井庭崇のConcept Walk

新しい視点・新しい方法をつくる思索の旅

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ピュシスとロゴスのあいだ:「生」への道の言葉をつくるパターン・ランゲージ

西田幾多郎の哲学を活かしている(創造的な読み取りをしている)本の読書の第二弾として、『福岡伸一、西田哲学を読む:生命をめぐる思索の旅 動的平衡と絶対矛盾的自己同一』を読んだ。この本は、「動的平衡」の生物学者 福岡伸一さんが、西田幾多郎の哲学の研究者である池田善昭さんに西田哲学について教えてもらい、さらに動的平衡との相同性を語り合うという本である。今の僕にとても刺激的で発見的な本だった。

この本の中でもっとも今の僕に発見的だったのは、ロゴス(理性)とピュシス(自然)を対比し、ソクラテス・プラトン以降、西洋哲学がロゴスの側に依拠していたという話、そこからハイデガーにつながるあたりの話で、パターン・ランゲージがやろうとしていることの哲学的意義についての見通しが、一気に開けた。少し長くなるが、見事にわかりやすく語られているので、そのまま引用したい。

「古代ギリシアで、いまから二千数百年くらい前(紀元前六世紀〜五世紀ごろ)に、哲学らしき活動がイオニアという場所で誕生するんですけれども、その時代に活躍した人たちの中で、ヘラクレイトスなどは、Aに対するノンA(非A)というような相反するもののあり方の中に最も美しい調和がある、ということを唱えたわけです。
 「相反するものの中に美しい調和がある」とは、一見、とても理解しがたいことです。よくよく考えると、さらに理解しがたい。結局のところ、これは人間のロゴス(logos、「理性」の意)では理解ができなくて、ヘラクレイトスの時代においてさえ、ヘラクレイトスを正しく理解する人はほとんどいませんでした。
ヘラクレイトスの立場は、「ピュシス(physis、「自然」の意)の立場」と呼んでいいのですが、それと対になる言葉として、「ロゴスの立場」があります。
 ヘラクレイトスによれば、ピュシス(自然)は「隠れることを好む」とされ、常に隠されている存在なのですが、ロゴスの立場というのは、自然は完全に人間の理性の中で暴かれていて、その隠れなさゆえにすべてが理解し尽くせると考える立場です。人間の理性【ヌース】にとって矛盾して相反するものは、見ることも理解することもできないものであるから問題にする必要がないとして、ヘラクレイトスなどのピュシス的な立場から、人間の理性に合致するもの、隠れなく「見えているもの」の原型・模範のみを探求するロゴスの立場へと哲学が転換するのが、ソクラテス、プラトンの時代です。
 ソクラテス、プラトンの時代になると、イオニアの自然哲学というのは完全に忘れられてしまいます。そして、そのあとの西洋の歴史というものは、全部、ソクラテスとプラトンの影響下にあることになります。」(池田, p.39-40)

まず、ヘラクレイトスと、ソクラテス、プラトンの位置付けがピュシスとロゴスの対比でよくわかった。そこから、ハイデガーなどに話は展開していく。

「二〇世紀に活躍した哲学者、マルティン・ハイデガーはこのことを鋭く指摘しています。つまり、「真の存在はピュシスの中にあった」と。それを然るべく突き詰めていくのが本来の哲学であったはずなのに、実はそれは理解えきないものとして葬り去られた。なぜかと言うと、「相反するものが最も美しい調和だ」などというのは矛盾しているから。そして、プラトン以降の哲学では、理性やロゴスに適った、われわれに理解できるもののみを人間は考えていくべきだ、という立場がずっと主流になってきたというのです。」(池田, p.41)

「こうした考え方の方向をはっきりさせたのが、パルメニデスとピタゴラスです。特にピタゴラスは、数学、とりわけ幾何学を発展させた最初の人物ということになるわけです。」(池田, p.41)

「ソクラテス。プラトン以降現在に至るまで、人間の思考はすべて数学主義、西洋哲学でいうところの合理主義の支配下にあったと言えます。プラトンのアカデメイアの入り口に「幾何学を知らざる者、この門をくぐるべからず」と書かれていたのは有名な話です。・・・そこでは、徹底的にロゴスの立場またはイデアの立場に立つことが推奨されたのです。」(池田, p.43)

「「イデアの立場に立つ」ということは、しかし、同時に、ハイデガーの言う「現存在」(Dasein)としてのリアリティが失われていくことであったのです。「【現】存在」とは大まかに言えば、まさにいま生まれつつある存在、ありのままに起きている(「生起」的な)存在のことです。」(池田, p.43)

こうして、ハイデガーは、理念的世界で描かれる存在をザイン(Sein/Seyn:存在)と呼び、ピュシスの世界における存在をザイエンデ(Seiende:存在者)と呼んだのです。

「ピュシスとロゴスのあいだの葛藤が古代ギリシアに存在し、結果として、ヘラクレイトスが唱えたピュシスが忘れられて、ロゴス偏重の世界となったということ。その経緯について世界で初めて明らかにしたのはハイデガーだったと言えるかもしれませんけれども、しかし、ハイデガーはそのことについて西田のように徹底的に考えることはなかったのではないでしょうか。」(池田, p.45)


そして、西田幾多郎はピュシスの哲学を展開した、ということになる。

ここで、僕にとって大変視界がひらけたのは、パターン・ランゲージがどんな挑戦をしようとしているのかということである。アレグザンダーも僕たちも、生き生きとした状態を捉えようとしている。アレグザンダーの言い方では、『時を超えた建設の道』では「quality without a name(名づけ得ぬ質)」、『ザ・ネイチャー・オブ・オーダー』では「life(生命)」「living structure(生命構造)」(ここで言っているのは「生物」という意味ではない)、僕らの言い方では「いきいきとした」ということになる。これはピュシスにおける存在について語っている。

その上で、パターン・ランゲージは、それを実現するためのロゴス的な手段を考え、つくり込む。個々のパターンには、状況においてよく起きる問題をどう解決・回避・解消することができるのかということ記述される。きわめて理性的な実践思考が込められるのである。

このことは、僕らが日頃、パターン・ランゲージをつくるときに、なぜこんなにも時間がかかり、相当の労力が必要となるのか、ということの理由でもあるだろう。つまり、ピュシスの存在としての、理性では分析しきれない「いきいきした」ものを感性的に捉えながら、それを生じさせるアプローチについて、ロゴスの理性をもって分析的に記述していく。こういうピュシスとロゴスのあいだを行ったり来たり、同時に見たりしながら、つくっているのである。いわば、ピュシスとロゴスのあいだをつなぐのがパターン・ランゲージの試みであると言える。

このことは、どちらかが損なわれているパターン・ランゲージは、パターン・ランゲージとしては(少なくとも僕らの観点からは)クオリティが低いと言わざるを得ないということに関係する。つまり、実践の手引きとなるが、いきいきとした側面が抜けている・捉え損ねているパターンは、いかにもマニュアル的な操作・作業の伝達しかせず、いきいきとしたイメージをもらたすことはなく、また実践しても、そういういきいきした状態にはならないであろう。他方、いきいきしたイメージを捉えているが、その実現のための実践方法の分析があまく、ほんわりとしか書けていないとなると、詩のような表現になり、実践を支えてはくれないだろう。

そう考えると、パターン・ランゲージをつくるということは、単なる実践知の記述の便利な方法というわけではなく、ロゴス中心であったソクラテス・プラトン以降の西洋哲学よりも広い視野に立って、ヘラクレイトスまで戻った上で、位置付けを考えるというスケール感で捉えるべきだということである。パターン・ランゲージはピュシスとロゴスを結ぶという大きな挑戦をしようとしている。特に僕らはそれを学問としてやろうとしており、それは近代科学のディシプリンに収まりきらないというのは当然だということになるだろう。それゆえ、僕らは、哲学のレベルから考える必要があり、しかも西洋哲学に収まらない広い視野で、東洋の哲学や、人類のあらゆる知恵の術まで含めて、考える必要がある。最近、仏教や東洋哲学の本をいろいろ読んで来たことが、ここでつながった感がある。

この本では、西田哲学やそこから展開する話にも発見的なところがたくさんあったが、今回のまとめはひとまずここまで。他の部分については別の機会に書きたいと思う。

『福岡伸一、西田哲学を読む:生命をめぐる思索の旅 動的平衡と絶対矛盾的自己同一』(池田善昭, 福岡伸一, 明石書店, 2017)

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パターン・ランゲージは、一人称・二人称・三人称を総動員してつくる

最近気づいた重要なことのメモ。

僕らのパターン・ランゲージをつくるプロセスや、仕上げのつくり込みのときには、一人称の視点・感覚、二人称の視点・感覚、三人称の視点・感覚を総動員してつくっている。そうやって、どの視点からも共感・活用できる重層的な作品になることを目指しているんだと思う。
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未来へのお守りになるような希望を書く:『こころ揺さぶる、あのひと言』を読んで

本屋で見つけた『こころ揺さぶる、あのひと言』という本、いろんな方が、ずっと心に残り人生を支えてくれている言葉について書いているエッセイ集。

どれも素敵なのだが、なかでも僕が一番共感したのは、角田光代さんの「希望を書かなければだめだ」という話。

「私より三四歳年上の編集者に、『あなたは希望を書かなければだめだ』と、言われた」(p.28)という。

「『なあ、世の中に残っている小説は、ぜんぶ希望を書いているんだ。残る小説にするには、希望を書かなければだめだ』と。」(p.28)

「けれど私は世のなかにはそうかんたんに救いなんかないと思っていた。そう思うのだから嘘は書けないと思っていた。言葉に懐疑的だからこそ、空々しくうつくしいことなんて書けないのだった。けれどそうして書いている小説は、何か決定的に足りないことも自覚していた。」(p.28)

しばらくして、その言葉の意味がわかったという。

「救いはないと断じるのなんてかんたんなことだ。そこからなんとかして信じられる救いをつかみ出す、そういう小説こそ力を持ち得るのではないか。」(p.29)

僕も、パターン・ランゲージを書いているときは、希望の星となって、自分のよい未来へと導いてくれるような言葉をつくり、そのための文章を書いている。宮崎駿も、昔同様のことを言っていた。現実のだめなところを書くために苦労して映画をつくってるんじゃない。希望を描くんだ、というようなことを。

僕らがつくるパターン・ランゲージは、ポジティブで明るいものしかないと言われることがある。それは、僕が希望の言葉をつくりたいと思っているからだ。そうでなくても、過酷な現実は目の前に広がっているわけだし、マスメディアやネット上には、暗い話やひどい言葉にあふれている。そういう状況に、新たになぜ、絶望の言葉を加えなければならないのだろうか。いま世界に不足しているのは、明るく進む道を照らしてくれる希望の言葉ではないだろうか。

僕は、そう考えて、ポジティブなランゲージを日々つくっている。人によっては、その言葉が、お守りのように、自分の人生を支えてくれているという人がいう。そこまでいかなくても、ちょっと勇気がいることも、実践への背中を押してくれるような言葉だという声も聞く。なんとかして、希望が持てる言葉を編み上げて行く。僕らがつくっているのは、そういうランゲージであろり、僕らが取り組んでいるのは、そういう研究なのである。

『こころ揺さぶる、あのひと言』の本の話に戻ると、この本には、なんと、我らが同僚の村井純も書いていた。彼の心に残っっている言葉は、「世界のために働け」(p.36)というキルナム・チョン先生の言葉だという。他にも、夏樹静子さんの「筆をおかずに、ひたすら描き続けてください。続けていれば、必ずまたいいものができるでしょう」(p.88)という言葉、他にも、内山章子さんが姉・鶴見和子さんから言われた言葉「あのね、易しいことはつまんないの。すぐ出来ちゃうから。難しいことはね、ああかな、こうかなって考えて、いろいろ工夫してやるから、すごく面白いの。難しいことに出あったら、面白いと思ってすることね」という言葉など、僕の心にも新たに残るような言葉がたくさん紹介されている。素敵な言葉の宝石箱みたいな本だった。

いつか僕も、誰かの心に残るような素敵なひと言が言えるような人になりたいなぁ、と思った。いつの日にか。

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「いい人に会う」編集部 編, 『こころ揺さぶる、あのひと言』, 岩波書店, 2012
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マインドフルネス、ガーター(偈頌:げじゅ)、パターン・ランゲージ

いまの僕にとって、とても発見的な本と出会った。ティク・ナット・ハン師の『今このとき、すばらしいこのとき』(Present Moment Wonderful Moment)。本の内容も素晴らしいのだが、その本で提示されているものがどういうものであるのかという部分が、パターン・ランゲージとの関係できわめて重要なものだった。

パターン・ランゲージを提唱した建築家クリストファー・アレグザンダーは、彼の著作を紐解くと、かなり禅など東洋の影響を色濃く受けていることがわかる。「無我」や「道」や「質」など。彼の言っていることも選ぶ言葉も、西洋近代的ではなく、きわめて東洋的なのである。そして僕らは、そのパターン・ランゲージを町や建物のかたちではなく、人間行為の領域に応用した。ここで、実践・行いという点で重なりが生まれ、マインドフルネスの話とつながっているという感覚がこれまでにもあった。ティク・ナット・ハン師のこの本は、その理解をさらに一歩進めてくれた。

この本に収録されているのは、「ガーター」(偈頌:げじゅ)という短詩である。

「ガーター(偈頌)は、日常生活の中で唱えることで、今この瞬間に戻り、マインドフルネス(気づきの心)を保てるよう助けてくれる短詩です。瞑想と詩の両方を含む実践という意味で、ガーターは禅の伝統には欠かせない要素ですが、それを用いるために、特別な知識や宗教的な修行はいりません。」(p.3)

「ガーターを唱えるのは、この今という瞬間にとどまるための方法のひとつです。一編のガーターに意識を集中させるとき私たちは自分自身に帰り、一つひとつの動作に対する気づきが深まります。唱え終えても、高まった気づきを伴ったまま活動は続いていきます。」(p.6)

つまり、ガーターとは、日常のいろいろな実践において、その実践について意識を集中させて、マインドフル(気づきが深まった状態)になるための入口となるものである。

本書に収録されているものをいくつか紹介すると、ガーターとは、例えば、こういうものだ。まず、「目覚めのとき」(Waking Up)というタイトルがつけられたガーター。

目覚めのとき

目覚めて微笑む
生まれたての二十四時間
一瞬一瞬気づきを忘れず
すべてを慈しみの眼で見られますように」(p.14)


次に、「蛇口をひねる」(Turning on the Water)というガーターは、こういうもの。

蛇口をひねる

高い山から涌きいで
大地の底を流れる
奇跡の水に
心は感謝で満たされる」(p.30)


そして、「食事を用意する」(Serving Food)。

食事を用意する

この食べ物に目をやれば
宇宙のすべてがそこにある
だからこそ
私は今ここにいる」(p.140)


こういう何気ないことが、いかに奇跡的な有難いことなのかを感じさせてくれて、その実践を大切に行うことができるようになる。ほかにも、「水やりをする」とか「お皿を洗う」というようなものや、「コンピュータを立ち上げる」というものまである。

ティク・ナット・ハン師は、日常のなかでの実践のなかにマインドフルネスを活かしていくエンゲージド・ブディズム(現実に関わる仏教)やアプライド・ブディズム(応用仏教)を展開した人であり、訳者解説には、エンゲージド・ブディズムについて、彼の次のような言葉が紹介されている。

「それは、家庭、地域、街や社会の中において、1日中途切れることなくマインドフルの実践を行うことです。あなたの歩み方、視線の投げかけ方、座り方などが、まわりの人びとに影響を与え、どのような時でも安らぎと、幸福と、喜び、そして友愛を育むことを可能にするのです。」(p.245)

「ガーターを使って実践するときには、ガーターとこれから先の人生とが一体となり、私たちは毎日を目覚めた意識で生きることになります。」(p.6)

パターン・ランゲージも、まさに、一つひとつの活動・行為に対する「気づき」を深め、「目覚めた意識」で活動できるようにしてくれるものである。なぜそういうことが大切なのかというと、ティク・ナット・ハン師は、次のように言います。

「私たちは忙しすぎて、自分の行動に無自覚なだけでなく、自分自身せ見失うことがしばしばあります。呼吸するのを忘れていて、ということさえあるのです。」(p.5)

「自分にとって大切な人に、きちんと目を向け感謝することも忘れて過ごすうちに、人はそうする機会を失います。時間に余裕があるときでも、自分の心や周囲に起こっていることに確かに触れるすべを知りません。」(p.5)

「瞑想とは、自分の体、感情、心や、この世界に起こっている事実に気づくことです。今この瞬間に心が定まるとき、生まれたばかりの幼子、昇ってくる太陽など、今ここにあるすばらしい出来事や不思議に目が開かれます。私たちは、目の前に起こっていることに気づくだけで、とても幸せになれるのです。」(p.5)

パターン・ランゲージは、心のマインドフルネスを目指すといよりは、第一義的には、よりよい質の実践を目指すものであるので、エンゲージド・ブディズムとまったく同じというわけではない。しかし、ある行為・実践が、どのような意味をもっているのかを、深く感じながら実践することの大切さを重視する点では重なりがある。

「コラボレーション・パターン」に馴染んている人は、チームの仲間に「ありがとう」というとき、それが《感謝のことば》の実践であるということが心に浮かび、それがいかに大切で有難いことかを感じながら行う。やりとりをしているときには、それが《レスポンス・ラリー》であることを感じるし、《こだわり合う》ことがよい質につながることを感じることができる。

『旅のことば』(認知症とともによりよく生きるためのパターン・ランゲージ)に馴染んでいる人は、水やりをするということが《自分の日課》として大切なものであることや、《なじみの居場所》がかけがえのない場所であることを感じながら、自らのなじみの居場所に思いを馳せる。

このように、パターン・ランゲージは、実は、単に実践していない人に新しい発想を加えるというだけでなく、すでに実践している人にも、その行為・実践の意味(よりよい質につながる、当たり前ではない)を感じて、マインドフルにその行為・実践をすることを可能にしてくれる。パターン・ランゲージの「活用」というときに見過ごされがちだが、その実践の意味を深く感じられるというのは、とても重要なことである。

ガーターのタイトルは、パターン・ランゲージのパターン名にあたり、短詩の部分は、パターンの内容・記述にあたるだろう(特に、イントロダクションや状況、解決のあたり)。そして、詩的なやわらかな部分は、イラストが担っていると思う。

「瞑想と詩を合わせて実践するガーターは、禅の伝統の鍵です。ガーターを憶えれば、蛇口をひねるとき、お茶を一服するときなど、特定の行為と結びついた一節がおのずから心に浮かんでくるでしょう。」(p.6)

「ガーターは大きな助けになり、ほかの人にとっても同じく役に立ちます。心の中に安らぎと、穏やかさと、喜びの深まりを感じ、それを人と分かち合えるようになるのです。」(p.6)


このあたりは、パターンが状況駆動であることや、ランゲージ(言語)としてつくっていることにつながる。パターンは、一人の実践をよりよくするとともに、対話のなかで経験を分かち合うためのものでもある。
パターン・ランゲージとガーターの重なりが見えてくると何がよいかというと、マインドフルネスとの関係が見えてくるだけでなく、それが、歴史的に継承されてきた考え方や方法に接続できるからである。

「ガーターの実践は二千年以上前に始まりました。」(p.4)

ガーターについて、さらに学んでみたいと思っている。


さらに、表現媒体の観点からも、重なりを感じるので、パターン・ランゲージの可能性について、ガーターから学ぶことができるかもしれない。

訳者の解説によれば、世界各国で行われているリトリートでは、ガーターがイラストつきの小さなカードに書かれれているものが置かれ、持って帰ることができたりして、人々はお守りのように大切に持っているという。これは、僕らのパターン・カードが近い。

また、ティク・ナット・ハンが開いたフランス・ボルドーのプラムヴィレッジでは、建物や敷地のあちこちでガーターを目にするという。それぞれの場所に応じて、「洗面所には、『手を洗う』、キッチンには食べる瞑想に関する多くのガーターが、禅堂にはもちろん瞑想に関わるガーターである」(p.251)。これは、僕らでいうと、パターン・オブジェクトにあたる。

さらに、ガーターという言葉の原義は「歌」であり、昔は歌いながら口伝したのではないかということである。これも、僕らがパターン・ソングで行おうとしていることに通じる。おそらく、口伝で広まり受け継げるように、短い詩のかたちをとったのだろう。

このように、ティク・ナット・ハン師の本『今このとき、すばらしきこのとき』は、そのガーターの内容が素敵であるだけでなく、このように今の僕にとっては、とても素敵な可能性が見えた本だった。


ティク・ナット・ハン, 『今このとき、すばらしいこのとき Present Moment Wonderful Moment:毎日が輝くマインドフルネスのことば』, 島田啓介(訳), サンガ, 2017

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声、神話、地下水脈:谷川俊太郎・覚和歌子『対詩 2馬力』を読んで

谷川俊太郎さんと覚和歌子さんの『対詩 2馬力』は、お二人の「対詩」でつくった詩と対談が収録されている本。覚(かく)さんは、『千と千尋の神隠し』の主題歌「いつも何度でも」の作詞をされた方ですね。

「対詩」についての話も面白かったが、それ以外のところで僕にとって重要なところがいろいろあった。まず最初は、覚さんが声から入っているということについて聞かれての発言。

「『一期一会』感覚というか、『そのとき声出してしまったものがすべて』みたいなことと、もう一つは『言葉において、声のほうが文字よりもえらい』と確実に思っていますね。」(覚, p.30)

「文字は『意味』に近いけれども、声は意味を超えて『波動』そのものだということですね。波動のほうがより真実で、リアリティがある。」(覚, p.30)

そうそう、そうなのだ。だからこそ、僕は、パターンの中に事例の文章を入れず、その代わりに対話ワークショップやパターン・カードを用いた対話のようなかたちで、声で自らの経験を語り、それを聞く、ということを重視してきた。パターンの記述だけで伝達のための自己充足的なコンテンツとするのではなく、あえて「スキマをつくる」ことで、語り=声が引き出されるようにつくってきた。

そして、これからのチャレンジは、パターンそのものの内容を声でどう共有していくか。パターン・ソングというのは、その試みの最初のものだし、ラジオやポッドキャストのようなものでの共有なども試してみたいと思っている。いまでも僕らは、パターン・ランゲージをつくり込むときには、視覚的な文字面だけでなく、音として発したり聴いたときにもわかるようになることを気にして、パターン名を考えている。そういうことが発揮される音声的な共有手段についても、もっと模索していきたいと思っている。


また別の箇所で、覚さんのつくる詩が物語詩であることについての話題のなかで語った次のことも、僕をワクワクさせた。

「物語というか、神話をね、詩のかたちでやりたかったんです。小説はどうしても微に入り細を穿(うが)ちすぎるというか……。読みながら『そこ、別に知らなくてもいい』ってところまで説明されすぎていてまだるっこしいんですよね。・・・でも、物語を読みたいという普遍的な人間の欲求はあるだろうなと思って。だからそれを詩のかたちでやりたかったんです。」(覚, p.34)

この気持ちすごくわかる。そう、そうなんだよ。僕は、神話を、詩ではなく、パターン・ランゲージのかたちでやりたい。もう物語として提示されること自体から変えて。でも人類が普遍的にもっている理や型など、神話が伝えてくれたようなことを、物語の形式ではなく、自分が生きるということのなかで物語化がなされるようなやり方で、共有したい。まだうまく言えないけれども、パターン・ランゲージでやりたいことはそのことなのです。そういうわけで、最近、また、神話について、読み直し、学び直そうと思っていたところだった。


詩の創作についての谷川さんが語った次のことも、重要。詩人が2人で対詩をつくるということについて。

「水の比喩で言うと、一人一人が泉でね。泉っていうのは、地下の水脈につながっていて、そこから湧くでしょう?」(谷川, p.45-46)

「僕なんかはやっぱりそういう集合的無意識にできるだけ根をおろしたいというか、届きたいという気持ちがどこかにありますね。」(谷川, p.46)

この地下水脈のメタファーは、井戸と地下という言葉で語る村上春樹さんの話にも通じるし、河合隼雄さんの「個を突き抜けての普遍」という話にもつながる。

まさに、僕がパターンを洗練させて、仕上げるときに、ぐっと深く潜り込んで探るのも、この多くの人の奥深いところに通じる地下水脈である。


最後に、覚さんが言っていたすごく素敵な執筆スタイルの箇所を。

「私は、基本、詩は八ヶ岳のアトリエでしか書かない、と決めて、すごく試作が楽しくなりました。やっぱり自然の中には「お助け小人」がいるんですよ。そういう話をこの間、画家の友人としていたら、彼も『絶対いる』って言ってましたね。自然の中で書くのは、楽しい。エッセイとか散文は東京でも書けるんですけど、詩は山で書くほうが楽しいですね。」(覚, p. 51)

素敵すぎる、そのスタイル。世界の作家たちも、丘の上のヒュッテ(小屋)みたいなところをもっていて、そこにこもって書く、というような人は多い。僕もそういう特別な場所を持ちたいなぁ。実に。


『対詩 2馬力』(谷川俊太郎,‎ 覚 和歌子, ナナロク社, 2017)

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人間、世界・宇宙と向き合う:谷川俊太郎『聴くと聞こえる』を読んで

谷川俊太郎さんの新刊『聴くと聞こえる:on Listening 1950-2017』は、沈黙と音と言葉についての詩とエッセイで編み上げられている魅力的な本だった。

「言葉というものが何でも語ることができると思ったら大間違いだ。」(p.52)

「たとえば、言葉は音楽を語る事ができない。音楽をめぐるいろいろな事、或いは音楽を聞く自分を語れはしても、音楽そのものは語れない。」(p.52)

「だが人間として生きること、それは沈黙して生きることであってはならない。そして特に詩人として生きること、それは言葉や声がどんなに信じ難いものであるにせよ、沈黙ではないものに賭けて生き続けることに他ならない。
 人を互いにむすびつけることだけが言葉の機能ではない。言葉は人間のものであり、同時に人間のものでない。〈青空よ…〉と詩人が呼びかける時、詩人はその言葉を、自分と、青空と、そして人々のために云うのだ。そしてそうすることで、詩人は青空と戦い、かつむすばれる。」(p.108)


僕もパターン・ランゲージをつくるとき、同様の気持ちを抱く。

「実践知は身体的なものであり、言葉で表せるわけがない」と言われることがあるが、そんなことは当然であり、言葉で何でも表現できるなんて思っているわけではない。しかし、しかしだ。詩人が世界について、音楽について、沈黙について語るように、僕らは、なんとか言葉にしようとする。そのものは伝えられなくても、それがどのようなものであるのかを、詩的に表現し、共有するのである。

だからこそ、パターン・ランゲージは、詩との関係が深い。アレグザンダーはパターン・ランゲージの本のなかで「詩学」(ポエジー)という言葉を用いて語ったし、パターン・ランゲージをつくる人のなかには、本当に詩を書く詩人である人もいる。

僕らは言葉の限界を理解した上で、それで表せることに賭けている。そこに挑んでいる。だから、パターン・ランゲージの作成は一筋縄ではいかない、身を削るような作業となる。それは、人間と、そして世界・宇宙と向き合うことである。言葉にならないものに眼差しを向け、そのための言葉を紡いでいくということなのである。


谷川俊太郎, 『聴くと聞こえる:on Listening 1950-2017』, 創元社, 2018

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日本語のパターンにおける内言的な書き方へのこだわり

僕がパターン・ランゲージのパターンを仕上げるときに、こだわって意図的にしていることがある。それは、主語(人称代名詞)をうまく抜いて、内言(inner speech)的に読めるようにするということである。

これは日本語だから成し得ることであり、日本のなかでもそのことにこだわってパターンを書いている人にはこれまでに会ったことはない。

例えば、僕らがつくったパターン・ランゲージ『旅のことば』の「なじみの居場所」のSolutionは、次のものである。

自分ひとりで行けて、家族も知っている行きつけの場所をつくります。すでにそのようなお気に入りの場所があれば、そこを自分の《なじみの居場所》だと家族に伝えておきます。まだない場合には、家の近くの喫茶店や小さな美術館など、居心地のよさそうな場所を探すことからはじめます。家族や友人と一緒に探すと安心です。よさそうな場所が見つかったら、その場にいる店員さんや常連さんたちに、ひとこと挨拶をしておくと早くなじむことができるでしょう。


「あなた」「私」というような言葉は使われていないのがわかるだろう。「自分ひとりで行けて、家族も知っている行きつけの場所をつくります。」というのが、「誰が」なのかは、意図的に書いていないのである。そうすることで、「うまく実践している人は」と読むこともできるし、「自分は(これから)」と読むこともできる。こう書いてあることで、自分の内言(心のなかの言葉)のように、ここに書かれた言葉を内側から読むことができるようになる。

ちなみに、このパターンの英語版のSolutionは、次のようになる。

Find a place where you can go by yourself without any trouble, and make sure your family knows about the place too. If you already have such a place, tell your family that it is your “Favorite Place.” If not, find a place such as a coffee shop or art museum near your home that you like, where you feel comfortable. You can ask a friend or a family member to help you find this place. Once you find your place, it would be nice to say hello to the people there so you can get on well early.


このパターンのように、パターン・ランゲージのパターンのSolutionは、英語では命令形で書かれる。「Find 〜」というように、完全にアドバイスの文章として書かれており、実際そう読むことになる。そして、その後の文章には「you」という言葉が出てくる。つまり、誰かが自分に対して語りかけている、という文章なのである。

もちろん、これを「Find 〜」と(ほんの少し未来の)自分に向かって言っていると捉えることはできる。未来の自分を「you」として、未来の自分に命令しているということもできるかもしれない。しかし、それでも、今の自分とは分離された対象に向かって働きかけている文章であることに間違いはない。


井庭研でも、メンバーがSolutionを「〜しましょう」と書いてくときがしばしばあるが、それを見つけると、直すように言っている。英語が命令形なのだから、それが丁寧になっていてよいと思うかもしれないが、「〜しましょう」と言うパターンをいくつも読むことになると、「もう結構です」(うざい)という気持ちが生まれるのは想像に難くない。

だから僕が書く日本語のSolutionの文章はそうなってはいない、というか、そうならないように意識して書いている。『旅のことば』について、「読み手に寄り添うように書かれている」という感想をもらうことがあるが、それは、こういった文章の書き方も影響していると思われる。本人が自分の気持ちや、自分が考えていることが書いてあると感じやすい文章なのだと思う。

人称代名詞を省略できる言語は、他にもある。しかし、スペイン語やイタリア語などは、動詞の形が一人称と二人称、三人称で変わるために、主語を省略しても意味が取れるので、省略が可能になっている。日本語の場合には、それとは異なる原理で人称代名詞を入れずに文章を書くことができる。

このように、パターン・ランゲージは、アメリカで英語で書かれるものとして出発したが、僕らが日本でつくるようになってから、パターンの文章の書き方は、ひとつ新しい展開をみせたと考えている。

そこで、このことを海外の方にも知ってもらうために、今年のPLoP(パターン・ランゲージの国際学会)に、そのことを書いた論文を出している。そもそも英語にできないことを英語で書くのだから、少しややこしいのだけれども、そのようなことも伝えなければ知ってもらえないので、なんとか論文にした。学会での反応が楽しみである。

Takashi Iba, Ayaka Yoshikawa, “Understanding the Functions of Pattern Language with Vygotsky’s Psychology: Signs, The Zone of Proximal Development, and Predicate in Inner Speech,” 23rd Conference on Pattern Languages of Programs, Oct, 2016


  • 『旅のことば 認知症とともによりよく生きるためのヒント』(井庭 崇, 岡田 誠(編著), 慶應義塾大学 井庭崇研究室, 認知症フレンドリージャパン・イニシアチブ, 丸善出版, 2015)
  • 『Words for a Journey: the Art of Being with Dementia』(Takashi Iba, Makoto Okada (eds), Iba Laboratory, Dementia Friendly Japan Initiative, CreativeShift Lab, 2015
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    クリストファー・アレグザンダーからのメッセージ(2015)

    2015年7月にオーストリア・クレムス(ウィーン近郊)で開催されたPURPLSOCカンファレンス(Pursuit of Pattern Languages for Societal Change)において、パターン・ランゲージの考案者であるクリストファー・アレグザンダーからのメッセージが紹介された。紹介したハイヨ・ナイス教授が今年3月にアレグザンダーから預かってきたものだ。ひとつの記録して、紹介しておきたい。

    Message from Chris Alexander to the Krems Conference

    Dear Conference Participants,
    I wish you all the best for the First World Conference on Patterns and Pattern Languages. I am quite pleased that many people from different countries are gathering in my home country Austria. My family is actually from Vienna. I am also very pleased that you have assembled to continue the work I have started with my colleagues in Berkeley and elsewhere. Especially the fact that you are applying and researching this work in a number of disciplines is quite remarkable to me, and I wish you a great gathering and a positive outcome of your efforts. With warm wishes.

    Chris Alexander, Binsted, England March 2015
    (Introduced by Hajo Neis at PURPLSOC conference, Krems, Austria July 2015)

    ChrisMessage2015_440.jpg


    以下、私なりに日本語に訳したものも載せておくことにしたい。

    Kremsでのカンファレンスに向けてのクリストファー・アレグザンダーからのメッセージ

    カンファレンスの参加者のみなさん、
    パターンとパターン・ランゲージに関する最初の世界大会の成功をお祈りします。いろいろな国からのたくさんの方々が、私の母国であるオーストリアに集まっているということを、とてもうれしく思います。私の家族はまさにそのあたり、ウィーンの出身なのです。しかも、私が米国バークレー等で同僚たちと始めた仕事を、引き継いで続けるために集まっているということも、非常にうれしいことです。特に、それを様々な分野に適用・研究しているということは私にとっては衝撃的なことであり、みなさんの奮闘が前向きな成果につながり、素晴らしい会になることを祈っています。

    心をこめて

    クリストファー・アレグザンダー
    英国ビンズティドより
    2015年3月
    (このメッセージは、オーストリア・クレムスで2015年7月に開催されたPURPLSOCカンファレンスにおいて、ハイヨ・ナイス教授によって紹介された)
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    パターン・ランゲージを編み上げることは、小説を書くことに似ている。

    なぜここ数年「小説を書く」ということにずっと興味がある。それは、僕もそろそろ小説を書きたいなぁと思っているからではない。そうではなく、パターン・ランゲージを編み上げることが、小説を書くことに似ていると感じているからである。いくつものパターンを組み合わせ、ひとつの全体としてのパターン・ランゲージを仕上げるときにやっていることが、小説を書くことに似ていると感じるのである。これは、直観的に感じているということであって、まだ論理的に説明できるレベルにはないが。

    僕は小説を書いたことがあるわけではないし(自作映画のストーリーのようなものはいくつか書いたことがあるけれども、それらは小説ではない)、パターン・ランゲージは小説ではない。しかしながら、小説家が「小説を書く」ということについて語っているものを読むと、自分がパターン・ランゲージを仕上げるときに行っていることに近いと感じるのである。


    井庭研でパターン・ランゲージをつくるとき、僕は、映画で言う「プロデューサー」(製作総指揮)のような立場をとる場合と、「ディレクター」(監督)のような立場をとる場合の二種類がある。

    プロデューサーとして関わったのは、Generative Beauty Patternsやチェンジ・メイキング・パターン、パーソナル・カルチャー・パターンなどである。プロデューサー的に関わるというのは、あくまでも、作品としてのパターン・ランゲージは、学生メンバーのリーダーのセンスでまとめあげてもらい、僕はその環境を整えたり、それを世の中に出す手助けをすることを行う。

    ディレクターとしてつくった、ラーニング・パターン、プレゼンテーション・パターン、コラボレーション・パターン、旅のことば(認知症とともによりよく生きるためのヒント)である。パターン・ランゲージ作成プロジェクトでにディレクターをするときには、チームでつくってきた作品の細部に至るまで、しっかりと自分のセンスに照らして仕上げていく。具体的に言うと、すべての文章に手を入れ、すべてのイラストに手を入れる。もちろん、それまでにもずっと指示や要望を伝えてきてはいるけれども、すべてのパターンのすべての項目のすべての文を自分の手で書き直す。

    この段階で、それまでのものから一気にクオリティが上がる。単にパターンの集まりであることを超え、ひとつのランゲージとして世界観をもつものになる。井庭研メンバーはそれを「先生が魔法をかけた」という言い方で表現をしている。たしかに、僕の感覚としても、ひとつひとつのパターンに命を吹き込んでいくという感じなので、「魔法」という表現はまんざら間違った表現ではないと思う。


    さて、パターン・ランゲージを編み上げることと、小説を書くことはどう似ているのか。

    パターン・ランゲージには小説の主人公のような登場人物はいないし、話の展開もない。パターンごとに区切られた秘訣の記述が集まったものだ。それがどう小説を書くことに似ているのだろうか。

    まず最初に断っておきたいのは、「パターン・ランゲージが小説に似ている」と言っているのではない、ということだ。パターン・ランゲージと小説はまったく異なる表現である。パターン・ランゲージは小説ではないし、小説はパターン・ランゲージではない。そうではなく、「パターン・ランゲージを編み上げる」ということが「小説を書く」ということに似ていると言っているのである。

    また、「(個々の)パターンを書く」ことが小説を書くことと似ていると言っているのでもない。個々のパターンは、インタビューや自分たちの経験から掘り起こして書いていく。なので、個々のパターンを書くことは小説を書くこととは異なるプロセスで行われる。ここで言いたいのは、「(個々の)パターンを書く」ことがではなく、「パターン・ランゲージを編み上げる」ということが「小説を書く」ということに似ているということである。

    「パターン・ランゲージを編み上げる」というのは、すでに、個々のパターンの状況・問題・解決の記述があり、パターン名があり、それらがたくさん書き上がった状態から、互いに関係し合うひとつの全体にまとめ上げる作業のことである。このとき、パターン・ランゲージのパターンが冊子に収録されるということが重要になる。

    僕らは、パターン・ランゲージを冊子に収録するときに、前から読んで読めるような順番でパターンを並べる。前から読み進めたときに、「飛んだ」感じがせず自然な流れになるように、それぞれのパターンの内容を踏まえながら収録順番を決めていく。そして、その収録順番に応じて、パターンの通し番号がつけられる。そのため、パターンとパターンがどのような関係にあるのかを見定め、そういう順番に並べていく。そして、その順番に合うように、パターンの内容を修正する。

    パターン群をパターン・ランゲージに編み上げるというのは、部分を単に連結して組み立てるという作業ではなく、全体を想定しながら部分をつないでいき、そしてそれらがつくる全体を確認しながら、個々の部分を修正・調整していく、という、往ったり来たりのプロセスとなる。

    そのとき、自然な感じというのは何かというと、そのパターンの「奥」にある世界で出来事がうまく流れるかどうか、ということである。パターン・ランゲージというものは、読者がパターンを読んで、自分の世界(生活)で実践してみることが期待されてつくられている。つまり、読者がパターンの冊子を前から読んでいくなかで、自分の世界の流れに照らして、イメージしやすいように書かれなければならない。もちろん、読者は多様な状況のなかでパターンを適用するので、その状況や流れを一意には決めることができない。そうであったとしても、より多くの人が自然な流れであると感じる並べ方はあるのであって、それを模索するわけである。

    パターンの「奥」というのは、僕がパターンの順番を考えているときの感覚は、パターンの記述の「奥」に照射された世界での流れをつかもうとしていることから、そう表現した。ここでの「奥」の世界では、おぼろげながら登場人物がいて、その人たちが、そのパターンを読んでいたり、実践していたりする。『旅のことば』であれば、認知症のご本人や、家族が、そこには登場する。そして、日々の生活をしている状況を思い描く。

    パターンの「奥」の世界の登場人物たちは、僕の意図を超えて、自由に動き回っている。そして、このパターンを読んだとき、どう感じるだろうか、どういう行動をとるだろうか、このパターンを実践した人が、次にこのパターンを実践しているのというのは、自然な流れだろうか。このパターンの次にこのパターンを読んだとして、まさにこれが必要だと思うだろうか。そういうことを何度も何度もシミュレーションする。これは、まさにパターンの奥にある世界の「物語」をつくり動かしているということである。

    このときの感覚が、小説家が「小説を書く」ということについて語っていることにかなり近いと感じるのである。最終的に僕らは、パターン・ランゲージを作品とし、思い描いた物語たちはすべて背景に退いてしまう。というよりは、物語世界は最終的に消えゆく運命にあり、パターン・ランゲージにはその痕跡や残り香のようなものしか残らない。ここが、作品としてのパターン・ランゲージと小説の大きな違いとなる。


    このような感覚は、コラボレーション・パターンで少し感じ始め、『旅のことば』でかなり実感し、意識できた。その意味で、僕のこれまでのパターン・ランゲージ作成の経験のなかで、『旅のことば』は別格というか、新しい展開の始まりであると思っている。


    そのようなわけで、ここ数年、「小説を書く」ということについて本を読みまくっている。なんとかこの感覚を言葉にしたいと考え、読みながら考え、読みながら考えを繰り返している。これからも、Creative Reading(創造的読書)でいろいろな本を取り上げ、その力を借りながら、なんとか言葉で表現することを試みたい。
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    パースのプラグマティズムからみたパターン・ランゲージ

    パースの「プラグマティズム」と「探究」

    前回の考察に引き続き、チャールズ・S・パーズの「プラグマティズム」と「探究」の考え方から、パターン・ランゲージについて考えてみたい。

    今回は、『パースのプラグマティズム』(伊藤邦武)と『プラグマティズムの思想』(魚津郁夫)を手引きとして、パースのプラグマティズムと探究についてみていくことにしたい。

    プラグマティズムでは「行為」と「思考」のむすびつきに注目する。その特徴を伊藤は次のようにまとめている。多くのプラグマティストが掲げるテーゼは「人間の『思考』とはそれ自体で意味を生み出す独立した内的過程ではなくて、むしろ本質的に『行為』と結びついたものである」ということである。

    パースは、「思考のはたらきは、疑念(doubt)という刺激によって生じ、信念(belief)が得られたときに停止する。したがって信念をかためることが思考の唯一の機能である」と考え、その疑念から信念へと到達しようとする努力を「探究」(inquiry)と名づけた。

    ここでいう「疑念」(doubt)とは、なんらかの問いを発することであり、信念(belief)とは問いが解決されていることである。

    「疑念」は、「我々がそこから自己を解放し、信念へいたりつこうとする、不快で、不満足な状態」であり、そこから解決へと、すなわち信念の確定へと向かうことを促す効果をもつ。

    「信念」は、パースの言葉を借りると「私たちの知的生活というシンフォニーを構成するひとつの楽句をくぎる半終止」だということができる。

    しかしながら、「信念は行動のための規則(a rule for action)であって、この規則を行動に適用すればさらに疑念が生じ、したがってまた思考が生じるので、信念は思考の終着点であると同時に新しい出発点である」という側面も併せ持っている。

    別の言葉でいうならば、信念とは、「我々の本性の内に我々の行為を決定する何らかの習慣が確立していること」(パース)であり、「信念は我々の欲求に応じて何らかの行為を遂行せよという指針を与える効果を有する」(伊藤)のである。

    それゆえ、「疑念」から始まり、「探究」によって「信念」の確定がなされた後は、「行為」によって新たな「疑念」が生じ……ということが繰り返されることになる。

    パースは「探究の唯一の目的は信念の確定である」という。これは、探究は「真理(truth)の把握を目指すのではなく、信念、つまり行為への傾向性(習慣)の確定を目指す」(伊藤)ということを意味している。

    そしてパースは、「人間認識は信念の確定のための認識作用であるかぎり、我々の実際的行為への関わりを明示したものとなって初めて明晰なものとなり得る」とした。これが、パースのいうプラグマティズムの格率(=実践の原則)である。

    ここで、「探究」で目指される信念というのは、行為への傾向性、つまり、習慣のことであるから、思考を明晰にするということは「その思考が究極的にはいかなる習慣を規定するのかを明らかにすることである」(伊藤)といえる。

    パースは言う。「我々の認識対象について、それが何らかの実際的意味を持つであろうと思われるような効果としてどのような効果を有すると思われるか、を考察してみよ。その時、これらの効果についての我々の認識が、その対象についての我々の認識のすべてである」と。

    "Consider what effects, which might conceivably have practical bearings, we conceive the object of our conception to have. Then, our conception of these effects is the whole of our conception of the object." (C.S.Peirce, "How to Make Our Ideas Clear", 1878)

    このプラグマティズムの格率にもとづくならば、「対象認識の形式は、或るなされるであろう行為という条件に対して、その行為が事実なされるとき(つまりその条件が真のとき)、その結果として生じるであろう観察可能な反作用的現象がいかなるものか、を示すものでなければならない。」(伊藤)

    それはつまり、「明晰化された命題は、条件 - 帰結の形式を持つ複文である」(伊藤)ということである。その形式であれば、行為と観察可能な結果によって実際に成り立つのかどうかが明らかになる。

    また、探究が最終的に目指す「習慣」は、どのように同定するのかというと、「習慣の同一性とは、様々な状況下にあって、すなわち単に生ずるであろうことが予想される状況のみならず、いかに非蓋然的であれ恐らくは生ずることが可能であろうような状況をも含めた全状況下にあって、それがどのように我々を行為に導くか、ということに存している。習慣が何であるかは、それが我々の行為を『いつ』『いかに』生ぜしめるかにかかっている」(パース)という。

    このことを伊藤は、「この『いつ』とは、個々の行為の誘発因としての知覚的事実がいかにあるか、ということであり、『いかに』もまた、行為の目的がいかなる感覚的結果の内で実現されるか、ということである」と、わかりやすくまとめている。

    最後に、「習慣」についてもう少しだけ言及しておきたい。習慣にはいろいろな種類・強度のものがあるので、「我々の認識作用がその効果として習慣を形成するということは、すでにあった習慣の種類を変えるか、その強度を変えるか、である」(伊藤)と言える。

    パースは、習慣は生まれつきではなく後天的に獲得されるものだとして、「同種の行動が、知覚と想像の同じような結合のもとで、数多く繰り返されるとき、そこから、未来における同様の状況において、現実に同様な仕方で行動する傾向―これが【習慣】である―が生まれる」という。

    「そしてさらに―この点がまさに重要なのであるが―、人は誰でも、自分自身の習慣そのものを変更することによって、自分自身を多少なりとも統御しているものである。しかも、このような作用を行おうとしても、外的世界において、行おうとする種類の行動を実際に繰り返すことができないような状況において、………内的世界における繰り返し―想像による繰り返し―は、それが直接的な努力によって十分に強化されるならば、外的世界における繰り返しと同じように、習慣を形成し、しかも、この習慣が、外的世界における実際の行動に作用する力をもつ」と、パースは言う。


    プラグマティックな探究を支援するパターン・ランゲージ

    パースのプラグマティズムと探究の考え方にもとづいて、パターン・ランゲージについて考えてみたい。ここでは主に、人間行為のパターン・ランゲージ(パターン・ランゲージ3.0)に焦点を絞って考えることにしたい(ただし、建築やソフトウェアについても同様のことがいえるはずである)。

    まず、パターン・ランゲージ(3.0)が目指すのは、行為の傾向性、すなわち習慣の変化である、ということができる。

    パターン・ランゲージの個々のパターンがもたらすのは、その場での短期的な行為の変化ではなく、中長期的な習慣の変化である。言い換えるならば、そのパターンを読んでその場で「できる」ようになることに主眼が置かれているわけではないということである。

    パターン・ランゲージのパターンは、ある一定の知覚と想像の結合のもとで繰り返し行為を行うことで、習慣の形成を促すのである。

    だからこそ、パターンはContext - Problem - Solution - Consequenceという「条件 - 帰結の形式」で書かれるのである。そして、「個々の行為の誘発因としての知覚的事実」と「行為の目的がいかなる感覚的結果の内で実現されるか」が書き込まれる。

    パターンは、信念と同様に「行動のための規則(a rule for action)であって、この規則を行動に適用すればさらに疑念が生じ、したがってまた思考が生じる」のである。

    パターンのSolution(Action)を実行すると、その結果が生じるが、そのなかには副作用もあり、それは新たな疑念を生み、他のパターンのContextへと導かれる。パターン・ランゲージは、そのようなパターン同士のネットワークになっている。

    そしてこのような、習慣の形成は外的世界における繰り返しのみならず、内的世界における繰り返しによっても「直接的な努力によって十分に強化されるならば」可能となる。このように、外的行為のみならず、認識を変えることを指針とするものも、パターン・ランゲージ3.0のパターンのなかにはある。

    こうしてパターン・ランゲージ(3.0)は、その人の状況における「疑念」から始まり、パターンを用いた「探究」によって「信念」(a rule for action)の確定に至り、実際に「行為」することによって新たな状況の「疑念」が生じ…ということを続けていくことを支援するのである。

    パターン・ランゲージ(3.0)の根底には、まさにプラグマティズムの考え方、すなわち、人間の「思考」は本質的に「行為」と結びついているという考え方があるとみて間違いないだろう。だからこそ、「行為」を支援するために「思考」のメディアである「言語」を用いることが適切だと言えるのである。


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