そして、船は行く

岩竹 徹の音楽に寄せて
木戸敏郎

あと4年で20世紀は終わる。前半の2つの大戦は今にして思えば19世紀の遺産だった。万物の霊長と思い上がった人類がコントロールを失った結果であった。後半はその清算に費やされた。大戦の副産物である原子力につうては、いまだのコントロールに苦慮している。しかしその傍らで20世紀のオリジナリティも確実に進行した。人間の能力を超越したコンピュータが、もうひとつの思考手段として登場した事もその例だ。これまでの知的週間を破壊しながら旺盛に成長している。それでもまだ実験段階だろう。本領が発揮されるのは21世紀に持ち越されている。
作曲家の岩竹徹さんは、同時にコンピュータの専門家でもある。これまで作曲家には同時にピアニストとしても一流であったり、或いはオーケストラの指揮をして専門の指揮者をしのぐ伎倆をみせる人もいた。昔も今も、海外でも日本でも。岩竹さんはピアノやオーケストラではなくコンピュータで同じ事をやっているのだ。若い作曲家はたいてい一応はコンピュータを使いこなしているが、しょせんはアマチュアで技術的には限界があり、高度な技術を必要とするときは技術者と共同作業で作曲をする。この辺がもどかしいところであるが、岩竹さんは御自身がコンピュータの専門家であるから理念をスロレートにコンピュータで音へ変換できる。新しいタイプの作曲家である。
20世紀は宇宙の認識についても飛躍的な発展をとげた時代であった。月へ人類が降り立った。火星や木製の裏側のでーターまで入手した。人類が人跡未踏の領域へ認識の範囲を拡げた時代である。精神面においても、そして音の認識についても事情は同じである。今世紀初頭にまずウイーンで興った現代の音楽運動は伝統的な調性の中の音のヒエラルキーを発展的に解消して12音音楽=セリーの概念を開拓し、さらにセリーはセリエルの概念へとたどりつく。セリエルは音の要素を五線譜で表記できる音高(音の高さ)と時価(持続時間)だけでなく、音勢(音の強さ)や音量(音の大きさ)や音質(撥弦か擦弦かなど)や音色(金属か木質かなど)も含めて、そのすべてを音の要素として平等に評価する。
楽器の音には多かれ少なかれノイズが含まれている。特に日本音楽で使われている楽器に顕著である。ヨーロッパの楽器も元々は同じ様な楽器であったが、改良の結果現在の楽器になった。この音の概念でみると、日本の楽器の音は粗野である。しかしセリエルの視点からみると在来ノイズとみられていたものが情報量になってきた。ピアノやオーケストラは19世紀的であるが、日本の伝統楽器は使い方によっては20世紀的である。能管は情報量が豊富であるが、フルートは限定された情報しかない。しかたがないから吹きながら声を出したりしている。
岩竹さんがこのコンサートで使用する楽器を日本の伝統音楽の中から選び、しかも管楽器(笙・能管・尺八)に限定したことは、きわめて意図的である。これに声(謡曲、ソプラノ)を加えていることでその意図は明瞭だ。管楽器の音も声も人間の息を音に変換して具体的に表わしたもの。音に変換する手段として道具を使ったか声帯を使ったかであって、ねらいは人間の息である。既に知られている人間的なものがまだ未知数のコンピュータとの相乗作用によって突然変異がおこれば論理を超えた飛躍が起こる。
もうすぐ21世紀である。年月が経つのは地球が回転しているからで、地球物理学の問題であって人間とは関係ない。しかし世紀が改まるのは丁度正月を迎える心境に似ている。人は時に来年こそは生活態度を改めようと考えたりする。タバコを止めようとか、積年の念願を実行しようとか。イヴェントフルな精神的環境が精神を高揚させ、文化を飛躍させた例は歴史に多々ある。岩竹さんの中で21世紀はすでに始まっている。