、必要であれば書き方を変え、また、足りない要素については補足していく。このような作業をすべての要素に対して行なっていく。

    その結果、今日は最終的には、14個のパターンにまとまった。それに、パターンの自然な順番を考え、番号をつける。これでとりあえず今日の作業は終了。この段階では、実は、パターンが15個ではなく14個でキリが悪いことと、一部のパターンの順番がイマイチだという違和感があった。

    その違和感は、この後の夕食の席で解決した。前者については、一番最初に導入パターン(No.0)を設けることにした(学習パターンのNo.0の機能と同様)。後者については、パターンの関係性を再考することで、新しいレイヤー構造を考えついた。これにより、パターンの順番と全体像がすっきりまとまった。

    このようにして、12時間におよぶ充実のコラボレーションとなった。次の作業は、今日得られた「パターンの種」を育て、文章によるパターン記述に落とし込んでいくというものだ。今日の記憶がフレッシュなうちにやりたいと思っている。
    パターン・ランゲージ | - | -

    その場の興奮や感動も伝える、生き生きとしたメール

    研究会の学生から、うれしいメールをもらった。


    別件のメールの最後に、卒論研究の分析途中の結果報告が2行と、画像が1枚。

    「きれいに描けたので、なんとなくお見せしたくなりました。」

    その一行が添えられた画像は、ヴィジュアル的にとても綺麗なグラフだった。


    おおおっ!

    僕もその図に感動した。

    そして、想像がバーーーッと広がった。


    そう、そうなんだよ。

    僕が求めている「生き生きしたメール」って、こういうメールのことなんだ!

    このことを、ぜひ研究会のメンバーにはわかってほしい。


    「すごいことを思いついた!」

    「データ分析の結果がうまく出た!」

    「うわぁ、 綺麗!」


    そういうことを思った瞬間に、その場で書くようなメール。


    そういうメールは、そのときの興奮や気持ちも一緒に乗せる。

    だから、離れた場所にいる読み手も、その空気を体感して感動できる。

    僕が研究会のメンバーに求めているのは、まさにこのような「生き生きとした」メールである。


    でも、現状は悲惨なもので、研究会ML(メーリングリスト)にはミーティング・ログと、僕が書いたメールへの返信しか流れてこない。

    ログは大切だけれども、それはあくまでも記録にすぎない。すでに死んだ情報だ。

    やりとりがあると言っても、そのほとんどは僕が投げたメール(主に要リプライのメール)への反応。みんなが起点になることはほとんど無い。


    そんな場が、面白いわけがない。

    官僚的で形骸化したコミュニケーション。

    死んでるML。

    これではあまりにも残念すぎる。


    2010年的のメディア環境で言えば、「その場その場の感動は、twitterで書いている」ということなのかもしれない。

    しかし、実際にそのようなものは書かれていないし、研究についてtwitterで書けることにも限界がある。

    だからこそ、MLをもっと活用してほしいと思っている。


    こう言えばわかりやすいかな。

    研究会MLをもっとtwitter感覚で使ってほしい。

    研究しているなかでの驚きやうれしさ(そして悲しみや怒りも)、気づきや興奮、そういうものをもっともっとリアルタイムにシェアしてほしい。


    僕は普段からそういうメール書いてるでしょ?

    こんなの見つけた!見て! とか。

    ああいう感じだよ。


    各メンバーの感動が(リアルにもヴァーチャルにも)渦巻いている組織。

    そういう組織こそが、生き生きとした創造的な成果を生み出すのだ、と僕は思う。
    「研究」と「学び」について | - | -

    竹中研ミニカンファレンス(研究成果発表会)に参加してきました。

    竹中平蔵研究会のミニカンファレンス(研究成果発表会)に参加してきた。

    カンファレンスは、竹中先生のこの恒例の言葉から始まった。


    研究と勉強は違う。

    研究は、誰も知らないことを明らかにすること。

    勉強は、自分が知らなかったことを知ること。

    だから、研究と勉強は全然違う。

    今日は、勉強の成果を発表する場ではなく、研究の成果を発表する場です。

    ぜひ知的な議論をしましょう!



    僕も竹中先生のこの言葉を継承し、自分の研究会などでよくこの話をしている。
    (この話については、以前のエントリ「研究と勉強の違い」も見てみてほしい。)

    MiniConference.jpg


    カンファレンスでは、各自の問題意識にもとづくテーマで、現状を把握し、計量分析が行なわれ、それを踏まえた政策提言がなされた。


    そのような研究成果が、丸一日かけて(実に朝9時から夕方5時まで!)、次々と披露された。

    発表者は、学部1年生から修士2年生まで。

    日々仲間と教え合い、切磋琢磨しながら、ここまできたのだろう。


    竹中研は今春から再開したので、3ヶ月前もしくは9ヶ月前にゼロから出発した研究ばかりだが、どれも力作ぞろいだった。

    OBやOGの鋭い質問やコメントにもしっかり答え、きちんとやりとりしていた。

    なかには英語での発表/質疑応答もあったが、そのやりとりも実に見事だった。


    みんな、立派だったよ。おつかれさま!


    ちなみに、竹中研のカンファレンスは、全員スーツで参加し、質問や応答にも「知的マナー」に則ったプロフェッショナルの対応が求められる(=言い訳しない/きちんと返す)。

    だから、カンファレンスはシャキっとしていて気持ちがいい。

    高い志をもって臨むからこそ、知的刺激に満ちたアカデミックな場が実現できる。


    この伝統についても、僕の研究会で引き継いで実践している。

    そんなわけで、研究テーマこそ違えど、井庭研の一部は、実は竹中研の伝統を受け継いでつくられているといっても過言ではない(それ以外の部分は、井庭研の学生たちと毎年試行錯誤を重ねながらつくってきたものだ)。

    さぁて、井庭研の最終発表会(1月末)も、楽しみになってきたぞ!
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