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2005年06月09日

心の科学

西川泰夫・波多野誼余夫編著、『心の科学』、放送大学教育振興会、2004年
『心の科学』は4部に分けて構成されている。 第1部から第3部にかけては心の科学の基本的な理解を図るためのパラダイムの提示とその変遷、それの具体的な諸活動、その結果起った心理学部の流れ
及び影響などが紹介されている。 最後の4部には心の科学の成立の背景にある異なった分野での研究、特に、人類学、言語学、人口知能、神経科学での心の科学の発展と認知科学との接点についてあげられている。 心の科学の成立の背景として「デカルトの心身二元論」と「ホッブスの心身一元論」をあげ、「心とは何か」の問いに答えている。 「心とは何か」という問いへ最も影響をもつデカルトの心身二元論は「私はいかなる存在か」という問題に「私は、相互に独立し、固有の心と身体から成り立つ存在である」と答えている。 デカルトの心身二元論は新たに「心」と「身体」とは何かその関係性に関する疑問を残している。 デカルトによる心は「心とは思惟するものである」、「私は考える存在である」と論じ、「考える」点に心の存在を認める。 デカルトによる身体とは他のあらゆる動物を含み、反射を基本的な作動原理としてする「機械」であると定義する。 一方、心身一元論のホッブスは「心も身体も同様に物資的な存在であること、機会である」ことを主張する。 これは、「心は推理する」することになり、デカルトが「心は思惟する」と述べたことと基本的には同じ内容である。 しかし、デカルトは、心を身体とはまったく独立の存在としてもなす。 それは非物質なものとみなすのみならず、これに固有の位置を与えている。 このところがデカルトとホッブスの決定的な違いである。 しかし、身体に関してはデカルトもホッブスも機械であることが同じである。
観測機器・実験装置の開発と計測・計量化による心の動きとみなされるもの-刺激に対する反応時間の数量、物理量-を示すことに成功(現在の認知科学の基)、記号処理・操作システムまで発展し「心は情報処理システム(information processing system)」であることが説明できる。 情報を受け止め、それを処理するために必要な変換を加えるなんらかの内部状態を作り出すことは欠かせない。 それは高度に組織化された物質の状態によって生み出される。 自覚や実感のうえに心の存在を確信することであり、心とは情報の処理システムで同時に記号の処理・操作システムである。 心の記号論・計算論の要点は次のようである。 ①心とは記号の処理・操作システム(オートマトン。機械(コンピュータ))である、②記号の処理・操作とは、記号と記号とを一定の規則にのっとって結びつけたり、秩序づける操作であり、それは計算である、③この記号系(記号集計)と個々の記号を結びあわせる規則の集合の全体は、現実の意味論である。つまり、構文論が成り立っている。 以上から派生する命題は考える機械(人工知能:artificial intelligence, AI)をつくることができるという命題が成立する。しかし、今までのこころは認知的な側面に向けられている。 心というのはいわゆる感情や心の主体性を扱う自己などにかかわる感情的な側面もあり、この2つの側面は複雑に関連しているもので、相互に関係しながら心の状態を決めているのである。 科学的に説明できない「心」はこれからの「心の科学」においての課題であろう。
<コメント>
AIという映画では最後涙を流す人工知能のロボットが出てくる。 涙の意味が理解できないが理解よりも感情という働きが先にうごいて涙をながすことになる。 心の科学は認知的な側面の心を説明されているがそれが心の全部ではないと最後に言及している。 心の核心というのは科学的に説明できないものではないかと思う。                                            <池銀貞>

投稿者 student : 2005年06月09日 06:53

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