井庭崇のConcept Walk

新しい視点・新しい方法をつくる思索の旅

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「研究」と「勉強」の違い

研究会の新規履修者の面接を行った。SFCでは、学部1年生から研究会に所属し、研究に従事することができるので、1年生や2年生も新規希望者としてやって来る。

井庭研の面接は、担当教員の僕が一人で行うのではなく、研究会の現役メンバーを数人交えて行う。というのは、研究会というのは一種の「生き物」であって、もはや僕だけのものではないという思いがあるからだ。僕との相性のみならず、研究会メンバーとの関係もかなり重要なのだ。面接では、新規希望者一人につき、30分の時間をかけて、取り組みたい研究テーマや、興味・関心分野について話をきいていく。

その研究会面接で、僕が必ず言う話がある。それは、「研究」と「勉強」の違いについての話だ。面接で、研究テーマをきいてみると、「~を勉強したい」と答える人が多くいる。こう答えるというのは、「研究」と「勉強」の違いがよくわかっていない証拠だ。研究テーマについて話しているのではなく、これから知りたいことを挙げているに過ぎない。そこで、僕は面接時に、「研究」と「勉強」はどう違うのか、ということを説明する。

ResearchFrontier400.jpg


まず、「知のフロンティア」があるとしよう。こちら側には、人類が現在知ってる「既知」の領域が、そして向こう側には、人類がまだ知らない「未知」の領域が広がっている。これから研究を始めるとき、当然、僕らはフロンティアに立っているわけもなく、そこから遠いところにいるだろう。そして、少しずつ知識をつけて前に進んでいく。そしてあるとき、フロンティア・ラインの一地点に到達するだろう。このようにして、既知の領域を進んでいくことを「勉強」という。不勉強でビハインドだった自分が、授業や本、人の話などから知識を得て、いまどこがフロンティアなのかがわかるようになる。これが「勉強」をするということだ。

これに対し、「研究」というのは、まったく異なるアクティビティだ。研究とは、フロンティアからさらに一歩前へ進み、既知の領域を広げるということ。もちろん、道なき道を開拓しながら進んでいくことになるので、それはとてもしんどい作業であり、一朝一夕にできるものではない。さて、ここで重要なのは、かならずフロンティアを開拓しなければならないということだ。すでに開拓されているところで、新たに開拓したとしても、それは「車輪の再発明」であり、研究にはならない。SFCカリキュラムの言葉に照らして言うと、「研究=先端×創造」なのであり、「研究とは、先端領域で創造を行うこと」なのだ。「研究」には「勉強」が不可欠だが、いくら「勉強」をしても「研究」にはならない。この「研究」と「勉強」の違いを意識することが、研究テーマを考える上でとても重要なのだ。

この「研究」と「勉強」の違いという話は、実は、僕がまだ学部生だったころ、竹中平蔵先生が研究会でよく語っていた話だ。この話は、「研究」と「勉強」の違いを非常にクリアに言い表していると思う。そんなわけで、僕は毎年、この話を面接のときに繰り返し話す。

研究会は「研究」のための場であるから、研究テーマをもった人たちの集まりだといえる。なので、研究会面接で熱く語ってほしいのは、勉強テーマではなく、研究テーマについてなのだ。荒削りでもいい。「研究」へと向かう志向性がほしい。そして、できるかできないか、という現実性よりも、何をやりたいのかというヴィジョンがほしい。

以前紹介した『音楽を「考える」』(茂木健一郎, 江村哲二, ちくまプリマー新書, 2007)のなかで、茂木さんと江村さんが、次のように語っている。まさにそのとおりだと思う。

(茂木)「若いときには自分の使える技法やツールと、胸に抱いている大志、夢見ている世界との間には明らかに大きすぎるギャップがある。それくらいアンバランスなやつじゃないと、表現者としては大成しないんだということが経験でわかりました。これはほとんど例外がない。」(p.47)

(江村)「結局は、自分に何ができるかじゃなくて、何がしたいかなんです。何ができるかなんて言いはじめたら、何もできなくなっちゃう。まずはそんなことはどうでもよくて、ただただ自分は何がしたいと思っているのか、という問題に尽きます。」(p.48)

面接で僕らが見ることに、自分の研究・活動をドライブするような内発性をもっているか、ということがある。なかなかそれを感じさせてくれる人がいないのが現状であるが。。。同僚の土屋さんは、研究テーマには「愛」か「憎しみ」がなければならない、という。研究へと自らを突き動かす「情熱」が必要なのだ。そうでなければ、しんどい研究作業など続けられるわけがない。

繰り返し言うけれども、荒削りでもいいので、自分なりの研究テーマの糸口をもっていてほしい。そして、自分をドライブする内発性をもっていてほしい。それが、研究を志すみんなへの本質的なメッセージだ。
「研究」と「学び」について | - | -

説明がうまくなるコツ (『シンプリシティの法則』, ジョン・マエダ)

『シンプリシティの法則』(ジョン・マエダ, 東洋経済新報社, 2008)を読んで考えたことの続編だ。

僕が今回、この本のなかで特にビビっと来たのは、以下の部分。「繰り返し」によってシンプリシティを獲得するという話だ。

「数年前、私はスイスのタイポグラフィックデザインの大家、ヴォルフガング・ヴァインガルトをメイン州に訪ねた。当時彼が受け持っていた正規の夏期講座で講義をするためである。驚かされたのは、ヴァインガルトが毎年まったく同じ入門講義をすることだった。私の考えでは、同じことを繰り返し言うのは、価値のないことだった。そのため正直言うと、この大家に対する私の評価は下がりはじめていた。ところが、確か3度目の訪問の際に、こう気づいた。ヴァインガルトはまったく同じことを言っているにもかかわらず、言うたびにシンプルになっていると。基本の基本に焦点を合わせることによって、彼は自分が知っている何もかもを、伝えたいことの核心にまで煎じ詰めることができたのである。」(p.36)

この点はとても同感であり、多くの人に伝えたいと思う点でもある。

僕は基本的に話すことが苦手で下手なのだが、それでも内容によっては「説明がわかりやすい」といわれることがある。例えば、ルーマンの社会システム理論やカオスの説明などは、なかなか好評のようだ。実は、そのような説明は、何度も何度も説明しまくることによって得られたものだ。最初は言葉が足りなくてうまく説明できなかったり、冗長だったりした話が、徐々に洗練されていく。どのような言葉を選び、どのような順番で話し、どのような例を出せばよいのか。そして、どうすればその話題を面白く聞いてもらえるのか。そういうことを考えながら、何度も何度も話す。その最初のオーディエンス(被害者!?笑)になるのは、僕の近くにいるゼミ生だ。

あるホットトピックについて何度も話していると、誰に話したのかがわからなくなり、すでに一度話している人にも、再び話してしまうということが起きる。その結果、「その話、このまえも聞きました。」といわれることが多い。また、直接その人に向かって話していなくても、同じ場所にいる他の人に話しているのを聞いて、「(また同じ話だ・・・)」と内心思いながら、その話を何度も耳にするなんてこともあるだろう。でも、一度、次のことを考えてみてほしい。僕は、誰に話したかを忘れるほど多くの人に、何度も何度もその話をしているのだ。 もちろん僕が忘れっぽいというのも関係しているが、それを割り引いても、考える価値がある事実だと思う。

学生の場合、先生の近くにいる人ほど、先生のそのときのホットなトピックを何度も聞くことになる。もし、先生が熱くなっている話を1度しか聞いたことがないという場合は、それくらいの密度でしか接していないという表れでもある。僕も学生時代に竹中先生や武藤先生の同じ話を何度も何度も聞いたものだ。きっとこのように何度も聞くことで、ようやく先生の言いたいことの真意に近づいていけるのだと思う。人間は繰り返しインプットしないと、頭にきちんと入らないのだから。

もし同じ話を聞くチャンスがあったら、今度は意識して聞いてみるとよい。よくよく聞いてみると、説明の仕方が微妙に違っているはずだ。相手によって説明のレベルや例示を変えている場合もあるし、説明が若干進化しているはずだ。うまくいっていれば、余計な部分を省き、新しい言葉に置き換えられたりして、徐々にシンプルになっているはずだ。これはまさに、上記の引用の部分の話にほかならない。


さて、ここで言いたいのは、「だから、僕の話を何度も我慢して聞きなさい!」ということではない。話すことが仕事の僕らも、何度も何度も話すことで話が洗練されていく、ということを知ってほしいのだ。みんなだって、もっともっと話さないといけない。それが言いたい。

ゼミで研究発表をすると、内容や言葉があいまいなまま発表がなされることがある。これはおそらく、誰にも話していない状態で発表しているに違いない。自分で話していることを自分でもあまり深く理解できていないし、その説明がどのように伝わるのかがイメージできていない。言葉の選び方に迷いがあり、それゆえ曖昧でわかりにくものになってしまう。これでは研究内容の議論にまで至らず、聞いている方も内容の理解をすることで精一杯になってしまう。そういう発表はいただけない。先にほかのゼミ生に何度も話し、話を洗練させてから、発表の場に臨むべきだ。

話すことが得意な人も苦手な人も、どんどん相手をみつけて、何度も何度も話をしてみる。ゼミ生はそのための仲間なのだから、活用しない手はない。僕の個人指導を受けているわけではなく、研究のコミュニティに所属しているわけなので、何度も自分の研究について話すチャンスがあるわけだ。

この鉄則は、文章を書く際にも同じだ。論文や計画書を書くときには、そこに書く予定の内容を何度も何度も話すことが重要だ。準備段階でひきこもっていては、本番でうまく話せるわけがない。完全主義者は、ひとりで完全なところまでもっていこうとするかもしれないが、真の完全主義者は、事前にたくさん話し、本番で完全な話をする人のことかもしれない。

同じことを繰り返し言うのはばつが悪いこともある。あなたが人目を気にするならなおさらだ―――たいていの人は人目を気にするものだが。しかし、恥ずかしがる必要はない。反復はうまく機能するし、みんなそうしているのだから。合衆国大統領をはじめとする指導者たちも例外ではない。・・・」(p.37)

恥ずかしがらずに、何度も何度も話してみよう!
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シンプルに生きる (『シンプリシティの法則』, ジョン・マエダ)

Book-Maeda.jpg『シンプリシティの法則』(ジョン・マエダ, 東洋経済新報社, 2008)を読んだ。

情報が溢れ、複雑化する現代においては「シンプリシティ」(単純さ)が重要であるということ、そしてそれをどうすれば実現できるのか、ということがこの本のテーマである。John Maedaといえば、『Design by Numbers』などで有名なMITメディアラボの教授だ。著者紹介の情報によると、今年2008年6月には、米国有数の芸術大学であるRhode Island School of Design (RISD)の学長に就任するようだ。

ちょうど10年前、科学や芸術において「複雑性」=「コンプレクシティ」が注目され、単純な法則から複雑な世界がどのように生まれるのかが話題となった。そして10年たった今、複雑な状況においてシンプリシティをどのように獲得するかが話題となっているというのは、興味深い。Webといえば、htmlのベタ書きによるシンプルなページからなる世界だったが、いまや動的なコンテンツが載り、膨大な情報量が詰め込まれた「騒々しい」世界へと変化した。それゆえ、Googleのトップページのシンプルなデザインが効いているのである。同じように、iPodのシンプルなデザインも、そのシンプルさゆえに、相当なインパクトをもつことになる。GoogleもiPodも、どちらもこの「コンプレクシティの時代のシンプリシティ」を先取りした事例なのだ。

ジョン・マエダは、シンプリシティに関する「10の法則」と「3つの鍵」を提示する。

【10の法則】

1. 削除 シンプリシティを実現する最もシンプルな方法は、考え抜かれた削除を通じて手に入る。
2. 組織化 組織化は、システムを構成する多くの要素を少なく見せる。
3. 時間 時間を節約することでシンプリシティを感じられる。
4. 学習 知識はすべてをシンプルにする。
5. 相違 シンプリシティとコンプレクシティはたがいを必要とする。
6. コンテクスト シンプリシティの周辺にあるものは、決して周辺的ではない。
7. 感情 感情は乏しいより豊かなほうがいい。
8. 信頼 私たちはシンプリシティを信じる。
9. 失敗 決してシンプルにできないこともある。
10. 1 シンプリシティは、明白なものを取り除き、有意義なものを加えることにかかわる。

【3つの鍵】

1. アウェイ 遠く引き離すだけで、多いものが少なく見える。
2. オープン オープンにすればコンプレクシティはシンプルになる。
3. パワー 使うものは少なく、得るものは多く。

それぞれがどのような含意をもつかについては、実際に本を読んでもらうことにしたい(これが上記の内容を知るための一番シンプルな方法だ!)。文章は読みやすく、分量も少なめなので、さっと読むことができる。


まず、この本で取り上げたいのは、「シンプル」というキーワードだ。

個人的なことを言うと、ここ1ヶ月ほど、「シンプルにする」というのが、僕の基本方針であった。この本を読んだからというわけではなく、阿川さん(総合政策学部長)がいつも、大学の制度や説明に対して「複雑すぎる。シンプルに。」ということを言い続けているのを見ていた影響だ。なるほど、たしかに、物事はシンプルにしたほうがいい。

ここ1、2年の間、僕の仕事や生活はどんどん複雑になり、この冬、ついに破綻した。心も身体もついていけなかった。なので、なるべくシンプルにしようと心がける。もちろん、完全にシンプルにすることはできないし、したいとは思っていない。突き進むべきフロンティアは、未知の「コンプレクシティ」に満ちている。やっていること、考えていることが複雑な分、環境はシンプルでなければ破綻する。これを身をもって体感したのだ。

「シンプリシティとコンプレクシティはたがいを必要とする」(p.45)

シンプリシティだけでは飽きてしまう、だが、複雑すぎても破綻する。その両方が必要なのだ。現代社会では、複雑さは自ずと増大していく。そのなかで交通整理をするのであれば、基本方針としては「なるべくシンプルに」を心がけるとよさそうだ。

(次回につづく)
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「学習パターン」の制作に携わる学生メンバー募集!

学習パターンポスターCS150.jpg今月から、大学における学びのヒントを「パターン・ランゲージ」の手法を用いて言語化し、共有するというプロジェクトを開始する。

学びのためのヒントを「学習パターン」(Learning Pattern)と呼び、それを多数収録したカタログを制作するのが目的だ。このカタログは、来年度、『SFCガイド』や『講義案内』とともに、オフィシャルな冊子として学部生全員に配布される予定だ。

この制作に携わる有志学生メンバーの募集を、以下のように開始した。

「学習パターン」制作ワーキンググループ
学生メンバー募集!!


◆ワーキンググループの目標
SFCでは、2007年度より「未来創造カリキュラム」が始まりました。この新カリキュラムのもと、学生が「自分自身で “SFCでの学び” をデザインしながら、実際に学んでいく」ことを支援するため、来年度(2009年度)から新しいタイプのハンドブックが配布されることになりました。それが、「学習パターン・カタログ」です。

そこで、この「学習パターン・カタログ」を制作する学生メンバーを募集します。活動内容は、教員や学生へのインタビュー、議論などを通して、SFCでの学びについて考え、「パターン」(考えるためのヒント)としてまとめていくことです。

ぜひ、学習パターン・カタログを一緒につくりませんか? 学年・専門は問いません。SFCの全分野を網羅したいので、いろいろな分野の人の参加が必要です。やる気がある人歓迎です。参加希望の人は、下記のメールアドレスに連絡をお願いします。 SFCでの学びについて考えながら、世界初の試みに一緒にチャレンジしましょう!

◆学習パターンとは
学習パターンとは、SFCで学ぶにあたって「身につけたい知識と能力」と「そのための学習計画のヒント」をまとめたものです。これにより、学生が自分自身の学習計画を作成する支援を行うとともに、学生同士/学生・教員間のコミュニケーションを支援することを目指します。 なお、学習パターンは、建築家のクリストファー・アレグザンダーが提唱した「パターン・ランゲージ」という考え方/方法にもとづいています。大学における学びの支援に用いられるのは、世界で初めての試みになります。

◆活動
定例ミーティング・作業は、水曜日の午後を中心に行います。
(インタビュー等はそれ以外の時間に行います。)

◆連絡先
Learning Pattern WG
教員担当: 井庭 崇(総合政策学部)
学生代表: 仲 里和(総合政策学部2年)

参加希望・質問等は、 LPmail.jpgに、メールでお願いします。
パターン・ランゲージ | - | -

『あそぶ、つくる、くらす』(五十嵐 威暢)

Book-Igarashi.jpg本屋さんでとても素敵な本に出会った。デザイナーから彫刻家になった五十嵐 威暢さんという方の言葉と作品を紹介する本だ。

『あそぶ、つくる、くらす:デザイナーを辞めて彫刻家になった』
(五十嵐 威暢, ラトルズ, 2008)

この五十嵐さんという方を僕は存じ上げないのだが、本の質感と「あそぶ、つくる、くらす」というタイトルに惹かれて、手にとってみたというのが出会いのきっかけだ。五十嵐さんは、子供が自然に行っているような「あそぶ、つくる、くらす」が一体化した世界を目指している。

「僕の彫刻家としての活動は、『あそぶ、つくる、くらす』を、ひとつのものに再構築すること。それは大人にとっても極めて大切なことだと思う。」

なぜ大切なのかというと、それらは表裏一体なものだからだ。

「子どもたちがそうしているように
人はあそぶこととつくることを通して
いつのまにか自由を獲得し、豊かなくらしを手に入れる」(p.56)

たくさん紹介したいコトバが詰まっているが、実際に本で読んでほしいので、今はこれ以上引用することはしないことにしたいと思う。「つくる」ということの本質が書かれている素敵な本なので、ぜひ、実際に手にとって味わってほしい。
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SFCにおける学びの真髄

新年度・新学期が始まった。新たな気持ちで、スタートしたいと思う。

4月に入ってまず最初にやったことは、キャンパス・ライフ・ガイダンス(CLG)において行った「新入生へのメッセージ」という講演だ。午前と午後の2回行ったので、総合政策学部と環境情報学部の新入生約900人に話したことになる。「SFCを 1万倍 楽しむ方法」と題した講演では、次のようなことを語った。

まず、SFCがか掲げる「研究プロジェクト中心」とはどういうことか。ここでいう「研究」とは、いわゆる学術研究だけでなく、創作や社会実践をも含む、広い概念であるということ。そして、SFCでの学びの真髄が、授業の履修が中心なのではなく、「研究」を絶えず行うという「研究プロジェクト中心」であるということ。僕の言葉でいうと、「アウトプットから始まる学び」ということだ。既存の知識を自分にインプットすることによって学ぶのではなく、自分からアウトプットしていくことによって学ぶということである。そのためには、主体性が求められる。「SFCはみんなを大人扱いします。」――― 1年生から自分の歩く道を考えながら決めていく、つまりセルフ・プロデュースが求められているのである。

このことをさらに考えるために、講演では3つのキーワードを掲げた。「創造」、「先端」、「方法」の3つだ。「創造」(innovation)とは、何かをつくったり実践したりするということ。アウトプットを生み出すということだ。「先端」(frontier)とは、最先端の領域・問題に取り組むということ。すでに誰かが行っていることをなぞっても意味がない。「車輪の再発明」ではなく、まだ誰も成し遂げていないことに取り組むことが重要だということ。「方法」(method)とは、「どのように取り組むのか」という方法を意識し、分野を超えて「方法」を探究し、他分野の方法を移転したり、新しい方法を生み出したりすることが重要だということ。SFCは既存のディシプリン(学問分野)に依存しているわけではないので、学問の間を自由に行き来し、「方法」をディシプリンから解放し、新しい分野に適用するということこそ、SFCの強みであり、取り組むべき課題だと僕は考える。取り組みたい問題に合わせて「方法」を適切に選択するという力、そして新しい「方法」をつくりだす力を養ってほしい。

WhatIsResearch「創造」、「先端」、「方法」というキーワードをつかって、「研究」を語ると左図のようになる。「研究」とは、「先端」領域において「創造」するということである。そして、それを実践するためには「方法」が必要なのであり、「方法」自体のイノベーションも求められる。実はこのような考えのもと、SFCの現行カリキュラムは、研究プロジェクトを中心に、「創造」支援系と「先端」支援系の授業を配置した構造になっている。

SFCcurriculum 「研究プロジェクト中心」≒「アウトプットから始まる学び」というのは、このような「研究」を、学部の後半からではなく、学部1年生から行うということである。その点において、SFCは明らかに他の大学・学部とは異なる学びのスタイルをとっている。1・2年生は一般教養でインプットして3・4年生からゼミに入り、卒論でアウトプットする、というスタイルではないのだ。入学したらすぐ「いまから」「いつでも」アウトプットする、というのがSFCのスタイルだ。これが「アウトプットから始まる学び」の真髄である。私の研究会では、学部2年生でも学会発表(国内外)を行う。それは、1年生から「研究」(先端領域における創造)に取り組んでいるからこそ可能となるのだ。

以上のことを、講演の最後に、聴いている1年生に引き寄せて「5W1H」で表現した。

今日から 【When】
SFCで 【Where】
君(たち)が 【Who】
先端的な研究を 【What】
個人的関心+社会的ニーズにもとづき 【Why】
新しい「方法」によって 【How】
行ってください。

これが、何よりも学生のみんなに伝えたいことなのだ。「いまから」「いつでも」アウトプットをしてほしい。そこからSFCでの学びが始まる。

「入学おめでとう! SFCで楽しみ、SFCを面白くしてください。」
「研究」と「学び」について | - | -

「イノベーター精神とプロデューサー感覚を」(井庭 崇)

前の記事で、学生に「未開のフロンティア」=「新しい遊び場」を提供するために、セカンドライフの島を買ったという話をしたが、どうやら僕はずいぶん前からこういうことの重要性を考えていたようだ。

SFCreview6 僕がまだ博士課程の学生だったころ、雑誌に「未開のフロンティア」の重要性を書いていたのを思い出した。「私たち団塊ジュニア前後の世代は、ある意味幸運だったと思っている。………コンピュータネットワークという白紙の世界が出現したからである」とか、「社会的選択肢となる次なるフロンティアを一つでも多く生み出していくということ」こそが大学が行うべきことだ、ということを、今から7年前にも考えていたようだ。

 懐かしく読み返してみると、いまでも同じ気持ちでいることに驚かされる。せっかくの機会なので、ここで紹介することにしたい。この記事は2000年に『KEIO SFC REVIEW』という雑誌に書いたものだ。その号は、SFC創設10周年記念号で、「慶應義塾大学SFCこれまでの10年、これからの100年」という特集が組まれていた。以下のものは、その一環として書いたものだ。



「イノベーター精神とプロデューサー感覚を」(井庭 崇, KEIO SFC REVIEW No.6, 2000年4月1日, p.115)

 試行錯誤を通してしか身につかないものがある。ここで取り上げたいイノベーター精神やプロデューサー感覚というものは、そういった類のものだ。人が何か新しいことをするとき、あるいは小さな物事を大きな規模に育てていくとき、その試行錯誤の過程において体得するものは計り知れない。ところが社会基盤が整備されグローバル化や大規模化が進むと、このような体験は困難になる。既にある枠組みの中で、後から入ってきた世代がフォロワーになってしまうのである。その結果、組織や社会の活力が失われてしまうということは、日本社会や企業、大学などが現在直面している共通の問題ではないだろうか。

 このような状況を打破するための姿勢と方法を、私はイノベーター(クリエーター)とプロデューサーから学ぶことがことができると考えている。そこには、研究や創作、開発、ビジネスといった個別活動の背後にある共通のエッセンスが存在するように思うからである。

 イノベーションとは新しい何かを生み出すことだが、上記の個別活動はイノベーションを起こすということに他ならない。それは、既存の選択肢の中からどれかを選ぶという行為ではなく、新しい選択肢を創っていくという行為である。そのためには既存の選択肢に満足せず、その矛盾や限界を見抜き、一歩引いて新たな次元から物事を眺めてみる姿勢が重要である(複雑系科学では、このプロセスこそが生命が根本的にもつ生命性・創造性だといわれている)。

 もう一つ重要なのが、プロデューサー感覚である。問題解決に取り組む場合、単に解決のための思索に全エネルギーを注ぐのではなく、絶えず全体像をイメージして全体と部分との間を行き来する、そういったプロセスが重要である。その全工程の調整やバランスの感覚が、プロデューサー感覚ということである。

 私は、私たち団塊ジュニア前後の世代は、ある意味幸運だったと思っている。生まれた時には既に日本社会の枠組みが存在し、新しいことをするのが困難だったものの、コンピュータネットワークという白紙の世界が出現したからである。それは今までの常識が通用しないフロンティアであり、何ができるかは想像できない。何もないから小さな試行錯誤が可能であるし、小さなことでも注目や反応がある。そういったことが、ネットワークを駆使した創作やベンチャービジネスという形で体験されていったのである。

 世の中には直近で考えるべき問題がたくさんあるのは言うまでもない。また情報通信技術を活用してどのような社会をつくっていくのか、ということもまた重要な課題である。しかし同時に、社会的選択肢となる次なるフロンティアを一つでも多く生み出していくということも、社会の中での研究機関・社会提言装置としてのSFCの役割だろう。そして、イノベーター精神やプロデューサー感覚を持った人材をいかに社会に送り込んでいくのか。それもまた、教育機関としてのSFCの果たすべき役割なのである。しばらくの間、私は学生という立場でこの課題に取り組み、実践していきたいと考えている。

(井庭崇, 2000)

「研究」と「学び」について | - | -

大学での学びと研究について

SFCで学生全員に配られる冊子『SFCガイド』のなかに、「新入生へのメッセージ」というページがある。その2007年度版に、以下のようなメッセージを書いた。ここに書いたことは本当に重要なことだと思うので、新入生だけでなく、上級生やほかの人たちにもぜひ読んでほしいと思っている。



 みなさんがこれから履修する科目は、2007年度から始まる新しいカリキュラムにもとづいて設置されたものです。新しいカリキュラムでは、SFCのこれまでの「先端」性に加え、「創造」の軸が明示的に加わりました。具体的には、ものを生み出したり実践したりする経験を、学部のはじめの段階から何度も経験することで、自らアウトプットする能力を高めていくということです。 つまり、これまでの「研究プロジェクト中心」というコンセプトをさらに進めるために、「創造」と「先端」の2本柱の科目が提供されるのです。とても重要なことなので、授業を選択・履修するときには、ぜひこのことを意識してみてください。
 大学での学び・研究を「料理」に例えると、みなさんに求められているのは、自分なりの創作料理をつくる、ということです。提供される科目はあくまでも料理のための食材にすぎません。どのような食材をつかって何をつくるのか?――それは学生のみなさん一人ひとりが、考えていくことです。もちろん、いくつかコツはあります。先輩たちがどのような食材を選び、何をつくったのかを知ることは有益でしょう。また、研究メンターの先生に相談してみるのもよいでしょう。しかし、SFCでは決められたレシピというものはありません。やはり最後は、自分で考えるということが重要になります。
 料理の例えで、もうひとつ重要なことがあります。先ほど、科目はあくまでも料理のための食材だ、といいました。そうなんです。食材を仕入れるだけでは、料理にはなりません。料理を「つくる」ことが必要なのです。SFCでは、みなさんは自分の“研究プロジェクト”に取り組むことが期待されています。そのために用意されている厨房が「研究会」という場です。ただ単に食材を集めてためておくのではなく、それを研究会の場で料理してみてください。そして最後には、大学生活をかけて磨いた腕をふるって、卒業プロジェクトに取り組みましょう。あなただけの創作料理、期待しています。


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